どこ吹く風

旅のことを主に書く。

ペルーへ出かけます。

2006年03月26日 06時38分52秒 | マチュピチュ
マチュピチュへ出発
 2006年03月22日 07時38分06秒 / マチュピチュ の「いよいよマチュピチュへ 日程」に書いたように出発となりました。

あの日程の数字1は第1日目を示し、明日がその1の日になります。
成田集合は3時ですが、安売りキップは時間指定できないので前泊する事にしました。その方が時間指定するより数千円安くなるのです。

金と時間をハカリに懸けたところ金より時間があるのです、年寄りの旅だから。
東京見物でもしながら暇潰しします。

という訳で当分は更新できません。
帰ったらペルーでの印象を書きます。高山病はどうなるか・・・

バロット

2006年03月25日 19時05分01秒 | マニラの印象
 フィリピンといえばジプニーに並んで挙げられるものにバロットがある。
これはさほど有名ではないかな。
 初めてこの食べ物を知ったのは30数年前のテレビ番組「兼高かおるの世界の旅」シリーズでのシーンだった。街角で麗しき女性のかおるさんが殻を割って食べる様子があった。
 このようなシーンは何度か見た、そして体験する事ができた。
滞在先へ帰るときべりーさんが暗い軒下に坐っている老婆に話しかけた、毛布で覆われた甕から何やら取り出して袋に入れる。
部屋で取り出したのはタマゴ、笑いながら差し出す。私には直ぐ判った。タマゴの先っぽをコツンと割って袋に入っている粗塩を入れてまずスープを飲む。薄味の汁が流れ出てきた。それから殻を剥くユデ卵と違い白さが無い、黄色みがかった灰色のような所々が黒いような塊りが出てきた、アタマのようだ。よく見ると嘴らしきものも付いている。

 ひと口齧る、ギリギリまで剥くといっそうハッキリした形がわかる。羽もある、羽毛は喉に引っかからないかと気にしながら喰らい付く。その頃には羽も何も気にならない、骨も柔らかく食べるのに邪魔にならない。味はチキンにタマゴと当たり前のことに気づく。黄身の塊りみたいなものがある、やはり黄身なのだろうか。アレはあまり美味しくない。初めて食べたバロットだった。

 その後数回買って食べた、硬いのと柔らかいのがある。柔らかいのが好きだ、タマゴで言えば半熟が美味しいというところ。
当時1個5若しくは6ペソだった。滋養強壮剤的な感覚で食べているようで、マンション警備のガードマンにオミヤゲとして渡して喜ばれた。

 バロット売りの声を聞くと、バロッ、バロッと聞こえる。まにら新聞にバロットの探訪記が載っていたが、それによるとバロットはアヒルの卵らしい。ニワトリかアヒルの卵かは味でもヒヨコ(?)の姿を見ても分からなかった。
保温されて生暖かいタマゴのバロットは見た目にはキャーキャー言うかもしれないが、口にするとチキンにユデタマゴなので美味しい、滋養強壮の食べ物なのでフィリピンではぜひ食べたいものの一つです。
ただスーパーでは見たことが無い、探したことが無いので売っているかどうはかが知らない。保温された容器に入ったものを売っている人、オバーが多いようだが、その人にめぐり合ったらラッキーとばかりに食べる事です。

 フィリピン関連のサイトにはほぼ書かれているバロットです。オミヤゲに持ち帰りたいのですが、帰る日時と売り子との出会いが上手い具合に合ったことがないのでザンネンです。

写真はバロットです。美味しそうに見えますか?

ジプニー

2006年03月24日 13時26分07秒 | 旅-マニラ
フィリピンといえばジプニーと反射的に出てくるほどジプニーの知名度は高い。
彩りも鮮やかキンキラキンに飾り付けられたジプニーはフィリピンを象徴する車でしょう。間近に見てそう感じる、見ているだけで楽しくなる。

 行った当初ベリーさんは何処へ連れて行くにもtaxiを利用していた。私はせっかくマニラに来たのだからジプニーに乗りたいし、乗り方も教わりたいと申し出てそのようにしてもらった。
 ただジプニーの路線は無数にあり、普段から自分が使っている路線なら知っているが知らない場所へ行こうとすると地元の人でも知っている人は少ないようだ。

 ジプニーは次々に来るが何処行きなのかを判別するのがむつかしい。終点が書かれていない、正面ガラスの下に経由する通り名が書かれているのでそれを見て決めるのだ。運転手がピエールとか何とか地名を連呼しながら入ってくる場合もあるが、その地名と私が行きたい場所との関連が分からないので結局見送る。

 ジプニーには大勢の人がぶら下がるイメージを持っていたがマニラでは違反らしく絶対にぶら下がりをさせなかった。運転手が罰せられるようだ。
乗り込むと奥の方に坐る、奥から入口側に移動するのが凡そのパターンのようだ。
中間部あたりに坐って運転手に料金を手渡す事が出来ないときは隣の人からその次の人へと運転手までお金のリレーが行なわれる。オツリもその逆のルートで返って来る。
ドライバーはバックミラーで客の動向を観察していて運賃の支払いや乗った場所のゴマカシを許さない。すごい感覚を持っている。

