どこ吹く風

旅のことを主に書く。

三代あとは無縁墓

2007年08月01日 09時37分27秒 | 能登
 これはオヤジさんの弟、つまり叔父さんの言葉です。
なかなか捌けたというか飄々とした方で、その昔陸軍大学か幼年学校かに合格したら、郷土の誉れだと在郷軍人会などのお祝いを受けた。しかし五校かどこかにも合格してそちらの方を選んだら、帝国陸軍をバカにするなと学校に圧力を掛けて合格を取り消させた。その年は浪人して翌年普通大学に入学したと話されていた。
このような軍のバカ話をもっと詳しく聞いておくべきだった。また叔父さんは子どもに恵まれなかったので養女を取ったが嫁に出すという変わり者でもあった。

 その叔父さんは運輸省を退官して地元の会社に就職を斡旋されたが、仕事もしないのに居心地が悪くて止めたと話していた。謙遜と自分のことに時間を使いたかったのでしょう、きっと。他所の土地へ行くと博物館、郷土資料館や図書館にまず足を運ぶという方であった。その叔父さんが「田舎へ行けば墓は三代も経てば無縁墓になっている。」と自分が歩いた地方のことを話された。
 自分が入る墓もそうなると思っていただろう、この話は義父の葬儀のあとで酒を飲みながら聞いた話です。

 今はその叔父もこの墓に眠っている。これから入るのは叔母さんだけなので我々の世代が居なくなれば無縁墓になる、子供たちが何らかの機会に鹿児島に来た場合はお参りするだろうけど意識的に墓参りするとは考えられない。

私たちが生きている間に永代供養に匹敵するほど”うがん”しておこうか。(笑)

帰路

2007年07月29日 07時59分30秒 | 能登
 山間の温泉に豪華なホテル、食事も素晴らしかったし温泉を堪能した鹿児島墓参の旅も最終日となった。鹿児島市へは一本道なので道なりに行く、海も湾内ということもあろうが台風が嘘のように静かで太陽はギラギラ照り付けている。

 せっかくだからと城山に登る。ボランティアガイドから説明を受けた。櫻島に市内と見慣れた風景が目の前にある、見慣れたというのは写真とかテレビで見ているだけで実際この目で見るのは二度目、それに展望所はこんなに狭い広場だっただ。
かつて揺られて地酔いしながら船から降りた櫻島桟橋も目の下だ。国道58号線の起点があそこだとの説明もあった。二桁の国道表示は県庁所在地を結ぶことになっているので、鹿児島から島伝いに那覇まで大半を海の上を通っている。

 その後薩摩切子の工房・販売所を見て加治木町の従妹宅へ行く。近所の寿司屋で昼食をとり焼酎を飲む。自宅にも焼酎を用意してもらい昼間というのに味わった。酒を見ると意地汚くなる私は妻の冷たい視線を掻い潜って飲む。旅行好きな夫婦の話をもっと聞きたかったが飛行機の時間があるのでお暇する。

 この旅では初めてハンドルを握る妻の運転で高速を通り空港へ行く。売店でオミヤゲを買っているときもオトコはビールを飲む。飲み次いでなので文句も少ない。鹿児島のオミヤゲは薩摩揚げとカルカンが定番、定番通りの袋を持って搭乗。
たのしく充実した旅でした。

 国内旅行も悪くは無い。海外より金は掛かるが自分の腹が痛まないのがイチバン良いところだ。食事も文句なし、我がウチナー島はサカナに野菜の種類が少ない、流通が発達したので様々な食材が食卓に並ぶようになったとはいえ旅館・ホテルで並ぶ料理は滅多に口に入らないものばかりだ。
 それで美味いか不味いかの判定ができない。味が分かるほど食べ慣れていない。それで美味しさの規準は自分の口に合うかどうかになる。薄味の微妙な味はムツカシイ、濃い目のアジクーターがより美味しく感じるのは育ちの所為でしょう。

 温泉の旅を充分楽しみました。

台風余波

2007年07月26日 08時21分12秒 | 能登
 先日の台風4号は「マンニィ」という名前だそうです。
復帰前はー復帰前という言葉をご存知でしょうか、オキナワがニッポンになる以前のことです。ー台風ごとに名前が付けられていた。女性の名前だったがウーマンリブの高揚とともに女性だけとは限らなくなった。
数年前からアジアの気象連盟(?)が加盟国の輪番で名付けるようです。

