どこ吹く風

旅のことを主に書く。

回民街 その二

2010年10月30日 10時14分00秒 | 西安・敦煌遊学
 鼓楼の周りは駐車業に入る車で混雑している、すり抜けて回民街の入口にくると三輪車が客待ちをしている。乗るほどの距離も無い無いので通りの両側並ぶおみやげ品屋や店先に材料をぶら下げて調理している食堂を見ながら歩く。

 包子の美味しい店”買三灌湯包子館”が右手にでてきたら回民街も端に近づいたと考えていい。まだ先にも店はあるがこの辺りで引き返してもいいでしょう。小腹が空いたら包子を食べる、包子となっているが小籠包のようなもので箸だけでなく匙も使って熱々の汁を零さないように食べるのがコツ。牛肉、羊肉に野菜があるのでアレコレ頼んで皆でシェアした。

 直ぐ近くに”羊肉泡膜”(膜は月偏を食偏に)の有名な店もある、前述のようにヒージャー汁(山羊汁)を食べきれない人は臭さに参ってしまうでしょう。
通りには珍しい作り方の麺や炒め物の店など様ざまな態様の店があるので適当に入って味見して楽しむ。例え味がハズレでも金額的には300円足らずなのでご愛嬌と思えばいい。

 通りにはカットフルーツや大根餅、鏡羹という蒸し菓子などの屋台も並んでいる。作るのを見るだけでもおもしろい。清真大寺への通りは道幅も狭く両側に並んだ店も小規模で反物、ミヤゲ品、薬草などが所狭しと積み上げられている。市場に来たという雰囲気満点です。

 表通りの中ほどにかつての豪商の邸宅があり、影絵(影皮)が上演されていた。客がいれば随時上演し時間も15分ほどなので一見の価値がある。別にもう一軒影絵の劇場があった、牛皮を掘り込んだものだが関節が動き彩色されている。言葉は分からなくても楽しめた。飾り物にもなるので欲しかったけど私には高すぎた。

 3年前に比べて大型店舗が増えた。中国北西部は乾燥フルーツが多いので店に並んでいるフルーツの種類も豊富だ、南方系の果物の乾燥したものもある。そのフルーツを扱う店が大型化している。大きくなって小奇麗になるのは一見発展していると見えるけど周辺の店から浮いているようにも見える。小さな店が並んでいるほうが味わいがあると思う。

 滞在中何回も回民街に足を運んだ。見て楽しい場所です。
酸梅湯という飲物もそこで飲みました、中国では何処にでもある飲物のようです。お味のほうは”名前通りの味がした”と言うと大概想像できるでしょう。

回民街 

2010年10月29日 09時55分56秒 | 西安・敦煌遊学
 西安の中心地、繁華街に鐘楼がある。城壁の東西南北の門から伸びる道路が鐘楼で交わり、ロータリーになっている。繁華街へ出るときは鐘楼を目印にしてバスに乗り、鐘楼のバス停から戻った。私にとって鐘楼は西安のシンボルであり街を歩く時の目印であった。その鐘楼から数百メートル離れて鼓楼が建っている。

 鐘楼と鼓楼は時を告げるための建物だが鐘と太鼓の違いだけなのだろうか。漢中の史跡にあった鐘楼の鐘は焼き物だったのでビックリした。実際に使っていたのかレプリカとして吊るしてあるのかは分からない。

 鼓楼の裏側に回民街と呼ばれるイスラム教徒の街がある。チョット見には普通の中国の町と変わらないけど、よく見ると白い小さな帽子を被った人を見かけるのと清真という文字が多い。
通りの中ほどから裏道に入り奥まった所に清真大寺というイスラムのお寺ー廟と言うべきかーがある。係りの人に聞くと金曜日には礼拝があるそうだ。アザーンについて聞くと例の響きの良い声で一節を唱えてくれた。

 表通りは観光客で賑わっている。中国人にとってもイスラムの街は珍しいようだ。回民街で私の目当ては食べ物である。まず包子、ガイドブックに載っている賈三灌湯包子館というレストランが有名で、交大の教師から教えてもらい何回か食べに行った。
07年は肉入りが6元で野菜入りは5元だったのに倍近くに値上がりしていた。値上がりしたといえ10元なので私たちの財力(?)からするとタイヘンなものでは無い。
残念な点はビールなどのアルコール飲料を置いて無い事です、さすが清真の店です。

 次に羊肉泡モウで、モウというパンーインドのナンに近いもので多分に未発酵パンの一種だと思われるーを千切って椀にいれてその上から羊肉の汁をかけた汁物。
3年前は自分でモウを砕く店があったけど今では細かく砕かれ既に出来上がったものが運ばれてくる。2軒の店に行ったが両方とも完成品が運ばれてきた。観光化されて客の難儀さを取り除くのと効率よく回転させたいのだろう。

