どこ吹く風

旅のことを主に書く。

ものもらい

2007年10月31日 16時52分54秒 | 西安留遊
 何処の国にも物貰いがいる、中国でも相当数見かけた。西安の繁華街では路上に小さな子どもを抱いた身なりの良い壮年が坐っている、仕事が出来ないのに子供が病気に罹ってしてその治療費を集めている、という感じだった。これは雰囲気で判断しただけなので実情は知らない。

 また歩いていると手を出されるのは度々あった、バス停で待っている時にされるのが多かった。10歳くらいの子供が二人で大道芸をしてお金を貰っているのも見かけた、これは物乞いではなく大道芸なのか。
ある日学校近くの商店街を散歩していると”マオ、マオ”という張りのある通りの良い声が聞こえてきた。遠目にも変わって身なりで衣服は汚れており何か異様なものを感じた。その人は一軒一軒店に入り”マオ・マオ”と言うだけ、店の人は迷惑そうに追い払おうとするが動かない。張りのある声で普通に声を出しているのだが、オペラの歌い手のように声が通る、決して怒鳴ったり大声で喚いているのでもない、
店の主は根負けして何がしかのお金を与えると出て行く、そして次の店にはいる、露天商の前に立った。物乞いというより強要の部類に属する。あのような物貰いに初めて出くわした。

 観念したのか自分の店先に来るや否や直ぐお金を出す店主もいた。いや~ビックリした。あのマオ・マオという声は遠くにいても聞こえた、迫力があったな~。非暴力・非服従・強要というところか。後で気付いたけど、”マオ”とはお金の単位で1間の10分の1で角と同じ意味ーちなみに元のことを快(kuài:塊)というーつまり1円を恵んでくれと強要しているのだ。物乞いにもいろんなスタイルがあるものだ。

 また延安では小奇麗な格好をしたオバチャンがいて太鼓(ウチナー風にいえばパーランクー)を打ち鳴らしている。傍にはミヤゲ品が並んだ台があった。観光バスが寄る物産センターの入口に面しているので立地は良い。中国式のチョッキがあるので孫に買おうかと見たが質が良くないので止めた。5元の衣服に文句を付けても始まらないけど。(笑)
そこにウチナーで言えばサンバーがあった。2元なので孫に持って行こうとお金をそのオバチャンに渡し品物を持って行こうとするとご主人が商品代を請求してきた。あの人に渡したと言うと関係ない人と言う。そこで私はあのオバチャンに金を返せと詰め寄ったが返してもらえない。ポケットに手を突っ込もうとしたがダメだった。若干の意地とどうなるのかという事で追求を止めず返せ返せと追い掛け回したが隙を見て逃げられ、商品代を二重払いさせられた。

 たった30円の商品なので笑って済ませる金額なので追求も面白半分だったが、彼女にしてみればあのような幼い芸で稼ぐのだから必死だった。2元でビールの大瓶が買えるのでま大金だが勉強代と考えればマッいいか。
彼女は芸人か物乞いか・・・

 いろんな種類の物貰いがいるものだ。

写真は本文とは関係ないレストランの片付けの様子です。

授業

2007年10月30日 11時27分42秒 | 西安留遊
 ひと月間西安滞在は当初の不安は何処かへ吹き飛んで毎日が楽しくあっという間に過ぎてしまった。いちばん不安を感じていた1日4時間の坐学も尻の痛さを別にすれば苦痛ではなかった。むしろ勉強する喜びさえ感じた、中国の学生の学ぶ姿を見てその気になったのだが、先生方の指導法が良かったのも一因だ。

 先生方は英語は話せるがほぼ全てを中国語だけで授業を進めていく。教科書に沿って進めるとはいえ私たちは殆んど話せない聞けない、それを一歩一歩引っぱっていく様子はさすがプロフェッショナルと思った。
2冊の本がありどちらも会話調の内容であるが、”リーダーと会話”という呼び方が私たちの間では定着していた。毎日2時間ずつのリーダーと会話の授業があり担当する先生は3人で会話は二人で交互に担当していた。

 私たちは特別グループとして特別待遇、つまりあまりにも初心者なので他の留学生に迷惑をかけないように特設クラスを作ったのではないだろうか。留学生は入校時に試験を受けて成績によってクラス分けされる、5段階のクラスがあり半年間学んで4段階のクラスに在籍しているウチナーンチュがいた、クラスの程度は彼から推察すると・・そういう程度です。付いて行くのがけっこうタイヘンなようです。

 私のクラスは”ニーハオ”から始まるのでラクといえば楽です、それでも発音は難しい特に四声には往生する。そのタンゴが何声で発しているのかサッパリ分からない。一声は判別しやすい、では二声はとなると分からない、三声とゴッチャになりそうだし、四声は一声にも二声にも聞こえて混乱する。日を追うごとに聞けるようになったが基本的にはまだまだ判別できない。中国語はこの四声の発声を間違うと丸っきり通じないので困る。別の語句になるので意味不明となるらしい。

 耳がこの調子なので発音する時はもっとヒドクなる、自分ではそのように発音しているつもりでも先生に直される。指摘を受けたから出来るというものでもない、何回繰り返しても直される、同じように音に聞こえるので発する音も同じになる堂々巡りである。今頃の若者なら”おんなじヤッシー”と言うだろう、全くもって難しいです。

 帰ってから中国語に割く時間が少なくなった、自戒してマジメに取り組まねばせっかくの研修がムダになる。
 今回の研修旅行は中国語が難しい事が改めて分かったという事が最大の収穫です。分からないということを認識できて、ではどうするかという指針というか道筋が自分なりに見えてきたのが良かった、という以外はありません。

