どこ吹く風

旅のことを主に書く。

バロット

2006年03月25日 19時05分01秒 | マニラの印象
 フィリピンといえばジプニーに並んで挙げられるものにバロットがある。
これはさほど有名ではないかな。
 初めてこの食べ物を知ったのは30数年前のテレビ番組「兼高かおるの世界の旅」シリーズでのシーンだった。街角で麗しき女性のかおるさんが殻を割って食べる様子があった。
 このようなシーンは何度か見た、そして体験する事ができた。
滞在先へ帰るときべりーさんが暗い軒下に坐っている老婆に話しかけた、毛布で覆われた甕から何やら取り出して袋に入れる。
部屋で取り出したのはタマゴ、笑いながら差し出す。私には直ぐ判った。タマゴの先っぽをコツンと割って袋に入っている粗塩を入れてまずスープを飲む。薄味の汁が流れ出てきた。それから殻を剥くユデ卵と違い白さが無い、黄色みがかった灰色のような所々が黒いような塊りが出てきた、アタマのようだ。よく見ると嘴らしきものも付いている。

 ひと口齧る、ギリギリまで剥くといっそうハッキリした形がわかる。羽もある、羽毛は喉に引っかからないかと気にしながら喰らい付く。その頃には羽も何も気にならない、骨も柔らかく食べるのに邪魔にならない。味はチキンにタマゴと当たり前のことに気づく。黄身の塊りみたいなものがある、やはり黄身なのだろうか。アレはあまり美味しくない。初めて食べたバロットだった。

 その後数回買って食べた、硬いのと柔らかいのがある。柔らかいのが好きだ、タマゴで言えば半熟が美味しいというところ。
当時1個5若しくは6ペソだった。滋養強壮剤的な感覚で食べているようで、マンション警備のガードマンにオミヤゲとして渡して喜ばれた。

 バロット売りの声を聞くと、バロッ、バロッと聞こえる。まにら新聞にバロットの探訪記が載っていたが、それによるとバロットはアヒルの卵らしい。ニワトリかアヒルの卵かは味でもヒヨコ(?)の姿を見ても分からなかった。
保温されて生暖かいタマゴのバロットは見た目にはキャーキャー言うかもしれないが、口にするとチキンにユデタマゴなので美味しい、滋養強壮の食べ物なのでフィリピンではぜひ食べたいものの一つです。
ただスーパーでは見たことが無い、探したことが無いので売っているかどうはかが知らない。保温された容器に入ったものを売っている人、オバーが多いようだが、その人にめぐり合ったらラッキーとばかりに食べる事です。

 フィリピン関連のサイトにはほぼ書かれているバロットです。オミヤゲに持ち帰りたいのですが、帰る日時と売り子との出会いが上手い具合に合ったことがないのでザンネンです。

写真はバロットです。美味しそうに見えますか?

酒場

2006年03月21日 13時34分44秒 | マニラの印象
 ベリーさんにはマニラの観光名所だけでなくレストランや酒場にも同行してもらった。その他にジプニーやtaxiの乗り方なども、これは後で大いに役立った。
女性だからgogoバーは案内しなかったが”オモシロイ店があるヨ”と連れて行かれたのはウェイター・ウェートレスが全員小人の店だった。

 テーブルより頭一つ分高いだけの背丈しかない、頭の大きさは大人並みだがその他は小さく短い。動きがチョコチョコした感じに見えてどこかユーモラスである。ただそれを見世物にして店を売り出すというのにはチョッピリ抵抗を感じ無かったわけではない。
ベリーさんは単純に面白がってアレコレ動作の解説をする。そこには差別意識はまるっきり感じられない。

 店の小人従業員を笑いものにしているようだが、必ずしもそうでもない。そうなんだからしょうがないじゃない、というのを前提にそれを認めて可笑しい動作を笑っているようだ。
私の常識とズレるところもあるが、私のほうが常識と言うサベツ観念に縛られているのかもしれない。フィリピン人の方がフランクに接しているようにも思える、それはバクラと呼ばれているオカマを偏見無しに受け入れているのを見ても分かる。

 その店は生バンドの演奏があり、有名な歌手も来るとのこと。男性歌手の歌を聞きながらビールを飲んだ。
店を出たのは9時ごろだった、マビニの夜はいつもの喧騒、クラクションから呼び込みの声までネオンの色・点滅と交じり合っていた。