 座席は片側6~7名で立つのは許されない、運転手が坐るように呶鳴る。助手席に坐った人は車掌代わりも務めるようだ。ゆったり座れる場合もあるがお尻をチョコンと席に引っ掛けるだけの方が多かった。
降りたい場所に来ると天井を指でコンコンと弾いてドライバーに合図すると適当に、ホントに適当に停車するスペースがあれば傍に寄るが道路中央で乗り降りさせるのも往々にしてある。降りる合図で「パーラー、とかマパーラやパーランモー」と言うて合図する人も多い。

 料金を支払う合図をするときは「バイヤッド」と声を掛ける。そして目的地を人数を言う、”マビニ、ダラワ”-マビニまで二人ーという風に、ドライバーが何か言うても意味は分からないので後はテキトーにどうにかする。

 ヒマなときは終点まで乗って引き返したこともある。また行く先も知らずに飛び乗り人通りの多い所で降りたこともある。しばらく散策してまた乗り、降りる。
ジープを乗って暇つぶしをするのも楽しかった。当時は終点まで乗っても3~4ペソ、今でも20ペソ程度でしょう。

 フィリピン名物ジプニーは庶民の足だがそれだけに留まらず眺めても乗っても面白い、妙な出会いもあった。それについてはまたいつか・・・

ペルー世界遺産への旅 (下準備)

2006年03月23日 12時19分19秒 | マチュピチュ
 前もって調べておくつもりだったのに、もう出発1週間前どころか数日前にとなってしまった。
今回は一応インターネットで訪問先の事を調べた。そこには高山病についての記述が目に付く。あまり意識していなかったがメキシコへ行った時に娘が高山病の症状、頭痛で苦しみ痛剤を買いに行った。
私も酒を飲んでいないのに二日酔いの症状が出た、これも高山病の症状の一つのようだ。
 ある人はペルー旅行を勧めないとまで書いている、あまりにもヒドイ症状がでると痴呆或いはアルツハイマー病を引き起こしかねないとまで書いているようだった。
私たちはそれほど心配はしていない、でも一応痛み止めと下痢止め程度は持参するつもりだ。

 スイスでも4000mクラスに登り、ベルニナ山岳の3500m地点にあるホテルにも泊まったが高山病らしい症状は皆無だった、高山病を意識すらしなかった。ヨーロッパだろうが南米だろうが高山病は同じだと思うがこれこそ意識の差なのだろうか。
基本的には高度順応もあるだろうが体調かな。

 ガイドブックはまだ手に入れていない、図書館へ行ったがペルーは無い、本屋へ行ってもペルー編は無い、売れてしまったのか人気が無いのか分からないがウチナーとペルーは移民の関係で行き来が多いと思われるのに無い。
 地図を手に入れようとインターネットで検索するが適当なものを見つけきれない。
Google Earhtでマチュピチュやナスカを探そうとしたが分からない、諦めた。

 衣類は準備し始めている、これは妻の役割だ。着ているものも脱がされて洗濯している。パンツについて今回は紙パンツが100均の店に無い。どこの100円ショップも品切れだった。どうしよう、いつものようにはき古したパンツを脱ぎ捨てる方式になるのか。
現地の気候が全く想像できないので悩んでいる。低地から高地まで行くのでどうするか・・当然寒さ対策を主眼に置くべきでしょう。

 ドルを持って行くほうがいいと旅行社の案内にあった、特に1ドルの小額紙幣がいいと書かれているサイトもあるので銀行に予約をれて100枚替えて来た。
かつて100ドルの給料を貰うまでには勤めてから数年掛かったのに今では・・・

 それ以外に仕事のこととか、ML管理の代理をする人への依頼、友人へ旅に出る自慢を込めた告知と細々したものがある。
イチバンの問題はこれらの事項かもしれない。仕事を中途半端なまま放りだして出かけるのだから相手は不快感を持つだろう。どう対処するか・・・やはり黙って行ったほうがいいかな。
 友人にはナスカのハチドリになった気分でぶんぶん飛び回ってきます、とでも言おうか。

いよいよマチュピチュへ 日程

2006年03月22日 07時38分06秒 | マチュピチュ
 今週末からいよいよマチュピチュへの旅に出かけます。
今回も妻に同行です。妻の妹も成田で合流します。
私は鞄持ちの役目ですが連れていって貰うだけでもシアワセです。

日程表は見づらいですが、旅行者のサイトからコピーしたらこうなりました。
ただいまペルー、これから行くところの学習中!
付け刃という事勿れ、知っているのと知らないでは、雲泥の差がある。
な~んちゃって。
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1 成田
17:15~19:00/エア・カナダにて、カナダ内都市乗り継ぎ、リマへ
・・・・・・・・・・・・・・【日付変更線通過】・・・・・・・・・・・・・・
 〈機内泊〉

2 リマ 朝/着後、リマ市内観光
リマ最古の大聖堂や大統領府のあるアルマス広場○など リマ歴史地区、ブレインカ期の土器や織物の収集で有名な天野博物館☆、黄金博物館☆、ミラフローレス地区△などへご案内します。
宿泊はデラックスホテル「シェラトン・リマ」指定    〈リマ泊〉

3 リマ

クスコ
(70km)

ウルバンバ渓谷 午前/空路、インカの都クスコへ 着後、郊外のインカの遺跡巡り
サクサイワマン要塞跡☆、巨石建造物ケンコー○、プカプカラ○、聖なる泉タンボマチャイ☆にご案内します。
午後/“インカの聖なる谷”ウルバンバ渓谷にてインカの要塞跡オリャンタイタンボの遺跡見学
宿泊は標高の低い(2,863m)ウルバンバ渓谷に宿泊  〈ウルバンバ渓谷泊〉

