どこ吹く風

旅のことを主に書く。

タイペイ

2005年10月23日 07時23分08秒 | 台湾-鹽水
 田舎の空港という風情の台南空港から台北に戻った。
市内の松山空港なのでtaxiでホテルへ行く、ホテルは龍山寺の近くによやくしてあった。
台北も元宵節の余韻が残っている。台湾に来たらやはり故宮博物院は行くべきだ、とまずそこへ向かう。

 とここまで書いてアルバムを捲ると、なんと私の思い違いで故宮ではなくて華西街へ行っている、そこで水餃子を食べている写真がある。安くて美味しい店で客席と同じ場所で餃子を包んでいる、その手捌きの鮮やかなこと、おしゃべりしながら棒状からチョンチョンと切り分け掌サイズに伸ばしていくサマは職人芸だった。本場での餃子は水餃子が主流のようだ。

 華西街は観光外となりケッコウ高い店が多いが、この餃子屋さんは一皿300日円程度だった。台湾ビールを飲みながら腹いっぱい食べた。

 翌日は烏来まで足を延ばす、前に妻と二人で来たときにバスの乗り方を学習したので、今回はホテルからYMCA前までバスで行き烏来行きのバスを待った。前回はYMCAまでtaxiに乗ったら烏来まで5000日円で行くからとしつこく誘われたが断った為にチョット離れた処で降ろされた。

 知らない土地それも外国でバスで目的地に行くというのは、知らない人にスゴイ~と思わせる行為である、口には出さずー態度には少々出ていただろうがー同行の妻の妹や我が娘も私を見直しただろう。(笑)
金をケチっただけの話であっても。

 さて、ここまで書いてアルバムを開くと野柳の写真がある、?・?・?・・
あの時も野柳まで行ったのか、覚えていない。交通手段はどうだったか、あそこは交通が不便な場所なので乗り合いバスでは行けない、taxiをチャーターしたのかな。

記憶があやふやなのでここでこの旅のことを書くのは止めておこう。

台南

2005年10月18日 10時56分59秒 | 台湾-鹽水
 今回の旅の目的塩水の爆竹祭り、騒ぎに参加し堪能したので残りの日程はノンビリでいい。せっかく台南まで来たので市内観光をする。

 台南は国姓爺合戦の鄭成功が有名な街である、私たちの子供時代は漫画や劇画、物語によく登場する有名な人・話であった。
清の攻撃を受けて滅び行く明を救援する為に若き鄭成功が台湾を拠点に出撃する冒険活劇は面白かった。母親が日本人なのと冒険物なので日本でも親近感をもたれている人物だ、とはいえ一緒に行った妻や娘には縁が無い人になっている。
近松門左衛門も取り上げた人物だよ、と説明してもなかなか理解されないのもしょうがない。

まず赤嵌楼へ行く、ホテルから近いところにあったので歩いていった。赤レンガに瓦の全体的に赤っぽい城というか館というか規模はそれほど大きくない建物だった。内部は中国そのもの、オランダが占拠・開発したところでフォモサという語もオランダ語だと記憶しているが・・ちょっとアヤフヤなので検索したら面白い記事にぶつかった。

http://www.roc-taiwan.or.jp/news/week/1873/107.html
 当時彼(鄭成功)は二万五千人の兵を引率して台湾を占領した。彼の最終目的は「復明」にあり、如何に台湾を良く経営するかという事ではない。原住民にとって彼らは武器を持った外来の侵略者である。原住民の土地を取り上げたり、追い出したりした事も推測に難くない。丁度国民党政府が台湾を接収した時の状況に似ていると思う。

 私が面白い活劇物とした国姓爺合戦の鄭成功も上記のような見かたをしている。歴史を様々な角度から見るのは良い事だ、現在置かれている台湾と照らし合わせてみている。

 話がそれてしまったが、台南はそれほど見ていない。その日は夜市へ出かけることなくホテルで食事をして翌日台北に戻った。印象に残ったのは台南の空港、軍事優先のようでターミナルも無いに等しく空港としてはお粗末だった。

 まあ飛行機もバスも同じレベルなのだと考えれば納得できる、台湾では同じレベルの交通機関として扱われているのだろう、としておく。

ビロウ

2005年10月17日 11時35分55秒 | 台湾-鹽水
 台南と塩水を往復するとき道路沿いにチラホラと一坪ほどのガラス張りの小屋が目に付く。
中にはミニの肌も顕わな若い娘が何か手作業をしている。小屋の周りはネオン管で彩られて華やかなムードを漂わす演出がなされている。

 運転手に身振り手振りで、アレはナンだと問うと、ピンナンとかビンロウと言う。
市内では屋台か店の脇にショウーケースを置いてビロウを売っている。使用者は運転手が多いとのことだから、国道沿いに店を構えるのは良いアイディアだろう。