 3年前の店は周辺の様子が変わっていて探せなかった。自分で千切って食べたかった。ただこの羊肉泡モウはヒージャーを食べきれ無い人にはお勧めできません。ウチナーンチュでもヒージャー嫌いが多いのでヤマトゥーが食べるのは無理でしょう。一椀20元ほどなので試してみたら如何でしょうか。
アンダじーじーしたヒージャーの細切れ肉丼・・・、米ではないからドンブリとは違う。汁物だが麺でも無い、ふやけたパンが入ったジージャー汁というところでしょうか。

 回民街は見るだけでも楽しいところです。(次回に続く)

街角風景 工事現場

2010年10月27日 11時09分56秒 | 西安・敦煌遊学
 西安の街は至る所で工事が行なわれている。地下鉄、ビル建設、道路などあらゆる所に工事現場ある。宿の賓館から通りを隔てたところにもビル建設現場があり、現場作業員の動きが窓からよく見えた。

 躯体工事の段階なので鉄筋工と仮枠大工が主に働いているようだ。鉄筋の加工場と仮枠を組み立てている隣りにブルーシート作りの飯場がある。そこに寝泊りして働くので朝7時には現場が動き出す。夜も暗くなるまで動き回っている。日曜日も現場が動いている日があった。

 たまには幼児の姿も見られた、その子を世話するの老人も。田舎から家族で出稼ぎに来ているのだろうか。毎日その子が見えたわけではないので遊びに来たのか。
飯場のイメージはプレハブだが西安ではテント、それもブルーシートで覆っただけの簡単なものだった。地面にベッドを置いただけだろう。トイレはこれも簡単な作りで設置してあったけど風呂はどうしているのだろうか。この辺りは交大の宿舎だけなので銭湯は見かけなかった。

 職住が接近し且つ土日も働くので工事の進捗状況は著しく、私は2回のスラブ打ちを見た。あの規模で2週間足らずでスラブを打つなんて凄いことだ。

 ビル建設だけでなく近くで道路、歩道の塀および花壇を整備しているグループが居た。彼らも歩道に飯場を作り仕事をしている。こちらはトイレはどうしているのか気になった。銭湯どころかトイレを借りられそうな所は見かけなかったけど。ナントカしているとは思うけど。

 街に出れば地下鉄工事で渋滞している地域がある。工事区間が長いので横断できる箇所は少ない。しかしそこは中国人、現場を平気で横切っている。遠くまで行って迂回するより目の前の現場を横切ったほうが楽に決まっている。現場への立入禁止の表示は当然あるが、回り道するより多少の危険があっても、工事に多少影響を与えても迂回するより目の前を渡ったほうが良いに決まっている。
工事する側も厳しく言わないところが良い。土が掘り返されたところを若い娘さんがヒールで歩く姿おもしろかった。

 林立するタワークレーンの影の生活を少しだけ見た。

西安交通大学の集い

2010年10月26日 09時50分44秒 | 西安・敦煌遊学
 先日西安交通大学への研修旅行参加者の集まりがあった。戻ってきて約ひと月、久しぶりに顔を合わせて思い出を語たり写真を交換した。
この会には主催団体である日中友好協会の新旧会長も参加していた。その方々への報告という形での発言が多かった。

 会場は中華料理店で、感じたのは今日の料理は肉が多いということでした。中国にひと月滞在したのですがこれほど肉攻めの料理はありませんでした。中華料理とは野菜を如何に美味しく食べるかを主眼に置いたものだと思っていた。(笑)

 普段の学食のメニューは野菜のオンパレードで肉片が見え、魚の香りがした途端に1元から1.5元に跳ね上がった。円卓を囲んだ夕食会が何回かあったけど、肉オンリーではなかった。むしろ野菜が美味しかった、アスパラガスの調理が上手いのにはビックリです。本来料理とはあのように食べ方を工夫するのが当たり前でしょう。

 また北京ダック、西安では北京と違って家鴨を三度味わうと表現する調理法で食べた。まず皮、これは北京ダックと同じ食べかたで、肉は別の料理として出てきて最後に骨は出汁としてスープ(湯)で出された。

 会合風景を書くべきだが、食べ物主体になってしまった。メンバーの中に写真を趣味とする人が居て、大きく引き伸ばした写真を100枚ほど持ってきていた。その方は近々今回の旅の写真展を開くとのこと、写す人の技量で斯くも違うものか思った。写真展で大きな賞を貰った方なのでむべなるかな、納得です。

 語学研修はこれからも続けてもらいたいというのが皆さんの意見だった。たしかに来年も行けるかどうか今の時点では分からないけど、こういう事業は続けてもらいたい。
この語学研修は前会長の個人的な趣味が高じて協会の事業となった経緯もあるので、継続するかどうかは次期会長の意向も影響するだろう。
同席した新会長も続けたいとの考えを示していたので前向きに検討することでしょう。協会員では無い私ですが次年度も派遣するなら色々と提案したい。

 例えば派遣時期の問題、ウチナーンチュはお盆が重要な行事なので研修期間はお盆に重ならないようにすべきだ。来年は8月14日がお盆の日(ウークイ)なので出発時期がお盆に影響されることは無い。

