どこ吹く風

旅のことを主に書く。

ペルーの旅 追記(三)

2006年11月16日 17時23分04秒 | マチュピチュ
4月2日 曇り時々雨、後晴れ 10~20℃ リマは暖かい
9:45 プーノ チチカカ湖の観光出発 ホテルにてゆっくりした後、
チョロ(輪タク)にて観光船の出る港へ
   ウロス島内の三つのトドラ(葦の種類)で作った人工島を見学し、生活様式を見る。12:00 プーノ ホテル 荷物をピックアップ
13:00 昼食 フリアカ Plaza 地元の混雑しているホテルレストランにて昼食
    アスパラのスープ、スズキのフライ、アイスクリーム、コーヒー、紅茶
14:30 フリアカ空港  空港のチェックインを終え、リマ行き飛行機出発まで
空港前市場にてショッピング
17:45 リマ空港 直行便に変更になり早めにリマ到着
18:45 ホテル到着 Sheraton Lima Hotel 夕食はホテル内でバイキング料理
             リマ泊

4月3日 晴れ時々曇り 18~28℃ 
7:00 リマ出発 早い朝食を終え、イカに向け出発
9:00 San Luis サンルイス・ドライブイン トイレ休憩
11:15 イカ空港到着 ナスカの地上絵の観光 午前中の気流状態が悪く、
イカの街を観光する。Tajas というチョコが名物だそうだ。)
12:30 遊覧飛行出発 4人乗り、6人乗り、12人乗りのセスナ機で出発。
    ナスカの地上絵を満喫
15:00 昼食 Las Dunas 遅くなったが、イカ郊外の高級リゾートホテルにてバイキング料理
17:00 ホテル到着 Hotel Pracas ホテルチェックインの前に地元のスーパーに立ち寄る
20:00 夕食 ホテル内のレストランにて 選択メニューからの夕食
   (チキン、スパゲッティ、魚メニュー)
              パラカス泊

4月4日 快晴 20~28℃
7:45 ホテル出発 ホテル隣接の船着場から パジェスタ島に向け出発
   カンデラブロ(燭台)の地上絵 パラカス半島の西側にある地上絵を見ながら遊覧
   パジェスタ島 オットセイやイルカ、フンボルトペンギンなどを見ながら・・
   海鳥の多さに感動?
9:45 ホテル帰着 Hotel Paracas 昼食まで休憩、帰国の準備をする
12:00 昼食 ホテル内レストランにて シーフードスープ、海鮮パエリヤ、アイスクリーム
13:30 ホテル出発~リマへ 
15:30 San Luis トイレ休憩 リマへの途中のドライブイン
17:00 夕食 Fu Jou 中華料理 シュウマイ、ワンタンスープ、ホタテの蒸し物、   
ナッツをチキン炒め、
    エビマヨネーズ、デザート(草団子)、中国茶、ビールかソフトドリンク
18:30 Dona Club リマ市内 ミラフローレンス地区(高級住宅街)を後に、空港へ出発
19:15 空港到着 
21:25 カナダ航空 AC81/01便にて帰国 トロント乗継にて日本への帰国
             機内泊

   大変お疲れ様でした!又の機会に地球散歩、ご一緒にいかがですか?
                日通旅行・添乗員 渡辺
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渡辺さん、しっかりした添乗員業務感心しました。
おっしゃるように又ご一緒できたら嬉しいです、
本当に安心感のある素晴らしい仕事っぷりでした。

ペルーの旅 追記(二)

2006年11月15日 17時53分22秒 | マチュピチュ
3月30日 曇り時々晴れ 午後晴れ(朝は寒い) 10~24℃
9:00 クスコ 途中の峠にてアルパカやリャマなどを飼育している牧場に立ち寄る。
11:00 ピサック ウルバンバ渓谷 インディオ達の物流市場のピサックに立寄り
  お土産を購入?
13:30 Toldo's ウルバンバ渓谷  オリャンタイタンボ近郊のウルバンバ川沿いの
    民芸調のレストランでバイキング料理 キヌアのスープ
    高山病の人も高度が低いので(2863m)で小休止
15:00 オリャンタンタイボ 320段もある階段を登り太陽神殿などの
    オリャンタンタイボ遺跡を見学する。
17:30 ホテル到着 SanAgsutin Hotel 中庭のある植え込みの花のきれいなホテル。
    コカ茶で歓迎してくれる。
19:00 夕食 ホテルのダイニング アスパラガススープと近郊で捕れるマスの料理。
    デザートはアイスクリーム
                                                ウルバンバ泊


3月31日 曇りのち雨(朝は寒い) 10~16℃
7:50 ホテル出発 ウルバンバ ウルバンバ川沿いにオリャンタイタンボへ向け出発
8:35 鉄道 ペルーレイル鉄道でウルバンバ渓谷をアグアスカリエンテまで乗車
   車窓から見えてくるアンデスの山々の景色やウルバンバ渓谷の風景が圧巻だ。
10:10 アグアスカリエンテス着 マチュピチュ観光の為、乗り合いバスにて頂上を目指す。
11:00 マチュピチュ インカの天空都市を見学する。残念ながらインカ道は閉鎖中でした。
14:00 昼食 Sanctury Lodge マチュピチュの入口の観光ホテルにてバイキング式の食事
15:50 ペルーレイル クスコに向け出発 途中アンデスの5000mを越える雪山を見ながら~
19:20 ポロイ クスコ手前の街で下車 列車はスイッチバックで走る為時間が掛かるので、  
  手前の駅からバスで移動する。
                                                  クスコ泊

