どこ吹く風

旅のことを主に書く。

西安交通大学留学生の集い

2008年06月02日 10時26分21秒 | 懐かしい旅の記録
 昨年の9月西安交通大学へひと月語学研修へ行った仲間が久しぶりに集まった。そのとき沖縄大学の学生8名も一緒だったが、学生を引率し且つ我々の面倒を見てくださった王先生が教授に昇任したのでそのお祝いをしたのだ。

 研修をサボって老年組だけ九塞溝・黄龍観光へ行けたのも、西安出身の王老師が知り合いの旅行社に掛け合って手配してくださった労が大きかった。その九塞溝で他のメンバーは民族舞踊観賞へ出かけたが、私は残ってホテル前の通りの見物を選んだ。王老師もご一緒くださったの大助かり、また買物の交渉や風物の説明を受けた。帰り際には串焼き屋で羊の串焼き肉を片手にビールを飲んだ。中国では黙っていると生ぬるいビールが出てくるので冷たいビールを持ってくるように注文せねばならない。冷たいビールが欲しいと先生に言うと、自分で注文しなさいと注文のやり方を教えられ、シドロモドロで注文し、冷たいビールが出てきたときはホッとした。

 前回このメンバーが揃ったのは王先生の家で持たれた餃子パーティだった。そのときも大いに飲み手造りの餃子を腹いっぱい食べた。今回は中華料理で我々の団長を務めた方が良く利用している店で、団長お好みで一品料理を10品選んであった野菜、鳥、牛、豚などの品々で舌と腹、別腹を満たした。

 私たちは初級クラスなので皆さん全員がインタカマンター、ユヌムンと同じ、つまり似たようなもので語学力が大して伸びていないのが救いだ。(笑)
みんなが揃えばやはり中国の話になる、西安での想い出に九塞溝が地震でどのようになったかというのも気がかりだ。あの風景は残っているだろうか、石灰岩の池が五色に輝いていた黄龍は無事だろうか。

 地震の後つい先日西安へ行ってきた王先生の報告もあった。テレビが伝える救援活動の様子に全国的に展開されている募金の話に、既にここで募金活動をしているメンバーがいるので微力ながら協力した。そして性懲りも無く来年も又研修へ行きたいものだ座は益々盛り上がったところで、次は11月に集まろうと日時まで決めて散会した。
つい昨年知り合ったばかりのメンバーだが中国語という終わりの無い勉強が縁なので、長い付き合いになるだろう。

 とりとめめの無い話になってしまった。(汗)

揺れる

2008年05月24日 10時47分28秒 | 懐かしい旅の記録
 ゆらゆらフラフラ揺れているこの心の揺れは地震の所為だけでは無い。
今年の九塞溝はほぼ諦めざるを得ない状況になった。そこで他の地域をと考えている。まず思い浮かべたのは妻が前々から行きたがっているイタリアである。私もミラノからスイスへ入るルートもアルプスを裏から(失礼な言い方かな)見ることが出来るしと旅行社からパンフレットを貰い基礎知識を調べ始めた。

 見るべき地域とその地域で見るべき場所はツアー内容を見る、そこに載っている場所が有名どころでツアーは違っても殆んどのツアーが立ち寄る所はその国その地域で行くべき場所といえる。歴史や文化・芸術に格段の興味を持っているわけでもないので、みんなが行く所へは行って見るというのが基本的な態度だから、ミーハーと言われようと其処へは行きたい。表も見ずに裏街道へ行くのもナンだし・・・というところ。

 スイスへも寄りたいのでミラノから入るのが良かろう。ベネチア、フィレンチェ、ローマ、ナポリを廻り途中のピサ、アルベロベッロやシエラ、マテーラまで足を伸ばせば充分だろう。ミラノから南下しながら、又戻る時の途中で寄り道すれば全て廻るのも無理ではない。
 私としてはローマやベニスは若い頃の映画のシーンが蘇るという意味で見たい気もするがそれほど強い希望ではない。是非行きたいのはナポリからのポンペイ遺跡とカプリ島の青の洞窟である。とすると日程は・・・
自分勝手な素案ー粗案が正しいか(笑)-を纏めつつあった。

 ところがあることを思い出した、ナポリのゴミ問題である。ゴミは見なければいいし我々ミーハー観光客が行くような場所はさほど酷くは無いだろう。しかしゴミ問題の背後にあるマフィアの関与を考えると、ウキウキした気分が急速にポシャッてしまった。国家機関のあらゆる部署がマフィアに侵されているような国のイタリア、陽気さの裏の厭な部分を思うと急に気分が乗らなくなった。マフィアの事と私たちのイタリア観光は丸っきり関係の無い話だが、酷い国を観光するのも何となくシャクだ。