おミヤゲの品

2007年10月29日 09時14分18秒 | 西安留遊
 碑林博物館近くの書画の店が並んでいる通りがある、掛軸を買いたい人がいたのでその辺りの見物を兼ねて一緒に出かけた。南門の近くにある書画骨董街はやはり独特の雰囲気がある。店に入って如何にも書とか画を知っているような顔で眺めたり、店先から覗いたりしながら歩いていた。実は私はその方面の眼は持ち合わせていないのでただ眺めていただけです。

 突然同行の女性が何か声をあげたのでそちらを見ると青年が足早に去って行く。バッグを開けられたとのこと、チャックが半分開いている。バッグを後ろ側にして籠小物を見ていたらジ~っという音がしたので振り向くと男がバッグに手を掛けていたそうだ。油断も隙も見せてはならない、一瞬の気の緩みで盗難の憂き目に合うことになる、特に観光地では気をつけねばならない。普段はバッグを前に抱えているが俯いて品物を見ようとしてバッグを後ろに回したところを狙われたようだ。未遂でよかった。

 無事手元に残った財布を握り、気に入った掛軸を買うために粘り強く交渉して価格も折り合いがつけて手に入れた。別の店に行こうと声を掛けたが余程気に入ったのだろう。傍の者が去ろうとするのを見ると店側もまけてくれるきっかけになるので側面援助の効果もある。本日の街周りの目的が済んだ、日本円で5・6千円の品だったけど”なんでも鑑定団”に出したら「センエン~」というところか。旅の記念品として自分の家で飾る分には申し分の無い軸であるし価格も妥当でしょう。

 通りで売っている甘く味付けした梨や蒸し菓子の味見をしながらブラブラ歩く。書画骨董街なので”安いヨ”と呼びかけられてもオミヤゲにするには高いしその方面に興味も眼も無い。通りのど真ん中に天井からも柱にも小物をいっぱい並べている屋台風のオミヤゲ販売所がある。1平米にも満たない店(?)で路上に並べるよりはキレイで見た目も良い。
そこにネックレスにも腕輪にもなるモノがあった。色付きのビーズやプラスチックに糸を通しただけだが4~5cmごとに磁石が配列されていてその磁石もカットされ飾りの一部をなしている。

 全長90cmほどの紐状なので腕に巻くと磁石同士がくっ付くし、首に巻いて適当なところで留め金無しで長さ調整ができるスグレモノだ。習いたての中国語で「多少銭?」とか「很貴」とか掛け合っている。最初の言い値は40数元だったようだ、それを21元まで下げさせて精一杯と感じたところで買っていた。皆で20本は買っただろう。若い子向けにはいいオミヤゲになる。値段も300円ちょっとなので手ごろだろう。

 別の日に北門の市場へも行った。そこは衣料品関係の店が多いので孫の衣類を買った。また1元で三輪車の荷台に乗り市場見物をした、こういう事は外国で無ければできないことと同行した先日の女性は言う。裏通りにミヤゲ品店が並んでいるので何か適当なミヤゲを探していると先日と同じネックレス兼腕輪がある。私は先日買わなかったので買うことにした、その方ももっと欲しいと変わったデザインを物色している。
「多少銭?」
”三塊銭”と店のご主人
「?・・?」まだまだ中国語に鳴れていない、モノの値段さえ聞けないとガッカリしながらもう一度聞くと、やはり三塊銭という。

先日21元だったモノがたったの3元と言う、私の聞きマチガイではなかった。彼女等も値段を聞いてビックリしていた。私も10個買った。帰り道に話したのは、先日1個21元で買った人にこの店の値段を教えるべきかどうかだった。

 恐るべし中国人の商法。モノには値段がありません。
その店の価格に驚いて値引きやサービスさせるのを忘れて言い値で買ってしまった。帰り道その事を悔やみそして笑った。
ミヤゲ品屋で値引きの言葉をひと言も言わなかったのは初めてです。(笑)
それほどビックリした価格差でした。

延安をあとに

2007年10月28日 14時32分22秒 | 西安留遊
 延安(yan2 an1 )は私にとっても特別な響きがある、学生時代に読んだ「中国の赤い星」の影響でしょう。毛沢東が延安でどのような活動をしたのか分かりませんが、辺境の地なので国民党の攻撃を防御するのに適した地域だったのだろう。ニービより硬そうだが脆くみえる黄土は掘るのが容易いと思われる。崖に彫るので航空機による攻撃も難しい、良いところを選んだものだ。

 西安の遺跡は歴史的な遺産で、延安のそれは歴史的遺産とはいえ自分と重なった時があるので身近であるし、少なからず影響も受けているので接する時の気持ちが違う。棗園の木陰で中国人を見ながら彼等はどのような意識でこの場に立っているのだろう。自分の立場・想いに奇妙さを感じた。
出発前から漠然とだが延安へ行きたいと考えていた、今その地に居る、天気は良く広場ではショーが行なわれており音楽が聞こえる。老いも若きもこの場を楽しんでいる時代は毛沢東から劉少奇路線に変わったが毛沢東を直接批判する声は聞こえない、何故だろう。
私が思うに、この中国を統一したのは秦の始皇帝以来10数名しかいない、漢の高祖、唐の高祖と並ぶ歴史上の偉人である。毛沢東は世界史に残る偉い存在なのだ、その縁の地を訪れることができてよかった。

 延安を出る前に川のほとりで写真休憩があった、川向こうの丘の上に雁塔が見える。木陰では将棋や麻雀を楽しんでいるグループがいる、オキナワでチュンジーと呼ばれているのによく似た将棋も盛んだ。中国の何処の街でも見られる風景だがのんびりしているように見えるので心が和む。ここは市民の憩いの場でもあるようだ。
観光客相手のミヤゲヒ品を売る人、物乞いが手を差し出したり、空のペットボトルを貰う為にバスに寄ってくる人なども観光のひとコマと割り切る。
 
