どこ吹く風

旅のことを主に書く。

アンカラ

2006年01月30日 11時08分27秒 | 旅-トルコ
 アンカラでの見物は建国の父の霊廟見学だけといえる。政治の中心地で首都である、古代から栄えた土地で見渡す限り丘の上間で建物が建っている。
霊廟の偉大な人物の事を思い出そうと、うろ覚えのままアタチュクルと検索すると僅かしかヒットしないので、もしやと思いアタチュルクで検索すると数百ヒットした。
似たようなものだから良いか・・人名なので済まないだろう、しかし世の中にはカン違いしたまま通している人もいるのだ。(笑)

 アタチュルク霊廟周辺は整備されていて軍の儀杖兵が直立不動の姿勢で立っている。軍服が違うので陸海空からの選抜兵だろう。
外国の要人の献花式が行なわれていた。また国内から各種のグループが訪れている、生徒に千名を越すであろう警官も整列していた、何か特別の日だったのかもしれない。ばかデッカイ広場に建物、英雄を祭るのには相応しい。
現代の神殿か、台北の中正祈念堂を思い出せば当たらずとも遠からず。

  小高い丘にあるアンカラ城砦の近くで昼食をとる、その付近は市場になっており特に乾物が多かった。干したフルーツが所狭しと並んでいる、その価格も安い。これまで観光地で観光客向けの店できちんと包装された箱に入っているものしか見ていない私には特別安く感じた。

 写真で分かると思いますが、3リラとか5リラと表示されている、全てキロ単位の価格です。1リラが90円として・・・安いでしょう!
観光地で買ったのだが、ここでもオミヤゲ用と自分で食べる分として買った。最初にここに来たらオミヤゲに費やす費用が半分以下で済んだのにとチョッピリ残念だった。

 市場はおもしろい、試食しながら品定めをする、珍しい果物もある、私が住んでいるオキナワは果物はあるにはあるが、種類が違う。ヤマトでは珍しくなくても口にする機会が無いのも多い。
干しイチジクは柔らかいのと硬いのがある、今年の作ったのと去年のものの差らしい。ナッツ類も豊富だ。羨ましい、干しブドウも数種類あり種つきもある、そんなレーズンは初めてだった。

 トルコへ行かれる方ぜひ市場でフルーツを見てください。トルコに限らずどの国でも同じだろうけど。

アンカラには宿泊したが実質半日だけの滞在となった。 アタチュルクさんを顕彰する施設よりも、乾物市場のほうが印象に残った。

アンカラへの道すがら

2006年01月29日 06時17分35秒 | 旅-トルコ
 カッパドキアの初日は夕方になり雨が降ったので、ラクダとかその他様々な形をした岩が多いキノコ谷を堪能できなかったので再度その一帯を見物する事になった。バスを降りて写真を撮ることが出来た、改めて面白い岩に変化した自然の妙に感心する。

 ツアー旅行お馴染みのオミヤゲあるいは買い物の為の店による。今日はトルコ石の店、青く輝くトルコ石は長女の誕生石である。店員はしきりに妻に勧めるが10数万円もする、私には発言権が無い、高価な石を買う人もいる、妻は結局買わなかった、その理由はこの金額でもう一度トルコ旅行が出来る、だった。貧乏人ってイヤね~と私は笑った。

 一路おなじみの単調な景色風景の中をバスはひた走る。定期的にトイレ休憩があるので息抜きをしながらである、この辺りはビート甜菜が多く満載したトラックが行き交っている。ビートが山積みされた製糖工場らしいものも見られた。ガイドが収穫中のところで貰って味見をさせてくれた。
生で齧るならサトウキビが美味しい。

 昼食前にヤズルカヤの岩に掘られた「12神の行進やここを作らせたトゥダリヤⅣ世のレリーフ」のある遺跡を見る。感じは”セーファ御嶽”を思わせる場所だ。周辺には何も無いただ岩に掘られた神々に現人神だけが残っている、それだけなのでなお更神々を感じる。古代から祈りの場として造られたのであろう。
岡本太郎の言葉を借りれば「何も無いことの目まいを感じる。」というところ。