 ある夜カラオケバーに行った。
私は外国へ行ってまでカラオケバーに行こうとは思わない、しかしスポンサーである社長が行きたいと言うのに反対したり断る事も出来ず付いて行く。店選びはベリーさん任せた。
カラオケバーには当然日本語が話せる女性が大勢いる、日本語の歌も上手い、そのようなところでわざわざヒジャイヌーディを披露する事も無いので酒を飲み女の子とおしゃべりをする。

 そこに少年が現れた、女性は彼が何をするのか分かっているのでチップをあげて!と言う。社長が何がしかの金を出すと少年はテープを渡してセットさせてステージに向かう。歌い始めるとこれがまたウマイ、上手、これまでワイワイ自分の歌声に痺れて満足していた日本人の商社マンやら観光客のみなさんはシ~ンと静まり返ってしまった。

 フィリピン人はエンターテーナーの素質を持つ人が多いがこの少年もそういう素質があるのだろう。自分のキーに合わせたテープを持って稼いでいるようだ。自分のノドで稼いでいるのでプロだ、お客が凹んでしまったのを見て私はとても愉快になった。

 あの子は今では大人になっただろうが、次の少年は出ているのか・・。
大勢の上手い子が出てカラオケバーを我が物顔して蛮声を張り上げている日本人を凹ませて貰いたい。

マビニ

2006年03月20日 07時37分09秒 | マニラの印象
 マビニはその名を知られた大歓楽街だった。
地域の名前としてはエルミタと言うようだがマビニの方が名が売れているかも。一方通行でバー街が並んでいるのはM・Hデルピラール通りが多い。この二つの通りの名前は独立の頃の英雄の名前です。
お二人とも妙なところで有名になったものだとあの世で苦笑しているでしょう。

 私が滞在していたマラテからエルミタへ行きに通るのがマビニ通りで、帰りに通るのがMHデルピラール通りになる。一方通行だが駐車とかジプニー客の乗降や通行量の多さから混雑している。

当時は真昼間からネオンが点き、と言っても暑苦しく強い光の太陽で目立ちはしないけど、ドアの隙間から大音量の音楽が聞こえてくるような場所だった。
当時は、とは10年ほど前のマニラ市長が歓楽街一掃の政策を取った為に今ではすっかり寂れてしまったのです。当時の面影はペンキが剥げ落ちたまま放置された看板、割れたネオン管などの物悲しい風景の中に見られる。
 あの歓楽街を成り立たしている要因が解決されたのではない、ただあの場所からパサイ方面に移動しただけだ。

 GOGOバーと呼ばれるバーは、ステージでビキニ姿の女の子が踊り、客を物色していた、イヤ物色されていたのがホントかな。一旦入ると昼夜は関係なく別世界の様相を呈していた。
あれもフィリピン戦後史の一こまだろう。

 バー街の中にプールバーがあり賑わっていた。フィリピン人はビリヤード好きで当時からプールバーがあった。殆んどの客は賭けていた、受け渡しの金を見ると5とか10ペソ紙幣なのでたいした金額では無いと考えたが、最低賃金が85ペソほどだったので日本のマージャン並みの金額に相当するだろう。

 オカマが集まるという公園向かいに居酒屋があった、3~4棟の建物(?)があり厨房以外は壁が無いオープンハウスで楽団席にダンスフロア棟、カウンターバー棟は屋根だけで広い客席は青天井、夜は涼しくなるのでクーラー無しでも何とも感じなかった。ビールを飲みにちょくちょく通いウェートレスと顔なじみになった。
タバコが吸いたくなると買ってきてもらう、1本ずつ、その度にチップを1ペソ渡すのでタバコを吸え吸えと催促するようになった。1本ずつ買いに行くのがメンドウなのか買い置きする様になっていた、1本1ペソ足らずのタバコが倍以上になるので良い客だった。
 ウェートレスの給料は歩合制が加味されていたようで、何か飲めとか食べろとしきりに勧める、ご飯は済んだと言うと私は未だと返事する。これまでもフィリピン人が大好きなチキンを注文しても殆んど彼女達の腹に納まっていた。ビール代を含めても数百円の散財なので鷹揚にしておれた、安い店に行けば100円で済んだだろう。