 その台風4号マンニィは薩摩半島に上陸して指宿も台風の目に入った。その日は加治木町まで行き従妹と会食する予定になっていた。それでどのように対応するかを検討した結果台風の中を移動するのは危ないのでここ白水館に延泊することになった。
ただこのクラスではなく部屋を変えた。
新しい部屋はベッドと和室のふた間あり悪くは無いが夕べの部屋と比べると見劣りがする。予定では国民宿舎だったので其処よりはマシだろう。台風のお蔭で余分な出費となったがそれなりの待遇なので良いか。金を出さない私が言うことでは無いけど。

 外へ出られないので風呂へ行く、今日は岩盤浴にする。岩盤浴、ハマムはトルコのアンタルヤで初めて入り、サフランボルでは街の銭湯風なハマムにも入った。トルコのハマムに比べると原理は同じだろうが雰囲気間取りがまるっきり違う。ハマムはローマの風呂を思わせるが、ニッポンのそれは効率的というか個人主義というか似て非なるものである。
 暖かい岩の上に腹ばいになったり仰向けになったりして身体を温める。気持ちの良い汗が出る。その後温泉に浸かる、ヌチグスイと言いたくなる。

 浴場の入口に焼酎の試飲所が設けられているので、カウンターに掛けて酒造所や風味を聞きながら指定して飲む。1本千円から1万円のものまで揃っていて、私も1万円の森伊蔵とかいうのを飲んだ。確かに飲みやすい。でも数倍の価格差を感じるほど舌喉は肥えていない、ザンネンと言うべきか生活レベルに合っているので良かったと言うべきか。

 台風は午前中は雨風が強て窓から見える鹿児島湾の波は高く護岸に打ちつけられた飛沫が風に舞っていた。ごごからケーシ風が吹くかと思っていたら何事も無かったかのように静まってしまった。
台風のお蔭でホテルから出ることなくゆっくした温泉ライフを楽しむことができ、思わぬ余波が楽しめた。

指宿 白水館

2007年07月24日 09時52分08秒 | 能登
 坊津の九度資料館を出ると雲行きは怪しいが雨はポツリポツリと落ちてくる程度である。田舎道を走らせお茶の産地や漬物で有名な山川を通り開聞岳の麓を抜けて指宿に向かった。途中でうどんか蕎麦で軽く昼食を取ろうと思ったが適当な店が無く結局ランチ抜きとなった。枕崎で鰹節を買おうと思ったが販売店らしき所を過ぎてしまった、戻るほどの事は無いとそのまま行く。道沿いに枕崎線が見えた、ガードをくぐったり高架橋を通った覚えが無いのに線路が右に見えたり左になったりする。

 そうこうする内に海が見えてきた金錦湾だ波は高い、白水館は指宿の温泉街から離れたところ松林の中にあった。建物が数棟あり渡り廊下で結ばれているが台風接近ということでガラス張りの廊下は閉鎖されて地下通路から部屋に案内された。
地下と表現すると誤解が出る、フロントがほんのチョット高くなったところにありそこをが1階なので窪地にあるフロアを地下と呼んでいるだけだ。渡り廊下のガラスにはテープを張りサッシの溝にはタオルを突っ込んで目張りするなどの台風対策をしている。これだけ広いと対策もタイヘンだ、外部の庭木やベンチなども早々に対策が施されていた。

 予約したのは中クラスだったが、その棟は海に近く台風の影響を受けやすいので閉鎖されて上のクラスに変更された。ラッキー! 台風様さまです。見晴らしもよく間取りも広々として気持がいい。早速温泉に浸かり行く、せっかく指宿に来たのだから名物の砂蒸しに入る。一千五十円也の別料金で砂浜辺風になっているところに寝た身体を砂で包む、温泉熱で砂は暖かい。暫らくすると汗が吹き出てくる。
海岸での砂蒸し風景をテレビで見たが、ここは屋内に作られていた。20名ほどが入れる箇所が幾つかあり使わない所はカバーで覆われて冷えないようにしている。気になったのは汗を含んだ砂はどのように処理しているかである、温泉水で洗い流しているのかな。そんままにしていることは無いと思いたい。(笑)

 砂風呂を出ると大浴場がある、火照った身体を洗ってあの浴槽この浴槽と移りながら独りながら温泉というものを楽しみ、はしゃぐ。湯船に浸かる習慣が無い私は暑い風呂が苦手なので主にぬるま湯に浸かっていた。露天風呂もあり其処にはドームのサウナがあった。アフリカの住居か韓国のハンジョンマク(?)のようなもので、大浴場にある蒸気サウナとは違って高温なので蒸し風呂とは違う気持ちよさがあった。