 昼食をとったレストランのトイレは例の手動ガランの付いたウォッシュレットだが、その日はとても冷たい日で凍るような寒さなので、それを使用した人はいなかっただろう。私も使う勇気が無かった。(笑)

 それからハットゥシャシュ神殿跡へ行く、礎石が残っているだけの遺跡だが数年前に日本の援助で再建されたという異様な色で¥の城壁(?)門(?)が遠くにあった。

 ヒッタイトは鉄器を初めて使用した民族として他を圧倒した力を持ち古代王国を建設した。その繁栄の一端がかすかに偲ばれる遺跡だ。訳の分からないトンネルもあるが神殿を造るのが好きな民族だったようだ。
小高い丘から眺める風景は豊かな実りが期待できそうな土地である。土もカッパドキアとは違い肥えているような色だ。

 川も見られる、ポプラ並木が川に沿って生えているのが分かる。人間が定着する要素が揃っている。ここポアズカレにある遺跡も世界遺産に指定されている。

ここを後にするとひたすらアンカラに向かってバスは進む。もう残された日も少なくなった。日が落ちて暗くなり街の明かりが遠くに見え消えてゆく。アンカラは首都なので大きな街だろうがそれらしい明かりが見えないまま空港近くの街外れにあるのホテルに到着した。それでも7時だ、日が暮れるのが早い。

カッパドキアの二日目 (10日目)

2006年01月28日 10時55分00秒 | 旅-トルコ
 昨日に引き続きカッパドキアの散策をした。散策というと歩くような感じだがバスに乗った見学です。
ホテルから出て市街地のすぐ側にあり最近まで使用されていた洞窟住居を見た、損傷が激しく使用禁止になったとのこと、風景として面白い。

 その後二三のビューポイントへ行き、絨毯工場の見学があった。手作業の賜物なのでそれなりに値が張る。その価格の説明がおもしろい、なんとなく納得してしまった。絨毯の価格は、織り子さんの所得を付に四万円を標準として、作業時間を掛けて算出すると説明していた。ナットクというところ。

 もちろんピンきりだ、足拭きマットで12万円から35万円、上手な日本語で上手い説明を聞き、製造工程をみると価格もナットクできる。しかし我が家の財布が許さない。目の保養だけにした。絹を使った絨毯の手触りは良く色合いも良かった。
そのうち買えるようになったら買いましょう。

 旅行の案内所に懐中電灯持参とあった、このライトは4世紀頃使った教会跡の見学のとき天井を照らし、足元を照らすのに使った。フラスコ画風の絵は素朴で力強い。

 夜はベリーダンスショーの見物が組まれていた。夕食後なので飲物とツマミだけだったが民族舞踊も観客も駆り出されて一緒に寒い夜空の中フォークダンスのような踊りを踊った。
ベリーダンスは社会的認知度が高いような気がした。小さな子どもが一生懸命腰を振って踊りの真似をしている。ショーに出ていた可愛い娘はプロポーションも抜群で腰の動きも素晴らしかった。

 観客から踊り手を指名して一緒に踊るショーがあり、私もそのショーに参加して踊った。ベリーダンスは腰を激しく振るのでとても付いて行けるものではない。それでも必死に腰を振った。また膝を着いて坐りそのまま後ろに腰を振りながら寝る仕草もあった。腹筋を利用してゆったりと寝るのはできた。

出来ない人が大勢いたようだ。妻が写真を撮ったのだがスローシャッターなので全てブレていた。雰囲気が分かるものを掲載しよう。

このような旅の恥は掻き捨て式の馬鹿騒ぎも楽しいものである。
この場では飲み放題なので初めてラクに挑戦した、味香りは初めの頃書いたとおりです。初めてのラクだったので思い切り飲む勇気がなかった、今にして思えば腹いっぱい飲めばよかったと悔しい事限りなし。

パッカドキアへ

2006年01月27日 13時11分49秒 | 旅-トルコ
 コンヤを出ると丘陵地が続く、遠くに山が見えるが道は平原状になったところを走り続ける。まずキャラバンサライ隊商宿の見学をする。時間が早いので誰もいない、管理人もいなかった、ここの入場料は各自が払うことになっていたのでシメシメ・・と思っていたら帰り間際に出勤してきた。(笑)