4月1日 晴れ時々曇り プーノは寒し 10~14℃
7:50 クスコ プーノ向け出発 本日はストライキの影響を考え、ホテルを早めに出発
9:15 オロペサ 古いパン屋のある宿場町で途中下車して皆さんでパンを購入。
10:20 アンダウアリアス 有料道路の料金所ちかくにてトイレ休憩
11:00 昼食 San Pablo Hotel 家族経営のアットホームなレストランでバイキング料理
   (お土産品も売っていた。)途中アンデスの近郊最高峰を見ながらバスはプーノを目指す
13:00 LaRaya ララーヤ峠にて休憩 クスコからプーノまでの街道での最高地点で
    アンデスの分水嶺となっている。
14:30 Pucara プカラ 焼き物で有名な村に立ち寄り、トイレ休憩
16:00 Juriaca フリアカ プーノ県で最大の商業都市
    シルスターニ遺跡 太陽神信仰の強い地域の墳墓遺跡を見学
17:30 プーノ Colon Inn Hotel プーノの旧市街の中心に位置する歴史のあるホテル
19:00 ホテル内ダイニング 野菜スープ、ロモサルタード、フルーツサラダ
           プーノ泊
 

ペルーの追記(一)

2006年11月14日 20時34分26秒 | マチュピチュ
 親切な添乗員さんで、旅のメモを送ってきたので参考資料として載せる。
日時・時間・場所・交通関係・内容と表になっているが、txt形式のここでは書きにくいので
私なりにアレンジしてある。
  ------
旅メモ・ペルーの旅
               日通旅行 添乗員:渡辺

2006年3月27日 曇り 
17:15 成田   カナダ航空 2便  成田空港出発トロントへ
15:30 トロント 11℃ トロント空港到着後、入国手続きを終え、乗り継ぎを待つ。(約6時間)

22:30 トロント カナダ航空 80便  南米の中心ペルーのリマに向けて出発
    機内は少し混雑していた。
                         機内泊

3月28日 曇り時々晴れ (朝は寒い) 10~24℃)
6:30 リマ着ホテルへ Sheraton Lima リマ空港到着後ホテルにて小休止
  (幸い部屋の準備ができていた)
10:00 市内観光 大聖堂、最高裁判所、アルマス広場旧市外地区など車窓観光
11:15 ミラフローレンス地区 ボランティア日本人ガイドによる天野博物館見学
12:30 Senorio del Sulcoにて昼食 
  セビーチェ(魚のマリネ)、海鮮パエリア、ムース、コーヒーor紅茶。
  太平洋に面した見晴らしの良い恋人岬の傍のレストラン
14:00 黄金博物館見学 ペルー全土のインカ・プレインカ時代の出土品を展示
  ホテルに帰着途中スーパーマーケット=メトロに立ち寄る。
19:00 ホテルのダイニングルームにて夕食 ウェルカムドリンク=ピスコサワーで
   バイキング料理を自由に!
                                                   リマ泊

3月29日 曇りのち時々晴れ 10~18℃
8:15 ホテル出発 リマ空港へ向け出発 ホテルでバイキング式の朝食後、リマ国内線空港へ
9:15 スターペルー航空 1117便 ペルーの歴史都市クスコへ。
  (ストライキが予定されていたが影響無し)
10:25 クスコ空港到着 一時ホテルに立ち寄りチェックイン。
  (誰も高山病の症状無し)
12:30 昼食 Tunupa ホテルから歩いてマルマス広場に面した古いレストラン
  ペルー料理(クイやリャマの肉料理など)を含めたバイキング料理
14:00 クスコ 歴史箇所の市内観光 12角の石、コリカンチャ(太陽の神殿)などを見学
16:00 インカ時代の遺跡見学 ケンコー遺跡、プカプカラ、
  タンボマチャイ(聖なる泉)、サクサイワマン(インカ時代の要塞)
18:30 ホテル帰着 お疲れさまでした。
19:30 夕食 Don Antonio 旧市街にある古いレストランで
  ペルーの民俗音楽ショーを見ながらバイキング料理
21:00 ホテル SanAgusutin Hotel クスコの旧市街の中心にある民族調のインカ風ホテル
                                                  クスコ泊

トロント

2006年05月14日 09時17分39秒 | マチュピチュ
 トロントに早朝着き出発は昼過ぎなので実質4時間弱の自由時間がある。
往路でもそのくらいの空き時間があり市内観光に出かけたグループがあったので我々もそれに倣い市内観光へ出かけることにした。一人でツアー参加していた名古屋の女性の方もご一緒した。我々は3名グループなので食事のとき4人掛けの席なら一人参加の方が加わる事になるので時々食事を一緒に取った方で、心の強そうな私たちより遙かに若い女性です。

 目的はトロントタワー、バカの高上がりで高い場所から眺めるのは気持ちが好いだろうと考えたからです。タクシーで4~50ドルとのことだったが、バスや地下鉄で行くことにする。
空港の案内板に従いバス停行く、そこで待っているオバチャンに行き方を教わる、○番のバスに乗れという。バスはほぼ時間通りに来た、空港を出てハイウェイを走るが通勤時間のラッシュだ、でもたいしたラッシュではない車が多いという程度、ちょっとだけ走ったらターミナルような所で降ろされた、地下鉄の駅らしい。バス賃を2ドル弱払ったのにたったこれだけの距離か高いな~と思いながら駅に入り地下鉄のキップ売り場を探すが見当たらない、近くの人に聞くとキップは要らないというバスと地下鉄は1本だったのだ、それならバス賃は納得できる。

 トロントは寒い吐く息が白くなるほど冷えている。中心地の駅で降りてタワーを目指す、上手い具合にオープン時間になったのでエレベーターで上がる。眺めは若干霞んでいるがまあ良い、お笑いTVで見た透明の床もあった。真下見ながらだとやはり背筋がゾクゾクしソロリソロリと尻を突き出したような格好で歩くことになる。妻への手前何でも無い素振り平気な顔をしている。
更に上の階に登った、市内が良く見渡せるすぐ下に中央駅があり列車が動き出し再開発中の近くを長い列車が通り過ぎて行ったが交尾はまだ駅付近だスケールが違う。1マイルはあるだろう長く繋がったまま大陸を横断するのか。

一生懸命眺めて入場料の27ドルの元を取ろうとガンバル、したの階でまた透明な床を渡る、27ドル分のスリルを味わいつくさねばとのケチな根性を隠して外を見て、下を見て・・トイレも使えばよかった。
カネを払わなくてもできる場所では催さないものだ、(笑)

上から見ると駅までコンコースというのか屋根つきの通路があるので、そこを通って帰った。メトロやバスの乗り継ぎももう大丈夫、空港まで戻り所定の場所に集合する。
これでホントにもうオワリ。
長いようで短いようなペルーの旅はこのフライトで終わる。
さあ次は何処にしようか・・いえ実は決まっているのです。この三人でスイスへ行くのです。頃は7月かでき得れば6月末から。

ペルーの事は書き残した事を思い出したら又書きます。
暫しの間休憩!

