どこ吹く風

旅のことを主に書く。

ブローンアウト

2006年03月16日 13時35分46秒 | バリ
 仕事は事務所開設の準備をすることだった。部屋の模様替えに調度品の購入や職員採用がその主な内容で、ひと月ほど前に社長が採用した女性事務員の案内で動き回った。
幸い彼女ーベリーさんーは日本語が上手く話せるので私にはありがたかった。

 事務所であれこれ考えながらベリーさんと日程の打ち合わせとか今後の方針を話していると突然停電した。停電は日常茶飯事のことらしい、ブローンアウトとかブローンナウトとか聞こえる発音でいらだたしそうに言う。
すぐに暑くなる、ムシムシしてくるので窓を開けたら熱風が来た。暑くても未だ室内の方がいい、とはいえ暑いムヌカンゲーが出来ない。熱風もイヤだが締め切った空間もイヤだ、暑くても外がいい。

 この停電ーブローンアウトーは定期的なものらしく諦めているようだ。そういえばちょっとした店の前に大型の発電機が置いてある理由が分かった。停電と同時に発電機の音が聞こえてくる。防衛措置を取っているのだ。店の前を歩く人にとっては自然の暑さと機械からの発熱煤煙騒音が加わる。しかも歩道を占拠した形で置かれている、これもフィリピンらしさなのか。

 レストランの中はそのお蔭で涼しさが得られお客は満足する。そのようなレストランはあまり利用しなかったが恩恵を受けることもあった。

ある日車をチャーターして買い物名目で街を走った。車のクーラーの効きが悪いので窓を開けた途端にヘアードライーを顔に吹き付けられたかと思うほどの熱風が顔に当たりビックリして窓を閉じた。それほどの暑さを感じたものだった。
私にとってブローンアウトと熱風は表裏の関係で思い出す出来事です。

 しかし日中の暑さは夕風と共に涼しくなる、夜間のクーラーは要らない、殆んどクーラーのお世話になること無く寝た。
宿泊はマンションを借りて寝起きしていたが、ベッドに準備されているのはシーツだけで毛布や布団類が無かったのでクーラーどころか窓を閉じて風が入らないようにしていた。
 夜間の気温は夏でも24度しかない、夜はオキナワよりも凌ぎ易いと思った。
ある時bbsのオフ会にフィリピンとブラジル人も参加していたので、オキナワ・フィリピン・ブラジルの何処が暑いかと感想を聞いたらお二方ともオキナワが暑いと言う。
私はその時は理解できなかった、絶対ブラジルやフィリピンが暑いに決まっていると思っていた。
しかしマニラの夜の涼しさを体験すると暑いのはオキナワだと実感した。オキナワは夜明けでも28度を維持している、これではクーラー無しで寝ることは出来ない。

 いま春分の頃の太陽は赤道上にあるが次第に北上して台湾中部までのぼってくる。その往復にフィリピンを通過する、その頃はとても暑いらしい。アタマがクラクラするほど暑いらしい。
 あのマニラの排気ガスの中をジットリ、べっとり汗を掻きながら歩くと・・・考えただけでもあああ・あ・暑~い。
でもでもその暑さの中に居たいな~。
でもブローンアウトは嫌よ。

ことばの遊び

2006年03月10日 15時28分00秒 | バリ
写真説明:オートバイのトライシクル
 三輪自転車もトライシクルと呼んでいたのだが・・・

 マニラでトライシクルという三輪自転車に乗った。近距離用として便利である、1回10円程度で乗れた。朝早くホテルの近くを散歩しているとトライシクルが通りかかったので目的地も無くその辺りを走ってくれと頼み30分ほど乗ったこともある。その時は100円払った。

 ある日ジプニーのの乗換場所に子供の運転するトライシクルが客待ちしていた。ホテルまで1kmほどしかないジプニーでは当時1ペソ(5円)だった。その子にホテル名を告げて幾らとタガログ語で聞くと”サンプー”という。
私はタガログの数字は1.2しか知らない、サンプーとは3ペソのことだろうと勝手に解釈して乗った。この子は日本語が分かるのだ、3とハッキリ言うている、ただペソの事をぷーと発音するのはワザと訛らせているのだろうと解釈した。

 トライシクルは人ごみを掻き分けるように歩道を走る。ホテルが着くとジプニーなら1ペソだが本人は3ペソと言うている、チップも含めて5ペソも出せば大喜びするだろうと思いながら、ツリは要らないヨという感じで5ペソを渡した。何か言いたげな様子だったので笑って手を振ってホテルに入った。

後で聞いて分かったのだが、サンプーとは10という意味だった。タガログを知ったかぶりしてしまった。あの子は10ペソ貰えると喜んでいただろうに気の毒な事をした、地元の人に聞くとあの距離なら3ペソで充分だそうだ。
ぬか喜びさせたのはマズかった。

 ウチナー方言で、腹いっぱいの事をチュウファーラと言う。
中国は西安で夕食後散歩していたら通りの屋台のオニイチャンが何か食べていけという仕草をする。私もお腹いっぱい食べた後だったので、手を横に振りながらお腹を叩いてチュファーラと言うた。
するとそのオニイチャンが暫らく考えた後にツーパウラと笑いながら言う。
きっとお腹いっぱいという事が分かったのだろう。

 チュファーラは中国語のツーパウラに違い無い。以前中国語は四声を間違えると全く意味不明になり通じないと書いたが、その時の状況と動作で分かったのだろう、それで笑いながら繰り返したのだ。
ウチナーグチが中国で通じてとても嬉しかった。

 オキナワにも外来語の方言があり、フィリピンからも入ってきている、フィリピンへ移民・出稼ぎした人も多いのでタガログが入ってきたのだろう。又敗戦直後米軍と一緒に多くのフィリピン人がやって来たのも影響しただろう。