 次に交大の始業式は何日なのか、暦から推測すると9月5日月曜日からだと思われる。上海便は木・日なので出発は・・・
今年の反省を踏まえて自分なりに考えている、反省と書いたが今年の計画が悪かったという意味では無くて、授業を終えた後1週間の空き時間および観光旅行が入ったので、せっかく高まった学習意欲が落ちてしまった。最後はせめて3日間ほどに縮めたほうがよかった。これは私の意見です。
来年も参加するかどうかは分からないが計画を立てる段階で意見を述べる機会が欲しい。今回も私の意見・希望を取り入れてくださったものがある。来年は企画する段階から参加したいということです。

 もう一つは今回は第2回目である、今後このような会は一期生も含めて持つようにしてもらいたい。同窓会と考えればいい。すると同窓会なら個人で行った人もいるのでその方々にも呼びかけたらどうだろうという意見も出た。
それはそれで交大に縁のある人々をも交えた会にしてもいい、話が大きく膨らんだところでお開きになりました。

 中国語会話と西安交通大学をキーワードに結びつきが深くなり勉学にも励みになれば良いことです。賛成!

上海万博

2010年10月25日 09時14分23秒 | 西安・敦煌遊学
写真説明: 公園で独楽回しを楽しむ人 鞭のようなヒモで叩いて回す

 嘉峪関を見たことで私たちの長い研修旅行も終りに近づいた。ここから上海に飛んで帰るのである。せっかくの上海経由なので日程に万博も組み入れられている。しかしもう敦煌・嘉峪関で実質的な旅は終わっている。

 西安ー敦煌のフライトは座席が通路を挟んで2人・1人の三人掛けで、20列ほどの小さな飛行機だった。記事アが小さいので飛ぶ高度も低いのか山がよく見えた。雪を被った山々も見える、ヒマラヤの外れの山か。

 嘉峪間空港から上海へは西安経由なので5時間かかり上海着は9時過ぎになった。ホテルが空港内にあるので移動は楽だった。ただエレベーターホールを挟んで両側に同系列のホテルがある。最初は高級ホテルのフロントへ行き、すごすごと安ホテルに移動した。

 万博見物はある種の諦めがあったのでそれほど期待していなかった。どうせ目玉の中国館や日本館は入れないだろうし、毎日万人単位の人が押し寄せるので待ち時間無しのガラガラ館は無いでしょう。人気の無い館一・二ヶ所廻ってのんびり過ごすつもりで行った。グループを組むとのんびり出来ないので集合場所と時間を確認して一人になりスイス館へ向かった。

 待合テントの半ばまで行列があった、これは空いているほうだろう。並んでいる途中に公安が大声を上げながら柵を越えてきた。何事かと見ると割り込んだ人をつまみ出している。割り込みがフツーの国なのに威信をかけた世界的な催しとなると別なのだろう。

 スイス館は手抜きだ、映像で誤魔化している。それでも久しぶりのアルプスの風景は美しい。同じものを2回見て期待していたゴンドラに乗りに行くと、なんと休止している。がっかりだ、俄仕込みの知識で上海万博のメインに位置付けていたのに。

 もう一つの目玉は対岸へ船で渡ることである。渡し場へ行く途中に産業館があり貴州省の少数民族の歌舞を披露していたので観賞する。対岸への船はピストン運航していて何ヶ所かへ出ている。対岸では食事をしただけ。
集合時間も迫ってきたので戻る。駆け足で集合場所前のエネルギー問題を扱った館に入り万博見学は終わった。

 万博のような催しは元々好きなので見れば見たで楽しいものだ。初めから気合を入れればもっと効率的にもっと見応えのあるところへ行けたかもしれない。付けたりの万博見学だったのでアレで良かったのかも。


嘉峪関

2010年10月24日 09時17分09秒 | 西安・敦煌遊学
 嘉峪関は敦煌から400Km離れたおり、整備された道路が砂漠の中を一直線に走っている。代わり映えしない景色が延々と続き、遠くに近くに山が現れる南側は祁連山脈に連なっている。

 ガイドの説明によると二つの山並に挟まれた河西回廊は風の通り道として知られ何時でも一定の風が吹いている、それで風力発電の大掛かりな施設が建設されて1千万Kwの発電量を誇るそうだ。
戻ってから朝日新聞を読むとたまたまそこの風力発電所の記事があり、送電設備が未整備なので電力を作っても無駄になるので稼動していないとのことであった。中国政府は内陸部へ投資していると発表しているが無計画・無駄な投資として批判的な内容であった。
 記事の内容はさておき数キロに亘って林立する風車は壮観である、送電設備が整った暁にはクリーンエネルギーとして脚光を浴びるだろう。

 単調な風景なので山すそが近づいたり離れたりするのを見るだけでも気が紛れる。道路に並行して工事用のクレーン車が数台一組で立ちダンプカーが動いているのが見える。同じような風景は敦煌を出たときから目にしていた。もう1時間以上走っているのに工事箇所は切れ目無しに続いている。結局工事箇所は嘉峪関に着くまで続いていた、つまり私が目にしただけでも400Km同時着工している。蘭州まで高速鉄道を建設していて2年後には開通するようだが、目にした工事風景をからは期間内に運行開始できるでしょう。