 昼食は市の入口付近のレストランでとる、到着するとウェートレスが前席の片づけをしているターンテーブルを隣に置いてテーブルクロスを食器ごと丸めて、ターンテーブルを戻すと新しくなった席が現れる。
二三皿出てきたがご飯のお代わり、湯のお代り、次の品を早くもってこいと矢継ぎ早に注文する。お昼時なので他の団体も入っていて大忙しだが怒鳴り声のような大声でウェートレスを呼ぶが、ウェートレスも慣れたもので気にする様子は無い。いやはや・・という感じだ。
早めに食事を済ませて外へ出ると店の前には観光バスと並んで大型タンクローリーも数台駐車している。食事かと思ったら目の前の道路標識に”朝昼夕のある時間帯は化学物質や可燃物を積載した車両は市内に入るのが禁止”とある。何の理由だろうか。

 1時半に延安を出て一路西安に向かう、280Km離れているが着いたのが7時半になっていた。280Kmは遠いけどマイクロバスのスピードが遅いのが最大の原因だろう。高速道路なので100Kmでぶっ飛ばせば3時間ちょっとで走れるだろうに。
土日の観光なので満席のバスツアーになったのも誤算だった、平日ならもう少しゆったり出来たと思う。

 このツアーに一人で参加したからこそ色々と勉強になった、中国人気質丸出しのみなさんに感謝します。

写真は棗園の銅像、偉大な主人公たちです。

楊家嶺

2007年10月26日 15時09分21秒 | 西安留遊
 朝食はホテルで簡単に済ませーーカンタンとはいえ中華なので野菜炒めと湯に饅頭、タマゴと皿数は多いーー7時半にはバスは出た。また身動きできない狭いシートに1時間揺られて延安に入る。楊家嶺(yang2 jia1 ling3  ヤンチャーリン)は延安でもハズレの方らしく山側にルートをとり進んでいく、雁塔が見えたのでガイドが何やら説明を始めた。チラシに雁塔のことも書いてあったが、日本風に言えば車窓観光というところでしょう、下車はしなかった。

 革命の聖地の付近は観光客に車、オミヤゲ売りその他で混雑している。その中を入園する、場所が場所革命の聖地は解放軍の管理下にあるのか軍人が案内役となって説明している。その関係の団体なので特別だったのだろうか。軍人とはいえ若い女性兵士なので私もそちらに付いて行きたかった。
党大会が開かれた中央大礼堂が入口から正面に見える、質素なレンガ建てで元々は何だったのか、教会にも見える。集会所として建てたのだろうか。当時のまま保存されていて壁には旗が飾られている、しかしその旗は五星紅旗でなくソビエトのハンマーと鎌に似ていた。
厳かな雰囲気というより何処かの学校の講堂で演壇で記念撮影をする人が列を成している、舞台の前には”毛沢東の旗の下勝利に向かって前進しよう”というスローガンがある、後日飾られたのか、当時のスローガンなのか。共産党第七次全国代表者大会では既に個人崇拝的な面も出てきていたのか。革命に情熱を燃やした闘士が厳しい状況の中白熱した議論を戦わし決意も新たにしたであろう場所に来て懐古趣味だがある種の感慨に耽った。ここでも「中国の赤い星」に書いてあったことを思い出そうとしたが記憶は薄れている。
 党中央本部事務所はガランドウで壁に「東方紅」の歌詞と楽譜が額に入って飾られている、その前で若者のグループが合唱していた、共産党青年部の皆さんかな。入口で党員証らしきものを提示して無料入場している若い女性がいた。軍人もフリーパスと書いてあった。

 周恩来や小平もちろん毛沢東の居宅も見学した、屋敷囲いもある一戸建てで門を入ると小さな広場となり玄関と窓が見える。しかし屋根の奥行きは1~2mで裏山となっている。その山を掘った洞窟住宅なのだ。天井はドーム状になって窓には木枠も窓も填まっている。寝室と事務室のふた間しかない。粗末なベッドに椅子テーブルが置かれて往時を偲ばせている。

 見学している人中国の観光客もなんやら物見遊山的で革命も遠くになりにけりで、私のほうが感慨深げである。(笑)

観光はつづく

2007年10月24日 07時24分27秒 | 西安留遊
 壷口瀑布を出たときは薄暗くなっていた観光客の姿も見えない、オミヤゲ品屋も大半が店じまいしていた。日本のツアーならこの時間になると宿へ一直線だろうがもう一ヵ所寄るようだ。2Km ほど下流に川中島がありそこに大きな像が亀の上に立っているお寺がある、そこにバスが止まった。吊り橋を渡って島に渡る頃には日も暮れかかっている。何を本尊にしているお寺か分からない、もしかして道教なのか。
 小僧さんに堂内に導かれて席に着くと黄色い袈裟懸けの若い坊主が何やら話し始めた、ある人を指差して質問しその返答に対して又何やら解説らしきものをしている。それが長い、途中退席も考えたがそのような雰囲気ではなかった。終りは一人一人に何かを言うて何かをしているが私は全く理解できないのでそのまま何もしないで出た。外はもう真っ暗で時間が勿体無い気がしたお寺観光であり、外の景色や川の流れを見ているほうがマシだった。