 子供の頃よく使ったゲレンやパタイは代表的な言葉だった。
アメリカから入ってきた言葉で一番使われたのはハバハバだろう。これらの言葉の意味を知っているかな。

 昨年マニラへ行った時TVで事件の報道をしている、テロップにカモテ、パタイと出ているが”芋に死亡”では意味が通らない、私のタガログの知識はそこまでしかない。後で聞いてみると芋の中毒で子供が多数死亡したのだった、私の解釈でもお触り程度は当っていた。

 数語でも知っていると意外な展開をする場合があるので、覚える努力をしよう

小父さんたちの台北

2006年03月07日 06時59分58秒 | バリ
 数年前のこと50前後の小父さん達5名で2泊3日の台北旅行をした。
私は失業中で金は無いが一行の一人が旅費を出すというので付いて行った。皆さんは喫茶店の経営者で小金を持っているのである。
メンバーの皆さんとは何回か飲んだ事もあるので顔見知りで、その中の二人は改装工事でお世話になった人なので気心は知っている。

 台湾は初めての方もおられる、かつて台北に”いい人”がいたとかいるとかいう方もいる。私は居候メンバーなので希望も言わずおとなしく振舞うつもりだった。この旅行の立案者は一番若い人で私を誘ってくれた人である、航空券だけを手配して宿は現地で探すとのこと。

 機内でたまたま知り合いの台湾のご婦人に会って話をしている、そのご婦人は那覇で食堂をしていてカツギ屋も兼ねている様なことを彼は説明した。で、宿が決まっていないなら知り合いを紹介するので一緒に台北まで行こうと誘われて彼女の迎えの車で出発した。ご婦人は台北でも食堂をしているようでその店で休んだ、レストランでは無くて食堂と言う感じの店だ。

 宿はその食堂の近くだった、宿泊のみの安宿だが私にとって不満は無い、旅費を出さないからという理由ではなくこのクラスの宿でも充分だし妻と一緒に泊まっても良いとおもっているからです。
夕食は台湾料理を食べに行った、芋粥に炒め物あれこれ盛り沢山の品を美味しく頂いた。
 時間も早いし散歩がてら観光しようということになりお決まりの龍山寺と華西観光通りへ出かけた。龍山寺は相変わらず賑わっている、線香の煙に油が燃える臭いそれにローソク代わりの豆球で山形になった光の山など雑踏に揉まれながら見物した。しかし小父さん達はあまり愉快そうな顔をしていない。そこで彼が買い物でもしようかと提案して場所を移動する。

 5名で行ったので移動するのに不都合だ、タクシーが2台必要になり場所が不案内なので運ちゃんに前の車を追う様に伝える。見覚えのあるところに来た、この通りは前に来たことがあるマックが在ってチョット歩いて筋に入って数件目のバー・・・と記憶と場所が一致した。
着いた所は林森北路。

 彼はある洋服屋に入って女ご主人と話をし彼女は電話を掛ける、そして彼が出てきて歩き出す。皆で付いて行き薄暗がりの事務所風のビルまで来ると男が出てきて二階に案内する。鉄製の扉の横に付いたインターフォンで連絡すると扉が開いた。
そこは洋品店で棚にはバッグが並びショウーケースにもバッグに時計、貴金属類が展示されている。もちろん売り子さんがいる。

 ブランド品を扱う店だが海賊版専門店のようだ。日本語が達者な売り子が”このビトンのバッグは新製品でまだ一般に出回っていないヨ。”とか”ホンモノの三分の一の値段ヨ。”とか売り込む。
生憎私は文無しなのでただ見るだけ、本物も気をつけてみたことが無いのでニセモノを見てもホンモノと比較できない。シロートが見て判るような品は置いていないだろうから珍しいものを見る目で見ていた。

 同行の小父さんは「空港で没収されないかネ。」
”どうして税関がわかる? ホンモノと同じヨ、商品を入れるこの袋はホンモノよりリッパよ。”と訳の分からない事を言うている。
奥さんへのオミヤゲの新作ヴィトンやローレックスを買っている。彼は持っているホンモノのバッグのイミテーションを買っている。ニセモノは普段持つのに使うそうだ、普段着と余所行きというところか。

台湾のニセモノ販売所はとても厳重な警戒をして販売している、当局の取り締まりが厳しいのだろう。我々以外にも日本人の若夫婦が来店したのでアングラ情報はけっこう流れているんだろう。

その店はまだ上手くやっているかな・・・

グァム

2006年03月03日 13時36分45秒 | バリ
 思い出を沢山作った楽しかったバリもお別れで夜の便で経由地のグァムに向かった。
早くバーが開かないものかと待ちきれずウロチョロしてスチュワーデスに追い返されたりもしながら連れや子供たちとワイワイ騒いだ。教育的見地からすると良くない事は確かだ。
応接間風にレイアウトされテーブルにはオードブルがありカウンターにはウィスキーのミニチュア壜が並んでいる。お相手してくれるのはもちろんスチュワーデスで、ウィスキーの銘柄を言うと必ず封を切ってから渡す。
子供たちはソフトドリンクにツマミを楽しんでいる。この無料バーがあるのを知らない人が多いようだ。大勢が詰めかけている様子はない、それとも無料だからとばかりに、鱈腹飲み食いするようなハシタナイ人が少ないということかな。

 グァムには夜中に着いた初めてのアメリカだ、行きは乗換の時間が短かったので入国しなかった。帰りのオキナワ便への乗り継ぎは朝まで待たねばならない入国手続きを済ませて待合室へ移動する。
良いが廻りベンチに寝入ってしまった、起きると家族の全員が白い目で見る、イビキが酷く恥ずかしかったとのこと。寝たらイビキをかいているという意識が無いので文句を言われてもどうしようもない

