どこ吹く風

旅のことを主に書く。

鹽水の蜂炮

2005年09月30日 07時12分22秒 | 台湾-鹽水
 鹽水の花火大会は花火大会というにはあまりに優しすぎる表現だ、蜂炮(爆竹)をそれもロケット花火を群集に向けて水平撃ちするお祭りです。
鹽水は変換がタイヘンなので塩水と表記します。

 ある時台北でTVを見ていたらニュースの時間に爆竹が打ち鳴らされるのを背景に破れた衣類を自慢げに見せる若者の姿が写っている。何やら馬鹿騒ぎがあったようだ。言葉が分からないのでその程度しか理解できなかった。

 またその後日本のTVで台湾の花火祭りの様子をレポートする番組を見た、アッあれは台湾のTVで見たアレと同じだ・・・
それで図書館へ行き台湾関連の書物を広げた。探しきれない、旅関連のガイドブックを捲っても見つからない。

 ある時本屋で立ち読みをしていたら、コラムに塩水の花火大会の様子が書かれているのを発見した。そのとき塩水という地名を知る。是非見て見たいものだと思うようになり調べた。

 地名が分かると位置やお祭りは何時頃開かれるのかなど調べ易くなった。調べながら胸がワクワクしてきた。あのような馬鹿騒ぎは見ていても面白いが、自分がその渦の中に居るならもっと面白いだろう。

 妻に馬鹿騒ぎする爆竹大会の話をすると乗ってきた。今度の大会の日に合わせて見物へ出かけることにする。妻は大阪に住んでいる妹に連絡を取ると一緒に行きたいとのこと、娘も(我々から見ると姪)同行するという。
我が家夫婦と二人の娘、息子は日程が合わなかった。

 台北から台南へ飛んで、台南からの手段は現地で考える事にする。ただお祭り当日のフライトなので時間的にどうなるかという懸念は若干あった。妹とは国内線の松山空港で落ち合う事にした。

 出発の前に下準備がある、TVで見た様子からすると身の安全面は十分な対策を立てる必要がある。ヘルメットにマスク手袋は必需品のようだがヘルメットは嵩張るし、人数分揃えるのは金が掛かる、たった数時間使ったあとはジャマになるだけのシロモノだ。将来にわたっても使わない。それでフード付きのジャケットで代用する事にした。

 目の保護は作業用保護メガネを買った。目は絶対に保護しなければならないので金の問題ではない、幸いメガネは安物を見つけたので6個買った。あとは軍手にマスク代わりのタオル、フード付きのジャンバー。それぞれ用意をした、これほど気張って準備しなければならない程危ないお祭りなのだ。

 時期は元宵節の日、つまり旧暦1月16日である。
オキナワでもその日はジュールクニチーといい、グソウ(あの世)の正月である、宗教的に「まつりごと」のある特別な日は共通している。バカ騒ぎも台湾人の祖先供養の一つの現われか。

 胸はずむ想いで準備を進めた。

説明会

2005年09月29日 14時33分03秒 | 旅-トルコ
 昨日(05.9.28)旅行説明会があった。一月ほど前新聞折込に入っていたチラシが目に留まった。安い企画が並んでいる、会社に問い合わせたりインターネットで閲覧して内容を確認した。
希望地はトルコである。

 トルコは2年前に行きそびれた場所だ。バムッカレの石灰棚を何かのメディアで知り是非見たいものだと旅行案内を調べてた。しかし費用とか日程の都合で中国の九塞溝に切り替えた。
仮申し込みまでしたのに手違いというかカン違いというか、ミスでダメになった。
やむなくその時は北京・西安・桂林・上海のツアーに参加した。

 今回はその時の無念を晴らす旅でもある。
説明会は希望地別に時間が異なる、会場へ行くとエジプトと書かれているので係員に尋ねると一緒に行なうとのこと。

 トルコよりエジプトの方が人気があるのだろう。
私はトルコを優先させる、エジプトは最後だ。先生のアドバイス”エジプトは最後に行くべきだ、エジプトを見るともう他のどのような所へ行っても感激しない。”という言葉がまだ胸に残っているのでそうしたい。

 直接の先生ではないが私のゼミの教授の奥さんでメタンと呼んでいた県立女史短大の教授をしていた方で、我が家にお招きしたときに話された言葉です。先生は被服が専門で織りや染めで世界各地を廻られたときの経験の感想を述べられたのでした。