 隊商宿は1日行程ごとに設置されていて商人の旅を保証する代わりに通行税を取ったとのこと。保存状態が良いサライを見学した。想像したより小さな建物でどの程度の数の商人が一時に利用したのであろうか。
バスからは廃墟となったサライも見えた。我々がバスで素通りした道をラクダや馬に荷を積んで歩いたのであろう事を想うとシルクロードの西の果てまで来たことを実感した。
マルコポーロのように一人で全行程を踏破した人は僅かで、殆んどがピストンの軸のように行ったり来たりでその軸が延々と受け継がれて物資だけが揺られながら運ばれた。運ぶ人は災難にもあっただろうが商品は主を代えて運ばれたに違いない。
リッパな建物であった。

 パッカドギアは広い、遠くに丘があり穴が開いているのだ見える。独特の形をした岩も見え始めた。砂岩という感じだ。ブドウ畑も点在している。
 昼食のレストランは洞窟レストランと銘打っていた、メニューはこの内陸部で何故か魚料理が出た。オミヤゲ品屋も隣にありタイルや水タバコ用のパイプもある、飾り物になりそうだ。

 午後から地下都市の見物へ行く、TVでみたお馴染みの洞窟には南海の石のお金のような円形の扉もあった。緊急時には多数の人が住んだだけあって済みよいように工夫されている。
カッパドキアはトルコ訪問の柱の一つだったので期待してた、そして期待通りの場所だった。何を期待したのかというと、まず景観だが写真やTVで見た光景そのものなので十分納得した。
またイスラム国家におけるキリスト教の聖地というか遺跡というか、まあそういうところにも興味があった。この件に関してはギリシャ・ローマ時代の遺跡と同じ感覚で取り扱っているのではなかろうか。

 民家として現在も使用中の穴居住宅にお邪魔して見学した。ガイドが連れて行ったのだが、お茶を振舞ってくださった。オミヤゲ品屋でもないし旅行社からそれなりの見学料を貰っているのだろうか。おかげで洞窟住宅を実際見ることができたので良かった。

シデからコンヤ

2006年01月26日 10時11分08秒 | 旅-トルコ
 シデの街はどのような街だったのか思い出そうと写真を見たり検索を掛けてみたりした、すると興味を引く記事があった。
皆既日食(2006年3月29日)

2006年3月29日、トルコにおいて皆既日食が観測できます。トルコの地中海から中央アナトリアを通り黒海に向け対角線上に皆既日食となります
皆既日食となる主な街
地中海:シデ(Side)とマナヴガト(Manavgat)-アンタルヤ(Antalya)とアランヤ(Alanya)の間
中央アナトリア:スルタンハヌ(Sultanhani)-コンヤ(Konya)とアクサライ(Aksaray)の間
中央アナトリア:ハジベクタシュ(Hacibektas)-カッパドキア(Kapadokya)
黒海:オルドゥ(Ordu)

あ~あっ、どうせならこの時期に行けばよかった。

はい、思い出しましたシデの街を、孫たちにトルコの国旗をあしらったTシャツを買ったところです。遺跡は荒れていて修復作業が行なわれている。
トルコは果物が豊富に取れるようだ、路上での販売も車窓から見える。コンヤへ向かう山越えの前に”地中海の見納めです。”とアナウンスがあり、路肩にバスを止めた。そこに果物の露天商がいた。

 大きなザクロが1リラとのこと、シデとはザクロを意味するらしい、ソフトボールほどの大きなザクロを2個買う。1個は家まで持ち帰った。タネだらけの甘酸っぱくジュースにしたら美味しいザクロをオキナワでは見ることができない。これもオミヤゲの一つになった。

 バスは山道を行く、所々に雪が積もっている11月の初めで山には雪が積もるのだと思いつつ地中海側との差を感じる。雪はどんどん深くなっていく、山から下ってきた車はチェーンを装着している。暫らくしてバスは道端に停車した、ここからはチェーン無しでは危険だと言う。

