どこ吹く風

旅のことを主に書く。

ジプニー

2006年03月24日 13時26分07秒 | 旅-マニラ
フィリピンといえばジプニーと反射的に出てくるほどジプニーの知名度は高い。
彩りも鮮やかキンキラキンに飾り付けられたジプニーはフィリピンを象徴する車でしょう。間近に見てそう感じる、見ているだけで楽しくなる。

 行った当初ベリーさんは何処へ連れて行くにもtaxiを利用していた。私はせっかくマニラに来たのだからジプニーに乗りたいし、乗り方も教わりたいと申し出てそのようにしてもらった。
 ただジプニーの路線は無数にあり、普段から自分が使っている路線なら知っているが知らない場所へ行こうとすると地元の人でも知っている人は少ないようだ。

 ジプニーは次々に来るが何処行きなのかを判別するのがむつかしい。終点が書かれていない、正面ガラスの下に経由する通り名が書かれているのでそれを見て決めるのだ。運転手がピエールとか何とか地名を連呼しながら入ってくる場合もあるが、その地名と私が行きたい場所との関連が分からないので結局見送る。

 ジプニーには大勢の人がぶら下がるイメージを持っていたがマニラでは違反らしく絶対にぶら下がりをさせなかった。運転手が罰せられるようだ。
乗り込むと奥の方に坐る、奥から入口側に移動するのが凡そのパターンのようだ。
中間部あたりに坐って運転手に料金を手渡す事が出来ないときは隣の人からその次の人へと運転手までお金のリレーが行なわれる。オツリもその逆のルートで返って来る。
ドライバーはバックミラーで客の動向を観察していて運賃の支払いや乗った場所のゴマカシを許さない。すごい感覚を持っている。

 座席は片側6~7名で立つのは許されない、運転手が坐るように呶鳴る。助手席に坐った人は車掌代わりも務めるようだ。ゆったり座れる場合もあるがお尻をチョコンと席に引っ掛けるだけの方が多かった。
降りたい場所に来ると天井を指でコンコンと弾いてドライバーに合図すると適当に、ホントに適当に停車するスペースがあれば傍に寄るが道路中央で乗り降りさせるのも往々にしてある。降りる合図で「パーラー、とかマパーラやパーランモー」と言うて合図する人も多い。

 料金を支払う合図をするときは「バイヤッド」と声を掛ける。そして目的地を人数を言う、”マビニ、ダラワ”-マビニまで二人ーという風に、ドライバーが何か言うても意味は分からないので後はテキトーにどうにかする。

 ヒマなときは終点まで乗って引き返したこともある。また行く先も知らずに飛び乗り人通りの多い所で降りたこともある。しばらく散策してまた乗り、降りる。
ジープを乗って暇つぶしをするのも楽しかった。当時は終点まで乗っても3~4ペソ、今でも20ペソ程度でしょう。

 フィリピン名物ジプニーは庶民の足だがそれだけに留まらず眺めても乗っても面白い、妙な出会いもあった。それについてはまたいつか・・・

禁煙

2005年09月13日 14時55分03秒 | 旅-マニラ
 マカティには禁煙条例があり、レストランやBarなどの店内は全て禁煙とのことである。掲示板のマニラ在住管理者と夜の9時にマカティの飲み屋(?)で待ち合わせた。若干のオミヤゲを手にtaxiで出かけた。

 初対面だがその店の常連さんという事なので店の人に探してもらうつもりで入口に向かう。道路には歩道があり、その歩道にもテーブルが置かれている。もしかすると歩道ではなく店の敷地だったかもしれない。またその歩道と店の間の軒下にもテーブルが数組並んでいる。もちろんお客さんが坐っている。

 ドアを開けようとすると、軒下のテーブルから「nesuさんでは・・」との声がかかった。二人連れのオニイサン、オジサンに近いオニイサンだ、お目当ての管理人さんともう一人の方は・・・掲示板仲間だ、たまたま日にちが合ったので来たとのこと。
みなさんに会えて嬉しい限りです。

 早速サンミゲールでカンパイ、話がはずむ。席は狭く人が通るときはイスを寄せねばならない。おかげで横のおネーちゃんたちと仲良くなれた。常連さんだから顔が広いのだろう。入口からは女性やオッチャンたちが入れ替わり立ち代り出たり入ったりする。

小奇麗なおネーちゃんたちは入口付近に座り込みタバコを吸っては又入る。管理人はタバコをプカプカ吹いている。後ろの少々日本語ができるおネーちゃんも吸っている。どうしてわざわざ外まで出てくるのだ、あの人たちはと尋ねてその後気が付いた、マカティは禁煙条例があるのだと。
それで彼らも外の席に居るとのこと。

 そこでは禁煙条例が守られている。フィリピンなんて法令順守どころか何でもやりたい放題という印象が強いが、これほど見事に守られているとは、信じられナ~イ!
日本ならこれほどまでに守られるだろうか疑問に思う。だいたい酒飲みがタバコを吹かさずに長時間居れるものではない、吸いたければ外へ行けと言われても酔ってしまえば言うことなんか聞くものか。

 おそらく日本では有名無実になるであろう禁煙条例が、どうしてフィリピンでーマカティ限定ではあるがー守られるのか。
マカティという土地柄だから守る、罰金が高額なために守らざるを得ない、密告されてワイロを要求される等の意見がでた。
理由はともかく見事に守られているのはリッパなことだ。

 日本なら絶対にこれほど徹底して禁煙が守られることは無い、断言できる。かつて酒を提供する店は深夜営業できなかった。しかし食事のついでなら良いということで、おにぎりを横において酒を飲むのがそういう店の深夜の常だった。
マカティの日本人向けの店ではどうだろう、わがまま日本人が店内でタバコを吸い困らせることがあるだろうことは容易に想像できる。