 昨日の妙見温泉ほどの野趣は無いけどしっかりした設備施設なので満足です。館内の廊下や一角に美術品が置かれて目を楽しませてくれた。現在敷地内に蒐集品を展示するデッカイ建物を建設中で、この秋にオープンする予定とのこと。

 白水館は流石に指宿ー鹿児島と言えるだろうーを代表するホテルでした。

写真はおもしろい展示物を見つけたのでメモ代わりに撮りました。私もそう言いながら引き伸ばそう。何時まで続けられるか・・・は何時まで迷惑をかけるかに通じるナ。(笑)

廃仏毀釈

2007年07月21日 07時17分57秒 | 能登
 墓参りが済んだあと先祖縁の地坊津を廻ることになっていた。薩摩半島を斜めに横断するように山の中を走る。有料道路として切り開かれた道なので整備は行き届いている。しかし景色を眺める点では一般道路を走るのが楽しい。

 海が見えた東支那海だ、遣唐使の船乗り場という案内板がある漁港へ着く。台風対策で船を固定する為に漁師がロープを泳いで引いている、ちょっと離れた所に遣唐船を模した遊覧船が繋がれている。ここはその昔から交易の地であることが窺われる。
歴史資料館で説明を読むと遣唐使が出た場所であり又密貿易で栄えた場所だった。密貿易とは御朱印船のように割符を持たずに交易したということでしょう。薩摩藩が利益を独り占めするために取り締まるまで交易で栄えた地であったようだ。

 豊かな場所だったので由緒あるお寺があったようだが、明治初期の廃仏毀釈運動で跡形も無く取り崩されて小学校になっている。
文化大革命による寺の破壊や最近ではタリバンによるバーミヤン仏像遺跡破壊など文化遺跡が狂信的な人たちによって行われた。非難されて然るべきだが近代国家になったばかりの日本でも寺の破壊が行なわれたことを忘れるべきではない。何故ならこれらの破壊が全て時の権力が大きな影響を与え実行し、若しくは破壊を黙認したからだ。

 薩摩藩は討幕運動の中心的な藩だったので尊皇思想が強く、廃仏毀釈運動がスムーズに広がり其処にあった由緒あるお寺の徹底的は破壊が行なわれたのだろう。と考えながら指宿を目指して車を走らせた。

妙見温泉 石原荘

2007年07月18日 14時03分17秒 | 能登
 妙見温泉は山と山が両側から迫ってきてその接点を流れる川沿い伸びている。
石原荘は川と国道に挟まれた木立の中に埋もれるように見えた。控え目だが堂々とした佇まいだ。

 竹筒に入ったお茶のもてなしを受けて部屋に案内される。ロビーのガラス越しに川が見えるが先日からの大雨で水量が多く水しぶきを上げながら激しい勢いで流れている。部屋はゆったりした間取りで前室から寝室、憩いの部屋と続いている上に調度品も良い、しかし川が見えづらい。僅かに下流が見えるだけなので部屋換えを要望したら狭くなるけど川に面した部屋が空いているということなので移った。
新しい部屋の真下を岩にぶつかりながら水が流れていく、向かいは藁葺き屋根が数棟連なった宿で風情がある。また露天風呂が川の横にあるのも見える。各部屋とも小さくなり居住性は良くないけどこの際内容よりも景色・雰囲気を選んだ。

 食事の前に温泉に浸かりに行く。大浴場とは別に露天風呂が三箇所あり貸切有料風呂もあるが貸切無料露天風呂を予約した。混浴露天風呂へも行ったが私たちムークチョーデー(婿兄弟)の二人だけだった。水嵩が増して土砂が入り込み漸く処理が済んだところだったとのことであった。
ここ石原荘は源泉掛け流しを謳い文句にしているので、100%温泉水というのに浸った。温度は適温まで下げてから入れているので頭から被ることもできる。もう一つの露天風呂の予約時間になったのでカアチャン達と其処へ行った。こちらも川沿いにあるが自然の岩の配置や木の繁り方は混浴風呂の方が風情がある。

 大浴場で洗い終えているので露天風呂はただ湯に浸かったり身体を冷やしたりするだけ。先ほどの露天風呂では増水した川は危険なので川に入らないよう注意されたが、広い階段のようなタタキのような場所があったので寝転んで身体を冷やした。しかしカアチャンと一緒では無茶な事をすると叱られるので止めた。