 お寺を出て真っ暗な中をバスは走る、久しぶりに星を見たが外に出たらきっと満天の星だろう、真っ暗というのも久しぶりだった。
 8時ごろレストランにはいる。そこが恐ろしいほどサービスの悪い店でたった一個のお椀は油で汚れているので大声でカップを替えて貰う人、それに対して店員はブツブツ文句を言う。客の言うことを聞かないのでツアーの中国人でさえ不快感を持っているようだった。
ターンテーブルが無いのでアチラ側の料理をとるには手を伸ばさざるを得ない、皿を置く場所が無いと重ねて置くなど新たな知識を仕入れた。(笑) 昼食時に仕入れた知識、お茶でカップとお箸を洗うなど日本のツアーでは得ることの出来ない知恵を得た。50元で翌日の昼食までの4食分を賄うので味・質ともこんなものだろう。オバチャンがもっと食べろと言うが食欲は湧かない、ご飯におかずの汁を掛けて食べる。中華料理でご飯を食べる時はこのイヌ飯がいちばん美味しい。
 分かったことはご飯とスープはお代り自由のようだ、何度もお代りしていた皿が小さい所為もあるだろう、ただ店員さんはなかなか持ってこなかったけど。

 宿の交通兵館に8時半に着いた、これほど遅くまで観光するツアーはめずらしい、日本人グループなら文句が出ただろう。予定している箇所をカットする方が問題になるかな。
 部屋割りで私は40才くらいのビジネスマン風の方と一緒になった。電子辞書やら筆記で話をする、南昌から来たようだ。彼が風呂に入っている間街を見に外に出た、雑貨店でビールを買いラッパ飲みしながら歩いたが店じまいしているので人影も無くツマラナイ。飲み終えて部屋に戻り寝る。

 中国人グループと一緒になって旅をすると目には見えない知識が得られます。

黄土高原と壷口瀑布

2007年10月23日 10時57分30秒 | 西安留遊
 黄陵は周辺に山が見える。来る途中でバスは坂を登り始めた、本来なら普通の景色・出来事なのだがだだっ広い平原を走ってきたので上り坂が珍しく感じたのである。西安周辺の平原はこれほど広く高低の無い地域だと改めて実感した。

 バスは高原を突っ切る形で建設された高速道路を走る、数十メートルにも達するであろう橋脚で谷を越えて伸びる道路を走る。このように整備されているので時速100Kmでも120Kmでもぶっ飛ばせると思うが、我がバスは80Km程度しか出さない、満員なので速度が出せないのか、車体が古くてスピードが出せないのだろうか。

 高原を走りながら窓から眺めると、黄土高原は色とその表面の荒れ具合が目に付く。オキナワの赤土のスケールを大きくしたような印象である。それは心和む風景ではなく荒れている、痛々しい自然という印象である、しかしそういう風景が延々と続くとこれも大自然だと見る目が変わってきた。
集落の近くを通ると家々の後ろの崖・斜面に洞窟が見える、これがヤオトンというものだろう。生活の場というより倉庫のように見えた。洞窟にもいろいろあり写真を撮り損ねたがレンガ造りに瓦葺の屋根、その背後に洞窟が並んでいる集落があった。オ~ッと見とれてシャッターチャンスを逃したのは残念至極、自分の判断ミスを嘆くのみです。
帰りに撮ろうと思っても逆方向なので、身動きもできない車内ではどうしようもありませんでした。

 高速から降りて一般道に入る、小1時間ほど走ってこのツアーのハイライトの一つ壷口瀑布に着いたのは5時25分になっていた。川が見え始めると車内はザワついてワクワクしている様子が窺えた。国土が広い中国のこと滝とか急流が見られない地域の方もおられるのだろう。考えてみると狭~いオキナワでも滝を見るにはヤンバルまで出かけて川を歩いて遡らなければ見ることができない。国土が広いとか狭いはあまり関係無いですね。

 滝で小一時間ほど見学タイムがあったのでゆっくり見物できた。滝それ自体はそれなりのものだが、水の色にはこれが黄河か・・というある種の感慨を感じた。案内チラシには黄河壷口瀑布とあるけど黄河という文字が使えるかどうかは疑問がある、あの辺りの川は全て黄河に行き着くだろう、黄河支流の一つではあるが黄河とはいえないのではなかろうか。この事は帰ってから調べて判明したことです、その時はあれが黄河だと思っていました。

 流れている水は濁っているように見えるけど、手にすくうと微粒子が掌に沈殿して透き通った水になる。黄土が混じっているのであのような茶色というか濃い肌色というか、方言ならアカンチャ色と言えば直ぐイメージできる色になっている。それが広い河原の中央部を流れて湾曲した処から滝となって落ちている、滝の奥のほうは水煙を上げて三方向から落ちていく。その横を流れている行く水はこれこそ広がった瀑布となって落ちている。滝の上と同じ高さから眺めるので下からとは違う。茶色の水だが水煙はさすがに白い、茶と白の対比が面白い。滝の近くは川幅が狭いので泡立ち波打って流れているが少し下流では滔々と流れている。

 周辺の山、広い河原その中央部をゆったり流れているのに、足元から滝となって落ちて行く様は九塞溝とは別の意味で素晴らしい景色です。

黄陵

2007年10月22日 06時58分19秒 | 西安留遊
 黄帝は今から5000年前の新石器時代の集落のリーダーだったとされています。黄帝に率いられた人々は中国北部の陝西省を中心に生活していました。ほかの集落との戦争に勝利し、黄帝は主導的な地位を獲得しました。古文書によりますと、黄帝が指導者を務めていたころ、中国は政治、文化、農業、天文、法律、医薬、音楽、数学、文字などの分野で大きく発展しました。このことから、黄帝は中国の文明を発展させたといえます。今はよく中国5000年の文明という言い方をしますが、この5000年とは、黄帝の時代から計算したものです。黄帝は中華民族の始祖だと見られています。
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ALA!中国というサイトの記述です。