あまり身勝手にしないでネ、「日本人」を背負って大威張りで歩いているヤカラども。

写真は言わずとも知れた椰子の実、ブコです。
   冷たく冷やしたものにストローを挿して飲む
   ほのかに甘く、ちょっぴり青臭く、でも美味しい

インターネットとフィリピン

2005年09月12日 09時14分16秒 | 旅-マニラ
 初めてフィリピンへ行って以来フィリピンファンとなった。あの何もかもがゴチャゴチャしたところが面白い、ゴチャゴチャは建物、道路、行き交う人全てに統一感というか纏まりというか、そういうのに程遠い感じだ。色眼鏡で見ているのだろか。
それに道行く人々の3割は見覚えのある顔、つまりウチナーのオバーと同類というほど似ている。親近感が湧く。ある時私を現地の人と思ったのか何かを尋ねられた事がある、フィリピン人がウチナーンチュに似ていると思ったが、ウチナーンチュがフィリピン人に似ているのかもしれない。

 物乞いが近づいてきたり、あらゆるところでチップ攻勢を受けたりの不愉快な面もあるが、それを超える何かの魅力がマニラにあった。行く前にガイドブックを買い込んで一応目を通し、出かけるときはそれを持って場所の確認、由来や歴史的な背景をにわか勉強したおかげと、その年に何回か渡比する機会があったので、知らない人には「通」で通せるほどになった。

 インターネットが身近になってフィリピン関係のサイトで知識を仕入れて今に至った。私はあくまでもツーリストなのでフィリピンを深くは知らない、付け刃程度しか知らない、でもフィリピンが好きであれこれ情報・知識を得ようとインターネットを利用した。

 中でも”まにら新聞”の名所探訪は素晴らしい、購読料を支払っていないので全部を読むことができないのはザンネンだが、読める分だけでもタメになる。

http://www.manila-shimbun.com/
マニラ生活情報から名所探訪

 またMLや掲示板も楽しい、表面的にフィリピンを撫でるほどの知識しかないのに、あれこれ書いている。その中で信頼?友情?のようなものが書き込むメンバーの中に見い出した、今回の家族旅行は彼らのおかげでより一層楽しいものになった。

インターネットの掲示板の付き合いだから顔はおろか名前さえ知らない、しかしこちらの要望に100%応えてくれた。これからもインターネットを通したお付き合いをヨロシク

写真説明
路上を堂々と自家駐車場にしている。
これほど大っぴらに看板まで立てる神経が可笑しい。

あれこれ

2005年09月04日 17時34分24秒 | 旅-マニラ
ストップないし減速
 一直線の道路で突如左に右にとハンドルを切りながら減速して通過する地点が何ヶ所かあった。工事もしていないのに車をストップさせる平均台のようなバーが設置されて、一車線を塞いでいる。その向こうにもう一本、車が減速せざるを得ない。何のためのものか分からない、察するに車のスピードを落とさせる為のものではないかと思われる。
あれではブレーキを掛けざるを得ない、対向車が来るとストップする事になる。信号機が無いし、例えあったとしても守られないだろうから地域住民の知恵というところか。
この解釈が違っていたらご指摘ください。

にわとり
 チキンが美味しい、肉がパサパサせずに味がある何故だろう。ニワトリってあんなに美味しかったのかと改めて認識させられた。前に行った時もそのように感じた事を思い出した。BBQチキンは毎回注文した、鶏肉は安いので、ここでフィリピンのあの味が出せるなら大当たりする事間違いない。味付けもさることながらきっと飼育方法が違うのだろう。そうでなければ当地で買うものとあれほど味の差が出るわけが無い。

 スパイスと調理法で日本のブロイラーをフィリピンのような美味しい味が出せるのなら、その調理法・レシピを是非教えてもらいたい。


 初めてマニラへ行って奇妙に感じたのは男も女も若い人がポケットに櫛を入れていて、処かまわず髪を梳かすことであった。若い娘はハンドタオルに毛髪用ブラシを巻いて持っていた。アセでベトついた髪がまとわりつくのがイヤでそうするのか、乱れ髪のままでいるとシツレイになるのか、とにかく櫛を持った若者が多かった。

 今回はそれほど気づかなかった、そういうことが流行らなくなったのだろうか。それともそのような若者が屯する場所に行かなかっただけなのか・・・

安全
 工事中の現場を見ると、あの足場には驚かされる。竹で組んだ足場を利用して建物外部の工事をしているが、その足場が物凄い。日本ではBTだろうが単管足場だろうが1間(1.8m)ごとに支柱がある、しかしフィリピンで見た足場は竹で組みしかも間隔が3m以上も離れている、横方向の竹が撓んでいるのにその上で作業をしている。

見ているほうが怖くなる、しかもその足場が6~7階までその調子で組んである。あまりにもお粗末なのでむしろ注意力が増して事故は少なくなるのかな、と逆説的に考えたくなる。働いているみなさん、くれぐれもご注意の程を!