 イタリアで是非見物したいところはボンベイと青の洞窟のあるカプリ島、あそこへは行きたい。ところがボンベイとカプリ島はナポリが玄関口となっている。ん~っ・・
というわけで私の旅モードが停まってしまった。
何も今決めなければならないことも無いので暫らくーミステリーツアーが終わるまでー考えるのストップしよう。行かないより行ったほうが楽しいに決まっている。
でも・・揺れるな~

地震のあと

2008年05月20日 14時20分45秒 | 懐かしい旅の記録
 1999年9月台湾で大きな地震が発生した。その時の避難所の様子をテレビで見ていて感じた事は、さすが中国人避難所での食事内容が違う、見慣れたニッポンでの避難所での食事風景はおにぎりが定番だが、テレビには所謂中華料理風の品々が並んでいた。地震の被害よりも妙なところにカンシンしたことを覚えている。
 台湾という発達した国だからという面と、大災害とはいえ範囲が狭かったのであのような対応が出来たのだろう。

 その翌年2000年の春家族で台湾旅行をした。台中から東西横貫公路をバスで通り太魯閣へ、そして花連へ抜ける計画だった。しかし復旧状況が分からない、道が通れるのかどうかさえ分からなかった。それでも何とかなるだろうと気楽に考え家族4名に妻の妹とその娘の総勢6名で出かけた。
台中からバスが出るはずの横断バスは道路が決壊し普通となっている。代替バスが出ているようで、その路線は震源地の集集から口甫里に出て、霧社を経て山岳道路で大禹嶺にでるルートであった。霧社の手前で小型バスに乗り換えて山道をグングン高度を上げていった。冬には台湾唯一のスキー場となるところも過ぎた。

 この小型バスは大禹嶺から梨山へ向い太魯閣へは翌日のバスしかないという。休憩した大禹嶺の茶店で相談すると白タクをやってくれるというのでお願いした。この交渉には乗客の英語を知っている若者を仲介して行なった。おかげでその夜太魯閣まで辿り着けた、斡旋してもらった若者たちに峠の茶屋の兄ちゃんには感謝しています。
その兄ちゃんからビンロウとかビンナンという噛みタバコ風の檳榔を勧められた。噛んでみたが、どうって事はなかった。眠気覚ましや覚醒作用(同じことか)があるとのこと。「おはよう」だけしか日本語を知らない白タクのドライバーと、当時は”ニイハオ”すら知らなかった私との会話ですからトンチンカンなものであったが、3時間近くの真っ暗なしかも細い山道をぶっ飛ばすお兄ちゃんをヒヤヒヤしながら相手しました。

 旅行は無事予定通り終わった、しかし震源地に近い東勢とか和平、震源地の集集を通った時は壊れたままの家も多く、道路は仮修復という感じである。幹線道路の復旧を急いでいるように思われた。
台湾ですら復旧はこの調子であった。今回の四川大地震は規模がその何十倍にもなるだろう、住民が落ち着くまでには相当な年月を要するだろう、中国政府にはシッカリやってもらいたい。
落ち着いたら絶対に行くべき地なのでその日が早く来るように祈るばかりです。

 地震の被害について書こうと思うも、思い出話になってしまった。繰り返すが、立ち上がれる日が早く来ることを期待しています。

ドゥフミー

2008年05月06日 11時17分35秒 | 懐かしい旅の記録
 旅行案内のパンフレットでスイスの謳い文句は、三大名峰、氷河急行、フラワー、ハイキングである。訪れる地域はアルプスではユングフラウ・アイガーのベルナーオーバーランド、マッターホルンのチェルマット、ベルニナそれにフランスではあるがモンブラン・エギューデュミディのシャモニ、都市部ではベルン・ジュネーブ他二三の街となっている。又こだわりのホテルと銘打って何処何処ではスーペリアクラスに二連泊ということも書かれている。中には山岳ホテルに泊まるのを特色としているものもある。

 うんウンあそこからの景色は素晴らしかったと写真見て、謳い文句を読み日程はどうなっているかと目を通す。まあツアーならこんなものだろう、でも勿体無いせっかくアルプスへ行くのだからもう人工夫欲しい、とかナンとかチョット自慢げにニヤッとして薀蓄を垂れたくなる。
計画を立てるときツアー案内から地名を抜き出して、せっかくスイスへ行くのだからみんなが行く場所はひと通り行きたい。その上で何処かここは・・とかこれは・・・とかのツアーでは体験できないものを加えた。個人旅行はツアーよりも費用が掛かる、それでも個人で行くにはそれに見合う計画を立てねばならない。
それは日程・時間に縛られて美しい風景を見ること無しにその地を去り次へと移動することはしたくない。しかし見るべき所は全て廻りたいので湖のクルージングも経験したい峠めぐりのバスにも乗りたいと欲張りな日程を組む。