4
ウルバンバ渓谷

マチュピチュ
午前/観光列車「ペルーレイル」にてウルバンバ川沿いの急峻な渓谷など車窓の風景を楽しみながらマチュピチュへ(乗車時間約1時間40分)
昼食は遺跡の横に建つサンクチュアリーロッジにてバイキングをご用意します。
午後/ 謎の空中都市マチュピチュ遺跡をゆったり観光☆
約2.5時間の徒歩観光となります。(歩き易い靴でご参加ください。)
〈マチュピチュの麓アグアスカリエンテス泊〉

5 マチュピチュ

クスコ 朝/マチュピチュ遺跡に再びご案内します。静寂に包まれた朝もやの遺跡をご堪能ください。
午前/ご希望の方は、太陽の門へのインカ道ハイキングにご案内します。
午後/ 列車にてクスコへ(乗車時間約3.5時間)到着前にはクスコの夜景をお楽しみいただけます。 夕食はフォルクローレ(民俗音楽)を聴きながら。
〈クスコ泊〉

6 クスコ
(394km)
プーノ 午前/ クスコ歴史地区観光
クスコの中心となるアルマス広場○、精巧な石組建築のコリンカチャ(太陽の神殿)☆、12角の石○などを見学します。
観光後、チチカカ湖観光の拠点プーノへ
〈プーノ泊〉

7 プーノ
(45km)
チチカカ湖
フリアカ
リマ 午前/伝説の湖チチカカ湖観光
ボートで、葦を積み重ねてできている浮島ウロス島へご案内します。
静寂が支配する石塔の墓シルスタニ遺跡観光☆
午後/ 空路、フリアカ空港よりリマへ

〈クスコ泊〉

8 リマ
(303km)
イカ
(70km)
パラカス 午前/世界一の長さを誇る“パン・アメリカンハイウェイ”を一路イカへ
途中 、パチャカマ遺跡やペルー名産の蒸留酒の産地ピスコを通過します。
午後/ ナスカの地上絵遊覧飛行をお楽しみください。(飛行時間約1時間15分)
夕刻/海辺のリゾート、パラカスのホテルでゆっくりお過ごしください。
宿泊は「ホテルパラカス」指定   〈パラカス泊〉

9
パラカス

バジェスタス島
(233km)
リマ 午前/バジェスタス島クルーズ(乗船時間約2時間)“リトルガラパゴス”と例えられる海洋動物と海島の楽園バジェスタス諸島では、アシカやアザラシ、ペンギンやペリカンなどを間近でご覧いただきます。また、「もう一つの地上絵」といわれる不思議な地上絵「カンデラブロ(ろうそくの燭台)」を海上よりご覧いただきます。
午後/ リマへ戻ります。
深夜/ エア・カナダにて、カナダ内都市乗り継ぎ、帰国の途へ
〈機内泊〉
 
10 ・・・・・・・・・・・・・・【日付変更線通過】・・・・・・・・・・・・・・
〈機内泊〉

11 成田 15:25~15:30/成田到着、自由解散
〈機内泊〉


酒場

2006年03月21日 13時34分44秒 | マニラの印象
 ベリーさんにはマニラの観光名所だけでなくレストランや酒場にも同行してもらった。その他にジプニーやtaxiの乗り方なども、これは後で大いに役立った。
女性だからgogoバーは案内しなかったが”オモシロイ店があるヨ”と連れて行かれたのはウェイター・ウェートレスが全員小人の店だった。

 テーブルより頭一つ分高いだけの背丈しかない、頭の大きさは大人並みだがその他は小さく短い。動きがチョコチョコした感じに見えてどこかユーモラスである。ただそれを見世物にして店を売り出すというのにはチョッピリ抵抗を感じ無かったわけではない。
ベリーさんは単純に面白がってアレコレ動作の解説をする。そこには差別意識はまるっきり感じられない。

 店の小人従業員を笑いものにしているようだが、必ずしもそうでもない。そうなんだからしょうがないじゃない、というのを前提にそれを認めて可笑しい動作を笑っているようだ。
私の常識とズレるところもあるが、私のほうが常識と言うサベツ観念に縛られているのかもしれない。フィリピン人の方がフランクに接しているようにも思える、それはバクラと呼ばれているオカマを偏見無しに受け入れているのを見ても分かる。

 その店は生バンドの演奏があり、有名な歌手も来るとのこと。男性歌手の歌を聞きながらビールを飲んだ。
店を出たのは9時ごろだった、マビニの夜はいつもの喧騒、クラクションから呼び込みの声までネオンの色・点滅と交じり合っていた。

 ある夜カラオケバーに行った。
私は外国へ行ってまでカラオケバーに行こうとは思わない、しかしスポンサーである社長が行きたいと言うのに反対したり断る事も出来ず付いて行く。店選びはベリーさん任せた。
カラオケバーには当然日本語が話せる女性が大勢いる、日本語の歌も上手い、そのようなところでわざわざヒジャイヌーディを披露する事も無いので酒を飲み女の子とおしゃべりをする。