 私は黄陵で大勢の中国人が見学している様子を見て、中国人つまり漢民族の始祖として崇められていることは感じた。カン違いしたのはこの陵を漢の高祖劉邦を祭ったところだと考えたことです。初めて漢民族が統一王朝を開いた劉邦の墓だと誤解していた、このマチガイに気付いたのはつい先日黄陵について検索してからです。他所で大声でしゃべる前なのでヨカッタ~
あの風景を見ながら劉邦項羽に想いを馳せていたのが恥ずかしい。

 中国人はでっかい建造物を造るのが好きだが、この施設も大きい。施設というと薄っぺらな感じを与えるけど、広くて長い階段を登ると広場に建つアシャギのでっかいバージョンがある、建物の前の広場の両脇には大きな大きな鼎が並び中国の旗が色鮮やかに風を受けている。とにかくその規模にはビックリ、大理石の照り返しに眼を細めながら上ってきた甲斐がありました。
何も無い空間は儀式用なのか。

 陵までは電気自動車に乗った、これも別料金で10元也。歩いても登れるが歩く気はしません。バス乗降広場からゆったりと歩き始めた。ガイドさんが説明するが全く分かりませんでした。
この頃は同行の皆さんの顔を覚え、ニコッとする程度の仲になっていた。グループから外れて一人別の道を行こうとするとオバチャンが大声で私を呼ぶ。道を間違えたのかと思い戻ると、カメラを渡されてシャッターを切るように言われた、全くずうずうしい。それからはここぞという場所では当たり前のようにカメラを渡された。シャクなので私も写してもらった。

 陵全体が木々に覆われており、小高いところにある遥拝所なのか展望台なのか、そこからも気に遮られて周りの景色が見えない。この場所は何んだろう。
陵としては秦の始皇帝陵や唐の陵を見ているので特別という感じはしないが、大きな建造物はさすが中国と思われた。
 また、廟の周りには参拝を記念する石碑が建っている。蒋介石や李鵬、江沢民のものがあるがこれも中国の風習なのか。

昼食風景

2007年10月21日 08時28分02秒 | 西安留遊
 観光の行き先別に乗換が済み9時前に出発した。西安は大平原のど真ん中にあり丘すら見えない、小高くなった所は陵と思って間違いないと思えるほどだ。秦の始皇帝陵や漢時代の陵墓群を見てそのように感じた。
小1時間ほど走ると遠くに山・・岡の稜線が見えてきた。辺りはトウモロコシに高粱畑が見渡す限り続いている。梨や葡萄も見える。

 ガイドが旅の概略やこれから行くところの説明を長々としている、その後食事代を集めて回ってきた。50元だったが1食ではなくて明日までの食事代のようだ。遠くに見えた丘陵地帯が近づき上り坂となった。景色も平原から高原に変わってくる、黄土高原という言葉が浮かんできた、将に黄土高原だ。土の色は黄土色で我がウチナーのアカンーチャ(赤土)と似ている。もろい土は水に削られて襞となり階段状となっているところに草がへばり付いている。下のほうを流れている川の色も泥流という感じだ。

 途中トイレ休憩を含めて3時間弱で黄帝陵のある街に着き直ぐ昼食となった。勝手が分からず黙って突っ立っているとその席に坐れという仕草をするので席に着く。ウェイトレスが前の客の片づけをしているがその方法が変わっている。テーブルクロスを巻き上げ食器ごと包んで持っていくが下には幾枚ものテーブルクロスが敷かれているので新しいのが出てきた。食器は欠けるだろうが気にする様子は無い。
 我々の食器をもってきたけどスープ椀とお箸だけ、すると隣のオバチャンがお茶を注いだので飲むかと思ったらお箸でグルグル掻き混ぜてそれを痰壷に捨てている。私はどうしたものかと思案していると、私のモノを取って同じようにして返してくれた。

 西安からのツアーであるが参加者は重慶や南昌など各地から来ている、自分が住んでいる地域でもこのような儀式(? 笑)をしているのだろうか。
料理が運ばれてくると、取れと勧めてくれる。野菜が主でその調理は上手くて美味しい、セロリも定番で何処でも出てくる、あまり好きではないが中華のセロリは美味しいと思う特に甘酢漬けのセロリはとても美味しかった。魚の煮付けが出たら小骨をテーブルのナプキンに吐き出すのには驚いた。中にはナプキン無しで直接置く人もいる、もちろん足元にも。スープ椀一つで食べなければならないので止むを得ない。私は小骨をどう処理しようかと思いあぐねて手をつけなかったが、その様子を見て食べ始めた。

 中華料理を食べる時はスープ用の椀が2個、さらに皿にレンゲにお箸が当たり前でお皿は時々交換してくれるのが当たり前と思っていたが、本場中国ではまるっきり違っていた。スープ椀とお箸だけでアレだけの品を食べるのはムリだよ、と思いつつも皆さんは何も言わないのでこれがフツーなのだろう。

 この昼食時間で私にはツアーの仲間意識が芽生えた。

写真説明:レストランの前には果物やオミヤゲ品を売る店が並んでいる。ヒマワリの種(?)を売っている人、美味しいとの説明だったがどのようにして食べるのか・・?
大きさにはビックリ、広大なヒマワリ畑も見えた。

延安へ

2007年10月20日 10時23分52秒 | 西安留遊
 西安は中国近代史でも登場する、有名なものは”西安事件”張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件です。それに学生時代に読んだエドガー・スノーの「中国の赤い星」に出てくる延安も近い。井崗山から国民党軍の包囲網を突破して当ても無く西進することに始まった長征が延安で終り、共産党の指導者毛沢東、周恩来、朱徳、劉少奇などが過ごした地が延安である。長征と呼ばれている国民党からの逃避行というか撤退作戦は、機械工具をはじめミシンや家財道具など一切合財背を負っての行動なので三国志演義を思い出させるような物語であった。