 元を取るというある意味ケチな考えが根底にあるので、たった2回のスイスだけど有名どころはほぼ廻った、アルプスに関連する地域ではあるけど。
 山岳ホテルにも泊まった。ホテルについてはせっかく山に行くのだからより高きところ、山により近い場所へ行きたいという気持ちがあるのと、麓よりも山岳ホテルが安いのでそこを選んだという理由もあります。
チェルマットは安宿といわれる山男が泊まるといわれるホテルでも素泊まりで65フランと言われた。其処よりも20フランかけてシュワルゼーまでケーブルカーで登り2食付で80フランの山小屋に泊まるのがいい。マッターホルンが間近に見える絶景の地である。
たまには贅沢しようとゴルナグラード クルムホテルやリッフェルベルグホテルにも泊まった。私たちには山小屋ではなくホテルだった。ちょっと高めの140フラン、120フランだがちゃんとしたディナーなのでチェルマットで泊まり、レストランで食事するのと変わらないだろう。

 山小屋は”こんなものだ”と気楽に考えて泊まれば悪いものではない。むしろ旅の目的風景を堪能する事に関しては最高の場所となる。朝焼けに夕焼け、その光に映える山々ふもとのホテルより数倍もの価値がある。
高い場所にあるホテルはチェルマット付近ではゴルナグラードのリッフェルアルプリゾートは格式が高すぎて我々にはムリだが上記の三ヶ所には延べ5泊した。
ベルナーオーバーランドでは、ミューレン、フェルスト、クライネシャイデック、メンリッフェンで泊った。人も少なく山を間近に眺め雄大な景色を独り占めした気分になった。この気持ち良さは二段ベッドに共用のバストイレという条件をも吹き飛ばす魅力がある。ツアーの日程を見ながら我ながら上手い日程を組んだものだとドゥフミー(自画自賛)している。

 この連休は1日だけのドライブでオワリになったけど、心の中は九塞溝・チベットにアルプスと見果てぬ夢を追っている。

中国の詩詞

2008年04月26日 11時24分10秒 | 懐かしい旅の記録
 中国に関するサイトを漫然と巡っているうちに、西安交通大学の金中先生のことを書いてあるのを見つけた。昨年西安交大で語学研修を受けたとき金先生から歴史の講義を受けた。東京外語大の大学院で学んだので日本語が達者どころか古文や和歌に詳しく、西安まで来て中国人から日本の詩歌を教わるとは思わなかった。
そのとき中国の詩、李白杜甫などの詩いわゆる漢詩を中国語で楽しむことを教えてもらった。「詩詞」と呼び独特の抑揚で詩を吟じる。その音韻がたまらなく素晴らしい。日本の詩吟とは違う。あのようなハデさというか大きな抑揚は無いが響きがいい。

http://www.jinzhongshici.cn/second3.html
金中先生の詩詞朗誦です。

 先生が朗誦している声が聞こえるサイトが復活している。私たちが教えてもらったURLは仮のサイトだったようだ。久しぶりに先生の朗誦を聞いた。ニーハオ程度の漢語しか知らない私でもその詩が持つ美しさが分かる。もっと中国語が分かるようになったら詩の美しさも広がりを持つだろう。

 金中老師のサイトはたまたま再発見したのです、サイト巡りの目的は旅行の下準備の一環でした。チベット問題がどうなるかと様子見をしているけど膠着状態で変化なし、九塞溝はチベット問題に関係なく行くとして、旅行全体をどう組み立てるか迷っている。この際チベットをあきらめて四川省を中心にした地域にしようかとも考えている。
チベットは行くとしても今回は清蔵鉄道に乗るだけでチベット観光は特に考えていない、ラサで歩いて行動ができるか、という体験を実際に試してみただけです。高地で歩いて行動できるなら次回はカイラース巡礼へ行きたい、あるいはその近くまで行きたいその前段の旅という位置づけです。
それ故に僅かな日数でもラサで滞在したい。

 それでも行けない場合のことを考えて、どうするかということも考える時期になってきた。あっさりイタリアでもと頭をかすめることも無きにしも非ず。でも7月は航空運賃が高いのでイタリアなら秋まで待とうか。

 個人旅行の強みは2週間もあれば手配かれこれを含めて準備が出来るのでムリに急ぐことも無い。
送別の辞を聞くのは何時のことか。

送元二使安西  王維

渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勸君更盡一杯酒
西出陽関無故人

天空の旅は・・

2008年04月21日 21時40分45秒 | 懐かしい旅の記録
 天空の旅と大上段に構えたカテゴリー名を付けた九塞溝・チベットへの旅はただいま停滞中。その大きな要因は中国のオリンピックとチベット騒乱です。またオキナワ香港の直行便が飛ぶようになれば、中国国内への乗り継ぎも多岐に渡る選択肢ができると期待して、様子見をしていた面もある。

 中国の事情は相変わらず動かない、変化が見られない。また香港直行便について言えば期待はずれだ。香港から先は系列社との連携ー乗り継ぎの便宜ーは無いようだ、つまり香港以降はノーマル運賃になると旅行社に言われた。せっかく期待していたのに何のメリットも無かった、ザンネンのひと言。