アメリカ上空

2006年05月12日 15時01分20秒 | マチュピチュ
 今回のツアーは添乗員は、南米への乗換地としてカナダの利点を強調していた。
アメリカに比べて入国出国の検査が緩いのでラクですよ、とのこと。アメリカはトランジットでも検査が厳しく3時間掛かるのも珍しくないとのこと。

 こういうのが利点として挙げられるなんてアメリカのバカさかげんが分かる。自ら蒔いたタネに脅かされるなんて同情どころか哂いたくなる。ご勝手にどうぞ、ハリネズミ状態の防御体制を敷き恐怖に慄いてください、とヨコメで眺めるだけす。
 その恐怖感を他国に攻め入り紛らわす傍迷惑なことはもう止めて欲しい。
アメリカの偉大さは戦争を行い国が疲弊しても、裏で政権を支える多国籍企業は儲けているところだ。スゴイとしか言いようが無い。

 それを支えるニッポンという国ももエライ! その国を支えている国民は尚エライ!
国民の一人である私はのうのうと旅行を楽しんでいる。エライ国民の一人に数えられるのかな。(笑)

 と異常のように悪態をついたが、これはこのブログのペルーの項の最初の頃に書こうと思っていたが、気が乗らずの放っておいたのです。
アメリカは憧れの地であった。「自由・民主主義・アメリカンドリーム・・」賞賛するのに言葉は要らない、
匂い身振りそれらの一つひとつがアメリカナイズされていた頃もあった。
それがこの有り様、あまりにも幻滅して哂う以外にない。ここ当分アメリカの地を踏む事は無いだろう。もしかすると入れて貰えないかもしれない、このような危険思想の持ち主は。(笑)

 夜中にその疎ましいアメリカ上空を飛んだのだろう。夜が明けると大地の上を飛行している。アメリカはこの目で見るものではなく、若い頃の憧れを瞼の裏に映して心の目で見るものだろう。
 我が家にホームステイしたフロリダのあの娘はもう結婚して子供もいるのかな。インターネットがもっと普及していたら今でも連絡しあっていただろうに。
娘たちが1年もお世話になったサンアントニオとフレズノのお父さんお母さんのこともチラッと思い出した。みなさん屈託のない良きアメリカ人だった。両家の方々と娘達はメール交換しているので消息は知っている。

 両家族とも私たちが子供の頃のアメリカーとはちょっと違う、サンアントニオはメキシコ系でフレズノが東欧系、私の子供の頃のアメリカーは白人と黒人だった。
身体の匂いもチーズっぽかった、トイレや塵捨て場も独特の匂いがあった。
しかしトロントでは感じなかった、もう大人になって慣れてしまったのか、それとも多民族が混ざり合ったので中和されてしまったのか。

なんて眠れぬ座席で妄想しているうちに着いた。本来時差は無いはずだが、サマータイムの関係で1時間調整した。また往路と同じく一旦入国手続きをして数時間の乗り継ぎ時間を過ごす事になった。

帰路へ

2006年05月11日 09時02分24秒 | マチュピチュ
写真は、ペルーの新しい夜明けを願って・・・

 鳥の糞の臭いが風に乗って流れてくる、臭いがしょうがない。
ボートは島に近づいたり隣の島へ移動したりしながら観察を楽しんだ。鳥も数種類いるようだし、アザラシのほかにペンギンもいる。ペンギンはやはり可愛らしい。草一本生えていない荒地の島だが、黒く見える所は鳥が固まって休んでいる場所だ。
外洋には縞模様となって飛び交っている。飛び立ったばかりの集団は編隊組んでというか群れをなして飛んでいく。

 その様子は将に驚嘆の世界。
いい物を見せてもらった、どうせ時間潰しだろうと期待していなかったので受けた衝撃は大きかった。ヨカッタ~
下船の際にアザラシの小さな置物の記念品まで貰った。

 荷物の整理をし出発準備をして昼食をとった。パエリアだった、これがまた美味しくお代わりして食べた。デザートはアイスクリーム。
あっという間の9日間、旅の行程の半分を過ぎると時間が経つのが早く、アレッもうオワリなのという感じだ。あと2~3日は廻りたい。

 帰りは昨日来た道をリマへ戻る。乾燥した荒地で草木も殆んど見えない所も多い。場かでっかい養鶏場の建物がところどころにある、アンデスの水は伏流水となっているのでボーリングで汲み出しているのだろう。
土地は幾らでもあるから鶏舎の消毒はお陽様任せのようだ。フンが落ちてもたちまち乾燥するので細菌類も繁殖しにくいだろう。

 夕方リマ市内に戻る、夕食はゴルフ場に併設されたレストランで中華料理でこの旅を〆る事になった。会員制のようで敷地への出入りは厳しく制限されていた。貧富の差が激しい国では珍しい事ではない。ただ自分が金持ちヅラしてそこへ入るのに抵抗を感じる。しかしそのように感じるだけでどうしようも無い。
 中華料理の味付けは良かった、美味しかった。ただ品数が少なかったのが残念だけど。量はあったのでお腹も満足し空港へ向かった。

 リマの空港は今回で4度目の使用となる。
孫へのオミヤゲ、Tシャツを買う。これまで観光を楽しんだスイスやトルコのミヤゲは国旗がデザインされたTシャツだったので、ペルーの国旗をあしらった物を探したが見つからなかった。
それでインカとナスカをイメージしたものにした。

 真っ暗になったリマを飛び立ちトロントへ向かった。
リマの明かりは水銀灯や蛍光灯の冷たい色ではなく、赤っぽい白熱灯の色だ。この暖かい色のように国・支配階級・権力者も国民に暖かくしてもらいたい。