 ある日真昼間にプールバーでビールを飲んでいると、女の子と店のウェイターが言い争いをしている、内容は分からないがウェイターは侮蔑的な発言と態度をし、オンナの子は悔し泣きを始めた。それはそれで関係ないことなのでどうでも良かったが、その子が私の所に来て”ホテルに連れて行ってくれ、暫らくシャワーを浴びていないので。”と言う。それに腹もへったので食事も欲しいとも言う。

 大勢の中で私がイチバン優しそうに見えたのか、カモに見えたのか。困ってしまったGパンにTシャツだが埃と汗でどろどろという感じで臭いはしなかったが如何にも臭いそう。金は要らないからシャワーだけでもと言われてもコマル。
仕方が無いので20ペソ奮発してお引取り願った。ここで食べたら高いので安い食堂へ行くと言いつつ去った。
私にとっては災難が来て去った感じだった。そこでの総費用50ペソ=250円ほど。

写真はタガイタイです。風光明媚なところでブコパイが美味しいとか・・

夕焼け

2006年03月19日 18時06分34秒 | マニラの印象
 マニラの夕焼けは素晴らしい、毎日見ていても飽きなかった。夕方窓越しにマニラ湾を見るとキラキラと波が光るのが眩しい。その波がキラメクその向こうに真っ赤に焼けた太陽がある。
雲も染まっている、遥か彼方の空も燃えている、これがマニラの夕日だ、夕焼けだ。
「マニラ湾の夕日は世界一だ」と昔を思い出すように目は遠くを見ながら話していた戦前のフィリピン居住者を思い出した。

 私が滞在していたのはロハスブルバードとビトクルス通りの角にあるレガスピータワー300というマンションだった。会社が3ヶ月借りた部屋で、シャワー付きの主寝室の他に2部屋のベッドルームがあり、狭いがメイドルームもあった。
全体が広い割りにはキッチンは狭かったが単身赴任状態の我々には充分の広さだった。

 リビングは充分な広さがありベランダ越しにマニラ湾が望め、ソファーに坐ったままで夕日が眺められた。あの壮大な景色に色の変化を見ながら高校の教科書にあった志賀直哉の「城崎にて」の一瞬一瞬の描写に感動したことを思い出し、この瞬間この光景を何とか書いてみたいと思うも、思うだけで言葉が出てこない。

 ザンネンだ、カメラも持っていなかったので記録は記憶のみで、真っ赤な夕日もセピア色になりつつある。その後も何回かマニラへ行ったが、あのレガスピータワーから眺めた夕日ほど綺麗なものはなかった。

 昨年(2005年)家族で行ったとき海岸まで夕日を見に行ったがスケールや大空を染める色に物足りなさを感じた。あの真っ赤に燃える太陽が静かに彩度を落としながら、しかし燃え尽きずに遠くへ去り、名残の夕焼けが高い雲に映えていたあの夕日・夕焼けは何処に行ったのだ。
訪れた時期の違いなのか・・・
また夕日を見に行きたいものだ。

マニラの二階建てバス

2006年03月18日 06時15分15秒 | マニラの印象
 リサールパークを発着しパサイまで往復するバスツアーに誘われた、日本語達者なUP(名門フィリピン大学)出身のベリーさんから。
 
夕日ツアーにしたかったが出かけたのはとっぷり日が暮れた後だった。リサール公園は夕涼みなのか人出が多い。マニラは何処でも人が溢れかえっている状態だから公園に人がいても不思議ではない。人がいるところには屋台がでる、アイスクリームを舐める。フィリピンのアイスクリームは美味しい、椰子を半分に割って果肉を削りながら食べさせるところもあるようだが私はそれに遭遇したことはない。

 公園の正面入口にバスが止まっている。鼻付きのオンボロバスで後に梯子があり屋根に登れるようになっている。出発の予定時間だがお客が少ないのかまだまだ出そうにないのでリサール像を見に戻る。建国の英雄を称える公園で広く野外音楽堂や庭園がある。

 バスに乗り込むがお客は少ない、二階建てバスがウリなので屋根に上る。フツーのバスの屋根に床を敷いて周りに鉄パイプの手摺が廻らされているだけである。木のベンチが並んでいる。オープン、吹きっ晒しの二階建てバス、言葉は悪いが如何にもフィリピンらしい二階建てバスだ。
梯子も手摺も配管用パイプを溶接して作ったもので、ベンチもその辺りの工場で作ったようでデザイン仕上がり共に実用本位の代物、かえってこういうものが旅情をそそられるというところか。