 さて嘉峪関だが明の時代に国境線というか防衛ラインを敦煌から嘉峪関まで引き下げた。そのために敦煌が廃墟になってしまったそうだ。かつて中国でも有数の都市であった敦煌が歴史の舞台から消えた時代があったとは知らなかった。嘉峪関がその任を担ったのである。そこは山が迫ってきて平野部が15Kmしかないので防衛ラインを敷くのに適当な場所に見受けられた。
両翼に長城がつづき遙か彼方の山の頂を通っている。逆方向は長城を壊して鉄道工事が行なわれていた。

 トイレ休憩をした瓜州で食べたメロンのような瓜と西瓜は甘く美味しかった。 

莫高屈

2010年10月22日 11時43分17秒 | 西安・敦煌遊学
 莫高屈は敦煌の代名詞みたいなところである。洞窟に鎮座した大仏像とともに井上靖の「敦煌」を思い出す人も多いでしょう。教典を隠す場面は記憶に残っている。

 莫高屈は数年前NHKが大掛かりに放送したことがある、生中継を交えながら大仏の上から下からのアングルで放映し専門家の解説があった。規模彩りが素晴らしかった。
その実物を目にしたときイメージしたものとの違いに少々ガックリした。
アブシンベルでラムセスや神々の像を見た時のほうが凄いと感じたからです。何故だろうと考え、その違いに気づいた。
  それは素材の石に違いがある、莫高屈は堆積岩でできている、砂岩は礫が圧縮されているだけなので表面が粗い、表面を磨けない。石そのものの像を作れない、それで表面に漆喰のようなものを塗って彩色してある。莫高屈の像は石像というより骨・基礎は石だけど表面は土である。フレスコ画いやフレスコ像と呼ぶべきか。
 それと石屈を造営する目的は有力者の寄進である、エジプトの権力者による造営とは規模が違う。その違いつまり金の掛け方の違いもあるだろう。

旅行へ行くと勝手な妄想が湧き上がってくる、考証すること無しにそのような妄想を楽しみながら見て廻った。エジプトの石像とは違うけど莫高屈は色彩においてエジプトを凌ぐものが見られた。朝日に輝いたアブシンベル神殿は赤の印象だったが、莫高屈は群青色がすばらしい。色の数も多く描かれた天上界や極楽世界は色鮮やかである。紫外線で変色している色があるが、光が届かない箇所は当時の色がそのまま残っていて、特に群青色はすばらしかった。

 石屈へは広いところでも3グループ、その他は殆んどグループごとに入場した。欧米人も多い、多くの教典が発見された石屈では、持ち去られた教典を盗まれたとガイドは表現していた。”大英博物館に何万点、大谷探検隊に数百点盗まれ・・・”という言い方は聞いていて気持ちいいものではない。

 先ごろ朝鮮の歴史的文物を宮内庁から返還するというニュースがあった。先進国の博物館の収蔵品は当時は合法的な取引があったにせよ今では問題含みとなっている。全てに応じたら大英博物館をはじめ大きな博物館はある部屋の展示物が空っぽになることも考えられる。(笑)
今後どのような展開に発展するのか、しないのか分からないが国の宝物から人類全体の宝という視点で考えられるいくと思われる。

 敦煌まで行ったら足を伸ばすべき場所であることは間違いない。

2010年10月21日 15時08分47秒 | 西安・敦煌遊学
 敦厚から遠く離れた玉門関へは小型バスで揺られていった。道路改修工事が始まるまでは2時間で行けた所なのに今では4時間も掛かるとのこと。
市内を抜けると見渡す限り砂・瓦礫の世界になる。私は砂といえば白いものだととの先入観がある。実際我がウチナー島の海砂は白い、しかしこの辺りの砂は灰色である。

遙か彼方の地平線までデコボコ道が伸びている、並行して走る車両が遠くに見える。所々で工事をしているが、このだだっ広い砂漠だから何処にでも道路建設は可能だろうに、何故わざわざ今ある道路を改修せねばならないのカ理解出来ない。新しい道を作ってから古い道を取り除くなり放っておくなりの処置をすればいいのに。
考え方が分からない。

 2時間ほど悪路を走り玉門関への分かれ道に来たときトイレ休憩があった。大きな看板がポツンとあるだけの何も無い場所である。男性は右・女性は左側でという大雑把な分け方であった。所々に砂の塊りがあるので先人の痕跡だろう。

 かつては川が流れていただろう河原の跡が見られる、河倉城という名前の史跡があり、万里の長城の端が風化して砂漠に埋もれている姿も見ることができる。草を繋ぎ材に使っているのが時を経たいまでも見られる。人間は考えられないことをやるものだ、夷荻を防ぐ為に何十年あるいは百年単位の仕事をしてきている。凄さよりも虚しさのほうが強く感じる。