 運転手はこの冬初めてのチェーン装着に四苦八苦している。その時間を利用して雪の塊りを投げたり、雪が積もっている箇所を歩いたりして雪を楽しんだ。
雪は去った6月にクライネマッターホルンで吹雪かれて以来だが、日頃は雪に無縁の生活をしているのでここぞとばかりに遊んだ。

 同行の人たちは、私たちがオキナワ出身というのは知っているが、今もオキナワ在住とは気づかなかったようだ。中には雪国富山の方もおられて私たちのはしゃぎ様を可笑しそうに見ていた。雪にウンザリする生活を強いられている方には雪に対する憧れや懐かしさが分からないだろう。
寒さも忘れて暫しの間雪を堪能した。

 雪を踏み分けて、蹴散らしてかな、コンヤへ向かう。
踊るイスラム教、スーフィー教団のメヴラーナ師の棺があるモスク(博物館?)を見学してコンヤ市内のホテルに着いた。

初めての市街地ホテルなので夕食後近くのスーパーへ出かけた。歩道脇には雪が積もって気温も低い、スーパーの中はまあ何処の国も大差は無い、オミヤゲを買う。
酒を買いたくてウロチョロするが酒屋ではなく酒場しか見つからない。ビールを飲むとナッツを掌いっぱいサービスしてくれた。
同宿の酒好きオジサンに酒屋を教えてもらいビールを仕入れる。窓際に置いておけば適度に冷えるし、リュックに入れて持ち運びしているだけでも冷やされるので美味しいビールを飲めた。

 同行の方々とも次第に打ち解けてきたので楽しさも増した、これからはギリシャ・ローマ時代の遺跡や観光地から離れて別の世界になる。

アンタルヤ

2006年01月25日 15時15分42秒 | 旅-トルコ
 アンタルヤは地中海に面した港町で、古代からイスラムまで連綿と続く歴史が随所に現れている街である。
年間300日も太陽が輝きトルコのリビエラと称されていると紹介されている。ところが私たちが訪れた日は雨、時折り小雨がショボ降る中の散策となった。入り江の港にも、そこを取り巻く町並みは美しい。雨に濡れた旧市街地の瓦葺の屋根越しに見える美しい尖塔は歴史的にも重要なモスクとのこと。

 あさホテルを出て旧市街に直行したのではなく、滝に寄った。ホテルからはアンタルヤ市街の反対方角にある、クルシュンルの滝へと連れて行かれた。
公園らしいところで入園料も徴収するので有名な場所なのだろう。ところが滝は高さが10mほどで巾はまあまあ広い、しかしトルコまで来て子のような所をわざわざ見せることも無いだろうに。

 日本なら何処にでもありそうな滝だった。私がガイドの説明を聞き損ねて歴史上あるいはもっと別の意味での重要地点だったのかも知れない。それにしてもあんな場所に案内するとは・・・時間の無駄だと思う。

 午後からは郊外に位置するアスペンドスの円形劇場見物がオプションであった。ローマ時代の劇場で保存状態は良く当時の姿そのままであろう。今でも劇場として使っているらしく架設舞台があった。
ここでの説明は、ローマ時代になるとアーチ構造を取り入れて、平地にも高層建造物が造られるようになった。

これまで見てきたギリシャやヘレニズム時代の劇場は斜面を利用して作られていたが、アスペンドスは平地に数階建ての劇場が建設されている。それにしても見事な造りだ。雨の中ではあったが水道橋ともどもローマの遺跡に圧倒された。

アンタルヤ に着く

2006年01月24日 08時43分53秒 | 旅-トルコ
 パムッカレからアンタルヤへは昨日移動してきた。
道端には果物を売る店が点在している、果物が美味しそうに輝いている、降りて買い物をしたい。
山越えをしたところでジプシーの小屋があり、そこで手作りらしい品々を売っている。なぜそこでわざわざ停まったのか知らない、そこにトイレがあったのでトイレ休憩を兼ねたのかも知れない。

 小さな掘っ立て小屋で空き地に商品を並べて売るだけでなく、小屋の中にも吊るされていた。バックマージンなど貰えそうも無いのに、本当に善意だけ若しくはトイレの為なのだろうと考えざるを得ない、つい疑り深い目で見てしまう自分が恥ずかしい。