 夕べから危ぶまれていたのだがオキナワは台風で欠航になるという。24時間待機せねばならない。足止めを食ったのは勿論我々だけではない、世界のウチナーンチュ大会に参加されるハワイ県人会のおばさんたちもいた。大会で披露するのであろうかロビーでフラダンスの練習をして時間を潰していた。
添乗員、今回は添乗員が付いていたが子供連れ家族の旅行ということで自分の子ども同伴で来た。添乗員の仕事はあまり無いので我々と一緒に遊んだのが実情だ、その添乗員が県人が経営する民宿のような所に案内した、なぜか別途料金を請求された台風ような場合には旅行社は責任をとらないのかな。
しかし思いがけないグァム滞在となった。

 宿は急なお客なので食事の材料調達の買い物をスーパーまで行くと言う、散歩がてらご主人と一緒に行きスーパー見物(?)視察をした。
グァムはオキナワと同じ、基地の作り、道路、風景までも。魅力を感じなかった。一応アメリカなのでアメリカまで足を伸ばしたというだけのこと。誰かにグァムの自慢をされたら、僕も行った事があると嘯けるだけでもヨシとすべきだろう。

バリの方がグァムよりはるかに数段素敵な所だ。グァム

バッ・リッ

2006年03月02日 08時03分55秒 | バリ
 ”バッ・リッ”と書くより”ば~り~”がいいのか”ばり”がいいかやはり”バリ”か・・・
バリのイメージを表現する場合のことです。
妻や子どもにとって始めての海外旅行がバリ島だったのはラッキーだった。子どもが大人と同じように風景だに満足したとは思えない。楽しさから言えばデズニーランドの方が心底面白いだろう。

 しかしバカンスというのはこのような旅を言うのだとの見本を見せた面もある。バカンスなんて私も知らないが、映画を見たり本で読むと日本のパックツアーのように毎日時間通りの行動になっているのとは違う。家族や個人単位で一箇所に長期滞在してのんびり過ごしているように思われる。

 バリ旅行はそれを模した面もある、最初の二日間は全員一緒の日程を組んだが残りの日々は自由行動とした。もちろん子供たちも自由にさせた。
朝起きる時間も食事を取るかどうかも勝手にさせた、部屋割りの関係で子供たちとは別々の部屋になったので自由にさせやすかった。
前日”私は妻とあそこへ行きこうこうする。”一緒に行くなら9時にレストランにおいでと告げるだけにした。

 一緒に行動したり別々だったり、食事も取らずに寝ていたりプールで泳いだりと子供たちはこれまで味わえなかったフリータイムを過ごした。ただし海で泳ぐのは制限した。
ある時娘が髪を結ってきた、細い三つ網アタマいっぱい結うヘアースタイルである。海岸を散歩したら髪結いのオバアに誘われて値段交渉して結ってもらったとのこと。アタマ中数拾本の三つ網がぶら下っている、三つ網1本当たり10円ほどだったので結ってもらったと本人は言う。子供の小遣いで結える金額で可愛くなっていた。

 あのようなのんびりした旅はあのバリ以来無い、つまりたった一回のバカンス経験でした。インド洋に落ちる夕日を眺め、花の香りが漂う中のジャランジャラン、穏やかな人々の顔に緑の水田思い出すだけでも心が和む。
また行きたいな~
妻はその数年後にロンブク島まで足を伸ばしている。

バッ・リッ、ば~り~、ばり、バリ、文字で表現するバリ島は、気分によってどちらも使えるということにしておきます。

 余談だが、息子が高校2年生の五月の連休のときに、友だちの計画に参加するのか親と一緒に行くのか決めろと言うと、迷っている。
”友だちと行くのも楽しいが、お父さんなんかと行くと意外性があるからな~・・・”
その連休は息子も一緒に行動したか何処に行ったか覚えていないけど、高校生にもなる男の子が友達を取るか家族を取るかで迷う様を見て父親としてチョットだけ嬉しかった。

我々の家族は良い家族なんだ。

ガイドのダナさん

2006年03月01日 11時14分15秒 | バリ
 ガイドのダナさんは背が高く日本語が話せて勿論バリを知っていて・・・あとは・・
竹琴というかジュゴグも叩けて優しい人でした。

 6~7年前のこと私たちのツアーを企画した大黒柱の千ちゃんから連絡があった”ダナさんが来るのであつまろう!”と。
歓迎会は千ちゃんの自宅で催されたので私たち家族は全員で参加した。
彼の家は通りから暫らく歩かねばならない、車が通れないのだ、ただしスラム街ではなく風致地区なので建物の増改築を含めて街並みの景観維持に努めている結果なのです。

 通りはくらい、若い女性が前を行く、多分今夜の会合に参加する方だろうと見当をつけて声を掛ける、”サラマッ マラム”と。その女性はニコッと笑って「コンバンハ」と返してきた。
なぜ今夜のメンバーの一員と分かったかというと、その場での雰囲気・ムードがバリを醸し出していたということにしておこう。

 会場である彼の家に着く前からこうである、家は既に大勢のバリキチ、バリかぶれの皆さんで賑わっている。
彼千ちゃんを通してバリに縁が出来た人がワイワイがやがや思い出話に花が咲き、中央にはダナさんもニコニコ顔で坐っている。挨拶をしたがこれまで何人も受け入れているのですぐに思い出せないのもムリは無い。

 ただ数家族が一緒のグループは例が無いので思い出したようだ。子供たちも大きくなっている、改宗のお祝いの話をしたら娘を見て「あの時ウンコがしたいと言い出して自分の家まで連れて行ったよネ、」と言う。
あとで良い年に成長した娘は”あんなヘンナ事を覚えていて・・・"と不満げだった。

 ダナさんの今回の日本訪問は、大阪の人が何時もお世話になっているのでと招待してくれたついでにオキナワまで足を伸ばしたとのこと。
ダナさんは職務以上に世話をし、その人柄が好いので大阪の方もお礼で招いたのだろう。
 オキナワでダナさんに会えるとは夢にも思わなかったし、直接は知らないがこちらのバリ好きの皆さんともお近づきになれたのも全て大阪の方のおかげです。
ありがとう名も知らぬ大阪の人。