マジェスタ島

2006年05月09日 22時01分27秒 | マチュピチュ
 今日は実質的な最終日で2006年4月4日になっている。曜日はおろか日時さえ気にしない日が続いているがたまには日時の確認も必要だろう。

 マジェスタ島の名前はツアーの案内パンフで始めて知ったので、どのような島で何が見所なのか知らない。またパンフには上陸しないで海から眺めるだけのような記載もある。なんの面白みがあるののか分からない。11日間という日数稼ぎの手段じゃないかとも考えた。日程に入っているのでそれなりの面白みはあるだろう。

 ホテルにの敷地に隣接して船着場があり、そこから出航した。20数名が乗れるボートで船足も速い。波を叩き切り裂くように進む、マジェスタ島は岬の陰になっているようだ。近くに遠くにボートが見える、オレンジの救命具が見えるので観光船だ。
 船は岸のほうに近づいていく、ナスカの地上絵カンデラブロが見えてきた。大きな燭台の形をしていて短いローソクで100mあるとのこと。海からしか見えないこのカンデラブロは灯台の役目をしていたのだろうか。この近海はフンボルト海流の関係で霧が多いそうなので、霧がかかるとあの絵では意味を成さないと思うが、海に向かった描かれた絵は何を目的としているのだろうか。

 写真を撮りカンデラブロを充分目に焼き付けてから船は大船原に向きを変えた。近くには観光客満載のボートが数隻漂っている。中には大型の高速ゴムボートもあった。波でびしょ濡れになるだろう。
 我が方のボートはスピードを上げる、海鳥が多くなった。はるか彼方に島が見える。目指すマジェスタ島だ。
島は黒い斑点に覆われ、空にも無数の鳥が飛んでいる。マジェスタ島は鳥の糞、リン鉱石を採取する島だったのだ。

 島には積み出しようの簡易桟橋も設置されており採取される量も多いのだろう。大きな島が二つ並んでおり、交互に採取するとのこと。糞を取らないと鳥は別の島へ移ってしまうほど清潔好きらしい、人間が清掃料としてフンを取るのは正当なことなのだろう。

海岸にはアザラシ(セイウチとかオットセイとの区別は分からないので便宜上アザラシにしておく。)がハレムを作っている、縄張り争いがあるのか喚き声がうるさい。これだけの鳥にアザラシが棲息しているのをみるとこの近海は魚の宝庫なのだろう。ペンギンも僅かだがいる。
 鳥については圧倒されるほどいる、ゴマ粒のように見えたのが全て鳥でその大きさは羽を広げると優に2m近くある。群れをなして飛び立つ様はコウモリの映像を見ているように帯状になって空を埋め尽くさんばかりである。

 これほど大量の鳥を見たことは無い、養鶏場の鶏もここに比べると斜面で羽を休めている一部にの又一部でしかない。
 遙か遠くに一団が芥子粒のように見え、その後にまた一団また一団と延々と続き島から将に飛び立つ集団まで途切れなく帯が伸びている。たいして期待もしていなかったが見てビックリ。
ペルーの奥深さを改めて感じさせられました。

パラカスのホテル

2006年05月08日 05時37分43秒 | マチュピチュ
 ホテル・パラカスはペルーの旅最後夜になるので残しの無いようにと充分楽しみたいと思った。夕日を見ながらのプールは見た目の雰囲気はいいが南国ウチナーンチュには寒すぎる。水の中はともかくプールサイドに出ると寒い、風が冷たい、でもリゾートで泳いでいる気分は充分味わった。マチュピチュの麓アグアスカリエンテスで温泉で着用する予定の水着は使えなかったのでせめてここで使って元を取ろうというチンケな心もあった。

 夕食は内装がいかにもリゾート風で竹を用いた天井、壁はオープンカフェ風ガラスを用いた仕上げの部屋だった。ライトボディのペルーワインがフォルクローレのハーモニーと相俟ってアタマの中ではコンドルが飛び、心はピューマになりインカを想い南米の現実に怒りを覚えながらも自分のやっている事は物見遊山。矛盾との葛藤もを聞きながらワインを傾けた。

 平屋建ての部屋がフロントを中心として両翼に二列で並び、3人同宿の私たちには二間続きが割当られた。これまでは補助ベットで過ごしてきたので画期的なことだった、家族の子供用なのかメイド用なのかひと部屋はクーラーが付いていない。

 広いレンガタイルが敷き詰められた通路から庭を通って部屋に入るのでまるで一戸建ての家に入る気分だ。通りの向こうは芝で覆われてベンチ風ブランコが置いてある。植え込み越に海が見える。花が咲き椰子のはが風に揺れた様はいかにも余暇を楽しむ気分、サイコウ。

 夜最後の南十字星を見ようと探した、でも街灯の光で夜空がボンヤリとしか見えない。暗い場所を求めてホテルの敷地を移動したが残念ながら発見する事はできなかった、たぶんアレだと歪な四角形を指さして部屋へ戻った。

 部屋では荷物の整理をした、東京で3日間滞在するので大きなスーツケースはナリタから宅急便で送れるように持ち物を整理した、私はホテルに来る前に立ち寄ったスーパーで買ったビールを飲むだけで妻がブツブツ言いながら分類している。

 ビールのことだが、クスケーニャの壜にはクスコの12面体の石垣が浮彫りになっていると説明されたのでよく見るとホントにそうなっている。オミヤゲに持って帰ろうと思うもとき既に遅し。私が買ったビールは銘柄違いなのでそのような細工はされていない。
買おうにもその話を聞いたのはもう店に寄るチャンスが無くなってからだった。ザンネンだった。

 早起きして朝日が昇るのを待った。潮騒の音も心地よい。今夜帰国の途に着く、身体の不調も旅に支障が無い程度の軽いもので良かった。
今日はマジェスタ島遊覧だ。

イカからパラカスへ

2006年05月05日 07時42分45秒 | マチュピチュ
 気分は優れないが機長のサービス精神をオーバーに褒め、たどたどしい域にも達していない日本語を褒めて地上絵を眺めた。長~い時間に感じられた、同行の皆さんはとても楽しんでいる様子だ。ただ一人の男として弱音を吐くわけにもいかない。
 もう戻ると言われたときは正直ホッとした気持ちと惜しいもっと見たいという気持ちが半々だった。帰りもけっこう時間がかかった、時折り揺れるが帰りと言うことで気がラクだった。