 エジプト、ピラミッドは最後か・・・・
何時が最後か知らないが、できるだけそうしようと思う。

たび 団体ツアー

2005年09月28日 07時45分02秒 | 懐かしい旅の記録
 スイスを皮切りにマニラ・フィリピン、台湾と書いてきた。
思い出を書くという面と、旅物語を書くことにより行ったころのモノゴトや出来事を改めてインプットし直す面がある。

 さてこの次はどの旅を書こうか、時系列的にも書けるが特に印象に残ったものから書くというのもある。台湾は書いておかねばならないモノということで先に書いた。では次は何処にするか、それほど多くの旅行をしているわけではないが、行った所はそれなりに印象に残り家族との大切な思い出になっている。

 私たちは旅行社企画のツアーに参加する方法が多い、そのイチバンのメリットは旅行費用が安い事である。自分で出かけるよりもはるかに安い。デメリットは当たり前だが自分の行動が規制されるということ。でも費用を考えると止むを得ないのが我が家の家系の現状だ、それ故団体旅行を目一杯楽しむことでささやかな満足を得るようにしている。

 国内と海外を比べると海外の方が割安感がある、国内は高い。
外国ツアーでも費用が一日当り1万円を目安にしている。例えばタイ周遊9日間78.900円とか銘打ったも企画である。

新聞を捲っていたらタマにこういう企画が目に付く、こういうのを検討して参加する。自分で行くとなると航空運賃だけでもそれに近い金額を要する。それゆえこういう企画を発見すると直ぐ行きたくなる。

 安いお仕着せのツアーも楽しいものだ。参加者も格安という意識があるのか少々メシが不味くても文句をいう人がいない。もちろん私たちも”安いからしょうがないでしょう。”と笑って済ます。

 旅行社のカラクリの仕組みは分からないが、航空運賃に宿泊費それに食事代やら現地移動費をシロート考えしても絶対ペイしないだうと思われる金額設定だから、待遇に文句を言う気がしない。

 旅行社もどこかでペイする策があるのだろう。他人の懐よりも自分のフトコロを心配するべきだ。(笑)
おかげで私たち家族は彼の地を楽しめる、ホテルやその他不満は殆んど無い、イチバンの不満は市場へ行くチャンスが無いか時間が少ない事。
それ以外に不満はありません。

このような旅しかしていないが、それでも見聞を広めて楽しい想いをしてきたので、その様子を記録を残す意味でも書いていきたい。

思い出はいつまでも

2005年09月26日 17時21分37秒 | 旅-台湾
 出発前の伯母の駄々や母の体調不良などもあったが、全日程を終えた。
最後の夜はこれまでに増して思い出やこの旅のことで話が盛り上がった。わずか数日の出来事だったが数十年の重みのある数日であった。

 帰る日の朝伯父がユーチャーケーを食べたいと言い出した。それも朝食後のことで迎えのバスが来るころになってからである。
それではと、たまたまホテルの近くに市場があったので、その辺りなら朝から家台が並ぶのでは無いかと思われたのでそこへ行った。晴光市場と書いてあった。

 近くの家台でお目当てのユーチャーケーを注文する、伯父は「油條」と書いてあるものをユーチャーケーと説明する、あの頃天秤棒を担いだ台湾人が売りに来たそうだ。麩を揚げたようなもので豆乳に浸けて食べた。お土産に油條を袋一杯買い込んでいた。
伯母や母はホテルで待っていたが、ユーチャーケーを食べた話を懐かしそうに聞いていた。ユーチャーケーは姉たちも覚えているらしく暫しその話でワイワイした。

 その屋台に真っ白なゴーヤーがあった。めずらしい、苦味はそれほど無かった、どうして沖縄に入ってこないのか。やはり味が問題なのか、色の問題か。

 あれやこれや最後までかつてを思い出させる旅だった。
みんなの満足した顔を乗せたバスは一路飛行場に向かった。ここまで来る道のりは長かった。私が密かに考えてからでも相当期間が過ぎた、主に資金の都合だった。伯父にとっては引き上げ後何回か来たが、思い出の地を探す事は出来なかった、考えていただろうが術が無かった。母も同じ、伯父と一緒に来てもただ観光ルートを巡るだけに終わっている。
 私は明確な目的とそれを実現する方法を考えて実行した。目的達成の為の手段を手配しただけだが、それを考え付いただけでもエライとドゥフミーしておこう。
この旅は伯父夫婦に母、姉妹に妻に子供達で玄界灘から東京から集まった旅だった。義兄には手配でお世話になった、兄弟たち皆で伯父に感謝をする旅は成功した。
総費用は100万円からオツリが来た。