楽しかったこと

2006年02月28日 07時31分42秒 | バリ
写真が無い、あの頃はデジカメなんて無かったし・・・
家に置いてあるものでバリのものは・・
探せたら後日載せましょう。
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 レギャン通りについて書いたが、バリで最近もテロによる爆破があったがその爆破があったレストランがレギャン通りにある。先日ツアーの大黒柱的存在の千ちゃんが、”我々が食事した食堂の2.3軒先に高級なレストランがあったでしょう、あのレストランだよ爆発があったのは。”と話していた。
バリではガイジンーそこでは我々もガイジンの部類に入るーが多いところです。オーストラリアが近いためだろうオージーが多かった、あの頃も。
 
 と、レギャン通りの補足をして、バリ滞在中の楽しかった想い出を続けよう。
ホテルの前に海はある。クタビーチはインド洋に面した長さが数キロにも及ぶ見渡す限り砂浜で押し寄せる波は荒く高い。
サーファーにとっては素晴らしいところだろう。子供づれの我々は常に注意を払っていなければならない、毎年遭難者が出るようだ。波打ち際の膝の深さしかない無い所でも波が来ると頭まで水に浸かってしまうほどだ。その波が四六時中寄せてくるので気が抜けない。

 波に巻き込まれないように常に波に乗っているように注意して動いていた。波打ち際を散歩している白人の老夫婦が突然襲ってきた大波に巻き込まれた、波が引いたら浅いので二人とも立ち上がったが水中で揉まれたのだろう奥さんの水着は肩から外されてオッパイ丸出しの状態になっていた、そのくらい危ない浜である。
 半身のサーフボードを男の子からレンタルしたら子どものメンドウまでみてくれボードで一緒に遊んでくれた。ボードで波乗りするのは子どものみならず大人も楽めた。

 ある時はヌサドゥアのほうでパラセールに乗りに出かけた。モーターボートに繋がれたパラセールに乗るのである。操縦方法を教えてもらい順番に空へ舞い上がった。子どもはインストラクターが同乗するので安心して大空の散歩を満喫してきた。
地上ー水上かーわずか数十メートルだが上から眺める景色は格別だ、遥か彼方にアグン山が見え海岸端の椰子の木々に囲まれた建物、水平線、全てが感動を持って眺めることが出来た。
もっともっと漂っていたかった。

 ケチャックダンスを見に行った、屋外なので蚊が多く手で払うが気を抜いた瞬間蚊に刺されてボリボリ掻きながらの観賞となった。
演じるものはラーマーヤナからで王子と悪魔の戦いで、チャチャチャ チャカチャカチャカ チャッチャッチャッの独特のリズム発声に合わせて王子にサル王妃が入り混じって物語が進む。
かがり火の中で演じるので趣がある、興奮状態でホテルに戻った

レギャン夫人

2006年02月27日 09時23分40秒 | バリ
 レギャン通りはクタビーチ界隈で一番賑やかな通りだった、両側に商店や長屋風な市場が並んでいる。オミヤゲ品、日用雑貨、食堂・レストラン、銀行、役所(?)、宝石店等ありとあらゆる業種の店が続いている、そのうえ例の売り子も数知れず彼らが扱う品々の種類も数知れずでゴチャゴチャしていて見て歩くだけで楽しい。

 一緒に行ったご夫人達はこの通りを毎日ジャランジャランするのを楽しみにしている、それで自らをレギャン夫人と呼んでいた。値切り交渉を楽しむようになり数人で一人の売り子に集中攻撃して追い込むまでになった。バッグを買い翌日同じ品を買いに行ったら安くし過ぎて店主に叱られたのか幾ら攻めても前日の価格では売らなかった、これほど買い物を楽しめるようになっていた。

 布、トンボ玉、蔓製バッグ、装飾品など小物を見てブラブラするのは楽しい、毎日同じところを歩くのだがが新しい何かを発見する、それを自慢しあうのも又楽しい。
 あるとき私と息子の前に彫り物が施された棒を、持った男の子が現れて買えという仕草をする。1mほど筒で先に龍の頭と尻尾が付いている、”何か?”と聞くと口に当てて別のワシの彫り物の容器から針を取り出して筒に差込んで吹く動作をする。

 吹き矢だと気づいた、インドネシアは吹き矢を使って獲物をとると何かで読んだ覚えがある。まず息子が興味を持ち私も欲しくなったので別のデザインは無いのかとか付随する矢の数などを含めて何時もの様にやり取りした。1000円ほど出したがお面が500円だしチョット高かったかな。でも好い物が手に入った珍しいし飾り物になると思ったし暫らくは吹き矢せ遊び吊り下げて飾り物として当初の目論見通り使っていたが今ではエモン掛になってしまった。

 バティックで有名なティンガナンへ出かけたときご夫人たちは布を見に店に散らばって行った。集落は中央広場を囲むように周囲に住居がありその住居も入口が狭く中が見えにくいので店なのか住宅なのか分かりにくい。
布を見てもしょうがないので広場のど真ん中にある屋根だけのオープンな集会所らしき所に坐っていると竹製の打楽器ジュゴグの音が響いてきた。昼下がりの物憂げな太陽の光の下に流れる軽やかな響きがとてもよかった。その響きに誘われて行くと一軒の店でご主人がバスが着いたのを察して客寄せで鳴らしてた。手作りのようで飾りも何も無いがとても綺麗な音が出ている。