 1000mも掘れば何処でも温泉(鉱泉)は出るので、オキナワにも何ヶ所か温泉はあります。しかし湧き出ている温泉や流れている温泉は無い、ヤマト風の温泉街や温泉風景もありません。それで温泉となると出たり入ったりして十二分に楽しんだ。

霧島神社

2007年07月17日 07時21分44秒 | 能登
 鹿児島空港では我々より少し早く大阪から着いた妻の妹夫婦が迎えてくれた。
レンタカー会社に到着の電話を入れ迎えに来てもらい、手続きを済ませて霧島神社に向かった。
天気が良ければえびの高原へ行きたかったがこのところ鹿児島は雨続きだし、台風の影響もあるので風景を楽しむには天候が思わしくないので霧島神社へ向かう。途中の道の駅(風)な施設で蕎麦を食べる、ビールのツマミに薩摩揚げを頼んだらそれから揚げ始めた。アツアツの薩摩揚げは美味しかった。午後は”奥さん”に運転を任すので心置きなく飲んだ。
道の駅には足湯がある、能登以来半年ぶりの温泉なので坐る。ビールの酔いと足元の暖かさが心地好い。

 霧島神社は予想していたものより小さな規模でした。背景の山が広いので小さく見えたのかな。真っ赤な鳥居が立ちそこから真っ直ぐに伸びる参道、赤を主体にした左右対称の建物、軒には極彩色に彩られた彫り物がある。御神木に四角竹と良い神社でした。
たまたま到着した団体のガイドさんの説明を盗み聞きし、さらに質問までした。神社を理解するには古事記や日本書紀の知識が必要なので深入りはしたくない。万葉仮名で記された人名を読むのもナンギだ。
 裏の歴史、渡来系の天皇家がニッポンを治めていく為に土地土地の神々を吸収しながら古事記の世界へ誘導していく過程を解説したら面白いだろうに。

 この辺りは高原という感じがする、山あいを走っていても開けた所に来ると遠くには山々が連なりその前は草原となり杉山となる。なんてことが無い風景でもオキナワとは違う。道端の竹林に人家という何処にでもある景色だがオキナワには無いのです、太い竹がオキナワには無い。杉も無い、テレビの影響か私自身竹林に杉山はありふれた風景のように思っているけど実際は日常的には目にすることが無いのだ。後天的に植えつけられた錯覚なのだ。

 とか何とか風景を楽しみながら考えているうちに妙見温泉に着いた、生憎雨がちらついてきたが雨も宿の雰囲気にピッタリという感じだ。

体風被害

2007年07月16日 09時54分19秒 | 能登
 墓参旅行から帰ってきました。こんかいのメインはやなり体風になってしまった。
4号が接近することは予想されたので対策をして出かけた。ベランダの落ち葉が流されて排水口を詰まらせることが無いように掃除をした。数年前の台風では落ち葉が排水口が塞いでタイヘンな目にあったので体風前には気を付けている。

 万全な対策をしたツモリだったのに、予想外のことが勃発した。屋根に取り付けてあるトップライト吹き飛ばされたと連絡が入った。その連絡を指宿で受けた。私としてはブルーシートを被せてトップライトの口を塞ぎ、ブルーシートが飛ばないようにロープで縛り付けることしか頭に浮かばず、息子に指示した。ブルーシートもロープも私の工房にあるので場所を教えて後は任せた。
 
 婿も駆けつけて、工房にあった90cm角のセメントボードで蓋をしてブロックやレンガをその上において錘にして応急措置を取ったと連絡があった。何にせよ雨風が吹き込むのが止まって良かった。
 私たちが旅行へ行っている間はバアチャンが独りで留守番していたので、雨風が吹き込むのを見てビックリしただろう。体風災害に遭うのはもう何十年も無かったし、しかも昔の家とは違い鉄筋コンクリート造なのに天井・屋上から雨が打ち込んでくるなんて想像だにしなかっただろう。明け方に独りで吹き込んだ水を始末したそうだ。

 息子曰く「普段から役に立たないオヤジなのに、必要な時も居ない。本当の役立たずだ。」
いやいや”オヤジが居ればな~”と息子に思わせただけでも私の存在感があるというものだ。これ以上言うと益々立場が悪くなるので止めておきます。