その程度の金で出来るならもっと早く父が生きているうちにやっておくべきだった。

 写真説明
 沖縄便出発待合の入口です。
 琉球とあるのが嬉しい。台湾と琉球とは特別な関係がある。

お祖父さん

2005年09月24日 06時40分13秒 | 旅-台湾
 私はお祖父さんの記憶が無い、母方のお祖父さんは私が生まれる前に死んだようだ。父方のお祖父さんは台湾で一緒に生活していたと思うが、あまりにも幼かったのでまるっきり覚えていない。

 オジイサンは風来坊的な性格があって家を出たり入ったりしていたようだ。母や伯父が話すには、短気者で手先が器用で生活力はあったらしい。金儲けが上手いという意味では無く食いっぱぐれが無いだろう、という意味です。

 たいへん優しく特に台湾人に良くしてあげていたようだ。そのオジイサンは困っている人がおれば自分は食うや食わずだのに面倒を見てあげる人だったとのこと。ある日オヤジの一張羅を貧乏人にあげてしまい大喧嘩したらしい、オジイサンはそのような人だった、また気に食わない事があると卓袱台をひっくり返して暴れたらしい。

 困った人のようだ。私もその血を引いている、ただし一部分だけ、他人の世話を焼く癖があるのと、短気なところ。ジイサンの良い面はあまり受け継いでいないのが残念だ。

伯父によると、ジイサンは共産党だという。困っている人には自分や家族を差し置いて何かしてあげる性格、台湾人つまり下層階級に優しい、それだけでなく実際に行動する、こういう面を共産党と表現しているのだろう。
 
 そのジイサンがある日いつものようにかどうか知らないが、オヤジと喧嘩をした。その日伯父さんの家に寄り、「これから南の方へ行く」と言い残して出て行き、それっきり行方が分からなくなった。

 引き上げの際にも姿を見せなかった。父や伯父は引き揚げの人の世話役をしたようで、引き上げも終わりの方だったのでジイサンの情報をあれこれ聞きまわったが手がかりは無かった。

 あのような性格で器用だったので飢え死にすることは無いだろうとは皆の意見だ。あのような性格とは外面が良いし、実際世話を見たということです。
前に伯父と母が台湾に観光で出かけたときに、母はたぶん縁の地であろう処の石を拾ってきた。お墓の骨壷にはその石が入っている。

 ジイサンは私から見ると面白そうな人だ、家から飛び出すなんて考えただけでもゾクゾクする、ロマンだ。そして最後まで姿を見せない、望郷の念はあっただろうが押し殺して彼の地の土になった、できれば私もそうしたい。

 そのようなジイサンの話を聞いているので、台湾へ行った時にはお寺とか堂など先祖供養をするような場所ではジイサンの冥福を祈る事にしている。
オヤジからジイサンの話を聞いたことは無い。
オヤジは実際に台湾の地を踏む勇気は無かったのではなかろうか・・・

その翌日

2005年09月23日 11時23分00秒 | 旅-台湾

 翌日は基隆方面の観光をした。実質的な最終日である、3泊4日の旅なので往復の日を除けば実質2日しかない、基隆は母や伯父伯母にとって上陸の地であり、何度か通った事があるので懐かしい地の一つである。

 高台の観音像が立つ場所から港全体と街を見渡して数十年前に身体一つで上陸した頃を思い出している様子だった。それに引き上げのときもここから出た、そのときの様子はおぼろげながら私も覚えている。米兵が身体にDDTを吹きかけた、そしてLSTに乗り数日間揺られてカワサキに上陸した。たしか船の前が開いてそこを歩いて上陸した記憶がある。あの船は上陸用舟艇だったのにず~っと後から気づいた、LSTだから当然上陸用舟艇だけど大きな船だった、戦争映画で見る兵員の上陸用ではなく機械物資を運ぶ大型のLSTだったのだ。

 暫しの想いを後に野柳岬へ行き奇岩を眺める、クレオパトラとか亀の形をした岩が面白い。そのまま海岸線を走り陽明山への山道を上る。この辺りは田舎だ。陽明山は当時から知っているので懐かしそうに陽明山の名を口にする。