写真は、竹で組んだ足場、
    これで4階まで何かの作業をするのだろう。
    窓ガラス拭きかな。

ことば

2005年09月03日 10時59分59秒 | 旅-マニラ
 末娘とマニラへ行ったのは彼女が高校卒業の年だったと思う。その1年前にアメリカで1年のホームステイの経験があるので英語には多少自信を持っていただろう。フィリピンは英語が通用するから”何かの際はお前が交渉しなさい。”と告げてあった。

 空港taxiのドライバーは人が良さそうな感じだったので翌日からの観光も頼もうと思い、娘に交渉するように言うた。ところが娘はドライバーが話すことをサッパリ分からないようだ。そこで私が値段交渉し翌朝迎えに来るように話をつけた。

 ”お前のテキサス訛りでは通じないな。”
「あんな変な発音が分かるわけが無い。」と悔しそうに言う。

フィリピンの英語は私にとってヒジョウーに分かり易い、カタカナ発音で通じる。まあチョットしたコツは必要だろうけど。そのコツというのも例えば旧日本大使館の裏通りジュピターをジュピテールと発音すると分かれば、あとはそれを敷衍すればいい。

 英語なんてできないが娘より通じる事が実証されてタイヘン嬉しかった。どうだお父さんのエラサが分かっただろう、事あるたびに思い出させて娘をへこますことができるようになった。

 今回の旅は長女も一緒だったので話しは全て彼女に任せた、長女も高校のときにカリフォルニアのフレズノにホームステイし、大学生になってからスペインに1年遊学していた。アメリカでスペイン語に興味を持ったらしい。

 出迎えてくれた旅行社のガイドによれば、タガログの40%はスペイン語から来ているとのことだった。例として出た事例は忘れたが娘によれば確かにそのように感じるとのことだった。長女が世慣れしているのとスペイン語を学んだということでフィリピン人の英語を理解することができるのだろう。

 夜TVを見ていたらニュースで大事件があったことを報じている、画面から大勢の人が亡くなったことは分かる、しかし字幕にKAMOTEとある、カモテは芋だったと思ったが、芋と大勢の人が死んだということが結びつかず私の記憶違いだったと考えた。しかし後で芋中毒で死んだと分かり、私のタガログ語の記憶に少々自信を持った。
5フレーズと20~30単語を知っているつもり、あくまでも「つもり」です。

 コトバは知っているに越したことは無いが、知らなくてもどうにかなるものだ。特に年を取りハジも外聞も気にしなくなると通じるようになった気がする。

写真はお菓子の陳列
  oishi とオイシイと関係あるのかな?

帰る

2005年09月02日 15時44分09秒 | 旅-マニラ
 6時半にチェックアウトをした、ローリーさんにはパラニャーケからわざわざ出てきて空港まで送るだけでは割に合わないだろうから今日はいいからと断ったが、フィリピン流のノープロブレムと言われたので来てもらった。それでこれまでの支払いは本日行う事にする。

 手持ちのペソ殆んど無い、ホテルの隣に両替商があるのでそこで両替して支払ってもよかったが、日本円で払うことにした。1万円が5150ペソだったかな、それを1万円を5000ペソ換算で支払った、差額はいろいろ良くしてくれたチップにというお礼を込めて。
ありがとう、ローリーさんを紹介してくださった掲示板仲間のGさんにも感謝。

 Gさんは大学生からもう少し下の年齢までの奨学生を数名抱えているようだ。頭が下がります、その恩義を感じているのでしょうドライバーのローリーさんには私たちにまで良くしてくれた、顔をあわせたこともないし、名前さえ知らないGさんにもう一度感謝の念を表します。

 空港には予定時間に到着する、空港までの道は見覚えのある風景だった。パサイのレストランの看板はガイドブックに載っている名前が見られる、今回の食事の場所はファーストフードの店とアリストクラート、それに最後の夕食のシーフードレストランだけだった。もっとバラエティにあちらこちらのレストランに出かけてもよかった。しかし行く時間が無かった、またこの次ということにしよう。

 フィリピンには又行く事もあるだろう、是非また行きたいものだ、その想いを込めてこの次にしよう。

 航空機のやりくりの関係で出発が1時間以上遅れたが、飛び立ってしまえば2時間弱のフライトで着く、実に近い国だ、東京よりはるかに近い、まあなんと言うたって我が島は南の玄関口だから。

 こうして妻と長女は初めてのフィリピン、次女は2回目、私は数回目の旅を終えた。何回行っても良いところだ。これからはもっとフィリピンのあちらこちらへ出かける旅を計画しよう。

参考までに今回のツアー料金は、航空賃と4日間のホテル代で58.000円、延泊料が1日3.500円、それに交通費がtaxiチャーター料がガソリン代は別途で1日2.500ペソというところです。

写真はトゥバという椰子の酒
   瓶1本で20ペソ イチゴもバギオで買った。その後は孫

シーフードレストラン

2005年09月01日 07時12分32秒 | 旅-マニラ
 ライステラスの項で記載ミスがあったので訂正と補足をします。Banaue HOTELの宿泊料を800ペソと書いたが、メモを見ると1450ペソと1800ペソ(1室2人の料金)の部屋があったので高い方にした。朝食料金が含まれているがコンチネンタル式で50ペソの追加を払えばBuffeに変更できた。夕食は200ペソと言われたが300ペソ請求された、Buffeスタイルで満足できる内容だった。
部屋のベランダはライステラスに面しており、はるか下の方まで棚田が続くのが眺められて良かった、飛び込みで探したがとても良かった。下の街の中なら谷間になるのでこのような眺望は望めない、ローリーさんは私たちが何も言わないのに希望をよく察してくれた、マラミン サラマット。

 最後の夜はカマヤンにでも行こうと出かけた。カマヤンは手づかみの意味があるらしい、その名の通り手づかみで料理を食べた記憶がある。初めてマニラへ行った時海老蟹にレチョンを食べた、3名で腹いっぱい食べて7000円ほどだった。
その記憶があり、また店の雰囲気も良かったのでマニラ最後の思い出にと歩いて行った、案内図を見るとホテルから近い。

 店に入ると以前とは雰囲気が違い大勢の客がいる、バイキング方式になっている、料金が2種ありメニュー内容で違っており、ケッコウ高い料金設定だった。一応坐って店内を見回しても何か落ち着かない。ここは止めてシーフードレストランに行くことにしてカマヤンを出る。

 シーフードレストランも近くにあるはずなので又歩く、路地を1本手前で曲がり20分も余計に歩く羽目になった。
シーフードレストランは魚介類がズラ~ッと並んでいるのを量り売りで買い、調理法を指定して出してもらう方式である。