 アンタルヤのホテルは街外れの空港近くにあり、周囲には人々の生活に関わるものは何も無い所に立地している。
ただスパが充実している。無料のサウナやハマムがあるとの事なので早速入りに行く。広いプールもある。身体を濡らす程度に泳ぎサウナへ移動する。

 サウナが二つあるので男女が別なのか、電気が点いているドアを開けると若い金髪の女性が坐っているので少々慌て気味に閉めて、もう一箇所のドアを開けるが冷たい。しょうがないので最初のサウナへ行く。
暫らくするとその若い娘は出て行った。そこへ妻が入ってい来る、もう少し早めに来たら気まずい想いをしなくても済んだのに。

 身体が温まったのでハマムに入ると、先ほどの女性が垢擦りをしている。若い男性サンスケが擦っている、またまたビックリして出て行こうとしたら、ノープレブレムという風なサインを送ってきたので反対側に寝そべる。

 ハマムは四間四方ほどの部屋の中央に一辺が2mほどの八角形の大理石の台、寝台(?)があり、その全体が温められている。そこに寝そべっているとジワ~ッと汗が出てくる。暑すぎるようならバスタオルを敷いて寝る、部屋の隅には蛇口がありお湯が出るそこで身体を洗う。

 若い娘さんがシャボンの泡だらけになって擦られているのを、見ていると意識させないようにチラチラ目をやりながらノンビリ寝転がっていた。ホンノリとした柔らかい暖かさがいい。
水をかぶりサウナに入り、ハマムに寝そべるのを繰り返した。


 妻はマッサージを受けに行った、オイルマッサージが気持ちよかったそうだ。私も誘われたがハマムでいいと断り若い美人女性とニアミスするのを楽しんだ。ドイツ人のようだった。
トルコはドイツとの縁が深いようだ、出稼ぎや観光でも繋がりが強い。考えてみるとシュリーマンもドイツ人だと思う。考古学で発掘している研究者も多いから縁もあるだろう。それになんというても第一次大戦では枢軸国としてドイツ側に着いて戦った仲間同士という縁もあるだろう。

 このホテルには二連泊したので、食事時に皆さんに吹聴したらハマムにマッサージは評判を上げて皆さんに喜ばれた。なんというてもタダという点が気に入った。

またホテルにあった靴磨きの台、初めこれはナンだ、と思った。装飾品になりそうなほど凝ったものだ。雰囲気もトルコ風だ。  
<写真参照>

またまた旅の話

2006年01月23日 11時42分07秒 | 旅-トルコ
 妻が南米へ行こうと誘ってきている。
私も行きたいのはやまやまである、しかし私には稼ぎが無い、これまでも厚かましく着いていった。
でも心苦しいところは常に感じている、だが持ち前のハジチラーぶりで旅を楽しんできた。でも、しかしという気はある、妻は気にせずに行こうと優しい言葉をかけてくるが、ホントにそれに甘えて良いのだろか。

 良いわけは無い、のは当たり前だがムリに断るのもこれまた難題だ。気まずい。
う~ん
たぶん行くことになるだろうが、チラのカーをもう一塗り厚くすることになりそうだ。
この私でも気に病んでいるのですヨ。

トルコもそうだったが、気恥ずかしさを誤魔化す為に事前勉強を怠った、これは結果的にいけないことだ。「毒食わば皿まで」出来るだけの事前勉強をしていった方が、せっかくの旅を数倍も楽しいものにする。

 南米、具体的にはマチュピチュを筆頭にクスコやナスカだが、行くことに決定したらそこを詳しく調べてから行くつもりだ。

パムッカレ

2006年01月23日 10時29分02秒 | 旅-トルコ
 エフェソス観光を終えてパムッカレに向かった。
パムッカレはトルコ観光をしたいと思ったキッカケとなった場所だ。石灰岩の白い台地に温泉が流れて、珍しく美しい風景の写真を見たとき、行きたい、見たいと思うようになった。

 ホテルに到着したのは真っ暗になってからだった、途中国道から脇道に入り小さな集落を幾つも過ぎて、小さな市場らしいところも過ぎて付近に何の灯りも無いところにホテルが出てきた。 市場から離れたホテルだけで過ごしてきたので市場の雑踏に入り込み、買い物をしてみたくなった頃でもあった。しかし希望はなかなか叶わない。