 硫黄が噴出しているところを見物したが雲が出てきて寒くなったので、早々に下山する、麓の温泉はかつて湯に浸かりに何回か来たらしく当事の様子を話している。姉は伯父と一緒に来たらしく、おんぶオンブとせがまれて疲れたヨ~と笑っていた。
戦前は物見遊山するゆとりも無かっただろうが、たまには北投温泉に入りに来たのだろう。

 士林の蒋介石別邸(?だったか・・)付近では、伯母が芋の苗をオーダー(もっこ)に担いできたことなどワイワイ我先に思い出したことを喋り捲る。とても和やかな車内であった。園山大飯店では丸山神社という地名が出てくるしアタマは昔に戻っている。

 今回のような企画はオヤジが生きているときにすべきだっただろうが、その頃は金が無かったし、そのような知恵も働かなかった。オヤジは引き上げ以来一度も台湾の地を踏む事は無かった。本来自分で行けばいいのに出不精なのか、行く勇気がなかったのかオヤジは行かなかった。

 行く勇気とは、自分で旅行社に申し込んでまで行くという行動、自分は台湾は知っているのだという自負心が観光旅行というものに偏見を持っていたのかもしれない。それともう一つ台湾で苦い思いがあったのかもしれない。

 伯父もいつも話しているが私から見てお祖父さんのこと、台湾で一緒に生活していたようだがオヤジと諍いが絶えず、いろいろあったらしい。今回もその話が出た、オヤジはその件も気がかりだったのやも知れない。
いずれにしてもそのあたりの事情を何も語らずオヤジは死んだ。

 台湾への旅は楽しくかつ有意義であった。
父・母に伯父伯母、それにお祖父さんのことを想う旅でもあった。
突如として父とお祖父さんが出てくるが、台湾はこの二人を外しては語れない部分もある。私も詳しく聞いてはいないがいろいろあったようだ。そのことは又にする。

旅の目的達成

2005年09月20日 12時45分38秒 | 旅-台湾
 伯父は旧地主の息子さんに会えて大満足のようだった、伯母も引き揚げ後初めて訪れた懐かしい地で図らずも住んでいた場所を確認できて喜んでいた。

 姉たちは戦況が厳しくなる頃この場所に避難してきたので、遊んだ川が昔のまま流れているのを見て泳いだり蟹と遊んだ頃を懐かしんでいた。私はサッパリ覚えていません。

 なつかしの地を後に又市内に向かう。かつて新公園と呼ばれた公園、植物園(?)へ行く、小さな博物館らしき建物もあったが入らずにその辺りを歩いた。
私たちのツアーは個人的に計画して、こちらが要望・指示・手配したのであるが、現地受け入れの旅行社は商魂逞しく、カメラマンを同行させて記念写真をパチパチ撮らせている、必要な方だけ後で買ってくださいと言いながら。

 旅行社主催のツアーならしょうがないだろうが、個人が企画したものまで入り込むなんてホントに商売根性がある。この辺りは見習ってもいい。

 ホテルに戻り夕食までの時間は各自フリーに過ごした。
夕食時に聞いた話だが長姉は母に呼ばれてもう一度かつての住まいまで行ったそうだ。伯父が探し当てたのを見て、朝チラッとだけ見た自分の住まい跡をもっと間近に見たくなったようだ。当時の建物は無いが、線路の直ぐ近くで大通りの位置は変わらず広くなっただけなので場所の特定は容易にできたようだ。

伯父・伯母の喜びようを見て、身体の不調もナンのその、気分が優れない事を忘れるほど感慨深いものを感じたのだろう。身体の不調を吹き飛ばしてかつての家まで出かけるほどのエネルギーが蘇ったのは良い事だ。
母は負けん気が強いので伯父伯母にジェラシーを感じたのかもしれない。

こういうことがあったが、それもこれも全ての面で今度の旅は大成功だ。企画した私としても鼻高々であった。
皆さんから、こういう機会をもっと作るように言われた、あの頃は金を稼ぐ目途があったので又チャンスを作ろうなんて思ったが、状況の変化により未だ実効に移せないまま伯父は他界し、伯母は施設生活になってしまった。

 今にして思えば、恩返しが間に合ってよかった。

伯父の思い出の場所

2005年09月19日 07時29分02秒 | 旅-台湾
 伯父が住んでいたところをカワバタと呼んでいた、行政上の地名なのかたんに川の傍にあったのでそう呼んだのかは聞いていないので知らない。