 イチバン前に陣取る、右側通行なのでパサイ向けは海側を走る。ロハスブルバードは幹線通りで中央分離帯の両側に3車線の車道がありさらに並木に歩道がある。椰子や大木が植えられている。木はクァーデーサーのように葉っぱが大きい。
世も更けてきているので前方は暗くハッキリは見えない、何かサラサラとかザワザワとかいう音が聞こえてくると同時に何かが現れた、首を引っ込めると木の枝が頭の上を通り過ぎた。

 車道に突き出た枝がところどころにある。そのままボケ~ッとしていると枝にアタマを打つ羽目になる。それ来た~と首をすくめる。海に浮かぶ光、遥か彼方の光、通りの反対側のビル家並みを見ながら木の枝に注意を払うという面白いツアーだ。
屋根の上だから涼しく見物する位置も良い、このような観光は何処彼処で体験できるわけでもない。
ただ乗ったというだけ、それだけでも自慢できるというツアーだった。その証拠にこのような経験をした人に未だ会ったことがない。
少なくとも私の周囲には自慢できる、二階建てバスに乗ったぞ~と。

今ではこのツアー、このようなバスは無くなったらしい、無くなっても当然という感じのバスにコースだ。
フィリピンらしいバスだったのに惜しい気もする。

マニラ

2006年03月15日 17時20分58秒 | マニラの印象
今日からマニラの印象を書いてみよう。
フィリピン・マニラ、いろんな人がいろんな場所で語っているフィりんピンです。全てその方々が語っている通りです。
ツーリストの目で見たもの、感じた事を書きます。
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 飛行機を降りたのは夕闇がとっぷり覆ったあとだった、機内から出るとクーラーが効いているはずなのに暑さを感じる。空港の様子やガラス越しに待合室を見ながらイミグレーションへ向かう。
並んで順番が来てスタンプを貰い階段を下りる。
 
 荷物を預けていないので税関へ向かう、機内で記入した用紙を渡してひと言ふた言言葉があったが出口へ向かう。
暑さがジワジワと体内に向かっていくのが感じられる。話には聞いていたがその話を実感し体現している。

 迎えの車に乗り市内に向かう。全体的に暗い、街の明かりが少ない、その暗闇を見ると人が大勢いる、歩いている人坐っている人中央分離帯には子供が屯している。人の多さに戸惑う、車が信号で止まると何やら人が寄って来る、箱をカタカタカタと音を鳴らしながら近づいてくるのはタバコ売り。
小さな白い花を輪にしたのを売る人も寄って来る、サンパギータという香りの好いフィリピンの国花ともいえる花とのこと。
子供たちは車のガラスを拭く、チップ目当てのことなので気に入ったり気分のよいときはチップをあげるらしい。

 ロハス・ブルバードは片側3車線広い通りで海岸沿いのメインストリートである、この時間なのにラッシュアワーのよう大混雑大渋滞の様相だ。マニラは何処かしこ無くこれが日常風景だそうだ。隣の車とサイドミラーが接触しそうな距離で走っている、前後の車はバンパーtoバンパーでまるでスタンカーレースのようだ。
前後左右に少し隙間が出た瞬間割り込みの車が入ってくる。クラクションも凄い、どちらの車に正当性があるかは問題ではなく、先に鼻を出した方が勝ちと言わんばかりのアピールをする。

 隣の車が気になるが通りの風景も気になる。市内に向かうと左側が海で右側は住宅ビルホテル空き地と雑多に並んでいる。大きなマーケットも見える、ガイドブックのウロ覚えによるとパサイの市場のようだ。大きなホテルも点在している。
歩道は所々土が山積みされている、何か工事をしているのだろう、塵やゴミが散らばっている。窓を開けると熱気と共に何やら臭いまで入ってきそうだ。

 暑さに人、ゴミに埃スマートさの無い屋台、物売り、マニラの印象は夜になっても暑くてその暑さに人を始めあらゆる物がグチャグチャに交じり合っている世界だった。
かつては整備されていたであろうビルや道が今では残骸としか見えない状況だが、しっかり利用されているようだ。
交通マナーは悪く、物売り、臭い、美しく見えるものをその日は見ることが無かった。本で読み聞いたフィリピンが目の前にある。

 空港からホテルまでの短い距離を走った印象がこれだ、しかしイヤにはならなかった、むしろ期待感があった。なにか楽しみが見出せそうな予感がして胸が弾んだ。
マニラに来たゾ~