 玉門関はその名を聞いたことがあるような無いような関所だ。どのようなストーリーを読み聞きしたのか思い出せない。ただ寂寞とした場所では敵との揉め事が無ければやっていけない。でも事あらば命がけになるから何事も起きない平穏な生活がいいのか。
再建された砦を背に、風に吹かれながらアホなことを考えた。

 玉門関から更に奥にある雅丹まで足を伸ばした、近年観光開発された場所で小さな夷グランドキャニオンという感じの場所である。台湾に例えれば基隆の近くの野柳でしょう。そこは海岸端だが雅丹は砂漠の中の河岸段丘の成れの果てで、侵食された砂岩が奇妙な形で残っている。歴史とは無関係だがその形のおもしろさから新しい観光資源として活用したいのだろう。

 敦煌と奇岩が広がる台地とは感覚的に結びつかない、私ならシルクロードの香りがする遺跡・史跡がいいけど、ツアーの流れとしてはあの荒涼たる台地に向かう気がする。
考えてみるに侵食された岩はかつて水の流れがあったということなので古代の気象と絡めてストーリーを作ればそれはそれで良いのかな。

 帰りも胃腸がでんぐり返えしするような揺られ方をして戻りました。シルクロードは困難を伴なう道であったが、今現在も別の意味での酷い道でした。

写真は草・藁を混ぜて作った長城の一部です。崩壊が激しく、また保存管理も充分でなく間もなく砂漠に埋もれてしまうでしょう。

鳴沙山

2010年10月20日 07時02分23秒 | 西安・敦煌遊学
 鳴沙山は敦煌の町外れにある砂山である、毎年ある時期に敦煌の人がそこに登り駆け下りる日があるそうだ。大勢の人が駆け下りる時踏んだ砂の音が町まで聞こえ、そのことから鳴沙山と名付けられたとはガイドの話。

 私たちが鳴沙山へ行った前日に何十年ぶりかで大雨が降ったそうだ。水が流れた跡が見られた。また砂山に上るときさらさらと崩れ落ちるはずなのに足場はしっかりしていた。砂漠でも雨が降るのだ。

 私が仕事につき数ヶ月遅れで入ってきた女の子がいた。彼女とはそのときから数十年酒飲み友だちだった。服装やアクセサリーに気を配る素敵な女性でヘップバーンを思わせる人だった、オードリーではなくキャサリンの方です。
ある時その彼女が中国へ行ったと言う。まさか中国だなんて、ヨーロッパなら納得できるが「お前が中国?」とビックリした。本人も”そう中国なの"と自分でも意外そうに天安門や故宮の話をした。

それから数年後今度は敦煌へ行った話をした。私の中国の旅は彼女の跡を追いかけている感じがする。西安の西門から夕日を見てシルクロードに想いを馳せ、敦煌の砂山に登った話などの彼女のことが思いだされた。

 雨のおかげで歩きやすくなったとはいえズルズル滑りながら砂山に上がった。彼女は板を敷いた有料の道を歩いたと話していたが私はケチった。稜線に出て果てしなく続く砂山を眺め、また緑が濃い町を眺めながらとうとう敦煌まで来たというある種の感慨が湧きあがってきた。
私の敦煌を聞かせる事はできない、彼女の後を追いかけているつもりは無い、しかし彼女が目にしたであろう景色を見ていることに満足している。

 鳴沙山へ行くと入口からラクダに乗って砂山のほうへ散策するコースが一般的だろう。ラクダに乗るのもいいがお歩きで鳴沙山へ登るのもいいと思う。ラクダに乗って後鳴沙山に登るものと勘違いして砂山になってしまった。ラクダに乗るのもいい経験だけど健脚コースで頂上まで行き、帰りは駆け下りるのもおもしろいと思われる。

 また我々が帰る頃から到着する観光客も多い、夕日観光だそうだ。知っていたなら時間をずらして夕日を眺めただろう。ラクダに乗りそして山の頂に上り夕日を見るのがベストコースでしょう。
ラクダ、夕日それに砂山から駆け下れるというフルコースで楽しめるので、敦煌を計画されている方はご一考の程を。

夜光杯

2010年10月19日 08時31分15秒 | 西安・敦煌遊学
 仲秋の名月を敦煌で見た。鳴沙山を照らす月は昼間の暑さをどこかに押しやり冷たく輝いていた。私たちは砂の上に広げた敷物に座り月餅を食べ、果物を口に運び酒を飲んだ。敦煌の夜空に響くサンシンに合わせて皆で歌った。

♪ 月ぬ かいしゃ 十日三日 みやらび・・・♪

詩を吟ずる人もいる、
葡萄の美酒夜光の杯 飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催す
酔うて馬上に臥す君笑うこと莫かれ 古来征戦幾人か回る

そう涼州詞です。ガイドが気を利かせて用意した夜光杯に葡萄酒を満たし月明かりに照らしたが少し光が弱いのでライトで照らす。すると石でできた杯なのに透き通り葡萄酒の赤い色が見える。

 そしてガイドが朗じた

 涼州詩     王翰

    葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催
    酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回