 ”橋を渡り川沿いに上流にちょっと歩いて、川がカーブしたところを入ったところにあったはずだ。”とバスを降りてその付近を歩く。姉もこの辺りから川に降りて遊んだと言い出す。
ひと筋入ったところに店、沖縄ならマチヤグァー程度の店のオバサンに昔のことを尋ねるも戦前の事は知らない。昔は田園風景が続いたこの辺りも今では全域が住宅地に変わっている。昔の面影はカケラさえ無い。ガイドの謝さんを通じて付近にお住まいの方にあれこれ聞いてもらったが手がかりが得られない。

 伯父は土地を売ってもらった台湾人の息子の写真、それも子供頃の写真を持ってこの子を知らないかと問う。戦後住宅地になった地域なので誰からも情報は得られなかった。
私たちは諦めてバスに戻ったが伯父が戻ってこない、手分けして探したが何処まで行ったものやら見つからない。
 
 バスで待っていると、謝さんが「見つかった!」と知らせに来た。伯父さんが元の地主を知っている人を見つけたようだ。 皆で店のところまで戻ると一人の台湾人のオジサンを連れて伯父が居る。

 ”この方が写真の子供だ。”と興奮した様子で私たちに紹介する。何処でどう探し出したものやら執念とはスゴイものだ。

 そのオジサンによればかつての伯父の土地は最初の予想通りの場所だった。今は学校になっている、謝さんが学校に交渉して校内に入れてもらった。台湾の学校は高さが3mほどの塀で囲まれて門は閉じられている。

 校舎の脇を抜けて運動場を行き、「ここだ、ここだ!」との説明に感慨深そうな伯父の顔、しゃがんで土を握った姿は、過ぎ去ったあの頃を思い出している様子だった。
これでこの旅の目的は果たされた。

 私は、もちろん私の家族もだがお世話になった伯父に恩返しができたと思った。

思い出の地は何処

2005年09月18日 07時44分22秒 | 旅-台湾
 母の調子は良くない、出発前日まで点滴をしたが回復までには至らず気分も晴れないようだ。今回の旅は自前のツアーなので全て融通が利くので万一の場合でも何とかなるだろう。また出発前に伯母が歩けないとの駄々を捏ねた事もあり車椅子を持参している、万全とまではいかないが備えもある程度はできている、みんなは意気揚々としている、出発だ~。

 まず台北駅の付近へ行く、この辺りだ、あの角のビルの・・・とかつての我が家のあった付近をあれこれ詮索している。何故か下車せずに素通りした。案内の謝さんは流暢というても良い日本語で説明している、「あれが戦前から続いている林田桶店です。」と桶屋を指す。母と伯父伯母はうなずいている、「そこは戦前の○○小学校で今は・・・」姉たちが通っていた学校のようだ。台湾の学校は3mほどの塀に囲まれているので2・3階の教室が見えるだけ、昔そのままでは無いようだ。

 このように戦前の記憶のある人は懐かしむように、また古いことを思い出すようにその頃の事を勝手に話し始める。共通したものではなく自分だけの想いを勝手に話して同意を求めたりしている。心の中はタイムスリップして目の前の風景を透かしてあの頃の姿が目の前に現れているのだろう。

 育った地では食えず、外地で何とか食いつないだ私たちの父母、頑張って自分の土地を手に入れ農園を軌道に乗せ始めた伯父夫婦、三人の姉たちは年齢に応じた量の思い出、それぞれが自分を振り返っている。

 私は全部で指折り数えても片手ほどの出来事しか覚えていない、それも土地・場所とは関係の無いことばかりなので大雑把な空気だけを味わう。
昔の総督府の前を中正祈念堂へ行く、衛兵の交代式の時間が近いので観ることにした。広いので念のために車椅子を下ろす、母と伯母は階段があるので下で待つと言う、エレベーターがあるのは下りるときに気づいた。見物が終わり下へ行くと気分が悪いはずの母が車椅子の伯母を押している姿があった、昔のことを思い出したら身体も元気になったようだ、年寄り二人、それも車椅子を押している姿をみて皆で大笑いした、元気を取り戻してよかった。