 一方私たちは指宿で閉じ込められた状態になった。台風の目に入るほど接近し窓から見える金錦湾の波は長く高くうねっていた。不埒な考えで墓参したバチが当たったのかな。
トップライトが吹き飛ぶとは思いもよらぬ出来事でした。

旅先での天候

2007年07月12日 07時10分20秒 | 能登
 鹿児島へはこれから出発する。台風4号が後を追いかけてくる気配がある。法要目的とはいえせっかくの旅だから晴れてもらいたい。義父は私の心見透かしてバチを与えたのかな。(笑)

 旅先で雨に降られることは間々ある。雨と霧のマチュピチュは風情があったので好しとしよう。クライネ・マッターホルンでは夏なのに吹雪に見舞われた。雪が久しぶりだったので嬉しくてハシャギまわった。
しかし雨の兼六公園はよくなかった、真冬なのに本来なら雪が舞うところが雨では風情も何もあったものではない、雪景色が見たかったと今でも思っている、ザンネンだ。でも雨宿りに託けて地酒を味わったのでこれもヨシとせねば。

 晴れるに越したことは無いけど降ったら降ったでその雨を楽しむ心を持つのも旅の心得だろう。判ったようなジジ臭いことを言うようだが、そう考えねば心が沈むだけだ。特に今回のように前もって雨というのが分かっているからなお更だ。

 高級ホテル・旅館はそこを楽しむのも旅の一つの方法との記述を読んだことがある。たしかにそうかもしれない。能登の加賀屋、あれはもっと館内を楽しむべきだったと後悔した。今日泊まるところも良いところのようだから早めにチェックインしてゆっくり楽しもうと思う。
ホテルそのものを楽しむ、というのは具体的にどういうことなのか知らない。館内をウロウロしていればそれが発見・実感できるのかな。それも楽しみだ。

 では日曜日まで霧島から指宿までを楽しんできます。

別のブログにも書きましたが、台風情報のお勧めはこちらです。

http://www.nrlmry.navy.mil/tc_pages/tc_home.html

アメリカ海軍気象部門ですが、台風の予報進路を線で示してあるので、気象庁の予報円より具体的で分かり易い。軍事作戦に利用するための予報は流石に違う。
なお時間はアメリカ時間ー西部時間?ーと思われるの時差を勘案する必要があります。

鹿児島

2007年07月07日 09時27分35秒 | 能登
 来週は鹿児島へ墓参ために行きます。
妻のオヤジさんが鹿児島の出でお墓は鹿児島市のちょっとハズレ(だったと思う)にある。私たちは那覇から妹夫婦は伊丹から飛び鹿児島空港で落ち合うことになっている。レンタカーで妙見温泉、指宿を廻り墓参・法要をして帰るという大まかな日程になっている。

 ルートと宿の選定は能登の旅でウデマエを発揮した義弟が立てた。ウデマエとは私に言わせれば、金に糸目をつけない、無頓着に決めることなので大いに期待できる内容となっている。彼は大手商社でそれなりの地位にあったので私から見るとニ・三ランク上の出張や旅に慣れている。その発想で計画するので常日ごろの旅では味わえないような内容になる。
観光は風景を楽しむもので宿は寝場所であるというスタンスで私は旅をしているが、彼が選んだ宿は宿自体が観光施設という宿・ホテルである。その宿に泊まる為にわざわざ足を運んでくるという場所を選ぶ。能登の加賀屋はプロが選ぶホテルで連続して一位の座を占めている。今回もそうであろう。

 ものの見方はその者がいる場所によって決まる。ゼミの先生の言葉によれば「上部構造が下部構造を規定する。」ということだろう。ゼミの先生とは「エジプトは最後に行くべき場所だ、エジプトを見た後は何にも驚かなくなる。」と話された前川先生の旦那さんです。
確かに私の上部構造は上流ではなくて下流へ落ちかかった中流の思考回路なので、モノが屈折して見えるのだろう。いやいやモノゴトを見るために飛び跳ねて一瞬だけ見た光景なのに全てを理解したツモリで喋り捲っているだけかもしれない。それでもヒラメの様に底にいるくせに上だけ見て分かっているフリをするよりマシだろう。なんて凝縮された師の言葉を曲解しているからあの成績で卒業したのだ。

 訳の分からない戯言はヨコにおいといて、連絡してきた宿に妙見温泉の石原荘がある。実は何も知らなかったが石原荘は有名な宿らしい。加賀屋で気付いたが良い宿はただ泊まるだけでは勿体無いので早めにチェックインして宿そのものを楽しんでみよう。霧島を見てから石原荘に行くので霧島の風景が素晴らしかったら・・・。
迷うようにも思えるが風景・景色を満喫するのが私の旅、この時節雨が降ってもガッカリしないで宿でも楽しめるという気持で行きましょう。