 他の店との差別化を図るために若い娘にあのような格好をさせて販売させているのだろう。国道沿いでは殆んど全ての店がそういう風に見えたので、差別化という当初の目的は薄らいできただろうが、それはそれで風物になってしまっている。

 行政もこのような現象を問題視する発言もあるようだが、収まっていないところを見るとそこまで規制することも無かろうということなのだろう。

 若い子が悩殺スタイルで売るなんて、う~ん・・・いいじゃない!(笑)

 ビロウを噛んだことはある、ビロウ樹の実、種の中の胚かな、それに石灰を乗せて何かの葉、キンマかな、で巻いてある。噛むと味は良くない、口の中がエグミで不快になる。我慢して噛み続けたが何の変化も起きなかった。

 アレを噛むとハイな気分になると台湾の人が説明していた。石灰の味がいただけなかった。
その数年後石灰なしのビロウをまた噛んだ、味は、エグミのようなものは薄かったが美味しいモノではない。運転手がもっと噛め、もっともっとと勧めるのには閉口した。

 まあ、そのような美味しくもなく、ハイにもならないビロウだが台湾の風物詩の一つだろう。回数を重ねればあの味が分かってハイになるだろうか。

 市内のビロウ屋の目印はおもしろい、蛍光灯を半円状に並べた形になっている。ハダカ配線しているが漏電の心配は無いものだろうか。蛍光灯は赤、緑、青のビニールテープで巻いて色付けしてある。

 如何にも安っぽい目印、看板だが目立つ、いつか看板を企画するとき役に立ちそうだ。

ところでピンナン、ビンロウ、ビロウで合っているのかな。
漢字でかくべきだったか・・・

未だ続くエキサイト

2005年10月16日 20時42分48秒 | 台湾-鹽水
 運転手は威勢の良いアンちゃん風だったが爆竹のあまりの凄さに途中から帰ろう帰ろうと言いはじめた。身も心も備え無しに来たので仕方が無い、しかし私たちはこれを見る為に、この雰囲気を味わう為にはるばる来たのだ。
タオルを1枚渡すのが精一杯の私たちの気持ちの表れであった。それに後でtaxi料金以外にチップを払った。

 救急車のサイレンは遠くで、近くで始終聞こえる。その中にはへたり込んだオバサン達が数名いるのが見えた。

 しばらく付近を徘徊しながら先ほどの騒ぎの余韻に浸り満足した後来た道を戻り始めた。人の波は行く人来る人で混雑は相変わらず続いている。
裏道から大通りに出てたところで人の動きが鈍くなった。進まなくなったのだ。

 それでも人々を掻き分けながら、またメンバーが逸れないように気をつけながら押し合いへし合いで進む。と、離れたところで突如光が流れると同時に爆発音が聞こえて足元で花火が飛び跳ねた。

 周囲の人が又飛び跳ね始めた。もちろん私たちも合わせる訳ではないが飛び跳ねた。次々と飛んでくる、大勢の人が大人も子供のうねりの様にゆったり動いている。震源地は遥か遠くのほうだ、煙がもうもうと立っている。運良くかウン悪くかちょうど着弾地にいたのだ。

 暫らく飛び跳ねて騒ぎは収まった。終わるとみんながそのサマを思い出して興奮した表情で語り合っている、そして笑っている。
いや~ホントに楽しく愉快だった。

 みんな逸れることなく無事車まで戻った。その頃になってもどんどん人は増えてくる、私は防護用のメガネをこれから見に行くような感じの子供にあげた。怪訝な顔をしていたが直ぐ理解できたのだろう、お礼の仕草をした。

 ドライバーにも笑みが出てきた、帰りはチップのお返しのサービスのつもりか物凄いスピードで吹っ飛ばしている。
花火の怖さに劣らない信号無視にスピードであった。(笑)

クライマックス

2005年10月05日 23時02分06秒 | 台湾-鹽水
 ロケット弾はまったく不意打ちで打ち込まれた、突然足元で火花と爆発音が響き硝煙の臭いが当たり一面に煙とともに漂った。
足元で爆発音がすると人間は飛び跳ねるものだ、私を含めて皆がピョンピョン飛び跳ねている。不意打ちを喰らったのでせっかく用意した装備を着装していないので騒ぎが一段落したあとで身に付けた。

 運転手はまるっきり準備していないのでタオルを1枚渡すと頬被りした。この件で気分はいやが上にも盛り上がる、阿鼻叫喚の世界だが遊び・お祭りの世界なので気はラクだ、もっともっと近寄りたいという気分になる。