 リッチモンドホテルの系統だからそれなりに良いホテルなのだろう。温泉プールがあったが温度が低く薄暗くてサウナはまるでダメ、この面に関しては良くないホテルだった。
 石灰棚へ行く途中にあるヒエラポリス遺跡に寄る、トルコの遺跡はその歴史の重層性によりギリシャ・ローマにキリスト教にイスラム教と重なり合っている場所が多い。
このヒエラポリスもローマ時代とキリスト教が重なっている。その場所は何かと利便性や特色があるのだろう人は違えどその場自体は栄枯盛衰はあれど長期間人々の生活の場となっている。

 時代と遺跡の関連が面白い、特に創成期というか黎明期と栄えた時代の遺物は差がある。手間暇の掛け方に違いが出てくるようだ。キリスト教徒の墓がある。墓もローマ風、古墳風、破風ありで2~4世紀頃建造されたとの事。 <写真参照>
温泉が出るので古代から保養地として栄えた場所だ。

 石灰棚は近年温泉の湯量が減って、棚全体に流すほどの量が確保できないのか一定量を場所を変えながら流しているとのこと。
トルコ旅行を思い立たせた場所がこの侘しさなのにはガッカリもした。これも資源保護のためなので仕方が無い、でも一抹の寂しさはある。

 それでも山の斜面一帯に広がる真っ白な石灰棚は素晴らしい。窪地に水を満々と湛えた光景を想像してかつての素晴らしい風景を楽しんだ人を羨ましく思った。
石灰が自然にあれほど真っ白になるのがめずらしい。

 このところ次第に寒くなってきた、アンタルヤへの途中で昼食をとったレストランは中央に大きな暖炉があり薪が炎をあげていた。

第5日目(05.11.1)エフィソス

2006年01月22日 17時09分02秒 | 旅-トルコ
 エフィソス遺跡に行く前に皮革工場に立ち寄る。
観光客に買ってもらう為に日本語の上手な説明員に毛皮・皮革のフアッションショーを観光客を交えて行なう。役柄ピッタリの人を指名して着付けをしショーの一環としていた。商売人の目は確かで、人選が素晴らしい、楽しんで役をこなしている。

 そしてその人は買い物をしていた、説明を聞くと皮革製品は良いみたいだ。ただジャンパーが安いもので4~5万円はするので私には手が出ない。韓国の南大門市場の2万円ほどのを買うのが精一杯だ。サイズの手直しもして当日か翌日にはホテルに届いていた。

 エフェソスは比較的保存状態が良い遺跡である。海の後退や外敵の侵入・疫病の発生で幾度か移動したが、周囲の丘から土砂が流れ込み覆ったので現代まで保存されたようだ。今も発掘が続いていて、作業員が働いている。

 ガイドの説明で何度か海岸線の後退が都市の盛衰に影響を与えたと聞いているのに、遺跡と現在の海岸線を意識的に見ていないのが悔やまれる。ここでも海岸に通じる道、円柱が連なっている通りがあったのに海との関連を意識した写真が撮れていない。

 商家か邸宅跡を発掘した箇所は大きな屋根付の囲いに覆われて外から見ることができない。入館料と時間の関係で見学できなかった。図書館や浴場、トイレなど興味深く見学した。図書館は当時のアレキサンドリア図書館と張り合うほどの規模をがあった。

 当時の遺跡を見て感じるのは王侯貴族の権勢の象徴としての建造物ではあるが、市民を如何に取り込むかという主眼も感じられる。この辺りはギリシャやローマ時代の特徴であろう。その他の都市遺跡には無いのではなかろうか。

 当時は馬車が往来を通っているので歩道も整備されている、その歩道はモザイク状のタイルか天然石で装飾されている。きれいな街であっただろう。

 車窓からは綿花の収穫作業が見えた、広大な畑の片隅に大勢の人が群がり綿花を摘んでいる、綿花も早咲き遅咲きがあるのだろう見た感じでは落穂ひろいという風で、畑一面真っ白に咲いているとは感じられない。