 街で見た楽器でガムランは欲しいが高くて手が出ない。ジュゴグは飾りが付いて彩色されたものがあり弾かなくても飾りとしても良いと思うが大きいので買うかどうか迷っていた。それに楽器としての性能判断に自信をもてない。
いま目の前で素朴な作りだが良い音色を出しているものがある。客が入ってきたのを歓迎するように演奏も益々熱が入っていく、品定めの時間のバックミュージックでもある。私は布は見ずに演奏を聴いた。
そしてそのジュゴグを指さして幾らかと聞いた、演奏者のご主人は布を方を見て何か言う、再度ジュゴグを指してこれが欲しいと言うとようやく分かったようだ。
3000円で折り合いが付いたのでバラして新聞紙に包んでくれた。

 バティックの店で楽器を買う変なお客と思っただろうが、あの時の音色は素晴らしくて心の隅々まで染みとおった。バリの人はあの程度の演奏レベルはフツーに持っているのだろう。あのジュゴグにしても村には竹を削り組み立てる人が2,3人はいそうだ、布を売るより利益が出たと思う。
私も持ち帰りるのにメンドウだったが我が家であの時と同じ音色を楽しめた。

いくらイクラ?

2006年02月25日 10時14分30秒 | バリ
本文と写真の関連はありません。
今では我が家の守り神となった一つです。
坐ったとき背中から見守っているのを感じます。

 バリは買い物およびその関連の思い出が多い、それほど売り子の接客態度がおもしろい。フツーの日本人なら買い物不信症になる恐れがある。(笑)

ジャランジャランー散歩ーに行くと寄って来る物売り、”センエン千円”と声を掛けながら寄って来る。手には当時流行ったプロミスリングー組紐のような作りの腕に巻きつけるリングーを持っている。「要らない」と無視しても引き下がる相手じゃない、3本にしてセンエンと言う、「要らない」のひと言。5本にする、「要らない」。10本にする、[要らない]要らない物は要らない、好い加減にしろ!と呶鳴りたくなるが大声を出すほどの事は無い、これもバリ風景のひとコマと割り切るのがお互いの為だろうと勝手に自分をナットクさせる。

 ”安いヨ安いよローレックスセンエン"と言うヤツまで現れる、こうなるとお笑いだ、ホントにコピー商品と呼べるのか疑問すら感じる。ホンモノのローレックスを知らないので比べようも無いが幾らなんでも千円とは・・オモチャと思われるよ値上げして偽者らしくしたら!とアドバイスしたくなる。

 物売りは客が買わないとなると最後に出す言葉は”イクラいくら”とくる、幾らなら買うのかという意味である、「こういうものに興味は無い、値段の問題ではない幾ら安くなっても買わない。」と言いたいが言葉が通じないので態度で示す以外に無いつまり無視。
 買いたいモノがある時は粘るのがイチバン、時間を掛けて交渉するのが最良だった、博打で言えばハッタリをカマスのも必要だ。バスが動き出す瞬間まで勝負するのである、その値段なら要らないという態度でバスに乗り込むと相手が折れる場合が多かった。もちろんこちらの提示額が原価割れしているのか断られて買えない場合もある、その時は別の場所で見つけるサと割り切ることだ。その場所でしか手に入らない物なんてそんなに有るわけじゃない。

 物の妥当な値段は幾らか。これはムツカシイ日本国内でも判断は難しい。
外国での目安は行く先で日給や月給を聞くそして1ヶ月の生活費から物の値段を割り出すのである。1ヶ月の賃金が1万円に満たない地域国は多い、日給500円にも満たない人が普通なのだ。
このような状況条件で物の価格を類推すると凡その見当がつく。一食で日給相当の食事をするのは年間何回あるか、自分なら昼食に日給の何パーセント掛けられるか、そういう感覚で計算するといい。
モノでも同じ、その品物を作るのに職人が何日掛かるかを推計してそれに芸術点や好み度を加えて自分なりの評価額を出してみる、それを基礎に交渉したら良い、あくまでも自分の価値尺度で判断する事が必要だ、他人より高く買ったからと嘆く事は無い少々高く買ってしまったとしても。
売る側にも生活があるのだと嘯こう。(笑)

丁々発止と駆け引きしながら買い物するのもバリ観光の楽しみの一つです。
「いくらいくら」は帰ってからも人気の言葉になりました。
このいくらいくら、はアジアの観光地の共通語と思うが如何でしたか皆さんが行かれた場所では

珍しいもの

2006年02月24日 18時32分39秒 | バリ
 紀行文によくガイドブックに載っていない穴場、とか地元の人しか知らない・・とかの記述がある。それは魅力的な言葉だ、しかし誰もが行くところは行っておきたい、訪れる人の大多数が行くというのはそれだけ魅力のあるところでもある。

 それゆえ私たちは既に書いたように、誰もが行くところは見た。やはり素晴らしい景色・光景があり、期待を裏切るものではなかった。残った日々は市場の中を歩いたり美術館へ行ったり泳いだりと思い思いの行動をした。当然ガイド無しの個人行動どうだった。

 このツアーの大黒柱である千ちゃんの友人であるガイドのダナさんから”今夜は自分ので改宗式があるので見に行こう。”との誘いがかかった。夜迎えに来るという。
はて改宗式ってナンだろう、今夜の改宗はイスラム教からヒンズー教に変わる儀式だそうだ。
バリはヒンズー教の島なのでヒンズーの方がビジネスとか暮らしに便利なのだろう。

 夜ホテルを出た、空は真っ暗で満天の星の上普段とは違う位置から見る星なので星座がサッパリ分からない。
「そうだ南十字星が見えるはずだ」と皆で探すがなかなかアレがそうだと言えるものが見つからない、車が来る頃になってようやく星を結ぶ事が出来た。見えすぎるのも困ったものだ。

 儀式のある着くと大勢の人がある方向へ歩いている、お巡りさんまで出ている、ガイドのダナさんから逸れないように目で追いながら子どもと手を繋ぐ。暫らく歩くと村芝居をやっているような所に出た、そこがその場所だった。
儀式は既に終えて祝宴が開かれている、庭の一角のような広場のようなところでロープで区切られている。ロープの中にテーブルが並び中央に本日の主役が坐っている、その周りはバリ独特のうず高く積み上げた果物やお菓子が飾られその他のお供えも並んでいる。