 そこに少年が現れた、女性は彼が何をするのか分かっているのでチップをあげて!と言う。社長が何がしかの金を出すと少年はテープを渡してセットさせてステージに向かう。歌い始めるとこれがまたウマイ、上手、これまでワイワイ自分の歌声に痺れて満足していた日本人の商社マンやら観光客のみなさんはシ~ンと静まり返ってしまった。

 フィリピン人はエンターテーナーの素質を持つ人が多いがこの少年もそういう素質があるのだろう。自分のキーに合わせたテープを持って稼いでいるようだ。自分のノドで稼いでいるのでプロだ、お客が凹んでしまったのを見て私はとても愉快になった。

 あの子は今では大人になっただろうが、次の少年は出ているのか・・。
大勢の上手い子が出てカラオケバーを我が物顔して蛮声を張り上げている日本人を凹ませて貰いたい。

マビニ

2006年03月20日 07時37分09秒 | マニラの印象
 マビニはその名を知られた大歓楽街だった。
地域の名前としてはエルミタと言うようだがマビニの方が名が売れているかも。一方通行でバー街が並んでいるのはM・Hデルピラール通りが多い。この二つの通りの名前は独立の頃の英雄の名前です。
お二人とも妙なところで有名になったものだとあの世で苦笑しているでしょう。

 私が滞在していたマラテからエルミタへ行きに通るのがマビニ通りで、帰りに通るのがMHデルピラール通りになる。一方通行だが駐車とかジプニー客の乗降や通行量の多さから混雑している。

当時は真昼間からネオンが点き、と言っても暑苦しく強い光の太陽で目立ちはしないけど、ドアの隙間から大音量の音楽が聞こえてくるような場所だった。
当時は、とは10年ほど前のマニラ市長が歓楽街一掃の政策を取った為に今ではすっかり寂れてしまったのです。当時の面影はペンキが剥げ落ちたまま放置された看板、割れたネオン管などの物悲しい風景の中に見られる。
 あの歓楽街を成り立たしている要因が解決されたのではない、ただあの場所からパサイ方面に移動しただけだ。

 GOGOバーと呼ばれるバーは、ステージでビキニ姿の女の子が踊り、客を物色していた、イヤ物色されていたのがホントかな。一旦入ると昼夜は関係なく別世界の様相を呈していた。
あれもフィリピン戦後史の一こまだろう。

 バー街の中にプールバーがあり賑わっていた。フィリピン人はビリヤード好きで当時からプールバーがあった。殆んどの客は賭けていた、受け渡しの金を見ると5とか10ペソ紙幣なのでたいした金額では無いと考えたが、最低賃金が85ペソほどだったので日本のマージャン並みの金額に相当するだろう。

 オカマが集まるという公園向かいに居酒屋があった、3~4棟の建物(?)があり厨房以外は壁が無いオープンハウスで楽団席にダンスフロア棟、カウンターバー棟は屋根だけで広い客席は青天井、夜は涼しくなるのでクーラー無しでも何とも感じなかった。ビールを飲みにちょくちょく通いウェートレスと顔なじみになった。
タバコが吸いたくなると買ってきてもらう、1本ずつ、その度にチップを1ペソ渡すのでタバコを吸え吸えと催促するようになった。1本ずつ買いに行くのがメンドウなのか買い置きする様になっていた、1本1ペソ足らずのタバコが倍以上になるので良い客だった。
 ウェートレスの給料は歩合制が加味されていたようで、何か飲めとか食べろとしきりに勧める、ご飯は済んだと言うと私は未だと返事する。これまでもフィリピン人が大好きなチキンを注文しても殆んど彼女達の腹に納まっていた。ビール代を含めても数百円の散財なので鷹揚にしておれた、安い店に行けば100円で済んだだろう。

 ある日真昼間にプールバーでビールを飲んでいると、女の子と店のウェイターが言い争いをしている、内容は分からないがウェイターは侮蔑的な発言と態度をし、オンナの子は悔し泣きを始めた。それはそれで関係ないことなのでどうでも良かったが、その子が私の所に来て”ホテルに連れて行ってくれ、暫らくシャワーを浴びていないので。”と言う。それに腹もへったので食事も欲しいとも言う。

 大勢の中で私がイチバン優しそうに見えたのか、カモに見えたのか。困ってしまったGパンにTシャツだが埃と汗でどろどろという感じで臭いはしなかったが如何にも臭いそう。金は要らないからシャワーだけでもと言われてもコマル。
仕方が無いので20ペソ奮発してお引取り願った。ここで食べたら高いので安い食堂へ行くと言いつつ去った。
私にとっては災難が来て去った感じだった。そこでの総費用50ペソ=250円ほど。

写真はタガイタイです。風光明媚なところでブコパイが美味しいとか・・

夕焼け

2006年03月19日 18時06分34秒 | マニラの印象
 マニラの夕焼けは素晴らしい、毎日見ていても飽きなかった。夕方窓越しにマニラ湾を見るとキラキラと波が光るのが眩しい。その波がキラメクその向こうに真っ赤に焼けた太陽がある。
雲も染まっている、遥か彼方の空も燃えている、これがマニラの夕日だ、夕焼けだ。
「マニラ湾の夕日は世界一だ」と昔を思い出すように目は遠くを見ながら話していた戦前のフィリピン居住者を思い出した。

 私が滞在していたのはロハスブルバードとビトクルス通りの角にあるレガスピータワー300というマンションだった。会社が3ヶ月借りた部屋で、シャワー付きの主寝室の他に2部屋のベッドルームがあり、狭いがメイドルームもあった。
全体が広い割りにはキッチンは狭かったが単身赴任状態の我々には充分の広さだった。