 乾燥してカラカラな大地に禿山が真昼のベタ光線で陰影に乏しいボケた風景が続いている。アンデスの山から流れ出たであろう川の跡がある。退屈な光景の中に出てくると僅かの変化でも砂漠と言うものを感じさせる。広い河原に幾段か高低ができている、あれが河岸段丘というものか。水無し川なのでたんなる窪地かもしれない。砂地がつくる縞模様の中ほどに水がキラキラ光って見れる帯が見える、水が流れているのだろうそれに沿うように緑の帯が見える、ホッとさせられる光景だ緑が綺麗だ。

 着陸したとき正直嬉しかった。イチバンに出発したので他の人はまだ戻っていない。空港ないにコンドルがいると聞いたので見に行った。さすがインカの神と崇められただけあって気品がある。羽の黒の中の白が栄えている。一緒に写真が撮れるというので檻から出してもらう、羽を広げると2mはゆうに越す大きい。子羊なら掴んで舞い上がるだろう。代わる代わる写真に納まりお定まりのチップを出した。
仕込まれたのであろうが羽を広げたまま歩いたり、写真に納まるまで羽を広げた状態でいる。

 飛行までの待ち時間にイカ市内を少し回った、何処の街にもある中央広場を見ただけだが市の中心部なので人出は多い。そこの名物と言うチョコレートをオミヤゲに買った、キャラメルをチョコで巻いたもので大きさ包み方がおもしろい。ついでにピスコも買った。
 遅い昼食は街外れのレストランだったが、広い敷地で手入れも行き届き廊下には骨董品が展示されている、もしかすると宿泊施設もあるのか。屋外での気分好い場所でのランチだった。冷えたビールを飲みながら遊覧飛行の話に花が咲いた。

 食事の後はこのツアー最後の夜を過ごすパラカスへ行くだけ。街を抜けると砂漠、砂の砂漠ではなく木が生えていない土地という意味での砂漠で色はグレーっぽい。砂埃が立ちそうでそうでもない、砂漠というのに慣れていない私にはなんとも言いようのない光景だ。
来た道、行く道で興味を惹いたのは看板だった。コーラやビールの看板がおもしろい、とてつもなく大きな看板や、100m、200mと続く塀に同じマークが繰り返し繰り返し並んでいる様は異様でもある。何の変化も無い荒れた大地の中の村の壁、塀に描かれたものをみるとやり過ぎだと思う半面ペルーとはこういう国だと納得しペルーの風景と受け入れる気持ちも出てくる。インカコーラやクスコビールの大型看板を見たときも同じように感じた。
 パラカスはハイウェイから海側に向けて暫らく走った所にある。ホテルに入る前にスーパーに寄ってビールを買った。添乗員はホントは信義則違反だが・・と笑いながらスーパーに立ち寄る旨を告げたのだ。ホテルの飲料は高いので嬉しい配慮だ。

 ホテルはリゾートホテルで低層の客室が並び、プールは当然のことである、桟橋もあった。早速夕日を見ながらプールで泳いだ。

遊覧飛行

2006年05月02日 14時04分50秒 | マチュピチュ
 ナスカの地上絵を空か見るための飛行場はイカという街にある。
飛行場というものの小さな空港だ、小さいとか大きいとかはターミナルのことで滑走路は見えなのでその規模は分からない。平屋の待合所がある程度なのでやはり小さいのだろう。
ガイドがなにやら交渉しているが、午前中のフライトは他の客の混み具合、機材の都合でで無理な様である。ではランチを先に済ますというわけにも行かないので先のフライト組みの帰りを待つことになった。
もうその頃には添乗員さんの誠意ある気持ちを汲み取る事も出来るようなっていたので少々の待ち時間は苦にならなかった。みなさんもそうであっただろう、待ち時間の様子を見てそのように感じられた。

 時間待ちしていよいよ乗ることになった、飛行機は4名乗りのセスナに6名、12名乗りに分乗する事になりどの飛行機を選ぶかの希望が聞かれた。私たちは即座にセスナを希望し叶った。
私が操縦席の隣に座ることになった。セスナは初めてなのでワクワクした気分だ、しかし若干の不安もある飛行機酔いのこと。座席は会社の係員が決めていた、事前に体重の申告があるとの説明があったが、それは無かった。一緒に乗った若い(ツアーメンバーの中では)女性の体重を聞きたかったのに。

 いよいよ離陸、ちょっと滑走したらすぐ飛び上がった、市街地を見ながら上昇すると荒野、砂漠、禿山が目に入る。川が分かる、水は流れていないが木が川筋に沿って生えているので分かる。谷間に屋敷の中だけ緑に包まれている敷地が見えた、リゾート施設なのか個人の邸宅なのか、緑が見えたのでホッとした。

 唐突ですがこれからナスカへ行かれる方へのアドバイスです。運良くセスナに乗れてしかも副操縦席に座れたとしてもそれだけでは大空の散歩を満喫できないのです。坐ると見えるのは計器だけ、景色はヨコの三角窓からしか見ることが出来なかった。原因は身長および座高です。伸び上がろうとしてもシートベルトがジャマをして尻が浮き上がらない、イライラしたがシカタがない。尻の下に敷く5~6cmの台(?)持参をお勧めします。
コンパスには自信が無いが座高には自信がある人は必要ないでしょうけど。クラスメートの○○なら必要ないな、胴長短足だったから。

 それから添乗員からの助言だったが、操縦士もヒトノコ、褒められたら気分良くサービスするし、気が乗らなければ早々に切り上げるヨ。それならと私たちはオーバーに声を上げて機長を褒めた。機長は右の人左の人と地上絵が良く見えるように機体を傾ける。たしかに良く見えた、インターネットとかガイドブックには地上絵がハッキリしなかったと不満の声もチラホラ書かれているが、私たちは気象条件が良かったのかよく見えた。