 大きな魚を焼いてもらい、またスープ用のをもう1匹見繕う、海老に野菜・貝と注文してビールを飲みながら待つ。末娘は海老蟹の甲殻類を口にするとアレルギーが出ることが多いのでチキンを頼む。大皿からはみ出す焼き魚は美味しい、スープは別の種類の魚、海老を食べるには手が汚れるのを気にしたらいけない、ここは手づかみで奮闘する。
蟹の注文をすっかり忘れていた。陳列してある場所が悪い、と文句も言いたくなったが後の祭りお腹一杯でもう入らない。肴は匹にして蟹にすべきだった。

 これだけ食べて2500ペソ、満足した食事だった。

写真はシーフードレストラン
   写真を撮るようにとポーズをとるボーイさん

最後の日

2005年08月31日 12時57分37秒 | 旅-マニラ
 最後の一日だからマニラの近場で見るべき所を見て、買い物をしたいということになった。キアポと中国人墓地を見てマカティのグリーンベルトへ行く事にする。観光半日、買い物半日という予定でtaxiに迎えに来てもらって出発。キアポは混雑しているのでとチラッと見るだけの素通りで中国人墓地へ行こうとする。

 何処へ行っても市場にはできるだけ行くように心がけているのでUターンさせて戻り、降りて歩く。暑さと人ごみの熱気は車の中から眺めるだけでは物足りない、ベト付いた身体を押し合いへし合いして肌で感じた方がいい。おりしも今日は日曜日キアポ教会は説教の真っ最中だった、敬虔な信者を掻き分けて後ろの方に安置されているキリスト像を見て反対側市場側に出た。大勢の人ごみの中を見物する。

 野菜や果物が珍しく面白い、何か分からないが適当に買う、剥いて貰ってその場で口にしたものもある、名前は聞いてもメモしていないので分からないが淡い味だった。ガード下で笛を探したが見当たらない、竹で作った楽器(?)をかう、先が割れていて叩くとブオ~ンと響くやつ、音がきれいに響くので買った。
口に咥えてヒゴを弾き口腔を共鳴箱にする楽器ーアイヌから東南アジアぜんいきにある。-を探したが無かった。

 10数年前はビスタン・ピリピノではその類のモノが数多くあった、あのような施設があればいいのに。小さな店が並びフィリピンの手作り工芸品があった、中央にはレストランがありバンブーショーがあった。飛び入りさせられたリズムにタイミングが合わず足を挟まれっぱなしで恥をかいたこともあった。

 キアポの市場見物の後中国人墓地へ向かう、それほど遠くないと思うが入り口を探してほぼ一周し入園した。大きくなお墓が並んでいる、郷友会の合同墓地のようなものもある。邸宅を思わせる墓もある、管理が行き届き街中よりずっと清潔だ。シーミー(があるかどうか知らないが)の頃は大賑わいだろう。

マカティに向かう、昼食はローリーさん(ドライバー、ようやく名前を思い出した。)等とSMマート(?)の地下の大食堂で食べる。日曜なので小学生の息子も連れてきていたので一緒に食べた。はにかみ屋の子でオミヤゲは何が良いかと尋ねてもモジモジしている、チキンのから揚げを押し付けるようにして持たせた。

 午後は買い物をしてホテルへ戻るだけなので車は返って貰った、夕方まで待つとのことだったが、TAXIを拾えばいいので断った。マカティにはグロリエッタとグリーンベルトのショッピングモールがあるらしいが、私たちが買い物したのはきっとグロリエッタだろうと思う。私は小さな笛を買った、それとTANDUAY RHUMにFANDADORを合わせて6本。
妻や娘達はそれぞれ何か買い物をしたようだ。

 あまりの広さにウロウロするのも疲れる、できるだけ動きたくないがオンナどもはそうはいかなない。あっそうそうGパンも買ったのだった。裾を調整する時間は彼女達に付き合わずに坐っていた。場所柄なのか歩いている人たちの服装や表情は以前とは違う、小奇麗になり、ノンビリした雰囲気がある、なんやかんや言われながらも少しずつ良くなっているのだろう。
 
 最後の夜だから夕食は豪勢にやろうと話しながらホテルへ戻った

トゥバ

2005年08月29日 07時18分53秒 | 旅-マニラ
 今回はライステラスを見たかった、遠い、マニラを9時に出てバナウェイ到着は6時、途中食事時間はとったが殆んど走りっぱなし、運転助手が必要なわけだ。

山を上ったためか涼しい、朝起きてバルコニーに出ると谷あいに田んぼが見える。霞がかかったようにボケている。孫が熱を出して一晩中むずがっていた。夜から熱さましを買いに出かけたが空いているドラッグストアがなかった、赤ちゃん連れの場合はもっと念入りに準備すべきだった。ハンセイ。

 ホテルの売店で木製のオミヤゲを買う、とても重いがイスを買った。木を刳り貫く枕式のイスで大きさ、作る手間を考えても安い、しかし重い、担いで運ぶわけでなしと思い切って買った。

 8時半出発、ライステラスのビューポイントは10箇所ほどあり、散策コースもあるがマニラまで戻らないといけないので一ヵ所だけに留める。民族衣装を来たお婆さんたちが数名坐っている、一緒に写真に写る為にそこにいるのだ。一緒に入ってもらった、ニコニコした笑顔がいい、どこでもお年寄りの顔はいい顔をしている、お礼は一人当たり5ペソか10ペソ渡した、その金額が妥当かどうかは分からない。

 この季節はそうなのか風景がかすんでいる、朝の逆光のためかな、遥か下の方まで棚田が並ぶ、長い年月をかけて造ってきたのだろう、人間の努力にただ頭が下がる思いがする。もう一泊してゆっくり廻るべきだった。