 リビングは充分な広さがありベランダ越しにマニラ湾が望め、ソファーに坐ったままで夕日が眺められた。あの壮大な景色に色の変化を見ながら高校の教科書にあった志賀直哉の「城崎にて」の一瞬一瞬の描写に感動したことを思い出し、この瞬間この光景を何とか書いてみたいと思うも、思うだけで言葉が出てこない。

 ザンネンだ、カメラも持っていなかったので記録は記憶のみで、真っ赤な夕日もセピア色になりつつある。その後も何回かマニラへ行ったが、あのレガスピータワーから眺めた夕日ほど綺麗なものはなかった。

 昨年(2005年)家族で行ったとき海岸まで夕日を見に行ったがスケールや大空を染める色に物足りなさを感じた。あの真っ赤に燃える太陽が静かに彩度を落としながら、しかし燃え尽きずに遠くへ去り、名残の夕焼けが高い雲に映えていたあの夕日・夕焼けは何処に行ったのだ。
訪れた時期の違いなのか・・・
また夕日を見に行きたいものだ。

マニラの二階建てバス

2006年03月18日 06時15分15秒 | マニラの印象
 リサールパークを発着しパサイまで往復するバスツアーに誘われた、日本語達者なUP(名門フィリピン大学)出身のベリーさんから。
 
夕日ツアーにしたかったが出かけたのはとっぷり日が暮れた後だった。リサール公園は夕涼みなのか人出が多い。マニラは何処でも人が溢れかえっている状態だから公園に人がいても不思議ではない。人がいるところには屋台がでる、アイスクリームを舐める。フィリピンのアイスクリームは美味しい、椰子を半分に割って果肉を削りながら食べさせるところもあるようだが私はそれに遭遇したことはない。

 公園の正面入口にバスが止まっている。鼻付きのオンボロバスで後に梯子があり屋根に登れるようになっている。出発の予定時間だがお客が少ないのかまだまだ出そうにないのでリサール像を見に戻る。建国の英雄を称える公園で広く野外音楽堂や庭園がある。

 バスに乗り込むがお客は少ない、二階建てバスがウリなので屋根に上る。フツーのバスの屋根に床を敷いて周りに鉄パイプの手摺が廻らされているだけである。木のベンチが並んでいる。オープン、吹きっ晒しの二階建てバス、言葉は悪いが如何にもフィリピンらしい二階建てバスだ。
梯子も手摺も配管用パイプを溶接して作ったもので、ベンチもその辺りの工場で作ったようでデザイン仕上がり共に実用本位の代物、かえってこういうものが旅情をそそられるというところか。

 イチバン前に陣取る、右側通行なのでパサイ向けは海側を走る。ロハスブルバードは幹線通りで中央分離帯の両側に3車線の車道がありさらに並木に歩道がある。椰子や大木が植えられている。木はクァーデーサーのように葉っぱが大きい。
世も更けてきているので前方は暗くハッキリは見えない、何かサラサラとかザワザワとかいう音が聞こえてくると同時に何かが現れた、首を引っ込めると木の枝が頭の上を通り過ぎた。

 車道に突き出た枝がところどころにある。そのままボケ~ッとしていると枝にアタマを打つ羽目になる。それ来た~と首をすくめる。海に浮かぶ光、遥か彼方の光、通りの反対側のビル家並みを見ながら木の枝に注意を払うという面白いツアーだ。
屋根の上だから涼しく見物する位置も良い、このような観光は何処彼処で体験できるわけでもない。
ただ乗ったというだけ、それだけでも自慢できるというツアーだった。その証拠にこのような経験をした人に未だ会ったことがない。
少なくとも私の周囲には自慢できる、二階建てバスに乗ったぞ~と。

今ではこのツアー、このようなバスは無くなったらしい、無くなっても当然という感じのバスにコースだ。
フィリピンらしいバスだったのに惜しい気もする。

ブローンアウト

2006年03月16日 13時35分46秒 | バリ
 仕事は事務所開設の準備をすることだった。部屋の模様替えに調度品の購入や職員採用がその主な内容で、ひと月ほど前に社長が採用した女性事務員の案内で動き回った。
幸い彼女ーベリーさんーは日本語が上手く話せるので私にはありがたかった。

 事務所であれこれ考えながらベリーさんと日程の打ち合わせとか今後の方針を話していると突然停電した。停電は日常茶飯事のことらしい、ブローンアウトとかブローンナウトとか聞こえる発音でいらだたしそうに言う。
すぐに暑くなる、ムシムシしてくるので窓を開けたら熱風が来た。暑くても未だ室内の方がいい、とはいえ暑いムヌカンゲーが出来ない。熱風もイヤだが締め切った空間もイヤだ、暑くても外がいい。

 この停電ーブローンアウトーは定期的なものらしく諦めているようだ。そういえばちょっとした店の前に大型の発電機が置いてある理由が分かった。停電と同時に発電機の音が聞こえてくる。防衛措置を取っているのだ。店の前を歩く人にとっては自然の暑さと機械からの発熱煤煙騒音が加わる。しかも歩道を占拠した形で置かれている、これもフィリピンらしさなのか。