 さらに前進する、前進とは言うもののたんに前に進むと言う意味であって、目的とする場所すら知らないのだから闇雲に大勢の人の流れに沿って進む以外に無い。通りは店構えのようだが全て大戸が閉じられている。お祭りだから休業しているのだろう。

 とある十字路にくると左手から行列風なもの、山車のようなものが向かってくる。日本の祭りの神輿とか着飾った人の行列とは違い、何か中心にゾロゾロという感じだった。十字路に全体が赤っぽい色の、網とベニヤに角材で組まれた山車が停まった。群集は遠まわしに眺めている、警備の人も半纏姿の粋なオニイチャンもいない、私は山車に近づき眺めた、中では数人の人が動き回っている。

 天井部分を持ち上げて何か作業をしている、側面ははロケット花火がビッシリ詰めてある、中の人たちは点火の準備をしているのだろう。
その様子を伝えに家族のところへ行く。通りの人はドンドン増えてくる、見物の人たちは逸れないようにそれぞれ手を繋いだり、電灯をかざしたりしながら行く。装備も様々でヘルメットに透明な風防が付いて物から、ダンボールで作った盾を持っている者などそれぞれで工夫している。

 私たちは保護メガネとタオルとフード付きのジャケットだ、遠くのビルから打ち上げられる花火に、UFO風の熱気球は間断なく飛んでいく、今か今かと背伸びしながら山車を見たり人々の流れや顔を見ていた。

 突然山車の屋根部分から光を煙と音が上がった、次の瞬間激しい爆発音とともにピュ~ンという空気を切りながら飛ぶロケット花火が飛び交った。水平撃ちもあるのでこちらの方にも飛んでくる。身体に当たる物、飛びすぎていく物、軒下の細い柱に身を隠しながら様子を見ている者、それぞれが飛び跳ねながらキャーキャー叫んでいる。

 身体や頬に痛みを感じるがそれどころではない、物陰や車の陰に隠れる。車のボンネットに仰向けになって空を見上げる若者が居た、花火が飛んでいく様が良く見えるのだろう、私も少しまねをした。

 山車の付近は花火の煙が立ち込めて何も見えない、しかし色取り取りの光が硝煙に映えている。山車の天井部からは未だ勢い良く花火が飛び出している。煙を通して若者が山車の近くまで突進するサマが見えた。若さと無謀は共通点があるようだ。

 暫らくするとさすがの花火も勢いが衰えてきた。爆竹の音が止み煙は残っている、先ほどの喧騒は何処へ行ったのやら・・・
落ち着きを取り戻すと身体の痛みが増してきた。衣服やマスクのをとって身体を調べると掠り傷ではあるが二箇所からホンノリ血が滲んでいる。同行者5名のとも無傷の者はいなかった。

 これは塩水まで来た証である、満足感があった。

いざ塩水へ

2005年10月02日 07時20分40秒 | 台湾-鹽水
 まず訂正からする、前回元宵節を旧暦1月16日と書いたが15日のマチガイです。こっそり訂正するのもいいが、ただ数字を訂正するとウチナーの16日祭の記述と合わなくなる、やはり訂正せざるをえない。この事をまず初めに書いて
 鹽水の蜂炮見物へ行ったのは今からず~っと前の1998年ことで、その年の元宵節は2月11日だった。
塩水で盛大に行なわれる花火大会である、ただしヤマト風のタマヤ~かぎや~の世界でなくロケット花火のお祭りである。

 ウチナーと浪速からそれぞれ出発して松山空港で落ち合って台南まで飛んだ。人数もマチガイで前回6名と思わせる書き方をしたけど総勢5名でした、娘が二人行ったと思ったら一人だった。重ね重ねシツレイしました。

 予約してあったホテルに入りtaxiの手配を頼む、台南から塩水まで1時間ほど掛かるらしい、5千日円で帰りまで貸し切りにした、5時から10時頃までだからその程度で合うだろう。

 この旅の目的が花火見物なので夕食も取らずに早々に出発する。ドライバーの姿は雲助風で予想通り運転が荒い、あのドライバーが特別荒いというよりクラクションや信号無視、ムリな追い越しなど台湾全体が荒い運転をするようだ。

 姿かたちに似合わずドライバーは優しい人で、途中でアイスクリームのサービスを受けた。ただ信号無視は相変わらず、赤信号で一旦停止するも左右を確認しながらスルスルーっと突破する、車が来ないのに停車しておくのもムダとは思うが直進の場合は停車した方が良いと思う。

 1972年までは左折時は一旦停車して確認してから左折できた、(車が左側通行だった頃の話です。)直進は当然ダメだった我が島では。

 塩水に入ると車に人にと全体がワサワサしている感じがする、適当な場所にtaxiを置いて歩いて其れらしい場所を探す。運転手とは言葉が通じないので身振り手振りでハグレたらここで待つと伝えた、たぶん通じなかっただろう。