 お客さんも大勢いて飲みかつ食べている、舞台が作られていて可愛い娘さんが踊っている。私たちは主役の方に挨拶をして席に坐った、なぜこの場に坐れるか分からないがダナさんのカオの所為だろう。お祝いに招かれているので私たちは一家族千円程度を集めてご祝儀とした。

 ロープの外側にはの老若男女が集まりこちら側を見ている、こちら側というより目的狙いは舞台の踊りにあるようだ。踊り手は衣裳や様子から見て専門の人たちであった、先ほど踊っていた娘さんも場慣れした様子で踊っていた。
大勢の人に囲まれて飲み食いするのは勇気が要る、ハレの食だから当然ご馳走だ、ロープに手を掛けた子供たちの目がそれを物語っている。

 この雰囲気は子ども頃の部落行事を思い出す、大人は一品持ち寄りの酒宴で舞台は青年会や婦人会の出し物で賑わい子供たちは周囲を駆け巡っていた。その雰囲気を再現するかのようだった。

 コーラが出されたがそれが面白い、オープナーで蓋を開けるのでは無く太い釘で壜の蓋に穴を開けてそこにストローが差し込まれている、なんとも荒々しいコーラの飲み方だ。また蓋を開けるにも壜の口付近を2本一緒に持ち蓋のギザギザを片一方の蓋の上に被せる様にする、すると壜は段違いになっているその底を地面に打ち付けると上の蓋が開く。
100円ライターで開けるのと基本は同じ。

 改宗の宴の途中に長老らしき人が何か祈りか祝辞かを述べる場面もあり、舞台の踊りも続く、音楽はスピーカーで中に流されているし、しかも大音量なので大勢の見物人が集まるのもムリは無い。
儀式を受けているのは若い二人なので結婚披露宴の雰囲気に思われた、もしかして結婚を期にどちらかが改宗したのかもしれない。
よく分からないが、とにかく珍しいものに参加する機会があったのは良かった。

観光

2006年02月23日 09時35分03秒 | バリ
 バリは見るべき所が沢山ある。
見るべきというのは言い過ぎだが、見て楽しい場所おもしろいもの心洗われる光景がいたるところにある。

 せっかくバリまで来たのだからイチオウ見ておくべき場所は見ておこうと当初からの計画に従って2日間は全員で観光した。
ウブド、ヌサドゥア、キンタマーニ、ベサキ寺院、ティンガナン等がその代表的な観光地です。
それにガムランの演奏にケチャックダンスを見たり、影絵を見たりと見て楽しいものや面白いものも多くある。
それらをひと通り見て残りの数日間は各自各家庭の自由行動となった。

 ここで挙げた地名は有名なのでガイドブックで必ず紹介されている所です。沖縄で言えば首里城、海洋博記念公園、ひめゆり記念館のようなものでしょう。
10数年前の旅行であったが今でもそれらの場所やダンスを思い出せるのでバリは凄いところです。

 特に印象に残っている場所はキンタマーニへ行く途中の棚田、上へ上へと延々積み上げられた田圃は人間の営みの重さを感じた。三尺四方に満たない田を見て驚くやら呆れるやら、道端の小屋で一人で竹の木琴ジュゴグを弾いている、叩いているというべきか。軽やかな音が稲の苗を撫でながら登っていく、谷の向こうの田にも響いているのではないだろうか。
ここはバリだ~、バスを止めて暫し耳を傾ける。農家のオッサンが作業の疲れを癒して叩いているというシチュエーションがなんとも言えないほど良い。バリだ~。

 バロンダンスも演舞場で見た、観光客向けに常設されている。ラーマーヤナを読んでいると理解し易い、ケチャックダンスや影絵を見るときでもラーマーヤナの知識があるとその場面が理解し易いと思った。
演じられる内容は長い物語の一部分なので完結はしない、もともとラーマーヤナの世界は勧善懲悪では無くて、善と悪がせめぎ合いそれが延々と続き勝ち負けは無いようだ。物事の二面性を飲み込み混沌としたものがこの社会であると規定しているように見える。
善悪の神々やその化身が未来永劫戦い続ける模様を踊りや影絵にしている。

 とても可笑しかったのはホテルの庭で開かれた影絵の上演だった。スクリーンにワヤン人形の影がガムランの響きをバックに映し出される。語り手がストーリー述べながら人形を扱う、人形も人や動物に神話に出てくる想像上の動物のほかに善とか悪を象徴するものまである、それらを場面に応じて出したり引っ込めたりする。
 楽屋裏を覗くとガムランを演奏する人と座長なのだろう人形遣いの二人しかいない、座長は両手に人形を持って操るばかりか足の指にバチを挟み太鼓まで叩いている。動かす必要の無い背景となるモノは所定の位置にある道具に刺してある、それもストーリーに応じて換えていく。

 その上座長はストーリーを語りながらである、しかも三箇国語で語っているインドネシア語は当然で英語と日本語が加わっている。ヒドイ日本語で「あんた ナゼナゼわるいある、よい神たたかう・・」と抑揚をつけて話す、分かったのはその部分だけ後は意味不明の言葉が続く。インドネシア語、英語日本語と語っているつもりだろうが日本人に理解できない日本語、おそらく英語もその程度だったのだろう。

 語りながら人形を操り太鼓を叩くのを一人でこなしているのを楽屋裏から見てあまりの奮闘振りは日本語の下手さをカバーして余りあるものであった。帰ってからも独特の言葉使いと抑揚は時折り家で真似をしてウケた。

 バリは楽しいところです

ものの値段 値切る

2006年02月21日 07時11分56秒 | バリ
 ホテルからレギャン通りに出るまでの間、通りに出てからも両替商の店がある。店によりレートが違う、それほどの差は無いけどやはりムキになるものだ、店頭に表示されている数字を見比べて両替する。店によって円に強い、ドルに強い、中東に強い店があるようだ。