朝市

2007年03月26日 08時59分07秒 | 能登
 輪島に着いたのは10時過ぎだった、バスを降りて市場の方へ向かう。全国的に有名な朝市なので既に観光バスが到着している、ナンバープレートやバス会社の名前を見ると各地から来ているのが分かる。

 蟹やアワビにサカナを売る出店が並んでいる、どれもこれも美味しそう。この時期蟹は主力商品なのだろうお腹を晒している。普段は目にすることも無いナマコにアワビも高級品という感じはしない、板の上に置いてある。ナマコもアワビもオキナワでは獲れないので口にするチャンスは滅多に無い。無造作とも思える陳列が如何にも朝市という雰囲気だ。調理されたら高級料理だが素材事態はタダの魚介類ということかな。この旅でコノワタも久しぶりに味わいました、日本酒に合う。アワビも柔らかく美味しい。

 干物も多い、我が島は海に囲まれているがサカナは少ないのです。大衆魚というのが無い。近海はプランクトンが少ないのでしょう。サカナは高い、肉が安いので普段の食卓にサカナが出るのは少ない。週に1食も出ないと思う。サカナはご馳走の部類に入る。
娘が嫁いだ家が離島の出身で今でも年の半分島で暮らしているのでサカナを貰うことが多くなった。1匹丸ごとくるので捌きサシミからお汁まで美味しくいただいている。

 蟹を買ったらサカナをオマケに付けてもらった。また干物も買った。帰ってから蟹にサカナ干物を食べ続けた。蟹はワケあり商品で脚が1本足りないのを安くするというので買ったのです。数多い足の1本が抜けていても気付きません。
以前北海道で買ったとき生のまま送ってもらい家で茹でる手間ヒマを要したので、輪島では茹でて送ってもらった。サシミで食べるにワケでなし早めに茹でた方が美味しく食べられると思う。オマケの甘エビはそのまま生でたべたけど。

 能登の海の幸を食べながらエジプトから能登までの楽しい想い出を家族に話しました。蟹を頬張る時に思うのは悪戦苦闘して身を取り出さずに誰かが取り出したのを口にしたほうがいいな~
あの苦労があるから美味しいのかな。

ところで輪島付近で大地震が発生し甚大な被害が出ている模様です。つい先日訪れた場所だけにテレビ画面を見るのも他の地震報道を見たときよりも身近に感じています。七尾、輪島と記憶に新しい地名が出てきました。被災者が元気を取り戻し被災地域が早めに復興する事を祈ります。

和倉竈

2007年03月23日 07時57分39秒 | 能登
 わくら温泉へ行くと聞いたとき”わくら”という地名か語句を聞いたことがあるような気がした。さくらー佐倉ー佐倉宗五郎は千葉の方か。和倉は何で聞いたことがあるのだろうか・・・

 佐倉宗五郎は子供の頃見た映画の主人公で、嵐寛十郎が主演していて悪政と戦う庄屋で、一族郎党はりつけ打ち首になった人で本名は木内惣五郎といい今でも祀られている。
さて和倉は・・

 和倉温泉から出発し能登の朝市をメインに金沢終着の観光バスに乗った。道々歴史や産物の紹介があるが、何かの説明の中で”珪藻土”という言葉が出た。そこでふと思い当たったのが”和倉竈”だった。

 子供の頃台所はカマドがあり薪を燃やしていた、その薪はヤンバルから車に満載して売りに来るのを買っていた。オガクズも燃やしていた、オガクズは上手い具合に形作らねば燃えない。母がアン餅とか飴玉作っていたので砂糖を溶かしたり大豆を煮たりするのに火が必要だった。
オガクズを燃やすにはまず棒を中心に立ててその棒に突き当ててもう1本の棒を寝かして置く。それからオガクズを円錐形に積んでいく。積みあがったら2本の棒を引き抜くとトンネルと煙突の出来上がり。トンネルの入口に火をつけると少しずつトンネル内部から燃えていく、燃えたところは落ちるので新しいクズに火が燃え移る、その連続で火が広がり全部がゆっくり燃えていく。この方法と取らねばオガクズを燃料として利用できない。