 中正祈念堂は戦前の錬兵場のあったところだと伯父がいう、母も伯母もそうだそうだと頷く。総督府とか駅の所在地から記憶を辿ったのだろう。二胡の音が聞こえる、戦前もこのような風景があったかどうか知らないが、引き上げてから51年たった半日足らずの時間で遠くなった若い頃を引き戻したようだ。

 次に川向こうの伯父の住んでいた処へ向かう。
前回伯父が住んでいたのは萬華と書いたが、改めて地図を見ると台北から橋を渡ったところだったので板橋市か永和市のようだ。どの橋を渡ったのか定かではないがたぶん中正橋だろう、その橋を渡り直ぐ左に曲がり数百メートル行った所で、「この辺りだ」と伯父が言う。

 近づいたようだ・・・

台湾は第二の故郷

2005年09月15日 09時01分15秒 | 旅-台湾
 私たちにとって台湾は生まれ島、父母伯父にとっても青年期を過ごした場所である。
聞いたけど忘れた、あるいは確認していない、どちらか知らないが昔のことを私はあまり知らない。類推するに父と母が台湾に移住したのは昭和10年頃でしょう。台湾で姉3名と私の4名が生まれた。伯父夫婦は2年ほど遅れて来たそうだ、

 住んでいたのは台北駅の直ぐ傍、家の裏を線路が通っていると思えるほどの場所にだったそうで、その頃は佐久間町と呼ばれていたと思う。私の記憶に残っている地名はこれ以外には御成町だけだ。伯父は川端と呼ばていた今の萬華に居たという。

 空港に着くと手配してあった現地旅行社ガイドの出迎えを受けてバスで台北に向かう。ガイドは戦前中学まで通った方なので日本語も上手だしせんぜんの事も良く知っているような印象を持った。
車中で日程の説明があり、私たちの目的を汲みいれて観光コースの中に故郷探訪を入れてあることを確認した。
 ホテルは中山北路にありそこに着くまでも車窓の風景を昔の記憶に重ね合わせている様子だ。

 夕食は近くのレストランでの会食、それぞれの喜びを語りながらの食事だった。次第に昔のことが蘇ってくるのか話はあちらこちらに飛びながらも、伯父はかつての棲家付近へ行ける期待が増してきたようだ。古い記憶が役立つのかということは一切気にしていないようだ、大丈夫なのか・・

 私は古い台北は知らない、でも10数年ほど前から遊び・観光で何回か来たこがあるので、別の意味で懐かしく見ていた。

仕事の時間だ、久しぶりにマジメに働らこう・・・

一族のたびー台北

2005年09月14日 08時41分42秒 | 旅-台湾
 大袈裟に言えば一族の旅でした。母・姉・妹に伯父夫婦それに私の家族が参加連れだっての台北への旅を企画したのは1998年のことだった。
この旅の大きな目的は、伯父は私たち家族に物心両面に亘って様々な援助をしてくれた、私個人も大学入学の際に金銭的援助を受けた。いつの日かそのお返しを僅かでもやりたいと常々考えていたが、ようやくその頃金が何とかなる目途がついたので義兄に相談して計画を立てた。

 行く先は当然第二の故郷と呼べる台湾である。伯父は組合の旅行で何回か訪問しているが団体から外れて個人行動をしていないので自分の住んでいた地域へは行った事が無いと話していた。
 そういえば母は伯父に連れられて一緒に台湾へ行っている。しかし年寄りなので自分達だけで動き回る才覚が無いので、表面的に”あの辺り”という感じで返ってきている。

 そこで私は今回の旅を故郷訪問と位置づけて、企画段階から目的を絞った。手配は義兄が長年仕事で利用している旅行社に頼み、目的を話して戦前をよく知っているガイドを手配してもらった。日程は3泊4日、この日程で故郷探しとある程度の観光ができるだろう。
 大きな懸案事項や問題は無いが、10数名の大所帯となると日程やらそれぞれの家族間の細々したことが出てくる。姉は九州、妹は東京に住んでいるので出発地をどうするかを話し合う、姉はここに合流、妹は東京発着になった。

 計画がある程度煮詰まりパスポートの準備も揃った頃、伯母が足の具合が悪いので行かないと言い出した。伯父・伯母が参加しなければ目的の何割かが損なわれる事になるので何とか説得する。足が悪くなっても支障を最小限に抑えるために車椅子まで準備した。
伯母の気まぐれなわがままだということは分かっていたが、笑いながら準備状況を説明して伯母の気分を盛り上げた。