 帰りはバギオ経由で行くとのこと、遠回りになるがこの際見れるならどこまでも、という感じで出発、昨日の道を下る。ボントックまで行きバギオに戻るルートは道が悪くて通れないようだ。ただひたすら走る、途中ランチタイムをとり道端でトゥバを売っているの見つけたので買った。
トゥバは初めてマニラへ行ったころから味見したかったものだ。本で知ったのだが椰子の樹液を自然発酵させた飲物とのこと。マニラでは見つけることができず、知人が持ってきたものは酢になっていて不味いものだった。

 その名を知って10数年、今度はホンモノの味がするだろうと期待して飲んだ、爽やかで甘く、シュワ~と又プツプツと泡が立っている、もっとアルコール分が強いと思っていたのに殆んど清涼飲料水だ。もっと時間が経てばアルコール濃度も上るかと期待して時間経過と味との関連を確かめながら飲んだ。翌日は甘みが薄れて椰子の香りと味が強くなったがアルコール分が増えた感じは無かった。
 500ml瓶で20ペソ、味は期待したものではなかったが10数年来の想いを達する事ができて嬉しかった。

 ベンケット道路に猿岩を通りバギオに着いたのは4時ごろだった。バギオ名物の鶏料理を食べたかったが時間が無いので早々に発つ。
鶏料理とは殺すときに棒でぶん殴り血液を肉に滲み込ませると美味しくなるとのこと、血抜きをするのが一般的な調理法だがわざわざ血を滲み込ませるのは珍しい。考えてみるにミネラル分が豊富な血を食するのは道理に叶ったものである、我が島のチーイリチーもその一つ。食べたかった、この次だ。

 バギオは木彫の盛んな地でもある、ホテルで買ったイスと同じものが4割安く売っているので、もう一つ買った、それに同じ方法で作った花置き台、これは口で説明するのはムツカシイ写真で説明しようと思うもお世話になった歯医者さんにプレゼントしたので手元に無い。いつか写真を撮ってアップします。

 夜も次第に更けてきてもマニラは遠い、マルコス道路を走りマニラに着くと今度は渋滞、EDSAをノロノロ進む。夕食の場所は運転手に任せたら時間が遅いので閉店していた、しょうがないので又アリストクラートへ行く11時前になってい、。ホントにご苦労さんでした。

ライステラス見物というより車に乗ってい疲れただけでだった。しかし風光明媚で運転手の人情味にも接したし良い旅だった。途中の街も通過しただけだが面白い光景をチラッと見ることができた。

 写真説明
 イスと花台です、写真が無いと書いたがありました。
 三脚の上に直径50cmほどの木鉢がのります。

 持ちにくいという欠点はあるが運んできたら価値が出てくる。
 フツーの旅人なら買わないでしょう。
 孫たちが喜んで坐っています。

ライステラス

2005年08月28日 07時39分50秒 | 旅-マニラ
 いつものように早起きしてリサール公園の脇道を散歩する。屋台では道端にしゃがんで朝ごはんを食べている人もいる。パンデサルというパンが1個4ペソ、モノは試しと買い味見する、塩味でそれなりに美味しい。

 朝食はjollibeeでとりBunaue(バナウェイ)へ向けて出発した。長距離を走る事になるので早めの9時発。地図を拡大コピーしてきたので運転手に渡す、フィリピンの人でもルソン島中部まで知っているとは限らない、運転助手がその地図を参考にしてルートを指示しているようだった。基本的には国道を北へと走ることになるが、町を通過するとき次の町を目指して進むかの参考にしていたようだ。

 出発前運転手(名前を忘れてしまった。)がライステラスのあるバナウェイは高地で寒いので準備をしてきたと毛布を見せた、一緒にホテルに泊まろうと言うと笑いながら車で寝る、大丈夫という風なことを言う。
フィリピン人は厚かましく何でも要求する、というイメージを持たれがちだがこの方は全くその気配すら感じない。手配してくれたGさんの人徳だろう。

 彼はフィリピンで数人に奨学資金を提供していて、運転手の係累の子にも奨学資金を出しているとのこと。我々はその方の紹介なので丁重に扱っているのだろう、それに加えて根が温厚な性格であるように見受けられた。
食事の注文でも一汁一菜どころか白米におかず一品しか注文しない、もっと食べなさいとこちらが追加注文することがしばしばあった。

 フィリピンの町の入口はアーチがあり町の名前がデカデカと書かれている、それによるとBAMBAMGA、ARISTRO NUEVA VISAYAとかSAN JOSEとかを通ったようだ。BAGABAGUというところから暫らくして山道に入る。
途中の街で昼食を取る、jollibeeだ、朝もjollibeeだった、フィリピン最大のファーストフードチェーン店で、マクドナルドを押さえてトップになっているのが面白い。またjollibeeに対抗するためにマクドナルドに米のメニューがあるのには笑った。
ガンバレJollibee!

 山道を上って行く日も沈みそうだ、ホテルは飛び込みで探すつもりで予約はしていない。運転手が街の人に尋ねて小奇麗なホテルに到着、一人800ペソとのこと、運転手と助手も一緒の泊まろうと誘うが車で寝るという、遠慮しているのだろうか。そこで宿泊料相当額を現金で渡した。

 食事は定食が付いているが50ペソの追加料金を払えばバイキングになるとのことだったのでそのようにした。夜ホテルのロビーで民族舞踊が披露された、最後は飛び入り歓迎だったので一緒に踊った。泊り客は西洋人も多かった、ライステラスは世界的に有名なのだろう。来る道すがらライステラスが見えたが明日のビューポイントからはもっと凄い風景が見えるだろう。