 延安は中国革命の聖地となっている。西安から近いとはいえ300Kmほど離れているのでチョイと行くわけにはいかない。ある日滞在しているホテル内の旅行社のポスターが目に付いた。観光ツアー募集なのだが延安1泊旅行もある。費用は460元とある、内容を聞くと各観光施設の入場料、交通費、宿泊費を含んでいるが食費は別とのこと。日円で8千円か・・かれこれ1万円は掛かるだろうとウミヤミーしたが、このチャンスを逃がすと二度と行けそうも無いので参加することを決意した。
1泊旅行だが、カリキュラムに組まれている土曜の観光に参加せずに翌日曜との二日間で延安へ行けば授業にも差し支えない。
 
 詳しく話を聞くつもりだったが言葉の壁があって、私も旅行社の人もサジを投げた感じで内容の説明を理解することなく契約し金を払う。理解できたことは、外国人向けの外国語によるガイドの説明は無い、というのと食事は含まれていないということだけだった。延安の風景やヤオトン(洞穴住居)を見るのが目的なので説明は無くても眼で見れば分かるでしょうし、食事も食堂があれば何か食べることができるだろうと気にしないことにした。

 朝8時に迎えが来ると聞いてゆっくりしていたら電話があり7時半に行くという、ロビーで待っているとマイクロバスが迎えに来た。まだ市内を走っている時”延安へ行く西佳大廈から乗った人(私のこと)は○○番”とガイドが何か言うが意味が分からない、今夜のホテルの部屋の番号なのかな。暫らく走りホテルから客を乗せながら或る駐車場に入った、何台かバスが停まっており、また到着する。飽きるほど待っていても出発しない、すると別のガイドが何やら呼び出しをしている、延安というのと泊まっていたホテル名の西佳大廈という言葉が聞こえたので手を上げると荷物を持って付いて来いと別のマイクロバスに案内された。
各ホテルから客をピクアップしここで客を行く先別に振り分けているのだ。マイクロバスは満席で私のザックを置くスペースも無い。若い中国人が詰めて足元にザックを置くスペースを作ってくれた。

 私が乗るのを待って出発した。マイクロバスは20数名のツアー客で身動きができないほどキツイ、座席下の足元にもバッグが置かれているので足を伸ばすこともできず窮屈この上ない。飛行場も過ぎて北へ向かってバスは走る。

写真は、旅行社のツアー募集で一番下が延安です。
前日掲載した写真の壷口瀑布も見えます。

バス・タクシー

2007年10月19日 06時46分47秒 | 西安留遊
 西安に電車や地下鉄が無いので交通手段はバスとタクシーになる。
バスは1元を先払いする方式でオツリは無しなので小銭を準備してから乗る必要がある。一度乗ってから行く先違いに気付いて直ぐ降りたけど投入した1元は戻ってきませんでした。
バスで移動しようと思うなら1元の札や硬貨が必要なので、モノを買うときできるだけ1元が手元に来るようにした。例えば7元の買い物をする時は5元や1元札で揃えられるのにわざわざ10元札を出して3元のオツリを貰うようにした。これは大切なことです、お店のネーちゃんからツリ銭を貰うときに”払える小銭を持っているのに・・”と文句を言われたこともありますが、バス賃が必要なのでと厚かましい振る舞いをした。

 少ないですが車掌が乗っているバスもある、これが何故か中型バスなのです。大型バスはワンマンカーでマイクロバスに車掌がいるのは不可解だ、そのバスは1元からオツリがあるので安かったが少ない定員なのに車掌がいるのはヘンだ。出入り口が中央部に1ヶ所しかないので車掌を置かざるを得ないのかな。
 バスに乗ると若者が席を譲ってくれた、数回経験したが何処か面映い面がある。もう席を譲られる年寄りになってしまったのか。敬老精神は未だ健在でした、しかし私としては譲られるよりも譲った方が気がラクだ。

 もう一つの公共交通機関タクシーも数多く走っている。いわゆる雲助タクシーには遭遇しなかった。全てのタクシーはメーター制なので料金をボラレルことも無く安心して利用できた。メーターから伝票が印字されて出てくる。そこには会社の電話番号に始まって日付・乗車時間に下車時間、走行距離、加算金額などが記されていて最後に運賃総額が表示されている。ただそこは中国のこと印字用インクが補充されていないのか全く意味を成さないものも多い。
 記念に持ち帰った伝票を見ると6.3Kmで12元払っている、私の行動範囲はその程度のものでした。市内観光程度なら施設間の移動は10元程度で済むのでタクシー利用がいいのだが、ちょっと意地・見栄を張ってできるだけバスを使いました。

 バスの行く先表示は番号が表示されているので分かりにくい。バス停には番号ごとの運行停留所名が書かれた路線案内が設置されている。まず行きたい場所の停留所名をその中から探してバスの番号を調べてそのバスが来るのを待てばいい。
停留所名を探せない場合は誰かに聞けば(筆談)親切に教えてくれます、中国の皆さんはとても親切な方が多いです。

 タクシーに乗るのも手です。遠回りされた話もありましたがそれによる余分支払い金額も50円分程度です、150円で行けるのに200円掛かったと怒らず、笑って済ませましょう。他所の国では料金交渉からスタートすることを考えると、基本的にメーターで計算する国は珍しいと思います。

写真は壷口瀑布と呼ばれる滝です、流れ行く先は黄河だと思う。規模はそれほどでも無いけど色がすごい。手にすくうと微粒子が沈殿するのが分かる、黄土が混じってこの色になっているだけなので、すぐに透明な水になります。