 出発直前になって母が高熱を出した、どうするか姉たちと検討したがこのような旅はもう二度と企画できないので何とか連れて行くことにする。前日まで点滴を受けさせた、医者にこのよう状況で旅行へ行けるかどうかを聞くと、ダメと言われるに決まっているので黙っていた。母はキツイだろうが頑張ってもらいたい、このように考えるのは私の自己満足・思いやりの無さの表れだろうか。

 いろいろあったがとにかく出発まで漕ぎつけた。

禁煙

2005年09月13日 14時55分03秒 | 旅-マニラ
 マカティには禁煙条例があり、レストランやBarなどの店内は全て禁煙とのことである。掲示板のマニラ在住管理者と夜の9時にマカティの飲み屋(?)で待ち合わせた。若干のオミヤゲを手にtaxiで出かけた。

 初対面だがその店の常連さんという事なので店の人に探してもらうつもりで入口に向かう。道路には歩道があり、その歩道にもテーブルが置かれている。もしかすると歩道ではなく店の敷地だったかもしれない。またその歩道と店の間の軒下にもテーブルが数組並んでいる。もちろんお客さんが坐っている。

 ドアを開けようとすると、軒下のテーブルから「nesuさんでは・・」との声がかかった。二人連れのオニイサン、オジサンに近いオニイサンだ、お目当ての管理人さんともう一人の方は・・・掲示板仲間だ、たまたま日にちが合ったので来たとのこと。
みなさんに会えて嬉しい限りです。

 早速サンミゲールでカンパイ、話がはずむ。席は狭く人が通るときはイスを寄せねばならない。おかげで横のおネーちゃんたちと仲良くなれた。常連さんだから顔が広いのだろう。入口からは女性やオッチャンたちが入れ替わり立ち代り出たり入ったりする。

小奇麗なおネーちゃんたちは入口付近に座り込みタバコを吸っては又入る。管理人はタバコをプカプカ吹いている。後ろの少々日本語ができるおネーちゃんも吸っている。どうしてわざわざ外まで出てくるのだ、あの人たちはと尋ねてその後気が付いた、マカティは禁煙条例があるのだと。
それで彼らも外の席に居るとのこと。

 そこでは禁煙条例が守られている。フィリピンなんて法令順守どころか何でもやりたい放題という印象が強いが、これほど見事に守られているとは、信じられナ~イ!
日本ならこれほどまでに守られるだろうか疑問に思う。だいたい酒飲みがタバコを吹かさずに長時間居れるものではない、吸いたければ外へ行けと言われても酔ってしまえば言うことなんか聞くものか。

 おそらく日本では有名無実になるであろう禁煙条例が、どうしてフィリピンでーマカティ限定ではあるがー守られるのか。
マカティという土地柄だから守る、罰金が高額なために守らざるを得ない、密告されてワイロを要求される等の意見がでた。
理由はともかく見事に守られているのはリッパなことだ。

 日本なら絶対にこれほど徹底して禁煙が守られることは無い、断言できる。かつて酒を提供する店は深夜営業できなかった。しかし食事のついでなら良いということで、おにぎりを横において酒を飲むのがそういう店の深夜の常だった。
マカティの日本人向けの店ではどうだろう、わがまま日本人が店内でタバコを吸い困らせることがあるだろうことは容易に想像できる。

あまり身勝手にしないでネ、「日本人」を背負って大威張りで歩いているヤカラども。

写真は言わずとも知れた椰子の実、ブコです。
   冷たく冷やしたものにストローを挿して飲む
   ほのかに甘く、ちょっぴり青臭く、でも美味しい

インターネットとフィリピン

2005年09月12日 09時14分16秒 | 旅-マニラ
 初めてフィリピンへ行って以来フィリピンファンとなった。あの何もかもがゴチャゴチャしたところが面白い、ゴチャゴチャは建物、道路、行き交う人全てに統一感というか纏まりというか、そういうのに程遠い感じだ。色眼鏡で見ているのだろか。
それに道行く人々の3割は見覚えのある顔、つまりウチナーのオバーと同類というほど似ている。親近感が湧く。ある時私を現地の人と思ったのか何かを尋ねられた事がある、フィリピン人がウチナーンチュに似ていると思ったが、ウチナーンチュがフィリピン人に似ているのかもしれない。