フィリピン名物

2005年08月27日 08時58分06秒 | 旅-マニラ
フィリピンといえばジプニーというほどジプニーは有名だ、ボディやボンネットに派手な絵を書き、馬やペガサス、フォーンが7~8本と所狭しと飾り付けられている。見ているだけで楽しくなる乗り物だ。
初心者がある目的地へ行くために乗って行くのはムツカシイ。最終地の終点は表示されているが途中のルートが分かりにくい、フロントガラスに小さな表示板があるが瞬時に判別するにはコツが必要だ。

膝我を突き合わすほど狭い車内で固い座席に片尻を置く感じで坐る、ゆったり坐る事もたまには出来るがだいたいチョイ掛けだ。地方で見かけた後部にぶら下って乗りたかったがマニラでは禁止のようだ。
ぶら下ったり屋根の上に坐ってみたい。

 フィリピンにはもう一つの有名なモノがある。バロットという卵、これがフィリピン関連では必ず話題になるシロモノなのです。
 バロットはアヒルの卵で、孵化寸前の卵をゆで卵にするので、殻を割ると雛が蹲って入っているのが見える。ゆで卵を割るとき通常先が尖った方を上にして割る、するとそこがアタマの側になる。口ばしとか目が見えはじめて産毛に覆われた羽も出てくる。

 バロットの食べ方は先の方に穴をお開けて荒塩を入れまず汁を飲む、それから剥きはじめる。前述のように頭を身体にくっ付けて丸まっているのでガブッと齧る、口ばしは固いので吐き出す、骨は柔らかくて身と一緒に食べてしまう。フツーのゆで卵の黄身のような味がするところがある、胴体になのか。

 食べては美味しく、話題性もある面白いバロットはチャンスがあればチャレンジする価値はある。バロットの話しをすると気持ち悪いと嫌がる人が多い、今回タガイタイの展望台で打っているのを見つけて買い、家族の前で食べると欲しそうな顔をしてもっと買うように言われた。

 オバアのところへ行き追加してみんなで食べた。少しずつ割って中味を確かめながら食べていた。鶏がらスープにチキンとゆで卵の組み合わせなので美味しいのは当たり前だ、姿かたちが少々気になっても食べるとそれ以上のモノを得ることが出来るバロットです。
価格はマカティの飲み屋付近で売り歩いているもので50ペソ、田舎で22ペソ、その程度なのでダメで元々という感じでトライするのがいいでしょう。なお飲み屋へ行くときバロットをオンナの子の手土産に持参したら喜ばれる事請け合いです

3月10日(木) 観光椰子園

2005年08月26日 06時52分52秒 | 旅-マニラ
 ヴィラ エクスデーロという観光椰子園へ行く。南の方へ2時間ほど走ったがハイウェイは穴ポコもなく補修がきちんとされている。途中タール火山と思われる富士山に似た山が遠くに見えた。あそこへも行きたい、見たい場所はたくさんある。

 当初バグサンハンの滝に行く事も考えたが、ボートでの遡行は赤ちゃんも一緒だということで止めた。もう一つの理由は、これが大きいのだがボートマンとのチップの金額での不愉快な交渉に嫌気がさして行く気が失せたのも事実だ。慣れない、気の弱い人は100ドル取られる事ある。日本人は概しておとなしいのでカモにされる確率が高い、台湾人や韓国人はボートマンがケチというほどしっかりしている。
この辺りはハッキリ意思表示できる台湾・韓国人を見習ってノーの連発で切り抜ける気力が必要だろう。
チップの相場なんて知らないが、最低賃金から考えて自分なりの妥当な金額を出すべきだろう。

 必ずトラブルになるので今回は未だ行ったことの無い観光農園を選んだ。高い入園料を支払うとカラバオ(水牛)に引かれた馬車・・・馬車はおかしい、牛車で中央のレストランまで連れて行く。ギターマンと歌い手つきの牛車で風情がある、揺られて面白かった。
 入園料に昼食が含まれている、レストランへ行くとチケットを見てアチラ側へ行けと外を指差す、訳が分からずウロチョロしながら歩いていくと川に下りる階段がある。川の中にテーブルが並べられて食事をしている人たちがいた。これは面白い、靴を脱いでテーブルに坐る。川の水はきれいで滑らないように注意しながらバイキングの料理を取りに往復した。料理内容はそれなり、というところ。上流側に堤があり水が流れるさま、水紋を観ながら食事をした。
足は水に浸かっているので涼しく感じる。

 園内には農園主が蒐集したものを展示する館があった、マニラカテドラルを模した建物で、かつての”古きよき時代”の文物書画工芸品などが所狭しと陳列されている。

 このヴィラ エクスデーロ農園は、わざわざ時間を作って見に行くほどのことは無いが、一度は行ってもいいのかなとも思われる。

 帰りにタガイタイまで寄り道する、昼も過ぎているので日光がベタになり全体が霞がかかったようになってせっかくの風景がボケてしまったのはザンネン。それでも湖に浮かぶ島の眺めは素晴らしい。大勢の観光客がいる、大音量のカラオケからフィリピンでは珍しく下手くそな歌が流れてきた。タホ売りの若者だ、憂さが晴れただろうか。

 下る道沿いに果物屋の店が並んでいる、買おうと思うも運転手が飛ばすのでタイミングを失った。またタガイタイはブコパイの名所だと聞いていたのでパイを食べたいと思い運転手に伝えたが、あちらの店が美味しいと言いながら忘れてしまったようだ、おかげで食べ損なった。

 ラスピ-ニャスのバンプーオルガンを見るのは出発時点で伝えてあった、それは覚えているらしく既に日は落ち真っ暗になったうえ、ラッシュ時間になったのに廻ってもらった。暗い教会の中なのでよく見えなかった。前回は演奏者の横近くまで上って見たが時間が遅かったのでチラッと見るだけで帰った。