詩吟もいいが朗々とうたう中国語も趣がある。ガイドの後に続き真似事で朗じた。もちろんサンシンがあるのでウチナーの歌もたくさん歌った。最後はカチャーシー、月見の宴を遠く敦煌で開くとは思わなかったので踊りの手を大きく左右に振り楽しく飛び跳ねた。
月も笑ってくれたかな。

 夜光杯を買おうかどうしようか迷った、結局買わなかったけど少し後悔している。一つ340元というものを二つで300元まで落としたけど手持ちのお金も無かったし、カードも持っていなかった。ガイドが貸してもいいと言うたけど止めた。

買っとけば家でワインを飲むとき透かして楽しめただろうに。
今度行ったら買おう。

聴力的老師

2010年10月18日 15時26分56秒 | 西安・敦煌遊学
  西安交通大学での中国語は4名の先生に教わった。先生方の教えは方それぞれ違う。
ヒアリング(聴力)の先生は若くいつもにこにこしている可愛い先生だった。
CDプレイヤーで教科書に付いているCDを再生して聞かし、設問をそらでスラスラと一字一句CDの通り間違わずに繰り返す。老師も一生懸命勉強しているのだ。

 しかし教師になって日が浅いのか教え方は上手くない。というより依怙贔屓が激しいように見えておもしろくなかった。右利きの先生は得てして黒板から見て右側を向きがちである。しかし教師たるもの学生全体を見回して授業するのが普通でしょう。

 聴力の先生は常に右側だけを見ている、勘ぐるに先生から見て右側にヨーロッパ系の学生が座っていたからじゃないかと邪推したくなる。左側は韓国人そして我々、授業中一度もこちら側を向かない日が何回もあった。

 それに英語が話せるのか、英語で説明するのが多い。これも面白くない、自慢にならないけど私のように英語がしゃべれない人だっているのだ。中国語を習いに来たのでで英語より中国語でしゃべってもらった方がいい。中国語も英語も分からない、どうせ分からないなら中国語でしゃべってもらった方がいい。

 ある日私らの不満を感じたのかアイルランド人が先生に注意した。そしてそのアイリッシュが左側の席に移った、すると少しはこちら側を向くようになった。
可愛い先生なので文句を言いたくないがアレは酷すぎる。

 先生は若いから服装も可愛いのを着る、チャイナドレス風なものを着てきた日もあった、綺麗だ、若さはいいものだ。いつも笑顔なのもいい。夢見るような眼差しで歌うように話すのもいい。
ただ授業中にクラス全体を見るようにしたら尚いいのに。

 腹が立った日も多々あった、あの先生がブスならもっと怒っていただろうけど可愛かったのでこの程度の文句になった。(笑)

学んだ教訓:
授業は右側の席で受けるべし。

翠崋山 帰路

2010年10月16日 07時23分49秒 | 西安・敦煌遊学
 食堂の横から徒歩で下るルートがある。整備されているし下りて行けば滝があるというので歩き始めた。疲れているけど下りだし、所々に階段があるもののほとんどが坂道なので膝への負担が少ない。

 大雨があったのか沢は荒れて大きな石が転がってきた跡がある。周りに栗の木があり青いイガが付いている。沢に水をすくうと冷たく気持ちがいい。対岸の壁も気で覆われた部分が多くなった。ダムがあり堰堤の脇からザーザーと水が流れ落ちている。自然の滝なのかダムからの放水なのか分からない。冷気漂う滝壺の近くまで行く。

 ほどなく山門に来た、今日のピクニックはこれで終わった。記念撮影して駐車場へ向かった。そこには三輪タクシーや客を乗せる軽車両のタクシーが停まっている。料金交渉は彼女たちに任せた。20元と25元から15元に下がった、しかし彼女たちはこの料金に不満らしく戻ってきた。

 私たちはこの料金でいいから乗ろうと言うても、来るときは一人1元だったと譲らない。もう5時近くなっているので渋る彼女たちを無理矢理乗せた、5名で15元一人当たりにすると3元にしかならない、この金額ならいいじゃないかという気分だった。
考えてみると西安から4元しか掛からないのに、麓まで降りるのに3元は確かに高い。こういう風に観光客が物価を押し上げる要因になるのだろう。地元の皆さんゴメンなさい。
 軽タクは彼女たちの学校、西安翻訳学院の門で停まった。せっかくだから見学して行けと言う。門は公安がチェックして外部の者はダメだという。交大は公安が立っているけど出入りする人のチェックはしない、この学校は厳しい、田舎だからかな。

 私は交大の学生証を出すと信用したのか許可してくれた。学生証は名所旧跡の入場やこういう場合の身分証として役立つものなので手離せない。彼女たちの学校はマンモス校で全寮制なので宿舎が建ち並び食堂も数箇所ある。創立20数年の新しい学校なので建物のデザインも近代的だ。山の麓に位置するのでキャンパスは全体的に緩い斜面に配置され、敷地の中を大きな川が流れている。田舎の村に3万人の学生が居住するようになったので通りは学生相手の街となっている。小さな店が並び商品の価格も安いのが多い。