 機長はアンチョコをだして日本語の説明をローマ字読みしている、言うている事を一生懸命考えてなんとか分かる程度、それでも”じょ~ず~”と褒めた。左の人が見えるように傾けている間私は機長越しに見るか、空を見ている。大きく旋回して今度は私が見えるように傾ける、サービスは良い。良いのは良いが酔いが来そうだ。

 気分がオカシクなってきた。もともと船酔いに強い方ではない。学生時代の船ヤマトまで行き来していた頃を思い出した。ウッ・・・
吐きはしないが気分は優れない、それでもはるばるやってきたのでゼッタイに見ておかねばならない。必死の思い出ハチドリ、さる、コンドルなどを目に焼きつける。アタマの中では左側には傾けなくていいのの・・・などと考える。

 直射日光に照らされたナスカ、眩しくて暑くもある三角窓を開けて風を入れると気分も少しは気が紛れる。アタマと目は別々のことを感じて動いているようだ。見たい、気分は優れない、でも見た~い・・・
眼下にはアメリカンハイウェイが一直線に伸びてミラドールという観測塔らしきものも見えた。宇宙飛行士や三角形も見える。もっと見た~い、もうこれでいいとの心の葛藤は続く。

イカ (ナスカ)へ

2006年05月01日 07時36分30秒 | マチュピチュ
 このツアーの3本柱の一つナスカの地上絵を見に行く。
マチュピチュを筆頭に楽しみにしている場所だった。子供の頃読んだ本、それは発見物にも怪奇物にも登場していたナスカである。発見されたときの逸話や何故・何時・誰が・・など興味深く書かれていたし、今でも興味を惹く話である。

 ヤコペッティ監督の「世界残酷物語」に出てきた飛行場はナスカの地上絵だったか、何処か南洋の島の話だったか・・
勘違い記憶違いであってもナスカには夢ロマンがあるのに違いは無い。

 バスは市内から郊外へ出てリゾート地らしいところを抜けて南下する。走っている道がアメリカンハイウェイで、北はアラスカからチリまで繋がっているとのこと。

 道といえば、クスコからプーノへ行く道のある部分はフジモト大統領時代に建設整備されたと説明があった。それまで20時間以上かかっていたのが数時間で行ける様になったのは大きな功績だろう。
そのフジモリさんが大衆から見限られたのは一部の支配層に取り込まれたのか、元々そのような人物だったのか、発展途上国の指導者は分からないものだ。現在置かれている境遇と合わせて考えるとあらぬ事も考えたくなる。
 ただ日系だからという理由で支持応援するのは問題がありそうだ。ガイドの発言にフジモリは殆んど出てこなかった、もう過去の人間になったと言わんばかりの感じがした、ただ娘さんが上院議員に立候補している話しはしていた。

 チチカカ湖の浮島に設置してあった太陽光発電システムとこの道路、彼が貧しい地域に目を向けたのは確かだ。惜しむらくはこの姿勢を続けて欲しかった、権力維持のためにフィクサーを利用し、あるいは利用されては欲しくなかった。

 添乗員は南米のことをよく勉強していて歴史や地理だけに止まらず、社会問題や時事問題も解説していた。もちろん私たちは観光ツアーなのでペルー政府の批判ではなくヤンワリとした問題点の指摘であった。
インフラが盗電や水道の勝手な引き込みで整備されていくという話はおもしろく、可笑しく庶民の知恵(?)に感心した。道々の整備された豪邸地域と斜面にへばり付くようなスラム地区を見ると問題があるのは分かる。

 乾燥地帯、海辺のアメリカンハイウェイをバスは走り続ける。海水浴場も見えるがフンボルト海流は寒流なので泳ぐのには適していないだろう。サーフィンむきの波が次々と押し寄せている。
この辺りは大規模な養鶏場がある、乾燥地帯に見えるがアンデスの雪解け水が得易いらしい。作物はトウモロコシや柑橘類にブドウ畑もある。近年ワイン作りも盛んになり美味しいワイン生産地となりつつあるとのこと、ピスコという酒の代名詞にもなっている街を通り過ぎた。
道は少しずつ登っていき海から離れて内陸に向かう。

 小型飛行機に揺られると気分が悪くなる人が出るので、遊覧飛行を済ませてから昼食にしたほうがいいという添乗員の配慮があるので遅い昼食なる予定だ。

フリアカ  プーノからリマへ

2006年04月29日 14時41分12秒 | マチュピチュ
 チチカカ湖の観光を終えてバスに乗りフリアカに向かう、そこはこの近辺ではイチバン大きな街で空港もあり商業都市、都市というにはちょっと田舎過ぎるが、とにかく近郊の商業地区とのこと。

 昨日も街の中を通ったが薄汚く、レンガや土壁が周辺の自然にマッチしているとの表現より平野に埋もれてしまっているという感じだ。なんだかフリアカの悪印象、悪口だけ書いているが、ただ見ただけの印象なのでホンキにしないで下さい。

 そのフリアカでランチタイム、パクチー香りがするスープに、メインは鱸(すずき)で、フリアカの悪口めいた事を書いたがこの味は私の印象を一蹴するものであった。見直しました、前言撤回というところ。みなさんも大いに満足していた。

 レストランの向かいは選挙事務所になっているようで、スピーカーを路上に設置して候補者名か政策か何か知らないが連呼している、うるさい大音量でなので喚いているという感じだ。しかもエンドレステープのようで繰り返し繰り返し流れてている。付近から文句が出ないのか、と思うほどである。
こういうのがペルーの選挙なのだろう。
 散歩しようと通りに出るとガイドがカメラの持ち方が悪い、肩にかけるのではなくて首に掛け前にぶら下げて引ったくりに合わないようにしなさいと注意を受けた。何回も聞かされた事だが直ぐ忘れる、常に注意を払うべきだという基本的な事を守れない、ホントに注意散漫だ、反省ハンセイ。
時間も中途半端だし太陽が照り付けて熱くなってきたので歩く気も失せた、ただ通りを眺めて過ごした。