 その後和倉竈が我が家に来た。薄いピンク色で上のほうに薄板の鉄製バンドが巻かれていた。熱効率が良いので食事用は和倉カマドでするようになったが、シンメーナービ(大きなナベ)は相変わらず前のを使った。
和倉カマドを使いはじめて数年後石油コンロが流行った。カマドより手軽なので石油に移った。あのカマドはどうなったのだろうか。

 和倉は和倉カマドの和倉ですか、とガイドさんに聞いたが怪訝な顔をしていたが、カマドの産地でもあったと思い出した。今ではもうカマドを作っていないだろう。細々と需要はあるのかな。

和倉という地名を聞いても温泉は浮かばずにマイナーなカマドを思い出す人は少ないだろう。敗戦直後のオキナワまでその名を馳せたのだからせめて和倉カマドの名前だけでも伝えたら如何でしょうか。

写真は珍しい海岸道路です。海岸というよりも海辺の砂浜道路です。波打ち際近くの砂浜を10Kmほど走れます。

バスガイド

2007年03月20日 07時08分53秒 | 能登
 石川県のバスガイドはオモシロイ人がいる。
断定的に書いたが石川県の観光バスに乗ったのはたった2回ないのに二人のバスガイドさんはベテランで斜めに構えた口調が印象に残った。

 観光バスなんて滅多に乗らないので各地のガイドはそれなりに面白いのだろう。そういえば昔々の若い頃マスコミ関係者をある施設に招待する企画に紛れ込んだことがある。友人がその企画を担当したので席も余っていることだし一緒に行こうと誘われたのだ。
カデナ飛行場付近に来た時バスガイドが

 ♪ 黒い殺人機が今日も~
     ベトナムの友を撃ちに行く
   世界を繋ぐこの空を
     再びイクサで 穢すまい~ ♪

と歌いだした。乗客のマスコミ関係者、特にヤマトからの特派員の皆さんは”観光バスでこのような歌を披露しても良いものか!”とザワめいていた。
カデナからは毎日真っ黒に塗られたB52機が三機編隊で幾組みも飛び立ったものだ。腹いっぱい爆弾を積んだB52が轟音と共に飛び立ち、またエンジン整備で轟音を出す、このような状況に置かれていたのを表現した歌だった。

ある面から見ると観光には相応しくないだろうが、その地の生活を見るのも観光の一つならその内容の歌を観光バスガイドが歌ってもいいだろう。

 一昨年黒部アルペンルートへ行った時、小松空港からすぐ立山に向かった。するとガイドさんが「皆さん方のツアーを石川県知事が知ったらきっと怒るでしょう、素晴らしい石川県を素通りして隣の県へ向かうなんて。」と笑わせ、白川郷では郷土名物の餅かダンゴを紹介する時「美味しいというものではありません、雪に閉ざされた田舎の家で楽しみの一つとして食べられたものです。頬っぺた落ちるほど美味しいワケではありませんが、まあこんなものかと思って味見してください。」とかチョット捻った言い方がおかしかった。

 能登観光のバスガイドも多分にそういう感じで、ズバズバずけずけモノを言うタイプだった。「皇族が観光する際の案内役もしましたが、何もしゃべらなくても良いと言われて何のために乗車しているのか分からない。乗り降りの際のお辞儀だけで日当を貰うようなもので、タウンミーティングのエレベーター係のボタン一押しウン万円と同じ。」なんて内幕話で笑わせていた。

 ガイドさんは他所からお見えになった方々と直接接するのである面その地を代表する人でもある。会社からのマニュアルを基本に自分を出しながらその地を的確に紹介する役目を担っている。

年月を要する仕事だろうけどその地と個人が上手くかみ合って表現・紹介してもらいたい。石川県のガイドさんは斜めからずけずけモノを言うているのにイヤミが無くて面白く聞けた。良かったですよ

和倉温泉

2007年03月19日 09時57分31秒 | 能登
 能登半島の中ほどは海岸線が大きく抉れた湾になっている、そこには島が点在して半島との間は内海となっている。和倉温泉は海岸線に位置し対岸の島々や岬に囲まれて眺めもいい。源泉は海の中に在ったらしいが明治の頃埋め立てて温泉宿が並ぶようになった。

 宿は加賀屋という有名な旅館らしい、ロビーには皇族の方々の写真が飾られていた。琴の音が聞こえてきた、能舞台のようなところで演奏している。100席ほどのソファーがあるラウンジに面した舞台はショーにも使うのだろう。館内にはその他にも舞台があり、今夜は宝塚レビューとラテンの演奏があるようだ。