 帰りのバス停を何処かと聞くと、連れて行くという。一直線に伸びる道の遙か向うに交差点が見えて、其処がバス停のようだ。けっこうな距離があるのに送ってくれた、本音を言うとタクシーに乗りたかったのに。
我々をバスに乗せたら彼女たちは又てくてく歩いて戻って行った。距離感や金銭感覚がニッポンとは違う。

 バスの窓から見える太陽は真っ赤だった、楽しく過ごした一日が暮れようとしている。翠崋山の風景も素晴らしかったけど彼女たちに出会えて本当に良かった。
家に戻ったらメールが届いていた、漢語で返事書くのに時間が掛かったけど勉強も兼ねてメールのやり取りを続けたい。

翠崋山 山菜料理

2010年10月15日 09時28分21秒 | 西安・敦煌遊学
 観光地だけあってレストランや食堂は多い。電気自動車の発着場の下には村の食堂があるが、遊歩道の入口にも数件の店がある。食事時間を過ぎているので閑散としていた。客街をしている服務員に冷たいビールあるかと聞き店に入った。
メニューを見ても内容が分からないので女学生に聞きながら選ぶ。まずビールが欲しいと何回か言うてもなかなか持ってこない。

 痺れを切らして強い調子で言うと運んできた、ところがあまり冷たくない。「冷たいビールが飲みたいのだ。」と言うと、”この程度の冷たさのものしか無い。”と言う。
「隣の店はあると言うていた、もし冷たいのが無ければ移る。」と立ち上がる素振りを見せると”待てまて”と言いながら出て行き冷たいビールを持ってきた。
隣の店で融通してもらったらしい、”指定したビールと銘柄が違うから・・”と言い訳をしていた。客をとりたいので方便で冷たいのがあると言い、慌てて冷蔵庫にビールを入れて時間稼ぎをしたのだろう。

 冷たいビールで乾杯する。中国人との駆引きも身についてきた。(笑)
ここらの店は山菜料理がメインだった。出てきた野菜は名前を聞いても分からないものばかりで、女の子も知らないようだった。形はモヤシのようだけど木の根(?)茎(?)とかで、真っ白でシャキッとしていてモヤシのように臭みがない山菜は美味しかった。野菜だけではナンだからと鶏肉も頼んだら、鶏の足をぶら下げて裏に回る人影が見え処理しているような物音が聞こえた。暫らくすると骨も肉も一緒にぶつ切りにして煮込んだ料理が出てきた、ブロイラーではないので肉が少なくこのような料理しかできないのだろう。

 辛い料理もあったので米飯もすすむ、彼女たちは湯(スープ)を注いでくれたりビールを入れたりと甲斐甲斐しく手伝ってくれた。会話が弾むほどの語学力は無いけどアレコレ身振り手振りも交えて話す。学校は翠崋山のすぐ下にあるので寄って行くようにとしきりに勧める。屈託の無い明るい子たちだ。

 食事代は179元、観光地価格なのと鶏一羽潰したのでこの金額になったのだろう。ビールの他店購入費が高かったのかな。(笑)
高いと感じるも日本円に換算すると一人当たり470円足らず。ビールに生きた鶏を潰してこの金額なので、現地の物価水準に比べて高いというだけである。最初に入ろうとしたレストランならもっと高い料理しかなかっただろう、テーブル料理だからという理由で一人100元コースだったかもしれない。
あのレストランを止めてここまで引っ張ってきた彼女たちは地元だけの事はある。山菜料理と銘打った食堂であの価格は満足すべきものでした。

 ビールを注文する時は”冷たいビール”と言わねば生ぬるいビールが出てくる。毎回くどいほど「bing de pi jiu ピンダ ビーヂヨウ」繰り返した。この言葉を忘れると汗を拭きふき温いビールを飲むはめになりますよ。

翠崋山 出会い

2010年10月14日 06時54分06秒 | 西安・敦煌遊学
 石林は至るところに文字が刻まれている、遠くの山肌や近くの岩に。朱色の文字は遠めにくっきりと浮かび上がり岩壁にへばり付くように生えている緑と相まって力強い。
 ここに来るまで時々顔を合わす二人の女の子を石林でも見かけた。会うたびにお互いニコッと笑顔で挨拶していたので「上まで一緒に上ろう」と声を掛け階段を上り始めた。見晴らしの良いところにカップルが休んでいたのでシャッターを押してもらった。そこへ例の二人連れが追いついてきた。

「どうして男的朋友と来なかったのか?」
”だっていないのに”
という風なことを話して笑った、カップルもテレながら笑っている。

 さあ一緒に行こうと声を掛けて又階段を上った。上に行くにつれ傾斜も強くなる。展望所でまたひと休み、一緒に写真を撮った。私のカメラは壊れたので同行の者が撮るのを見ているだけ。彼女たちも自分のカメラで撮ろうとポーズをとっている。ところが充電し忘れたようで写せない、悔しがっている。