 飛行場は小さいがミヤゲのアルパカ製品を売るオバチャン達がいっぱいいる。しかしターミナルへの出入りは禁じれているようで玄関口に立って手招きするだけだ。駐車場の隣にオミヤゲ品店があるので覗きに行ったら結局強引に買わされた、アルパカの敷物を1枚は記念として買うツモリだったので値切り方に甘さがあった。

 フリアカからリマへは途中何処かの空港に寄るとの説明だったが直行便になった。飛行機なんて搭乗時間は短い方がいい。
 そうそうピサクの市場で買った竹筒に種子か砂あるいは石ころを入れた楽器風なものは手荷物にはできないと検査場で係官に言われた。内部に何が入っているのか分からないので手荷物にできないのだろう。カウンターで預けなおした。

、二度目のリマ空港に到着し前に泊まったホテルに向かった。夕食に寿司が出ていたが食べなかった。
旅ももう終りに近い。

プーノ チチカカ湖

2006年04月28日 14時14分27秒 | マチュピチュ
 プーノでは市内散策が楽しめた。
ホテルに着いて夕食までの空き時間に近くの市場へ行った。公設市場のように様々な店が入っている、果物、穀類、肉に野菜や雑貨まで狭い間口に所狭しと商品が詰められている。果物を1個買って分け合って味見した、でっぷり太ったオバチャンが私の身振り手振りを相手してくれた、隣の店の人も笑って何やら話している。このような場所は楽しい。

 夕食後も又出かけた、今度はデモ行進とかち合った。選挙の候補者アピールのデモで大勢の住民がスピーカーを付けた車両を先頭にプラカードや横断幕ポスターを持って口々に候補者名らしき言葉を発している。現職の大統領は人気が無いようで軍人出身の候補が1歩リードしているようだ。ガイドの話なので自分の贔屓候補を宣伝しているのかもしれない。

 市場の中の肉屋にはアルパカの頭がある、出汁に使うのだろうか。クイもある、肉屋は何処でも同じ光景を目にするが、日本の肉屋にアタマを置いてあるだろうか。チラガーのようなものもあった。市場は夜よりも朝が活気があるようだ。
チーズが並んでいる店で大きなチーズの塊りを買った、高くて美味しそうなものを買って帰ったが美味しくないチーズだった。500円であの大きさだからしょうがないだろう。

 翌日朝食後にまた市場へ行った。チチカカ湖への出発までタップリ時間があったので出かけた。街角のスープ屋が大繁盛していた。大皿一杯のスープが1ソルのようだ、皿にビニールを被せてスープを注いでクルッとビニール袋を引っくり返してスープを入れ、そのままテイクアウト用にする。
見事な手さばきで次々と捌いている。店の腰掛で食べている人もいて、とにかく大賑わい。見ているだけでもおもしろかった。朝から腹いっぱい食べているのでこのスープは飲まなかった。

 その後三輪車に乗ってカテドラルや別の市場見物をしたが、この模様は最初の頃の「三輪車」の項に書いた。

 チチカカ湖はボートに乗って行く。屋根上のベンチや船尾のベンチが風通しも良く眺めもいい。葦、トトラの間の水路を通りトトラの島へ行く、幾つか大小の島がありその内の小さな島に上陸(?)する。6~7所帯が住んでいて、その生活まで見られるところである。生活そのものを見るのはある種珍しくおもしろいが、観光しかも集団で他人の生活を見るのは何か後ろめたさを感じる。不躾にジロジロ見てもいいのかな、見られる事で生業が成り立っているのだから割り切って見てもいいのだろうが、でもね・・・という感じがする。

 トトラも齧ったし竈で揚げたテンプラも食べたし、浮島についてもそれなりに分かったし、何より小学生の頃チチカカ湖の学術調査を纏めた映画を学校の映画見学で見たときのオドロキを体現できた。その頃よりも大量の情報が入ったのでオドロキは薄くなったがチチカカ湖はやはり子供の頃から見たい場所の一つだ。
でも生の生活をドヤドヤと見るのは抵抗を覚える、これなら博物館のような施設で見たほうが気が休まる。

 他の島にも渡ったが其処にはソーラー発電の設備があった。フジモリ大統領より贈られたものだとのこと、学校は休みの日だったので行かなかった。勉強まで邪魔することは無いだろう。
 トトラはスゴイ植物だというのは良く分かった、チチカカ湖の何処にでもあると思っていたら、そうではなく限られた場所にしか生えていない。最近は水質汚染の問題が出てアオコが発生して陸地側は一面緑に覆われている、貴重なトトラに影響を及ぼす事態にまでなってきている。
これからは環境・陸の方の生活をもっと考える必要があるようだ。

プーノへの道

2006年04月27日 11時25分52秒 | マチュピチュ
 山あいの道をバスは走る。
ところどころに村が出てくる、沿線は畑が多い、作物はトウモロコシやキヌアが目に付く、もちろんジャガイモもある。集落の大きさに比べて畑の規模は大きい、水田は全く見えない。生産性が極端に低くなければ充分な食糧生産はなされているだろう。

 通り過ぎる村の家を見ながら思いついた、日本でもそうだがここペルーの片田舎でも塀に屋根がついている、どうしてだろう。リッパな塀には瓦の屋根、貧弱な塀には草を置いてその草が飛ばされないように(と思う)石が置かれている。
 どうしてか・・・と考えて答が見つかった。あの屋根は装飾ではない実用的な意味があったのだ。それは塀はレンガ積みの立派なものもあるが多くは土塀である。横から雨水がかかっても直ぐ流れ落ちるが、上が剥き出しになっていると雨水が滲みこんで塀が崩れてしまう。それを防ぐ水対策の瓦屋根であり、草で覆われているのだ。
そのように結論付けても間違いないだろう。
 時代劇に出てくる武家屋敷の塀も土壁、塗り壁なのだそれ故に屋根が必要だったのだ。
 昼食はこれまた鄙びたところにポツンと建っているレストランだった、スープもあり美味しく食べた、またまた雛には稀なという言葉が頭をよぎった。ペルーは「雛には稀な」ところが多い、ということは稀でないということになる。雛にはフツーのと表現すべきか・・・