 まだ今年の中国旅行を諦めたわけでは無い、しかし気分的にはちょっとだけ遠のいた感じは持っている。旅行社に香港便を問い合わせに行ったついでに持ち帰ったスイスとイタリアの冊子を見ていると、またスイスへ行きたくなった。あの美しい景色の中を歩きたい。
妻も「秋にイタリアからスイスへ廻るコースはどうか」と言う。
”それもいい、しかし中国はまだあきらめていないよ。”と心は動かされたものの一応そのように返事をした。南回りでミラノへ飛んでイタリアを巡りスイスで締めくくるのも好い案だ。
でも第一希望地は中国であることに変わりは無い。

 先日阪急交通社から旅の情報「トラピックス」を送ってきた。今頃送られる手来るのはシーズン的に高い価格設定がなされているであろうから真剣に見る気がしない。それでも一応目を通した、その時は気づかなかったが先ほどアレッと思ってもう一度確かめた、やはり中国が入っていない。中国ツアーが一つも入っていない、何故だろう。
チベット問題が影響しているのかな。それにしても全く載せないというのは妙だ。この連休の中国ツアーは3割減とか5割減という報道もあったが、ゼロにするほど影響があったのか。
中国への旅行者が減ると逆に個人旅行がし易くならないだろうか。淡い期待をしている。

幾らいくら・・

2008年04月20日 08時57分54秒 | 懐かしい旅の記録
 私は優柔不断な性格である、その証拠にモノ売りから「いくらいくら」と幾らなら買うのかと問われると咄嗟に答を出せない。自分に価値基準がないのだ。センエンでは高いけど幾らなら買うのか・・相手が値下げしてきて適当な段階で手を打つことが多い。シッカリした心構えが必要だと痛感する。
 モノには値段があって無い。矛盾しているようだが最終的にはモノの値段はそれの必要度とそのモノが持つ価値との比較でしかない。必要度と価値は各人違うので値段に差が出てもしかたがない。こう割り切らないと外国での買物特にオミヤゲ類は買えない。しかし価値を見出す目を持たないのが哀しい。
それでも高いものを買わされるのはシャクなので交渉となる。道端での物売りは生活が掛かっているが私には遊びなので真剣さが違う。だいたいぶっ掛けられた価格で買っているだろう。

 バリ島で物売りのもの凄い洗礼にあい対応を学んだのでその後の海外旅行で大いに役立った。タイではほんの数十メートルしか追いかけてこないのでなんか拍子抜けしたものだ。
初めて中国へ行った時西安の兵馬俑入口で例の如くモノ売りの若者がオミヤゲに兵馬俑の5人セットの焼き物を買えと寄ってきた。適当にあしらっていると千円が5百円になった。このような品物を渡す人がいないので断っていた。それでも言い寄ってくるのでポケットにあった100円硬貨を見せてこれしか持ち合わせが無いと言うと、それで良い言われて買うハメになった。やり取りは全て身振り手振りです。
百円でも儲けはあるのだろうか。
 別の観光地で呼び止められて、お金を交換してくれと言われたことがある。相手の日本の硬貨を紙幣と交換してもらいたいとのことであった。硬貨は表でもヤミ両替所でも扱わないので紙幣にしたかったのだろう。私のように硬貨を払う人も多いのだろう。

 中国では物売りにぶっ掛けられるよりもマトモな店に見えるところでヤラレタという感じがした。昼食を取るレストランで美味しい漬物が出てきた。オミヤゲ用に小袋に入れたものを特別この店だけで販売している、安くするので買っておくほうがいいとご主人直々の宣伝文句に何袋か買った。ところがトイレ休憩で入ったガソリンスタンド併設のコンビニに同じ品が並んでいて、しかも価格がヒジョーに安い。
さすが商売上手な中国人だとハラが立つやらカンシンするやら。連れ込まれた店で買うということはこうなるということでしょう。

 オミヤゲを買うときは騙されたと思っても、そのことが想い出になるので元は取っていると我が身を納得させるのがイチバンでしょう。

いくらいくら

2008年04月17日 22時42分05秒 | 懐かしい旅の記録
 初めてで最後となっている家族揃っての海外旅行はバリ島だった。クタビーチとは道路一つ隔てたホテルに滞在して朝から晩までのんびり各自気ままに過ごした。小・中・高生の子供たちにも起きたい時に起きて好きなように過ごさせた。ただし海で泳ぐ時は必ず一緒ということにした、あの海は何時でもサーフィンができる大波が押し寄せているので危険な浜である、親が居ないときはプールのみとした。私もよくプールで泳いだ、オーストラリア娘がトップレスで日光浴しているプールサイドをウロチョロする為に。