 実は会話の教科書に全く同じような場面が書かれてて「馬大哈」で終わっていた。それで私たちは彼女に「馬大哈」と言うて笑った。しかしこの馬大哈という語は通じなかった。一般的な言葉ではないのか、発音が悪かったのか、教科書に載っているのに。

 同行したSさんは研修旅行の最高齢者で75才である、階段がきついようだ。私もきついのでマイペースで上った。ふと後ろを振り返るとあの女学生たちがSさんの腕を支えながら階段を上がっている。知り合ったばかりの老人に手を添えるなんて心優しい娘さんたちだ。

 本峰の手前に前衛峰がありお寺があった。彼女たちに「来年は男的朋友と来れるようにお祈りした。」と言うと、”来年も再来年も男的朋友はできないよ。”と笑っていた。
気立ての良い明るい子なのできっと良い出会いがあるでしょう。

 Sさんを待たせて本峰まで足を伸ばした。途中吊り橋があり、一人の女の子は怖い怖いと鎖にしがみ付いている。もう一人の子はわざと揺らしている、おもしろい子たちだ。
崋山ほどでは無いけど岩山なので切り立ったところもあり、緊張を強いられる箇所もあって楽しい登山だった。後に見える山がここより高くお寺が建っているのが見える、この辺りの山の主峰はあの山だと思われた。

 1時も過ぎている、お腹も空き始めたので降りることにする。下りとはいえ階段なのでヒザに負担が掛かる。よろめいて階段を踏み外さないよう気をつけながら慎重に足を運んだ。お腹も空き疲れているけどもう来ることも無いだろうと未だ足を運んでいない箇所へは貪欲に寄り道した。

 天池まで来たので遠慮する彼女たちを誘って食堂を探した。大きなレストランがあるので入ると客は誰もおらずウェイトレスが片づけをしている。席を作ってもらったら彼女たちが”この店は高いので別の食堂へ行こう。”と言う。
レストランに入る時も”自分たちは寮に戻る。”と一緒に食事するのを断っていたのを無理に誘ったのだ。あれこれ私たちの懐具合まで心配してくれるなんて本当に優しい子たちです。(笑)

翠崋山 石林

2010年10月13日 09時09分29秒 | 西安・敦煌遊学
 電気自動車は山あいの広場に着いた、周りを見ても特に何が有るということもなくハイキングのスタート地点の感じさえ受ける。私たち三名を除いた皆さんは降りたけど我々は天池へ行くことにした。


 電気自動車は少し戻り右手の山に登り始めた、ジグザグに高度を上げてトンネルを過ぎると開けて村も見えてきた。降りると食堂の客引きがいる、昼食には未だ早いので断って池に向かった。岩が地面から突き出ている、説明プレートに山崩れとか地学とかの文字があるのでこの一帯は学術的に珍しい地層を成しているようだ。
中国語以外に英語、ハングルもあり珍しく日本語での説明も併記されている。入館しなかったけど日本人作家の作品を展示した建物もあった。ここを訪れる日本人がいるのか。

 西安市内の興慶宮公園の阿倍仲麻呂記念館さえ閉館し撤去されている。ニッポン人の西安観光に対する意識の変化が見られるなか、このような場所まで足を伸ばすとは考えにくい。当局のニッポン人受け入れの熱意を現しているのか、それとも特に何かの縁があるのだろうか。景色や手軽さで観光地としての要件は備えている、でもそれだけでツアー客が呼べるとは思えない。

 池は広くボートも浮かんでいる、この池は唐代の地震によってできたので地学的には新しい。湖畔の歩道も整備されているので一周しても良さそうだ。突然”日本人ですか。”と声を掛けられた。日本語学科の学生とのこと、一緒に廻ろうと誘うと食事中なので後で何処かで会いましょうと断られた。

 案内板によると、風穴、氷風洞、石林など見どころが点在している。それらを廻る道があるのでまず風穴に向かった。雲仙の普賢岳にも風穴や鳩穴と呼ばれる洞窟があり冷たい風が吹いてきて、天然の氷が詰まっていた。初めて天然の氷に接したのは鳩穴だった。
こちらの風穴に氷は見えなかったが涼しい風が吹いてきた。割れた岩が「斎場御嶽」を思わせるように覆いかぶさっている。琉球石灰岩と花崗岩の違いはあるものの雰囲気が似ていて、神に近づく通り道を思わせる。途中に社があったが古代の人が感じる神は共通しているようだ。

 岩々の隙間や洞窟をくねくねと曲がり降りてルートは続く。ひんやりして気持ちがいい。頭を岩にぶっつけないように、また足元に気をつけながら散策を楽しむ。
太陽の下に出ると辺りの岩に文字が彫られている、大小様ざまで漢詩あり景勝地を称える文言ありで岩をキャンバスにした一大展示場になっている。
石林は天然自然に描かれた書の展示会場である。雄大な岩山をバックに刻まれた文字は美しさ力強さで床の間の書とは違う。

 大自然の中に掘り込まれ、浮かび上がった文字から力を感じた。
石林の後ろには高く聳えるピークが見える。せっかくだからあそこまで上がろう。