 このように努力して換えるのだから使うときも細心の注意を払う、つまり一生懸命値切る事だけど・・
この値切る行為はごく自然に訓練される、というのはホテルを一歩出るとそこにはミヤゲ品を売りつけようと待ち構えているがワンサカいる。

 いったいバリで物の値段・価格はどのように決定されるのか、経済学を専攻した私でも分からなくなり混乱する。(笑)
ある種の哲学基本原則を持たねばバリでの買い物はできない。
その原則とはいたってカンタン「必要な品を自分がその品に価値を見出す金額を払う。」というスタイルです。

 今様の言葉で言えば、「市場原理・自己責任」というところでしょうか。
例えばアクアー水の事ですーを買えと近づいてくる、最初は”300円”と言う「高い!」とひと言いい無視して歩く。”250円”未だ無視して店を覗きながらブラブラ歩く、まだ着いてきて”アクア200円"と言う、周りはタバコや絵画等の他の商品を売ろうとする人でいっぱいになっている。
頃合を見て「アクア100円」と告げると一瞬考えるようにして”OK”で商談成立となった。

とその時新参者のアクア売りが”安いヨ安いよアクア300円”と割り込んできた売り子には笑った。
100円の水を買うのに1マイルほど付き纏われ時間も小一時間は掛かっただろう。
 注)金額はウロ覚えです、そのような雰囲気だった、ということでご理解下さい。
また、その数年後妻が再度行ったときにはシツッコイ物売行為は規制されていたとのことです。

 ものの値段は一事が万事この調子だった。
ある時疲れたのでホテルまでTAXIに乗ることにして交渉すると1万ルピアと言う、高い5000ルピアにしろと要求するとダメという。暫らく押し問答いていると姿を消しして何処かからピくアップー小型のトラックーを持ってきて、これなら○○ルピアで良いと言うのでトラックに乗って帰った。

 その時私たちが30分も掛けて交渉して得たものは、50円ほど値切った満足感とトラックの荷台の硬くて尻が痛くなったことであった。(笑)
金額はホテルで落ち着いてから計算した結果なので、みんなに僅かな金でお尻の痛い想いをさせて・・・と文句を言われたのは当然であった。

ジューシー じゅーしー

2006年02月20日 07時45分57秒 | バリ
 バリも屋台が多い、道端でゴーゴーと唸り声を上げるコンロでミーゴレンを手際よく作っている。油を多量に使っているけど鍋でかき混ぜるとき麺から炎が上がっているのであの油も燃えてそれほど摂取せずに済みそうと思いながら見ていた。

 不思議なのは大きく丸いエビセンがご飯の上に乗ってくることだ。ライスとエビセンの組み合わせが分からない、エビセンの味が好きでないので何時も残していた。バイキングでは初めから取らなかった。

 珍しいものとして蛙のフライを注文した事がある、鶏のから揚げと変わらない味という印象だった。娘もよく食べた、お腹の下で足が開いている形で明らかに蛙と分かる、同行のご婦人たちはキャーキャー言うているが、勇気を持って口に入れたらアッサリ味にナットクしている様子だった。

 私はジューシー(雑炊)が好きなので食堂で注文してみた、もちろんインドネシアの言葉は数語しか分からないのでライスとかスープとかの英語を混ぜる。英語でも雑炊の作り方を説明するほどの力は無い。
身振り手振り英語日本語をあらゆる努力をしてウェイトレスに伝えた。みんなジューシーはは絶対に出てこないと興味津々で待っていた。

 注文した料理は次々出てきた、私はひたすら待つ、暫らくしてウィトレスが持ってきたものは紛れも無くジューシーだった。ジューシーがバリのレシピにあるかどうか知らないが雑炊は米文化の基本だよと子供たちに威張った。
今でも我が家の旅のエピソードの一つとして語り草になっている。

 ホテルは数室が一棟となっている平屋が点在し廊下は無く手入れされた花木が美しい庭園沿いを歩いて各部屋に出入りするスタイルだった。
部屋からロビーへ行くたびにメンバーの部屋付近から異様な臭いがする、ドリアンの匂いだ。私に食べさせようと買ってきたのとのこと、有志が集まったところで割って食べた。結論から言うと食べきれたのは私と・・・私だけだったかな。
買ってきた本人は溝に吐き出した、口に入れただけリッパというところか、残りの人は押して知るべし。

 私はマニラで数回食べたので味香りに慣れていた、初めて食べても美味しかったのに。味より臭いだろう、妻は喉の奥の臭いが何時までも無くならないと嗽やら飲物を何回も飲んでいた。口の中から臭いを無くそうとせずにドリアンの香りはあのようなものだと素直に受け入れた方が良い、そうすべきだ、そういうものだから。

 近頃香りが全く無いドリアンをスーパーで売るようになった。買った事は無いが匂いが無いドリアンなんてCM風に言えば、クリープの無いコーヒーなんて、ということだろう。
 ドリアンのお礼にマンゴスチンを買った、これは大好評だった、マンゴは美味しいがヤマトゥの半分近くは食べきれないという、ウルシ科の植物なのでしょうがない面がある。 しかしマンゴスチンは皆がみんな美味しいと言う、ただ食べ方というか割って中味を出すのが分からずに苦労するようだ。

 両手の指をしっかり組んで両掌で押しつぶすと割りに簡単に中味を取り出せる。あの真っ白いミカン状の実は外皮の暗紫色からは想像できない。一粒口に入れると甘酸っぱいジューシーな果汁が口に広がる、さすが果物の女王と呼ばれるだけのことはある。

 注)ジューシーとじゅーしーは、ジューシーはフツー通りのイントネーションでいい、汁気いっぱいのことで、
じゅーしー(雑炊)はウチナー訛りで発音する。中国語の四声で言えば三声の高さで一声のように発声する。