 キンタマーニ、ウブド、ベサキ寺院の見物等ひと通りの観光を到着後の二日間で済ませ、後はクタビーチで波と戯れ美術館や市場見物、昼寝などゆったりした時間を過ごした。中でもレギャン通りのジャランジャランは特別で毎日の日課となっていた。通りに入る前から物売りが纏わり付いてくる。「ヤスイよ安いよ」「センエン千円」と当時流行っていたプロミスリングや絵画、彫り物、水に玩具など様々なモノを手にして寄ってくる。”要らない”と言うと1本を5本10本と数を増やしてくる。数を多くしても要らないものは要らない。ようやく振り払って先へ進むと未だ付いてくる、それどころか新たな売り子が出てきて「ヤスイよ安いよ」「センエン千円」から始まる。
”もうそのセンエンの段階はとっくにオワッタというの”と笑ってしまった。いくら数を増やしても買わないと見ると、逆に「いくらいくら?」と本当にカタコトのニッポン語で聞いてくる。幾らなら買うかというところでしょう。
要らないものは幾らでも要らないものだ、と伝えたいけど言葉の壁で通じない。「センエン千円」から「いくらいくら?」になってもノーと短く言うだけだった。

 あのしつこさはもの凄い、300m、500mも後に付いて来る。1個センエンの品が10個センエンになる、どれだけぶっ掛けているのだ、まったく。道端の物売りだけでなく商店でも相当掛けられているであろうからそれ相応に値切らなければならない、という心境になる。言い値の1・2割から始めて歩み寄り交渉成立となるけど、その間にはもう買わないと素振りで店を出るのもテクニックの一つ、また同行者との連係プレーで値下げさせたりと丁々発止のやり取りを我がご夫人たちは楽しんでいた。
しつっこい道端の物売りへのウップンを店で吐き出すようなものだ。

 ある時レギャン通りの外れまで来てしまったのでtaxiでホテルへ戻ろうとドライバーと料金の交渉をした。すると1万ルピアと言う、5千にしろと言うも出来ないとの返事がきた。それでも粘るとチョット待て・・と暫らく消えてピクアップで戻ってきた。これなら8千ルピアでいいという。納得できないのでもう少しどうにかしろと話し合いを続けて7千5百で決着してピクアップの荷台に乗って帰った。
よく考えてみるとこれほど時間を掛けて値切った金額を円に換算すると200円を僅か上回る金額である、その金額でtaxiがピクアップの荷台になり、最後の50円をまけさせる為に更に10数分の時間を費やしたのには自分で自分を笑ったものだ。
 
 値切るのは金の問題だけではない、自尊心やミエが絡み合っているのだ。

ベリーダンス

2008年04月10日 09時17分14秒 | 懐かしい旅の記録
公民館でダンスを習い始めて3年経った・・・4年経かもしれない。ウォーキングは暑い中黙々と歩かねばならないので続かなかった。そこで替わりに始めたのがダンスです。これがけっこう面白くて2ヶ所のサークルに所属して練習している。

 体力増強の為に健康シェイプアップ教室にも通っている。ある日準備体操のストレッチのときトレーナーが「腰を回して・・」と指示したので腰を回した。するとトレーナーが私を見て笑っている。私以外の人は腰を軸にして上体を回している、私はというと肩と膝を固定して腰・尻をグルグル回したのである。これが奇妙なカッコウに見えたのでしょう。ダンスでは肩をブレさせないと常々言われていたので当たり前のように腰だけを回したわけでので笑われた。

 トルコツアーに参加したときのこと、カッパドキアでベリーダンスを観賞する機会があった。その会場でライオンのミルクと呼ばれているラクという酒を初めて飲んだ。ウチナーグチで言えば”いーちょーばーカバする酒”だった。あの香りはアニス(ういきょう)と言うらしい。そのラクを恐る恐る舐めながらベリーダンスを見ていたらお客さんを引っ張り出して踊り子と一緒に腰をくねらせるお遊びがあり、前の方に陣取っていた私にも誘いが掛かった。
 私はこういうことを好きなタイプなので数名のオジサン達に混じって腰を振った。なかなか難しいものです。レースの腰巻を腹に巻いて腰ならぬハラをブルブルさせるのはブザマそのものだが旅の恥は掻き捨てとばかり一人で悦に入っていた。膝を着いて坐り(と言うか立つというか)腰を振りながら後ろにそっくり返える動作ができたのは私だけだったようだ。(と妻が後で話していた。)
これは日頃の鍛錬のおかげでしょう。(笑)

 ベリーダンスは卑猥なものではなく、アチラでは真っ当な踊りである事も見て始めて知りました。卑猥とかナンとかは見る側の意識が大きく左右するものである。私のベリーダンスは卑猥と言うより醜悪であっただろう。
写真は舞姫と私、公開するにはこの程度ボケてちょうど良い。