 夕食はみんなでアリストクラートへ行く、メニューが豊富なのと値段もそこそこだと思われるので好きなレストランだ。あ
明日の打ち合わせをしてホテルまで送ってもらう。

マニラの思い出と出会い

2005年08月25日 08時39分49秒 | 旅-マニラ
 初日の観光はマカティまで出たもののグリーンベルトを廻ることなく夕日を見るべく海に向かう。ホテルに戻り易いようにリサール公園も向かい側で車を降りた。TAXI料金はまとめて支払っても良いとのことなので明日の時間を確認して別れる。

 マニラ湾に張り出すようにコンクリートの床が作られている。けっこう広くて屋台やカラオケまである。水とアイスクリームを買って日が落ちるのを待つ。期待したほど赤くはならなかったがマニラ湾の夕日はきれいだ。

 10数年前は二階バスによる夕日観光というものがあった。リサール公園前からロハスブルバードをパサイまで往復するだけだが、これがとても可笑しく面白いツアーだった。
まずバスはフツーのバスの屋根にベンチを二列に並べて周囲に手摺をめぐらし、後部に乗降用の梯子が付いている。言うちゃあ悪いがフィリピンらしい乗り物だった。

 お客が集まるのを待って出発、一番前の木製ベンチに陣取る、高いところなので気分まで高ぶる。私が乗った時間は夕日がとっくに沈み真っ暗になってからだったので、景色を楽しむより雰囲気を楽しむ時間になっていた。ロハスブルバードは当時から整備されていて街路樹が並木になっていた。バスの屋根の上の席なので街路にはみ出した椰子の葉や木の枝が頭や顔に当たりそうになる。

 それ来たぞ~っと誰かが合図すると一斉に頭を引っ込める、危ないといえばアブナイ、みんなキャーキャー言いながら首を引っ込めていた。バシャッと音がするのは誰かが当たったのだろう。バスの作りといいルートの危なさといいフィリピンらしい、無事パサイ往復したが愉快な観光だった。
今は廃止されたようだ、もう一度乗りたかったのに。

 その夜はインターネットで知り合ったマニラ在住の方との飲み会が予定されていたのでマカティまで出かけた。深夜まであれこれ話した、ありがとう、それにホテルまで送ってくださったもうお一方にも、ありがとう。
楽しいマニラの一夜でした

  (書き続ける時間が無いので、これにてシツレイ。)

写真は、少々ボケているが、タホ売りのようすです。
     美味しかった。

市内見物

2005年08月24日 10時52分49秒 | 旅-マニラ
 マニラは暑い、しかし夜になると気温が下がり凌ぎ易くなる。アリストクラート前の整備された通り、ロハスブルバード沿い、その向こうの海側も大勢の人で賑わっている。人間が多いのは分かる、前もそうだった、だがしかしそこに集っている人の雰囲気は大違いだ。前はビンボウったらしいというか胡散臭いというかそのように感じたが、今は皆さん明るい、楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。

 美味しいものを食べて気分もいいので散歩を楽しんでも良かったが、乳児も同行しているし疲れも若干あるのでホテルに帰る。
 ホテルはマニラパビリオン、このツアーの一番安い宿泊価格のランクになっているが立派なものだ。特にセキュリティがしっかりしている。これまでの旅行で高級といわれるようなホテルに泊まった経験が少ないので、カードに記録された階しかエレベーターが止まらないようになっているシステムは初めての経験だった。
 また私たち夫婦の部屋と娘達の部屋が建物の端と端なのには閉口した、何をするにも一緒の行動なので拾数部屋の前を通り過ぎて遥か遠くまで廊下を歩かされるハメになった。
 朝散歩がてらにリサール公園沿いを歩いているとタホ売りが来た、話は聞いたことがあるが味見したことは無いので一杯注文する、10ペソ也、ユシ豆腐に蜜をかけたようなもの、プリンのようなものと言えばいいのかな。出勤前の人たちが食べていく、この人たち朝からおやつを食べながら出勤するのか。家族の味見用に追加注文した。好評だった。

 朝食を含めて食事が一切付かないのでジョリビーへ行き朝ごはんを食べる。ホテルの隣近所にはファーストフードの店が競うようにある。マクドナルドは当然としてケンタッキーチキンにグリーンなんとかという店そしてチャンピオンのジョリビー。フィリピンなんだからまずはジョリビーというのが自然な流れ、おじやセットを注文した。一人当たり50ペソ足らず、つまり100円足らずというところ。

 観光はインターネットの掲示板仲間に手配してもらったTAXIを利用した、一日2.500ペソで遠出の際のガソリンは別途支払うという条件だ。車はワンボックスカーなのでよかった。ただ後部座席を3列にしていたが、2列なら尚快適だっただろう。

 観光は定番どおりイントラムルスから始まりマニラカテドラル、カーサマニラと巡る、私は数回目、末娘は数年前一緒に来たので2回目だが歴史ある建造物は何回来ても飽きる事は無い。
 サンチャゴ要塞はスペイン時代を考えさせるし、リサール記念館は国民に慕われているリサールの生き様を表現している。彼の高い志を現在生きている政財界の皆さんに認識させたい、時々リサール記念館詣でをしなさい。

 そこへ入管のとき、記念に来場者名簿にお名前を! という感じでペンを渡されたので記帳する、住所氏名の下に寄付金額の記入欄がある、ヤラレタ~と娘たちと大笑い、100ペソでも200円、まっいいか。

 昼食の場所は適当に選んでくれと運転手に頼むと、パサイの向い側の湾を埋めたてている何も無い所に連れて行く、所々にポツンとビルが建っている、さらに離れて拾数件の店が集まっている場所が出てきた。
全てが飲食店のようだ。店名から察するところファーストフードのモールという感じだ。市街地からも遠く離れているこの荒地によくもまあ企画したものだと感心する。時間の所為もあろうが賑わっている。フィリピンは食うや食わずの人々ばかりと思っていたが、いつからこのようになったのだろうか。