 レストランの中はそのお蔭で涼しさが得られお客は満足する。そのようなレストランはあまり利用しなかったが恩恵を受けることもあった。

ある日車をチャーターして買い物名目で街を走った。車のクーラーの効きが悪いので窓を開けた途端にヘアードライーを顔に吹き付けられたかと思うほどの熱風が顔に当たりビックリして窓を閉じた。それほどの暑さを感じたものだった。
私にとってブローンアウトと熱風は表裏の関係で思い出す出来事です。

 しかし日中の暑さは夕風と共に涼しくなる、夜間のクーラーは要らない、殆んどクーラーのお世話になること無く寝た。
宿泊はマンションを借りて寝起きしていたが、ベッドに準備されているのはシーツだけで毛布や布団類が無かったのでクーラーどころか窓を閉じて風が入らないようにしていた。
 夜間の気温は夏でも24度しかない、夜はオキナワよりも凌ぎ易いと思った。
ある時bbsのオフ会にフィリピンとブラジル人も参加していたので、オキナワ・フィリピン・ブラジルの何処が暑いかと感想を聞いたらお二方ともオキナワが暑いと言う。
私はその時は理解できなかった、絶対ブラジルやフィリピンが暑いに決まっていると思っていた。
しかしマニラの夜の涼しさを体験すると暑いのはオキナワだと実感した。オキナワは夜明けでも28度を維持している、これではクーラー無しで寝ることは出来ない。

 いま春分の頃の太陽は赤道上にあるが次第に北上して台湾中部までのぼってくる。その往復にフィリピンを通過する、その頃はとても暑いらしい。アタマがクラクラするほど暑いらしい。
 あのマニラの排気ガスの中をジットリ、べっとり汗を掻きながら歩くと・・・考えただけでもあああ・あ・暑~い。
でもでもその暑さの中に居たいな~。
でもブローンアウトは嫌よ。

マニラ

2006年03月15日 17時20分58秒 | マニラの印象
今日からマニラの印象を書いてみよう。
フィリピン・マニラ、いろんな人がいろんな場所で語っているフィりんピンです。全てその方々が語っている通りです。
ツーリストの目で見たもの、感じた事を書きます。
  --------------
 飛行機を降りたのは夕闇がとっぷり覆ったあとだった、機内から出るとクーラーが効いているはずなのに暑さを感じる。空港の様子やガラス越しに待合室を見ながらイミグレーションへ向かう。
並んで順番が来てスタンプを貰い階段を下りる。
 
 荷物を預けていないので税関へ向かう、機内で記入した用紙を渡してひと言ふた言言葉があったが出口へ向かう。
暑さがジワジワと体内に向かっていくのが感じられる。話には聞いていたがその話を実感し体現している。

 迎えの車に乗り市内に向かう。全体的に暗い、街の明かりが少ない、その暗闇を見ると人が大勢いる、歩いている人坐っている人中央分離帯には子供が屯している。人の多さに戸惑う、車が信号で止まると何やら人が寄って来る、箱をカタカタカタと音を鳴らしながら近づいてくるのはタバコ売り。
小さな白い花を輪にしたのを売る人も寄って来る、サンパギータという香りの好いフィリピンの国花ともいえる花とのこと。
子供たちは車のガラスを拭く、チップ目当てのことなので気に入ったり気分のよいときはチップをあげるらしい。

 ロハス・ブルバードは片側3車線広い通りで海岸沿いのメインストリートである、この時間なのにラッシュアワーのよう大混雑大渋滞の様相だ。マニラは何処かしこ無くこれが日常風景だそうだ。隣の車とサイドミラーが接触しそうな距離で走っている、前後の車はバンパーtoバンパーでまるでスタンカーレースのようだ。
前後左右に少し隙間が出た瞬間割り込みの車が入ってくる。クラクションも凄い、どちらの車に正当性があるかは問題ではなく、先に鼻を出した方が勝ちと言わんばかりのアピールをする。

 隣の車が気になるが通りの風景も気になる。市内に向かうと左側が海で右側は住宅ビルホテル空き地と雑多に並んでいる。大きなマーケットも見える、ガイドブックのウロ覚えによるとパサイの市場のようだ。大きなホテルも点在している。
歩道は所々土が山積みされている、何か工事をしているのだろう、塵やゴミが散らばっている。窓を開けると熱気と共に何やら臭いまで入ってきそうだ。

 暑さに人、ゴミに埃スマートさの無い屋台、物売り、マニラの印象は夜になっても暑くてその暑さに人を始めあらゆる物がグチャグチャに交じり合っている世界だった。
かつては整備されていたであろうビルや道が今では残骸としか見えない状況だが、しっかり利用されているようだ。
交通マナーは悪く、物売り、臭い、美しく見えるものをその日は見ることが無かった。本で読み聞いたフィリピンが目の前にある。

 空港からホテルまでの短い距離を走った印象がこれだ、しかしイヤにはならなかった、むしろ期待感があった。なにか楽しみが見出せそうな予感がして胸が弾んだ。
マニラに来たゾ~

サウナで臨検

2006年03月13日 10時01分07秒 | 懐かしい旅の記録
 フィリピンからの帰りに台北ー那覇の予約が出来ないまま台湾入りしたことがあった。金が無いので安宿を探さねばならない。
空港の宿泊案内所で探すとまあまあの値段のホテルを紹介してもらい、ホテルの送迎バスに乗った。