餃子パーティ

2007年10月17日 10時23分36秒 | 西安留遊
 餃子といえば中国、その中国の中でも北の方にある西安は麺類が多い。郊外へ行くと麦・高粱・トウモロコシ畑が続いていて田圃は見えない。そのような地域なので粉食が盛んなのだろう。

 中国の家庭を二軒訪問し二軒とも餃子をご馳走になった。餃子の材料を準備して一緒に作って食べる餃子パーティを開いてくださった。具の材料は奥さんや旦那さんが刻んでいく、中国では”男子厨房に入る”でごくフツーに調理をするそうです。私たち男性も面白半分で包むのを手伝う。面(中国では麺と面は同じです。)は丸められて発酵させてあるのを棒状に伸ばして黒飴ぐぁー(黒砂糖飴)のように切って広げ餃子の皮を作る。皮作りにも挑戦したが均等な厚さで丸く広げるのはなかなかむつかしい。

 ワイワイがやがやお喋りしながら慣れない手つきで包んでいく、さすがに奥さんは上手に包みスピードも早い、私も包んでみたが具がはみ出たり襞の形がヨロシク無い、でも味は一緒です。(笑)
 バットに三皿並んだところで湯がきはじめた、店を見ても餃子は水餃子か蒸すかで焼くのは見たことが無い。残り物を美味しく食べ且つ温める手段として焼くという話を聞いたが一理あるように思える。

 タレは醤油、酢、豆板醤を各人の好みで混ぜる、つるつると滑るのをお箸で掴みタレにつけて食べた。野菜が主体なのに美味しい。餃子はそれ自体が完結した料理なので他に何も出さなくて良いとも聞いた。日本ではラーメンと餃子、餃子とご飯という風で餃子だけを食べるのは少ない。その日は餃子だけを腹いっぱい食べた、途中餃子の茹で汁が出てきた、お湯に若干の味が付いている程度の味だった。アジクーターに慣れているので物足りなく感じた。お茶代わりということか。

 作る時調子に乗りすぎて作りすぎた、次々と水餃子が出てくる、もうお腹イッパイだがたくさん残しても悪いという気になりムリして腹に納めた。もうダメというほど食べたら夕食も欲しくなく翌朝も食べなかった。

 もう一軒の餃子パーティは夜になった所為かビールがあり、それに出張マッサージもあったり麻雀やトランプなど準備されていたので食べ、飲み、遊びにリラックスと心身ともに満足したひと時でした。
その時は学生さんと一緒だったのでよけいに楽しかった。若さはただそれだけでも好いものですね。

中国の住宅

2007年10月16日 09時29分12秒 | 西安留遊
 我々の団長を務めた方は中国大好きを自認していて十数回も訪中している。沖縄では国際交流センターで研修を受ける中国の方々との交流もあり、西安にも数名の沖縄研修組がおられ自宅に招かれたり歓迎会を持ってくださった。

 その中の一人孫さんが自宅で餃子パーティを開いてくださった。タクシーと孫さんの車に分乗して総勢10名が孫さん宅へ向かった。大勢で押しかけても大丈夫だろうかと内心危惧するところもあったが、そのことを気にしてもしょうがない。まだ街に慣れていないので何処を走っているのか検討がつかない、しかし特徴のある大雁塔が見えたのでその辺りを走っていることは分かった。
 アパートが何棟か並んでいるところで車を降りる、門番のいるゲートがあり扉を開けて入れてくれた。見た感じは古い市営住宅というところ、沖縄なら建て替えの計画があるのでは・・・と思えるほど古い感じがするアパートである。

 階段を5階まで登る途中おめでたい言葉を赤に金文字で書かれたものが貼られているいる玄関があった、ここは中国だ~と実感した。スチールの玄関ドアを開けると中にもう1枚木製ドアがある。奥さんが中から開けて迎えてくださった。
 日本式の玄関部分は無くて直ぐ広い応接間となっている、床は白いタイル貼りで壁も白が基調となり明るい部屋でベランダに面してガラス張りの親親ドアと窓が配置されているので明るい。主寝室ともう一部屋それにキッチンがあり調度品が少なく全体的にスッキリしていて広く感じる。棚にはモノが無い、テレビにビデオセットと家族の写真に数冊の本があるだけでビックリするほど無いあとは白壁が広がっている。それでよけいに広く感じた。

 外観と内部は落差がある、こんなに綺麗で広いとは思わなかった。古い市営住宅をイメージしていたので内部に入ってショックを覚えるほどであった。孫さんは省政府の研究機関に所属しているのでここは公務員住宅だろうか一般市民とは違うのかな。殆んどの家庭が一人っ子なので充分な広さだ。

 別の日にもう一軒別の家庭を訪ねた、その家も広さは違ったが内装はスッキリと仕上げられていた。住宅事情は考えていたよりも良いようだ。
両方に共通することは、モノが少ないということ。我が家に比べて何も無い、例えば・・と辺りを見回すが乱雑にモノが溢れているけどコレというモノは無い、しかしモノがそこらじゅうに散らかっている。中国の家庭ではそれが見られなかった、散らかすモノが無いという印象だ。
 また電気、ちょっと暗いと思っても昼間は電気を点けないようだ、立派なシャンデリアが下がっていたが我々の滞在中スイッチが入ることは無かった。灯りを必要とするほど暗くは無かったが我が家なら、日本人なら点けているだろう。
階段灯も全階が一斉に点くことは無く各階ごとにスイッチを入れねばならない。その街灯はある時間で自動的に消えるようになっている。各フロアごとにスイッチを入れながら降りた。
みなさん電気を大切に使っている。少しは見習おうという気になって寮やホテルで電気を消すようになった。