バリの印象

2006年02月19日 13時10分06秒 | バリ
 バリの風景は驚くものではなかった、ちょっとだけ違和感を感じたのは田の畦に生えている椰子の木だった。田も椰子も珍しいものではないが両方が組み合わさっている景色は見たことが無い。暫らくそのような風景を見ていると目にも脳にも慣れてしまった。

 人、人間に関してはウチナーンチュから見ると「バリんちゅ」は色黒だけどワッター島人と対して変わらない風貌をしている。これはアジア共通の現象だと私は思っている。
その人々の顔や様子がのんびりしているのがたまらなく好い。のんびりというより穏やかと言う表現が適切かな。

 みどり青々と育っている稲、水辺では水牛がゆったりと寝そべっている、石垣を積んで階段状になった田を見ると営々と築き上げてきた先人の偉業を受け継いでいる様子が窺える。受け継いで伝えるただこれが続いているだけのようだが、この単純に見えることがバリの豊かさに通じているのだろう。

 観光を終えてホテルへ戻る道すがら用水路に腰まで水に浸かりノンビリと坐っているお年寄り、その側ではしゃいでいる子供たちの姿を車窓から見ると見ている私も心が洗われる気分になった。
バリに魅かれるおおかたの人はこの光景に胸を打たれると私は考える。
あの老人は至福の時を過ごしているのだ。いつの日かその光景に溶け込んでいる自分の姿を夢見た。

 そのような牧歌的な景色とは裏腹にクタビーチ付近は別世界の様相だ。観光目当てに物を売る人に各種のサービスを提供若しくは押し売りする人が行き交っている。街を通ればなお目立つ、目立っているのは観光客の方だろうが観光客である私の方から見ると押し付けがましい物売りは目立つ。

 ビーチに寝転がりあるいはただボ~ッとしているだけであらゆる物が手に入る、飲物食べ物はもとよりマッサージや髪結いまで、さらに半身用のサーフボードをレンタルする人などが入れ替わり立ち代りやって来る。
始めはどう対処するのか分からず戸惑っていたが、あまりの多さに慣れてしまいあしらい方も学習して、すんなりかわしたり逃げたりからかったりと終いには物売りが寄ってこなければ何か物足りなさを感じるまでになった。

 タイや中国にも物売りがいるがあの時のバリの物売りほどしつこく付き纏う者には会ったことが無い。バリの人に言わすとあのような物売りはバリ島以外からの出稼ぎ者が多いとのことだった。
あの物静かなバリの人からは考えられないのでナットクしたが真偽の程は・・・

 バリの印象を感じたまま書いたが、ではバリでイチバン感じたのは何だと問われれば答えは何だろう。
目に見えるものはその通りだが、目にするものの裏側、時の流れに流されていないものにとても魅かれた。自然の風景はのどかそのものでその自然を残す心それが嬉しく心を打つ、バリヒンズー教の教えなのだろうか。

写真は、家に飾っていあるバリヒンズー教の神々です。
名前は知りません、順次掲載します。

レギャン夫人

2006年02月18日 08時55分26秒 | バリ
 当時コンチネンタル航空が就航しており、グァム島を経由してハワイやアメリカ本土、バリなどへ行けた。
当然私たちもコンチでバリへ発った。グァムでの乗換時間は経った1時間しかなく連絡通路を走った記憶がある。

 コンチはサービスが良くて、飛び立って暫らくするとバーが開く。
応接セットが置かれたスペースがあった、ファーストクラスを改造したのか別にファーストクラスの席があるのかそのクラスに縁の無い私には分からない。
とにかくバーではアルコール類とツマミのサービスがあり、しかも無料なのだ。飲み放題だが節度を持って飲んだ。(笑)

 飲んでいると時間も気にならない、そうこうするうちにデンパサール空港に到着する。我等の大黒柱千ちゃんの友人でもある現地ガイド・ダナさんが向かえてホテルへ行く。
ホテルはクタビーチを路一つ挟んだところにあった、海端に位置するホテルと気づいたのは夜が明けてからであった。なにせ到着時間が深夜だったから。

 ホテルではウェルカムドリンクは勿論だがガムランで出迎えてくれたのには全員ビックリうっとりだった。
ホテルはコテージスタイルで受付ロビーは壁無しの建物で、部屋へは手入れの行き届いた庭の中を歩いていく、コテージが幾棟もある。バリでは椰子の木より高い建物を建ててはいけないそうだ。

 朝の目覚めも軽やかに気分は上々空気も熱帯のそれ。
朝食のためにレストランへ行くとガムランの音が響く、ガムランというのは正しいのかな竹製だから・・・と調べるとジェゴグというそうです。
そのジェゴグの響きがこれまたなんともいえない雰囲気を醸し出している。ジェゴグの響きと同じように長閑(のどか)ゆったり、のんびり、時はゆったり流れている。
これがバリか~しあわせ・・・

 ナシゴレン、ミーゴレン、ナシチャンプルーにフルーツでお腹いっ~ぱい、またまたシアワセ感に浸る。子供たちにも自由にさせて朝ごはんは10時までレストランは開いているから食べたければそれまでに起きなさいと告げてある。

 海辺のホテルなのにプールもある。プールサイドのベンチに金髪女性それも若い子が寝そべって本を読んでいる、それがトップレス。ジロジロ見るのは憚られる、しかし見たい何気なく自然に見たい(既に自然ではないが)とあれこれアタマの中で策略を廻らす。こういう場合は子どもをダシに使うのがイチバンだとばかり追ッかけっこを装うとか、水掛遊びをするとかの工夫を凝らした。

でも我が妻は既にお見通し、いやまあそのお・・・
レギャン夫人のことを書こうと思ったが今回はレギャン通りまでは行き着けませんでした。