 市内に入りホテルに客を降ろしていく、ある通りに出たら見覚えがある。かつて宿泊した事のあるホテルに付近を走っている。そうだこの近くにサウナがあると突如閃いたので次ぎ止ったホテル前で降りた。
運転手はホテルが違う、と言うているようだが知っているので後から行くと日本語で言い強引に降りた。

 通りは森林北路だったのです、あの偽ブランドショップのあるところだ。もちろんその頃は偽ブランドショップなんてあったかどうかも知らなかったけど。
近くのバーによく行ったので覚えていた。

 その店に行くとホステスは既に出勤している、サウナまで案内してもらった。後で飲みに行くからと言うたが金の持ち合わせが無かったので行かなかった。
その夜はサウナに泊まるつもりだった。一番安上がりだろう。
風呂に入り英語の字幕入りの映画を見て時間を潰していると夜中に騒がしくなった。制服姿のオマワリか兵隊が集団で入ってきて何かを言いながら一人一人尋問を始めている。私は訳が分からないので長いすに寝そべったままでいた。

 何か問いかけてくるが全く分からないので、日本人だとト言うとパスポートを見せろと言う。これは全て英語に日本語ジェスチャーでの会話です。パスポートは貴重品ボックスに預けてあるのでフロントで開けてもらい提示する。
問題は無く直ぐ終わった、しかし暫らくすると別の憲兵(?)が来てまた何かを言う、もう既に終わったと言いたいが言葉が通じない、しょうがないので預けたパスポートを又受け取って見せる。
 このような臨検が時々あるらしい様子だった。十数年前の台湾はこういうこともあった。

 裸になったらウチナーンチュもヤマトゥも台湾人も分からない。湯船が暑いとかぬるいとかで話しかけられたこともしばしばある、ただ肩を上げて手を広げる仕草しか出来ないけど。
台北はサウナが多いのでホテル代わりに利用できる。

ビザ

2006年03月11日 15時53分21秒 | 懐かしい旅の記録
 一昔前は台湾へ行くのにビザが必要だった。
市内のビルの一角にあった中琉友好協会へ出かけてビザを発行してもらった。その日に発行されず必ず二度足を運ぶのである。
ビザはパスポートに直接スタンプで押すのではなくてB5用紙1枚の証明書のようなスタイルだった。

 ある時マニラ空港で中華航空カウンターのフィリピン人スタッフが台湾のビザを見せるようにいうので那覇で取ったビザを見せた。ところがそのスタッフが言うには、ビザとはパスポートにスタンプで押されている、この紙切れでは乗れないという。
オキナワで申請するとビザはこのスタイルで発行されるのだ、と説明しても聞いてくれない。私も説明したい事を英語で言えるほどの力が無い、なんやかんややり合って台湾に入国できなくていいからと強引に捻じ込んだことがあった。

 またマニラで台湾のビザを申請したことがある、大勢のフィリピン人がロビーで待っているので私も順番を待っていたら、係員風のオバチャンが近づいてきて「ジャパニーズ?」と聞くので"yes”と答えた。
付いて来いという仕草をするので後から付いていった、窓口の一番前に連れて行かれて割り込みさせてもらった。
素直に喜んでいいのかと複雑な気持ちになった。フィリピン人は出稼ぎなので審査に時間が掛かるから観光か通過客を優先したのだろう。


 その頃仕事で数回フィリピンへ出かけたことがある。フィリピンへ行くにはノースウェスト航空の直行便があったが路線廃止になり、台北か香港経由で行くしかなかった。
当時は台湾からの団体観光客が多くて毎便満席状態で、キャンセル待ちをしても団体客からキャンセル組みがでることは殆んど無いので席の確保に苦労した。行きは取れても帰りが取れずに帰りはオープンで出発することもまま在った。

 マニラでの滞在延長手続きをイントラムルスの入管でやったことがある。旅行者に任そうと思ったが、残りの滞在日数が短過ぎて旅行社経由では間に合わないので自分で申請した。
訳も分からず窓口で申請用紙を貰い書き込もうとしたが要領を得ずマゴマゴしていると受け付けた係官がオレに任せろと言い、ブローカーらしい人を紹介した。
ブローカーは私の滞在先を尋ねて手数料は申請量が幾らで謝礼が幾ら、翌日の何時に滞在先に届けると言いパスポートを持って行った。

 さて私は彼が何処の誰かも知れない、係官は「のープレブロム」とだけ。
ホントに大丈夫だろうかと心配したが後の祭り、指定された時間に待っているとブローカーらしき男が来た、所定の費用を支払いパスポートを受け取った、ちゃんと滞在延長のスタンプがあった。
交通費とかチップを要求されたが金が切れ掛かっていたので断った。

 もしパスポートを持ち逃げされても、[アホなことをして・・」を言われてもしょうがないやり方だった。
しかしフィリピンで騙された事は無い。言われているほど悪い所ではないですよ。たぶんヨコシマな考えを持って何かしでかそうと考えたら騙されるのだろう。

写真はイントラムルス サンチャゴ要塞の堀の蓮

ことばの遊び

2006年03月10日 15時28分00秒 | バリ
写真説明:オートバイのトライシクル
 三輪自転車もトライシクルと呼んでいたのだが・・・

 マニラでトライシクルという三輪自転車に乗った。近距離用として便利である、1回10円程度で乗れた。朝早くホテルの近くを散歩しているとトライシクルが通りかかったので目的地も無くその辺りを走ってくれと頼み30分ほど乗ったこともある。その時は100円払った。