 シーフード主体の店に入る。運転手と助手は遠慮しているのか入ってこないのを引っ張り込む。シニガンにイニハウ、BBQチキンはもちろんバグースにその他諸々を一緒に食べる、6人分で1480ペソ3000円、安いと声を上げたいところだが現地の所得を考えると安い安いを連発するのもどうかという気になる。

 最低賃金が時給で605円と日給でそれくらいしかもそれさえ守られない国とを単純に比較して安いというほど無神経ではない。あの日の昼食は私の1時間分の賃金以下だがフィリピン人にすれば日給分という人が大勢いる、そういうことも念頭においてモノゴトを判断した方がいい、たとえ観光であっても。

 午後からアヤラミュージアムへ行く、入館料は高すぎるがフィリピンの歴史がジオラマで分かり易く説明展示してある。面白いと思ったのは展示ブースに空きがありこれから起るであろう出来事のスペースを予め用意してあることだった。最近の出来事もチャント見せている。つまりピープルパワーのことです。国を変える出来事はちゃんと後世に伝える事もミュージアムの目的の一環なのだろう。歴史を反省せずむしろ隠蔽しようとする国との違いがある。
しかもここは一財閥のミュージアムである、その姿勢は評価したい。

マニラへ

2005年08月23日 08時33分44秒 | 旅-マニラ
 フィリピン航空の沖縄便は、週4便でマニラ→那覇→福岡→マニラルートとその逆の、マニラ→福岡→那覇→マニラのルートである。
那覇からマニラへ行く場合直行便なら2時間弱で行けるが福岡経由の場合は3倍以上の回り道となる。ツアー料金が安い出発日は当然福岡経由となる、私たちもその便に乗った。13時発16時30分着、時差があるので1時間プラスの長時間フライトとなった。

 旅行社の説明では航空運賃とホテル代だけでホテルへの送迎は無しととのことだった。空港での諸手続きを終えて外に出て、TAXIを手配しようとしたら名前を書いた紙を持った人がいる。掲示板仲間に頼んで手配したTAXIは明日からだし・・・あやしい、しかし何故名前を知っているのかといぶかりながらも合図した。日本語でホテルまで送るという。金は要らない、企画している旅行社から連絡があった、必要なら明日からガイドをしても良いとのこと。フィリピンというお国柄だから送迎のある無しはチャント説明をしてもらいたかった。

 年配の方で日本語もまあまあ上手く歴史から地理文化まで一通りの説明をしている。明日からどうするかと聞くのでTAXIは手配済みだからケッコウですと断った。受け入れの現地旅行社としては送迎だけでは割に合わないだろう。
ホテルのチェックインまでしてくれた、那覇で前もって送迎の説明が無かったので最後まで素直に受け入れることが出来ずに落ち着かなかった。送迎は無いという説明だったのに、でも無事送ってもらったそTAXI料金も節約できたので良しとするか。

 途中のパサイ付近の風景は以前と変わらないように見えた、真っ暗になっていたせいもあるだろう。しかしビトクルスの交差点を過ぎた辺りから様相が一変した、色とりどりの華やかな街灯が立ち屋台が並び大勢の人が出歩いてる。人がウンザリするほど多いのは前もそうだったが服装や雰囲気が小奇麗になっている、以前とは大違いだ。ロハスブルバードが一変している。

 ホテルでの荷解きや休憩もそこそこに夕食へと出る。目指すはアリストクラート、フィリピン料理が揃っているし、値段も大衆料金だ。ボーイがTAXIを呼ぼうとするのを断りジプニー乗り場へ行く、ジプニーを見ればフィリピンということになるほど有名なジプニーに乗らない手は無い。それにリサール公園付近からマラテ近辺へ行く道路は一方通行なので迷う事も少ない。
 それにジプニーに乗れることを家族に自慢もしたい、ちょっと歩いてジプニーを止める、初乗りが5.5ペソになっていると書かれていたが、その料金で何処までいけるのかが分からないので30ペソを渡すと9ペソのおつりが来た。

 アリストクラートはマラテチャーチの前に在ったので降りる場所を間違うわけが無い、と思いつつもケッコウ長く感じ不安も出てきた、家族にはキョロキョロ景色を見るフリをして教会を探す。かつてのマビニの歓楽街はまるっきりなくなりあの頃を偲ばせるものは見当たらない。バイヤッド、パーランモと懐かしい言葉を聞いた、暫らくして教会前に来る、ついでに私もパーランモと小声を出しながら天井を指で弾いて降りた。教会付近は以前と変わらず静かだが、海側を見ると街灯に噴水その他もろもろかつての面影が無いほどの変わりよう。

 孫がいるのでクーラー無しの部屋を探して坐る。初めて来たときこじんまりと落ち着いた部屋でテーブルにはローソクがあった、そこで食事をした覚えがある、今日は大衆的な大部屋だ。
 シニガンにアドボの代表的なものをまず選びチャプスイ、ブラロ、BBQチキンにバグースと手当たり次第という感じで注文した当然サンミゲールも。
4名では多すぎるが少ない滞在期間にアレコレ味見するには残してもしょうがない程注文せざるを得ない。ゴメンなさい。

 チキンが美味しい、何故フィリピンのチキンは美味しいのか。味付けもさることながらチキンそのものが違うのだろう、淡白というより味が無いブロイラーのパサパサしたものとは違う。初めて食べるフィリピン料理にみんな満足した様子だ、腹いっぱいになった。あれだけ注文して一人当たり600円足らず、言うこと無し。

 フィリピンの初日はただ夕食をとっただけだったが胸はずむ。一日だった。

写真:アリストクラートのメニューです。