タイでのパレード

2008年04月05日 06時55分15秒 | 懐かしい旅の記録
パレード
 タイの中北部に位置するピサヌロークに泊まった時のこと、オプションの夜店見学に参加した。集合時間になりロビー前に行くとサムローという三輪自転車が並んでいる。自転車の後にリヤカーをくっ付けた形の三輪車で座席があり人が座れるようになっている。サムローには竿が立っていて電球が飾り付けられている、棒状のもあり、アーチ状のもありドライバーの気の入れ方が分かる。フィリピンのジプニーの小型版というところか。
 30数名のツアー客が乗り込んだ、定員は一人なので結構長い行列となった。真っ暗な夜道をイルミネーションの飾りが付いた行列が通り過ぎるのを見ている子供が手を振る、中には大人まで手を振っている。乗っている者としては気恥ずかしい、暗くて顔は見づらいけど気恥ずかしい。身を乗り出して前や後をみると点滅する長い灯りが見える、田舎のお祭りの山車に乗っている気分だ。

 しかもバイクに乗ったお巡りさんが二人同行して交差点では優先的に通れるように交通整理している。交差点を過ぎると次の交差点へ先回りする。これは観光客に対する警察署のサービスなのか金の力なのかは分からない。街外れにあるホテルから夜店のある繁華街までノンストップのパレードとなった。ウキウキもしたけど気恥ずかしさもあるが悪い気はしない。観光客をこのような迎え方をしてもいいと思った、地域住民の感情はどうか知らないが、金を掛けずに観光客のテンションを揚げる良い方法だ。

 オキナワも観光立県を目指している、そこで観光客の駐車違反や時間帯による交通レーン違反を大目に見てはどうだろうか。注意だけにとどめて違反切符を切らなければ喜ぶだろう。金を落とすお客を歓待する一つの方法になる。観光客に少々の特権を与えても良い。

 夜店では「空飛ぶ野菜」を見て、娘が参加して大笑いした。何てことは無いのだがこれで名物になってガイドブックに載るほどなので、その意味では大したものだ。半分バカバカしさがうけているのだろう。
その後名物の虫のから揚げをあの虫、この虫と試食してオミヤゲの缶詰を買った。思ったほどの違和感は無い、種類によってはパサパサして不味いのもあったけど総じてスナックという感じだった、我が娘たちも口にして品定めをしていた。

サムローに食用の虫はタイのもう一つの文化なので貴重な体験をした。特にサムローのパレードはツアーならではの出来事でしょう。

中国 トイレ事情

2008年04月02日 09時51分31秒 | 懐かしい旅の記録
 送られてきた海外旅行の冊子を捲っていると見覚えのある写真に思い出の地名が目に付いた。懐かしさと憧れの入り混じった楽しい気分になったので写真を開けてみた。まずスイスの写真をスライドショーで流しながら見て、マチュピツに移る、随分時間も掛かるがなかなか止められない。
写真を眺めていると次々と想い出が蘇ってきた、写真とは関係の無いことも思い出す。

 家族で北京・西安・桂林・上海9日間のツアーに参加した時のことです。1日当たり1万円を切る旅費なので応募したしたツアーで、添乗員は若いオンナの子という感じで未だ慣れていない人だった。現地ガイドに言いくるめられるのを客が後押しして頑張らせるという頼りない添乗員だった。
それでも若いオンナの子というのは得なもので、お客さんからは大きな不満もでずむしろ可愛がられたのじゃないだろうか。

 最後の夜は上海で、夕食会場はホールがあり食事のできる小部屋もある中層の建物だった。ホールでは結婚披露宴が開かれておりエレベーターの前には華やかな服装をした若者がいる。二卓のテーブルに分かれて次々と運ばれてくる料理に箸を出したいたら、突然”オ~ッ!”という感嘆の声が上がる。振り向いたらチャイナドレスに身を包んだ娘さんがいる、よく見ると添乗員だった。
前々から一着は欲しかったので買ったそうで、真っ赤な大きく割れたチャイナドレスはとても似合っていた。記念写真の申し込みが続き、順番待ちで私たちも撮った。添乗員としての役目は若干不足していたけどこのハプニングで帳消しどころか大きく株を挙げた。
若いってことは素晴らしい、いやそれは「オンナの子」という語が加わって成り立つのかな。

 座も盛り上がったところだがトイレに行きたくなってトイレの場所を聞くと、ホールの後ろ側にあると言う。廊下が無いのでトイレへ行くにはホールを通らなければならない。しかも花嫁・花婿が鎮座している雛壇の後ろがトイレなのだ。躊躇してると、カマワナイとのことなので宴会中のテーブルの横を歩き雛壇を回りこむように歩いた。花嫁にニコッと会釈しながら。帰りは逆ルート、招待客も花嫁・花婿もまるっきり気にしていない様子である。その様子を話すと妻や娘も決心が付いたのか少し気まずそうにオロオロしなあらも用を足した。周囲が何事も無いような雰囲気なのでビックリしながらも面白がっていた。