 途中トイレ休憩中に近くの畑を耕している現場に出くわした、10名ほどのオトコが鍬を振っている、その様子がヘンだ、全員が肩をくっ付けるようにして鍬を持ち上げ振り下ろしている。私の常識では少なくとも1m以上は離れるだろう、しかしここの人たちは固まって作業している。
 何故だろう、おしゃべりが良く聞こえる為か、そうでは無いだろう。土が硬いので固まって仕事したほうが効率的なのか、離れて作業すると耕し忘れ残りが出るのだろうか。いずれの答えもヘンだ、分からない。雇い主も認めているだろうから効率は変わらないのだろう、安全面はどうだろう。
結局分からないが私の答えです。

 アンデスの山あい、山あいとは言え広いところで山に囲まれた小さな平野・盆地を走り続けて上りになった。気温も下がり始めた気がする。この旅の最高地点を通過するのだ、ほどなく標高4335mの峠に着いた。雪に覆われた山も見える、世界でも有数の峠だろうからシッカリとミヤゲの露店がある大きな石で台を作り品物を並べている。ララヤ峠というらしい。

 本日の日程はクスコからプーノへの移動だけなのでのんびりした行程で、観光巡りはシュスタニ遺跡だけである。
そのシュスタニ遺跡は墓の跡でインカ時代より前に作られたものも多いそうだ。タワーになっており窓は一ヵ所、夏至の日に光が真正面に当たるような作りとのこと。
太陽信仰を具体化するのに夏至を選ぶのはどうしてなのか。北欧では冬至を祝う習慣があった、南半球なので夏至がタイセツな日になったのだろうか。

 シュスタニ遺跡は荒涼たる地、湖のほとりの高台に塔がたっていて、もの思いにふけりたいような気分になった。夕方に訪ねたということもあろうが、湖・丘・遠くまで続く大地が陰鬱とも思える風景になっている。木が見えないのも一因だろう。
墓には似つかわしい場所だ。静かに来世で蘇る事を念じて静かに眠っていたのに静けさを破られて行く場のない魂が彷徨っていてもおかしくない。
遺跡は心を楽しいものにはしない。

 この遺跡に来る途中フリアカの街を通ったが、汚らしい街並みに通りだ。水溜りがあり埃っぽくバラックが延々と続き、降りて歩きになれない街だった。
フリアカの街を過ぎて暫らく走ると湖が見えてきた、坂を下りチチカカ湖畔のプーノに着いた。

プーノへ向かう

2006年04月26日 10時01分40秒 | マチュピチュ
 マチュピチュの帰りの汽車ではファッションショーがあり、真っ白けの顔で踊る衣裳身に付けた踊り手が狭い列車の通路で演じてアルパカ製品の宣伝をしていた。各車両を廻っているのだろう、若しかして日本人車両だけかな。

 汽車は来た道を戻る、急流を遡るようにすすむ、山手には雪山も見えてきた。晴れてきたので遠くの雪山に日が照って輝いている。
クスコまで行く列車だが一つ手前の駅で降りてバスに乗り換えるそうだ、山越えするのにスイッチバックで登るので時間がかかるのと、この区間はドロボウ列車と称されるほど犯罪が発生していると説明があった。

 クスコから日本の大学院生が乗り込んできた、席はガイドの席だったがオーバーブッキングのようで、ガイドが席を譲り移動したので彼が座ることになった。ひと月ほどペルーからボリビアを旅しているとのこと。いろいろな出来事を話しているの興味深く聞いた。
 我々がクスコの一つ前の駅で降り、その後はドロボウ列車と呼ばれるほどヒドイことが起きるかも知れないと告げると若干オロオロしていた。その後もしその彼が週刊誌に載るようなことが起きたら、”たまたま一緒の乗客・・云々”のインタービュー記事が出るのかと内心ハンブン期待(?)していたが、リマの空港で再開した。(笑)

 スイッチバックを経験したかった、でも途中一ヵ所スイッチバックで登ったところがあった。スイッチバックは阿蘇で乗った以来だ、阿蘇では別の機関車を連結して登ったが、そこで機関車の連結があったかどうかは分からない。もう暗くなっていたので景色も見えなくなっていた。

 バスで山越えしてクスコに降りる途中で夜景を見るために一時停車した。クスコの明かりが眼下に広がっている、街はピューマの形には見えなかった。写真を撮ったが手ブレを起こしている、一脚でもカメラ支えが必要だ。ペルーの明かりは蛍光灯色は少なく白熱灯の色・明かりだ、街全体が暖かい色で包まれている。
一昨日泊まったのと同じホテルに入った。

 翌朝出発までの時間を散歩に充てた、街角にオバサンのパン売りが並んでいる、直系30cmほどのクスコ独特のパンが3ソルという、あとで分かったが吹っかけた値段だったがそこでは買わなかったので被害(?)は無かった。小さなパンは5個で1ソルくらいに思えた、買って行く人の支払額から推測したのである。 

 今日は4月1日の土曜日になっている、散歩しながら教会にも寄った、週末なのか前に来たときより大きな礼拝堂を使ってミサが行なわれていた。入口でイチオウ十時を切って敬意を表した。
 教会には大きなメインの礼拝堂の回廊横に配置された部屋があり、絵画や彫刻などで飾られ祭壇まである箇所もある。前に来たときはその横の部屋で礼拝が行なわれていた。メインに対して横向きになって説教・礼拝が行なわれていたが、その日はメインが使われていた。

 私たちはジャマにならないようにそ~っと歩き祭壇の後ろ側も見て廻った。”クイの最後の晩餐”の見納めをした。
プーノへの出発は、市内は道が狭いのでまず中型バスで出て、街外れで大型に乗り換えた。飛行場の脇を通り抜け市外に向かう。途中でクスコパンが有名な、というより運転手が気に入ったパン屋に寄ったのでパンを買った、2ソルだった。
タンナフクルーを思い出す風味がある。

 バスは緩やかな坂道を登り始める、クスコを守る城門の遺跡が峠にあった。
土を取った跡のようなところが目立つ、池もある。クスコで使われている瓦や日干し煉瓦の生産地とのこと。
このツアーの最高地点の峠に向かってバスは快適に走った。