 ある日ジプニーのの乗換場所に子供の運転するトライシクルが客待ちしていた。ホテルまで1kmほどしかないジプニーでは当時1ペソ(5円)だった。その子にホテル名を告げて幾らとタガログ語で聞くと”サンプー”という。
私はタガログの数字は1.2しか知らない、サンプーとは3ペソのことだろうと勝手に解釈して乗った。この子は日本語が分かるのだ、3とハッキリ言うている、ただペソの事をぷーと発音するのはワザと訛らせているのだろうと解釈した。

 トライシクルは人ごみを掻き分けるように歩道を走る。ホテルが着くとジプニーなら1ペソだが本人は3ペソと言うている、チップも含めて5ペソも出せば大喜びするだろうと思いながら、ツリは要らないヨという感じで5ペソを渡した。何か言いたげな様子だったので笑って手を振ってホテルに入った。

後で聞いて分かったのだが、サンプーとは10という意味だった。タガログを知ったかぶりしてしまった。あの子は10ペソ貰えると喜んでいただろうに気の毒な事をした、地元の人に聞くとあの距離なら3ペソで充分だそうだ。
ぬか喜びさせたのはマズかった。

 ウチナー方言で、腹いっぱいの事をチュウファーラと言う。
中国は西安で夕食後散歩していたら通りの屋台のオニイチャンが何か食べていけという仕草をする。私もお腹いっぱい食べた後だったので、手を横に振りながらお腹を叩いてチュファーラと言うた。
するとそのオニイチャンが暫らく考えた後にツーパウラと笑いながら言う。
きっとお腹いっぱいという事が分かったのだろう。

 チュファーラは中国語のツーパウラに違い無い。以前中国語は四声を間違えると全く意味不明になり通じないと書いたが、その時の状況と動作で分かったのだろう、それで笑いながら繰り返したのだ。
ウチナーグチが中国で通じてとても嬉しかった。

 オキナワにも外来語の方言があり、フィリピンからも入ってきている、フィリピンへ移民・出稼ぎした人も多いのでタガログが入ってきたのだろう。又敗戦直後米軍と一緒に多くのフィリピン人がやって来たのも影響しただろう。

 子供の頃よく使ったゲレンやパタイは代表的な言葉だった。
アメリカから入ってきた言葉で一番使われたのはハバハバだろう。これらの言葉の意味を知っているかな。

 昨年マニラへ行った時TVで事件の報道をしている、テロップにカモテ、パタイと出ているが”芋に死亡”では意味が通らない、私のタガログの知識はそこまでしかない。後で聞いてみると芋の中毒で子供が多数死亡したのだった、私の解釈でもお触り程度は当っていた。

 数語でも知っていると意外な展開をする場合があるので、覚える努力をしよう

匂い 風貌

2006年03月09日 07時18分01秒 | 懐かしい旅の記録
 人にはそれぞれ個人を現す何かが出ているのだろうか。
ある年の瀬に趣味のグルーぷの食事会があった。食事ワイン酒に満ち足りて店を出て松山の繁華街を通り抜けようと歩いていると、そこはマツヤマ客引きが大勢いる。オニイチャンに可愛いオンナの子がチケット風なモノを渡しながら話しかけている、中には袖をつかまれている人も目に入る。

 参ったな~、私はああいうのに弱いのだ。断るのに苦労する、なんと言うて断ろうかと考えながら歩く、他のメンバーは少し遅れて付いて来る。ちょっと身構えながらオンナの子の横を通り過ぎる、が、何の反応もしない。遠目に見たときは確か客の袖を掴んでいたのに、今掴まれるか何か言葉を掛けられるかと身体を硬くしながら歩く私に全く反応しない。通り過ぎて後ろを振り向くと私のメンバー達は声を掛けられているようだ。

 ”ナンでだヨ~”どうして私に声を掛けないのだ、袖を引っぱらないのだ! オカシイと思い引き返してもう一度その子の前を歩くも全く反応しない。
オモシロク無い、私の尊厳がいたく傷つけられた感じがした。せっかく身構えていたのに無視するとは。
こういう連中は迷惑防止条例で検挙しろ、と心の中で思った。

 台北での話、例の偽ブランドショップを出てから皆さんは飲みに行くという、私はホテルまで歩いて帰れそうだったので散歩する事にした。近くにルイヴィトンの専門店があったので独りで笑った。
 裏通りを歩いていると女性が歩いてくる、すれ違いざまに声を掛けてきた「可愛いオンナのがいるヨ。」取り合わずにそのまま歩くと、付いて来てしきりに話しかける。メンドウと思ったので相手にしなかったが突然「お兄さんはオキナワから来たでしょう。」と言う。

 突然言われたので”そうだ”と答えた。何で知っているのだ、あの暗がりの中でどうして私がウチナーンチュと分かるのか不思議だ。その理由を聞くと「だって分かるもん。」程度の答しか聞けなかった。
東京とか京都の人には見えないのだろうか。
そう見て欲しい~!

 私は自分では極フツーの人間と思っているのに、傍から見ると文無しのシマーグァーに見えるか・・・
知性が発散するような雰囲気を醸し出したいのに。
40才を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持たねばならない、とはリンカーンの言葉だったと思う。
直すにはもう遅すぎる、手遅れか・・・