 また道端にビニールシートで小屋掛けして収穫している作業員の宿泊所にしている。家族連れで出稼ぎに来ているようだ。小屋の周辺には子ども達が遊んでいて老女らしい人が鍋釜を持っている様子が見えた。
東北部からの出稼ぎが多いと説明があった。若しかしてジプシー達もいるのか。

遺跡や名所旧跡だけが観光ではない、目に入るもの全てがその地を知る手がかりだ。たんなる風景のようだが、そこから連想・妄想するのも旅の楽しみだ。

写真は出稼ぎの人がその期間暮らしているであろう小屋です。
広大な綿花畑の脇で道ばたに建てられていた。

ミレトス

2006年01月21日 16時55分34秒 | 旅-トルコ
 第4日目はミレトスとディディム観光をした。
昨日のトロイやエルガモン王国跡と似たような遺跡である。専門的知識を持つ人なら時代の違いによる建築様式あるいはその他の事で区別できるだろうが、私にはどれもこれも同じように見える。

 写真を見ただけではよほど特徴のある遺跡場所以外は似たりよったりだ。
それでも写真や日程表、その他の文献と比べながら必死に記憶を遡っている。おぼろげながらガイドの言葉を思い出して場所それぞれの逸話と写真が少し結びついてきた。

 ミレトス、ギリシャ時代に栄えた都市で、たしか「王様の耳はロバの耳」の場所だ。と思ったら金を愛するあまり神にお願いして、触れるもの全てが金になる力を得たが後悔する話の王様だった。
と思ったら、やはり「王様の耳はロバの耳」の都市でもあった。

 ほんとにあれこれ思い違いにカン違い、それに誤解とアタマが混乱するが事前勉強不足の所為です。
神殿には当然祭られている神がいる、せめてその方面の知識でもあれば時代や様式が頭の片隅に残っていた事でしょう。改めて事前の心構えが問われる場面です。

 遺跡は村や街外れにあるのが多い、都市が衰退してそこを維持する力がなくなると放棄してしまうのか、ある期間は人影まばらになってしまうのか。後の人は生活に役立つ石材を利用する為に遺跡を破壊してしまう。大理石のように高価なもの、手に入りにくいものは殆んど残っていない。

 遺跡は、当時海端に栄えたので海が近い場所にあるはずだが、千年単位の時の流れは地形をも変えてしまっている。争いだけが都市の盛衰に関わっているわけではないようだ。遺跡に立つと、もののあはれとか栄枯盛衰、寂寥とかいう雰囲気が漂ってくる。又昔々の人々がかくも大きな建造物を造ったものだと感嘆賞賛したくなる。
昔だからできたという面もあるにはあるけど。

ベルガマ

2006年01月19日 10時36分09秒 | 旅-トルコ
 トルコ旅行について書くのを暫らく遠ざかっていたら行った先の場所風景をすっかり忘れている。こういうことは記憶が新しいときに書いておくべきだ。
写真を見ても円柱、彫刻、円形劇場など似たようなものなのでこんがらがっている。

幸い写真を日毎ということは即ち場所別に分けて整理してあったので写真に記憶を照らし合わせる事が出来る。ヨカッタ~
でも似たような風景なので地名と遺跡を一致させるのに一苦労だ。

 ベルガマ、丘の上にある遺跡だ。平野の中にポツンと小高い丘がありそこに古代神殿と柱列、野外劇場がある。街並みが見渡せ豊かな作物が取れるであろう畑地が広がっている。午後の日差しなので霞んで見えたが遠い古い時代を思い起こすのにはうってつけかもしれない。

 アレキサンダーの死後に栄えた都市のようだ、説明を受けている時不安が的中した。登るときから便意を催しているのを我慢していた。ただWCが何処にあるのかは確認していたので距離・時間を頭に入れてガイドについて歩いていたが、もうダメだ。小銭を握って早足で下った。足場は石ころだらけの道で観光客も多い。その中を尻に力をいれ必死の形相で目的完遂のために急いだ。

 トイレの料金徴収をかねた入口のオジサンが笑いながらオツリをくれた。粗末な作りだが清潔なトイレに駆け込んだ。ホッとして気づいたのは紙が無いこと、あのオジザンに請求したら手渡してくれただろうが、小と思ったのか請求しなかったのがいけなかったのか紙が無い。