 トイレに行くのに花嫁・花婿に挨拶しながらというのは初めての経験で、もう二度と無いことでしょう。中国のトイレ事情というと扉が無いとか大広間に穴が開いているだけ、とかのどちらかといえば汚い話が多いがこのようにオメデタイ話も稀にはあるのです。

 参列者およびご両人は宴会場の中をウロチョロする観光客を奇妙に思わなかったのかな。

塩水烽砲

2008年02月11日 12時19分03秒 | 懐かしい旅の記録
 昨日は正月です、旧正が廃れたとは言えやはり旧正は旧正です。
中国関係では春節、ベトナムではテトとなる。テトという言葉で思い出すのは”テト攻勢”という衝撃的な事件があった。それも今は昔の話となってしまった。
 今日は春節の話ではなく旧暦1月15日の台湾の元宵節のことです。

と書きかけたところで風邪でダウンして暫らくPCに触れることも無くズボラを決め込んでいました。PC依存症を自認している私にはタイヘン苦痛なことと思っていたのに、何も見ない、読まない、書かないというのもチョットした息抜きである、と感じたのは自分でも意外でした。

 そうこうするうちに早や正月4日目となり春節を祝った地域も平常に戻ったことでしょう。でも書きたいのは級1月15日の元宵節の行事です。台湾の元宵節風景を見に2度行きました。中正祈念堂広場で李登輝総統が出席して点灯式が行なわれた、その時の干支はナンだったか忘れたが干支の張子の目からレーザー光線がでてゆっくり回転を初め祭りが始まった。祈念堂を取り巻くように企業や宗教団体などの出典作品が並んでいる。一周したがあまりの人出に前に進むことが出来ないほどだった。
後で気付いたけど我々は一方通行を逆コースで廻ってしまったのだった。(笑)

 また数年後は塩水へ出かけた、ここは台湾でも有名な花火祭りである。花火というより爆竹である、ロケット花火の水平撃ちは圧巻です。現場は阿鼻叫喚の世界で逃げ惑う群集に巻き込まれないよう気をつけながら出来るだけ発射現場に近づこうとガンバリました。ヤジウマ根性を発揮する最大の見せ場でした。
あんなにおもしろい祭りは少ない、今からでも間に合います、さあキップを押さえ宿を手配してください、と煽りたくなります。
とにかく血湧き肉踊り、興奮します。山車を見つけてその近くの身を隠す為の電柱を確保してその時を待ちましょう。
ただし最低でもムカシの全学連スタイルに防護目がねをお忘れなく!
台湾は塩水で熱くなりましょう。

旅いろいろ

2008年01月03日 11時16分39秒 | 懐かしい旅の記録
 3年前の2005年6月山岳部の先輩に連れられてスイス・アルプスへ行ってから旅行づいている。その後トルコ、マチュピチュ、エジプトへと年に2回海外旅行へ出かけるようになっている。旅行社が主催するツアーに参加するのだがけっこう楽しい。
ツアーは自由にならないので個人旅行が良いという人は多い、私も出来るなら個人旅行が良いと思うも、費用の面でついツアー参加となる。先日のオーロラ観光も初めは個人旅行として計画を立て始めて調べていくと、ツアーに乗っかった方が随分安くつくのに気付いて旅行社のお世話になった。

 ツアーは皆が見て楽しめる場所を選んで組むので当たりハズレが少なく、また皆が行くので雑誌やテレビにも出る頻度が高い。暮れのテレビ番組で世界各地の名勝地を紹介する特別番組が放映された。これまでにもテレビで見た場所が多いが、中には足を運んだ所もある。家事をしている妻に、”何処何処が出ているよ”と声を掛けて一緒に楽しんだ。
”こういう番組は皆が知っているところを出すのが多い、つまりミーハー的な観光地だ。我々もけっこうミーハーなんだ。”と笑った。
皆が行くから観光地になる、観光地で有名になると皆が寄って来るという循環でしょう、私たちだけがミーハーじゃないんだ。(笑)

 観光地はある程度の人出があった方が観光地らしい雰囲気になる。シーズンオフで人のいない観光地を好む人がいるが私はシーズン真っ盛りのワサワサしたのが好きだ。ただベストシーズンは費用が嵩むので行くのを見合わせている。シーズンオフは人出が少なく景勝なり施設をゆっくり堪能できるが、シーズン中なら受けられるサービスが無い場合もある。スイスでは峠越えのポストバスは運行開始前だったし、ロープウェイもシーズンに向けて点検中の山もあった。やはりシーズンに入らないとされなりのサービスが開始されない。

 でもチェルマットで駅前広場が日本人団体客で埋め尽くされた時は、壮観を通り越してイヤだ~と思った。外国人ならそれほど感じなかっただろうけど、日本人がイッパイ集まると自分達もニッポン人の片割れのクセに”日本人が多すぎてイヤネ~”。この言葉を発したのは私ではありません、女性の方でしたそして一緒に大笑い。