 大勢の人が動く方向へ歩く、子供にジイサン・バアサンの家族連れや若者のグループなどとにかくお祭りムードがいっぱい、交通規制で車両が制限されているらしく通りは歩き易い。遠くで爆竹の音が聞こえる、ロケット花火が飛ぶのも見られる、暗くなった空をUFOのようなモノが飛んでいく。

 提灯のようなものにローソクが入っていて、その熱で浮かび上がる熱気球の小型版のようなものである。数個ずつあるいは単独で飛んでいく、夜空に赤い提灯・UFOが飛んでいく様は初めての光景なので花火大会の期待をいやが上にも盛り上げる。
 
 商店街を抜けるとき店の前に立った若旦那らしき人が、持ち手の付いた箱を斜め上に向けて上げ、もう片方の手で何かしたと思ったらロケット花火が飛び出した、100連発ほどのロケット花火が飛び出した。落ちて行く先のことは意に介していないようだ。

 商店街に山車が置かれている、全体が赤組みえる2mx1mx2mほどの大きさで、よく見るとびっしりと全面ロケット花火が装着されている。スゴイ量の花火だ、全体が花火で覆われている。
その時は珍しい山車だな~程度の印象だった、それがどのくらいの威力を発揮するかを知らなかったのだ。

 遠くの方で爆竹の連続音が聞こえ、ビルの屋上から花火が打ち上げられる。通りを右に左にと人の波について歩いていると突然足元で爆発音とともに火花が散った。それも次々と飛んでくる。キャ~という悲鳴とともに逃げた、何処から飛んでくるのか分からない、閉じている店の軒下に避難する。

 大勢の人が右往左往する様を眺めながらこれが鹽水蜂炮だと実感する。
しかしこれはほんのプロローグだった。

鹽水の蜂炮

2005年09月30日 07時12分22秒 | 台湾-鹽水
 鹽水の花火大会は花火大会というにはあまりに優しすぎる表現だ、蜂炮(爆竹)をそれもロケット花火を群集に向けて水平撃ちするお祭りです。
鹽水は変換がタイヘンなので塩水と表記します。

 ある時台北でTVを見ていたらニュースの時間に爆竹が打ち鳴らされるのを背景に破れた衣類を自慢げに見せる若者の姿が写っている。何やら馬鹿騒ぎがあったようだ。言葉が分からないのでその程度しか理解できなかった。

 またその後日本のTVで台湾の花火祭りの様子をレポートする番組を見た、アッあれは台湾のTVで見たアレと同じだ・・・
それで図書館へ行き台湾関連の書物を広げた。探しきれない、旅関連のガイドブックを捲っても見つからない。

 ある時本屋で立ち読みをしていたら、コラムに塩水の花火大会の様子が書かれているのを発見した。そのとき塩水という地名を知る。是非見て見たいものだと思うようになり調べた。

 地名が分かると位置やお祭りは何時頃開かれるのかなど調べ易くなった。調べながら胸がワクワクしてきた。あのような馬鹿騒ぎは見ていても面白いが、自分がその渦の中に居るならもっと面白いだろう。

 妻に馬鹿騒ぎする爆竹大会の話をすると乗ってきた。今度の大会の日に合わせて見物へ出かけることにする。妻は大阪に住んでいる妹に連絡を取ると一緒に行きたいとのこと、娘も(我々から見ると姪)同行するという。
我が家夫婦と二人の娘、息子は日程が合わなかった。

 台北から台南へ飛んで、台南からの手段は現地で考える事にする。ただお祭り当日のフライトなので時間的にどうなるかという懸念は若干あった。妹とは国内線の松山空港で落ち合う事にした。

 出発の前に下準備がある、TVで見た様子からすると身の安全面は十分な対策を立てる必要がある。ヘルメットにマスク手袋は必需品のようだがヘルメットは嵩張るし、人数分揃えるのは金が掛かる、たった数時間使ったあとはジャマになるだけのシロモノだ。将来にわたっても使わない。それでフード付きのジャケットで代用する事にした。

 目の保護は作業用保護メガネを買った。目は絶対に保護しなければならないので金の問題ではない、幸いメガネは安物を見つけたので6個買った。あとは軍手にマスク代わりのタオル、フード付きのジャンバー。それぞれ用意をした、これほど気張って準備しなければならない程危ないお祭りなのだ。

 時期は元宵節の日、つまり旧暦1月16日である。
オキナワでもその日はジュールクニチーといい、グソウ(あの世)の正月である、宗教的に「まつりごと」のある特別な日は共通している。バカ騒ぎも台湾人の祖先供養の一つの現われか。

 胸はずむ想いで準備を進めた。