 担当の仲居さんが部屋まで案内する、10何階かの海に面した部屋で三部屋もある、ひと部屋は荷物を置くとしてもう一つの部屋何に使うのか、イビキがヒドイ人の隔離部屋か。(笑)
 和倉温泉については全く知らなかった、有名な温泉地なんだ。しかもここ加賀屋は全国的に有名な宿ということなので帰ってからホテル関係者に聞いたら直ぐ分かった。”プロが選ぶ全国のホテル・旅館100選”で連続1位の座を続けているという。何も知らなかったがその道では有名なんだ~。

 ツアーはホテルもパックになっているので自分の意向とは無関係にホテルが決まる。しかし自分でホテルを選ぶ場合は料金と交通の便ー主に料金だがーが規準になる。それで私にはホテルとか旅館のサービスとは何かを分かっていない。丁重なるサービスを受けた経験が無いに等しいので比較することも出来ない。
 加賀屋は造りもリッパで規模が大きい、宿泊料金によってランク分けされているだろうが仲居も一部屋一人付いている。夕食時に女将さんが挨拶に来た。その日は出張ということで専務が代理で来たけど女将さんの顔を直に見てみたかった。

 夕食も部屋に準備されて仲居さんが適宜手助けサービスをする。サービスには金が掛かる。このようなサービスを鷹揚に受け入れるか、自分でやるから安いほうが好いと言うかは考え方のも問題である。私は痛む懐の持ち合わせが無いのでそのような場所には無縁だが、今回は他人の褌で大名旅行しているのだからサービスとは斯くありなんとばかりに自然体を装っている。気持ちは若干萎縮しながらもサービスされる気分は良いものです。

 やってもらうサービスも素直に受け取れない私は少しヒネクレ者だ、育ちの所為かな。宝塚公演は入場料が必要なのと時間が合わなかったのでタダで聞けるメキシコのボーカルグループの歌声を聴いた。昔懐かしい曲だけだったので楽しく聴きり”クックルク~パロマ~”をリクエストした。ラ・パロマでは無いことを確認して歌いだした。カテリーナ バレンテを思わせる女性歌手は魅力的でした。

とても良いホテルで思い出に残るでしょう。

雨の兼六園

2007年03月16日 09時09分13秒 | 能登
 葦原温泉を出て汽車に乗る、汽車はいいものだ。車中で本日の予定を話し合う、月並みに市内観光と兼六園を見たいと言うも、市内は何処へ行きたいのかと問われてもガイドブックを捲って市場と・・何処でもいいです。
実はエジプトの下痢が未だ治まっていなかったのです。昨日もトイレの在りかを確認して観光していた。車中でも2回トイレを使った。汽車のトイレはエジプトのそれより清潔感があり使いやすいです。

 この旅行は義弟が会社でよく使っていたJTBで手配した家族ツアーで、いろいろな特典が付いている。駅前ホテルでの荷物預かりサービスもそうなので利用する、その上そのラウンジで珈琲サービス券も付いているのでご馳走になった。

 雨模様なのでTAXIでチョコッと見て周り兼六園に行った。40年ほど前に岡山の後楽園を見たことがあるので2番目の三大名園となる。後楽園の時は随行とはいえ大名旅行だった、今回も大名旅行といえばそうだが。
せっかくだからとガイドをお願いする、当然時代背景や見どころを詳しく話してくれた。雨が降っているのがザンネンだ。丘の上なのに水が豊富に使われている、10Kmほど離れたところから導水しているとのこと。何代かに渡って作ったのだろう季節を考えた配置がいい。お殿様だからできる規模だ。

 しばらく行くと観音像のような日本武尊のような像が立っているのが見えた、何かしっくり来ない景色となっている。近寄ってみると明治の頃の慰霊碑(?)だった、無粋な事をするものだ。大いに違和感を覚える。
先ほどから腹具合が良くない、我慢が出来ないので近くの管理事務所へ駆け込む。武家屋敷を移築し事務所にしたものだったが観賞する余裕も無かった。その近くに真っ赤な塀の神社が見える、これもせっかくの庭にマッチしていない。明治の頃の石川県にはロクな感覚の持ち主がいなかったようだ。

 園内いたるところに雪吊りがキチッと施されている。しかし雪は丸っきり無い、わざわざ雪を見に来たのに。この庭はどの季節も見どころがあるはずだが、雪の季節に雪が無く雨の日の見どころは・・・
雪景色を見たかった。