 個人旅行はそれなりに楽しいのですが、ミーハーの旅もけっこう楽しいものです。

写真は初めて参加したツアーでのひとコマ、トルコのベルガマです。

おおつごもりに想う

2007年12月31日 09時13分36秒 | 懐かしい旅の記録
 今年を振り返ると、1月エジプトツアーに参加し引き続き能登へ行った。7月の墓参の鹿児島旅行では台風に閉じ込められた。8月末から4週間西安での語学研修を目的にした旅行、それに先日のオーロラ見物と旅に始まり旅で締めくくった1年でした。
 国内旅行が2度も出来たのは全て義妹夫婦のおかげです、滅多に無い大名旅行は楽しかった感謝しています。

 旅は非日常生活を楽しむ場である、その場は私の場合何処でもいい。といいつつアレコレ注文は付けている。今回のオーロラもニュージーランド、ヨーロッパ、ヒマラヤトレッキングと候補地が出てきたのをイエローナイフを推した、どうせ行くなら行きたいところが良いに決まっている。それが”自分勝手!”と妻に言われる由縁でもある。弁解するなら、妻たちが自分でも気付いていない”想い・願望”を引き出してあげているということです。(笑)

 さて来年は何処へ行く。妻は妹の娘夫婦が連休にカンボジアへ行くのに引っ付いて行くと言う。私は選び選び暑い季節にカンボジアへ行くなんてアホか、それにイチバン高い時期に、と取り合っていません。妹共々行くことになるでしょう、私は行く気はあるが行きません。その費用を別に回した方が好い。
ホントは又またスイスへ行きたい、サースフェーとアレッチ氷河、エギーユ・土・ミディのイタリア側へのゴンドラに乗りたい。その話を妻にすると九塞溝はどうなった、青蔵鉄道はどうするの、語学研修の成果をどうするのと文句を言われた。そうです中国がありました、でもオリンピックで観光地は何処も彼処も人ヒトひとでイッパイにならないか気がかりだ。
行くとしたら何処へ行こうか、この課題で当面楽しめそうです。
 
 今年ももう終りですが気持ちよく年が越せそうです。明日から始まる来年も斯くありたい。


写真は朝日を浴びるラムセス像で、エジプト旅行でイチバン感銘を受けた場所です。神殿の奥深くまで朝日が射して4体の像が明るくなり壁画が色鮮やかに浮かび上がってきた。素晴らしい瞬間です。ある特定の日にはラムセスに光が当たり輝くそうです。
来年に期待を込めてこの写真で締めくくります。

ピスコ

2007年08月22日 10時41分29秒 | 懐かしい旅の記録
 先日ペルーで地震が発生して大きな被害が出た。
ニュースの中でイカという地名が出てきたので聞き覚えのある地名だと思った。「イカって通らなかった? ナスカの地上絵を見に行くとき通ったはずだ。」と妻に言うて調べると確かに地上絵を見るために飛び立った飛行場はイカにあった。

 世界の出来事も自分と何か関わりがあれば、それがただ通っただけの場所であっても知っていると言うだけで事件が身近に感じる。今回は地震による被害という不幸な出来事だが他の地域の地震よりも関心を持ってみた。
暫らくするとピスコでも被害が出ているとの報道もなされた、ピスコは葡萄の産地でそこで作られるブランデー風の酒が有名だ。ホテルのウェルカムドリンク”ピスコサワー”は口当たりが爽やかなのでオミヤゲと自分で飲むために4本持ち帰った。

 大災害で略奪も起きた地震なのに酒を思い出すなんて不謹慎な気もするけど、自分との関わりがその接点しかないのでご了承の程を、と言うしかない。イカはともかくピスコなんて土地を知らない人が普通だろうから、覚えている人がいるだけもマシと受け取ってもらえばありがたい。何処かでピスコを売っていたら買って飲みます。そして酔い心地を楽しみながら復興を祈ります。

 ナスカの地上絵を見にイカに向かうアメリカン・ハイウェイを南に下って行くと右手は太平洋、左手は乾いた大地が続く。灰色の砂山が続き所々に大規模な養鶏場がポツンとある。集落も時々出てくる、海は寒流のため霧が発生しやすく霞んでいる。陸上も乾いている割りにはスッキリせず見通しは良くない。晴れていて太陽は照り付けているのに気だるさを感じる、時には陰鬱ささえも感じる妙な風景だった。

 表面は乾いているように見えるがアンデスの水が伏流水となっているので水はあるようだ、ブドウ園も多い。チリからの技術導入で良質なワインが作られているとの説明があった。ピスコはその結果なのか或いは独自の酒として定着したのか個性のある酒だ。

 ピスコはけっこう強い酒だから飲めば自分自身が地震の発生源となりうる、心して飲むべし。