大雁塔の噴水

2007年10月15日 10時46分07秒 | 西安留遊
 西安は周辺には兵馬俑をはじめ唐時代の陵がありその他にも見るべき地が数多くある。もちろん千年以上も都があった西安なので市内にも名所旧跡が散在している。その中で特筆すべきは大雁塔でしょう、三蔵法師がインドから持ち帰った教典を納めたのが大雁塔です。
 その大雁塔の前にアジア最大規模の噴水ができて毎夜市民を楽しませていると聞いた。初めて見に行った時は全体が見渡せるように大雁塔側のベランダになっているところで見た。空にはレーザー光線が青白い光跡をのこしながらゆっくり動いている。噴水となるであろう場所は巾が60~80mに長さが200mの範囲はあるだろう、浅い池かプールのように区画されていてその周りに大勢の市民が群がっている。区画の中にも人影が見える。
 ベランダの前に水が溜まり始めた、少しずつ水面が上がりやがて深さ2~30cmの仕切りを越えて流れ落ちていく。正面から見ると水のカーテン、滝となっているのだろう。スピーカーから音楽が流れ噴水から水が吹き出てくる、曲に合わせて水の高さが変化する様が面白い。

 ノズルは幾つあるのだろうか、大きなうねりのように見えたり階段状になったり、遙かかなたの入口側では水が前後左右に揺らいる。見ていて楽しかった。ただ私たちが見たベランダからは全体は見渡せるが臨場感に欠ける、もう少し近づき少々水しぶきを浴びた方が面白いだろう。
それで次に行った時は中央部に割り込んで入った。側面から割り込んで最前列に出たけれど、その場より中央部の方が面白そうなので噴水に間、区画が分けられているところまで行った。そこには若者を中心に物見高い皆さんが大勢いる。次の曲が始まり前のほうから放水が始まり押し迫ってくる様に独りで興奮していた。周囲の水が最大の高さまで吹き上がる中に居ると現実を忘れて幻想の世界に入り込む、映画”十戒”の紅海が割れる場面を想い出した。高く吹き上がる水のカーテンは青くなったりピンクに染まったりしながら遠く水越しに大雁塔が浮かび上がらせている。
 毎晩9時から噴水が始まるので西安を旅行する人は予定に入れておくべきでしょう。そして噴水周辺の人ごみを掻き分けて中央部まで行くことをお勧めします。濡れるようなことは殆んど無かったので気持ち好く見ることができました。

 真ん中に入る味をしめてその次に希望者を募って行った時は中のほうで見ました。こういうことはニッポンではなかなか許されない、きっと係員に追い出されるでしょう。でもあそこは中国なので楽しい思いができますよ!

太極拳

2007年10月14日 09時01分11秒 | 西安留遊
 太極拳は2週間で10回、つまり毎日行なわれた。まるっきり初めてなので立ち方から足の踏み出し方など基礎のキから懇切丁寧に指導してくださった。毎日二人か三名の指導者がお見えになり一二(イー アール)と声をかけながら動く。太極拳には幾つかのバターンがあるがその中の十六式というのをやった。
全て中国語で説明するので聞きたいこと、言いたい事が伝わらない。こういう身体を使うものは言葉で説明するのも大切だろうが見て学べが基本のようだからまず真似をする。
本来顔は正面を見据えなければならないが先生の動作を見るために首はあらぬ方向に曲がっている。その辺りを察したのか先生が両手に分かれて立つが時と場合によってはやはり見づらい。

 十六式とは16種類の動きをすると解しても良さそうだ、一つひとつの動作には”左右野馬分髪”という風に名前があり、野原を駆ける馬のたて髪のように・・と解説されている。こういう風に16の動きを連続的にやるのだが、まず順序とカタチを覚えねばならない。ダンスもそうだが覚えの悪い私はあ~でも無い、こうでも無いと足を運ぶが手が付いていかない、なかにはサークルで練習している人もいるがみなさんも似たり寄ったりなので安心した。

 出発前に太極拳の時間がある事を知っていたのでインターネットで検索すると動画付きのサイトがある、二三のポーズを画面を見ながら真似して動いたがやはり直接指導を受けねば分かるものではない。私が見たサイトは二十四式だった、帰ってから比べてみると十六式は殆んど含まれている。
先生が写真解説のパンフを2元で売っているのを買ったので比べることができたのです。インターネットって実に便利で実用的です。参考までにそのサイトはここです。

http://chinalife.fc2web.com/texts/24/index.htm

 太極拳は流れるように舞うように演ずるがそのカタチには意味があり武術からきている。先生の説明は中国語オンリーなので理解するまでには至らないけど動作身振りで分かる。ピシッと決めたところで先生が押したり引いたり或いは突く真似をする、その時ぐらつかないで反撃する動作をすることでその事が分かった。重心移動や腰の入れ方を見て琉舞を習っている人が会い通じるものがあると言うていた。

 ダンスでも同じ、立ち方や上半身の回し方や足を開いて立つ姿勢も同じ事が要求されている感じがする。人間の安定した動作は同じなのだ。お臍を対象とするモノに向けることを心がけて動くと先生が褒める、へっぴり腰にならないように立つと又褒められる。ダンスの姿勢と動きが役立った。ダンスで体が開かないようにと注意されるが太極拳でも同じ。重心を移動するのも同じ、同じだということが気付いただけでもジョートーだ。

 気づいた点を太極拳のサークルに参加している人に告げると、先生格の人に顰蹙気味の目で見られた。(と私は感じた。)
ハイ、私の悪いクセで十を聞いて一も分からないのに、一を聞いて三も五も分かった振りして先輩に物申したくなるのです、小人は。(笑)