 ことの緊急性がひと段落した後なので事後処置をゆっくり考えることができる。目の前にはプラスチックの手桶があり、水道も付いている。これで処理するかと水を満たした、使い方は十分に分かっているつもりだ。
タイで初めて同じ状況に追い込まれたときとは違い余裕を持って対処できた。

 出ると即掃除人がバケツの水をぶちまけて流してしまう。断っておきますがトイレは和式だが水洗なのでチャント始末したのであのような掃除をする必要は無かったです。
和式というのは言い方がヘンだが、和式と表現した方が理解し易いだろう。向こうではアノ式を何と読んでいるのだろうか、いわゆる様式便器もフツーにあった。

 戻り際にあのオジサンが、間に合って良かったナ~という顔で笑っていたのにはチョット面白くなかった。

二千年余の歴史も生理現象には勝てなかった。

あけましておめでとうございます。

2006年01月15日 08時13分33秒 | 旅-トルコ
 年賀状を見てワザワザこちらまでお越し頂いた方ありがとうございます。
ここは旅の想い出を書いています。

日常の想いやグチはここに書いています。
http://nesupa.exblog.jp/http://nesupa.exblog.jp/

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どこ吹く風(つぶやき編)
というところのexciteという文字をクリックしてもそこへ行けます。 

言いわけ

2006年01月06日 12時07分30秒 | 旅-トルコ
更新する時間も無いまま、今度は大阪です。
よその地へ行くのは楽しいものです。
さらに彼の地でかつてのクラブの先輩や後輩とも会い、
新年会が開かれるので期待している。

ではでは

トロイ

2006年01月03日 11時23分10秒 | 旅-トルコ
 格安ツアーの特徴は、バスを利用して移動するツアーであることのようだ。
今回も空港への送り迎えを含めれば、14日間で4000Kmほどバスだけで移動した。修学旅行並みだ、メンバーから見ると老人会のバス旅行という感じだ。
もちろん私たちも老人の仲間であるが。(私本人としては認めていない。)

 朝から晩まで同じバスに揺られて旅する仲間です。時とともにお互い親しみが出てきて話す口も軽くなってきました。当然各人各様でしたが、基本的にはイヤな人はおらずそれなりの人生を歩んできた人たちなので常識良識をわきまえた方々なので気楽に接する事が出来ました。

 さてトルコを海で分けると、エーゲ、海峡付近に黒海の三つになるようです。この旅の前半はエーゲ地方巡りになっている。まず有名なトロイ、叙事詩や物語で有名なのでその名を聞くだけで古代のロマンを感じる。

ただ現在のその場所は何の変哲もない、という場所であった。遺跡は今帰仁城址を見るのとスケールは違うがそれほど変わらない。大きな木馬が置かれていた、観光用に設置したとのことであった。トロイと木馬は気っても切れない縁があるからだろう。数年前に封切られた映画を見ていないので断言は出来ないが、その木馬は映画で使われた形をしているのだろう。

 50年前に撮られた映画「トロイのヘレン」での木馬とは全く違う姿かたちだ。前作の木馬が可愛くて車輪が付いていたので城に曳き入れたという話とマッチするような気がした。
 それから海、古代ギリシャの街は海に面していたはずだが、現在の海岸線ははるか彼方へ後退している。河川の土砂が海を遠いものにしたのだろう。海岸線の後退が都市の衰退に結びついているとガイドの説明があった。

 交易や通行料を収入源としていた都市は港が生命線だったのだろう。都市の盛衰は悲哀、ロマンを感じさせる。小高い丘に立って周囲を見回すと畑地が地の果てまで続いている。食料は確保できるがそれ以上のモノを手に入れるには農産物だけでは足りないのだろう。この事は現在の社会にもあてはまる。物の豊かさを求めても限界があるのに、求める事が目的となってしまっている。

 3000年の昔を辿れるのは、者の豊かさを追求する社会のお零れに預っているのに、矛盾した考えだ。人間は元々矛盾の産物であるので・・と言い訳がましく、矛盾を飲み込み旅を楽しんだ。