 物乞いが近づいてきたり、あらゆるところでチップ攻勢を受けたりの不愉快な面もあるが、それを超える何かの魅力がマニラにあった。行く前にガイドブックを買い込んで一応目を通し、出かけるときはそれを持って場所の確認、由来や歴史的な背景をにわか勉強したおかげと、その年に何回か渡比する機会があったので、知らない人には「通」で通せるほどになった。

 インターネットが身近になってフィリピン関係のサイトで知識を仕入れて今に至った。私はあくまでもツーリストなのでフィリピンを深くは知らない、付け刃程度しか知らない、でもフィリピンが好きであれこれ情報・知識を得ようとインターネットを利用した。

 中でも”まにら新聞”の名所探訪は素晴らしい、購読料を支払っていないので全部を読むことができないのはザンネンだが、読める分だけでもタメになる。

http://www.manila-shimbun.com/
マニラ生活情報から名所探訪

 またMLや掲示板も楽しい、表面的にフィリピンを撫でるほどの知識しかないのに、あれこれ書いている。その中で信頼?友情?のようなものが書き込むメンバーの中に見い出した、今回の家族旅行は彼らのおかげでより一層楽しいものになった。

インターネットの掲示板の付き合いだから顔はおろか名前さえ知らない、しかしこちらの要望に100%応えてくれた。これからもインターネットを通したお付き合いをヨロシク

写真説明
路上を堂々と自家駐車場にしている。
これほど大っぴらに看板まで立てる神経が可笑しい。

ロープウェイ

2005年09月07日 17時51分46秒 | 旅-スイス
 思い出したことがある。スイスの山はいたる所にケーブル、ロープウェイ、リフト、ゴンドラ等が設置されている。おかげで足腰が弱った人でも、お年寄りでも、身体が少々不自由な人でも割にラクに山の上まで行き、眺望展望を楽しめる。

私もそれらの恩恵にあずかった者です。しかし、ふと昔のことを思い出した。あの頃、学生時代に西穂にケーブルカーもしくはロープウェイを設置する計画に論議が起きた。自然保護、景観論争だったと思う。山はそれぞれの体力に合わせた、身の丈で楽しむべきという意見と、誰でも山を楽しめるようにしても良いという意見だったと理解している。

 結局あの件はどうなったか知らないが、立山のどてっ腹をぶち抜き、ケーブルカーで黒四に降りるルートができた。ハイヒールでも立山や剣を間近に見て楽しめるようになった。学生時代は美松から歩いたものだった。随分便利に、そしてラクになったものである。
 日本の山も知らないうちにラクに行けるようになっている。昔の論議はどうなったのだろうか。アプローチが短くなった分より高度・密度の高い登山ができるようになり
一般のみならず岳人にとっても良くなったのだろうか。

 スイスでは山にケーブルカーやウォーぷウェイ、リフトを設置したときにこのような論議は起らなかったのだろうか。自然を大切にして暮らしてきた国民だから何らかの論議はなされたであろう。

 全くの予想だが、自然保護とう意識、論議が起る前に既に設置されているので現状追認をせざるを得ない。またスイスは貧しい国なので観光に対して力を入れてきた、静養、登山、観光からスキー客誘致のためのリフト設置という段階を踏んだので反対運動が起きにくかった。

 ロープウェイ・リフトのシーズンは冬場である、スキーのために設置した施設を夏の観光にも使ったということか。

 ただかつての論議の行方が気になったのと、スイスはどうだったのか、という疑問が湧いたので一応記しておく。

写真:夏スキーを楽しむ若者たち

あれこれ

2005年09月04日 17時34分24秒 | 旅-マニラ
ストップないし減速
 一直線の道路で突如左に右にとハンドルを切りながら減速して通過する地点が何ヶ所かあった。工事もしていないのに車をストップさせる平均台のようなバーが設置されて、一車線を塞いでいる。その向こうにもう一本、車が減速せざるを得ない。何のためのものか分からない、察するに車のスピードを落とさせる為のものではないかと思われる。
あれではブレーキを掛けざるを得ない、対向車が来るとストップする事になる。信号機が無いし、例えあったとしても守られないだろうから地域住民の知恵というところか。
この解釈が違っていたらご指摘ください。

にわとり
 チキンが美味しい、肉がパサパサせずに味がある何故だろう。ニワトリってあんなに美味しかったのかと改めて認識させられた。前に行った時もそのように感じた事を思い出した。BBQチキンは毎回注文した、鶏肉は安いので、ここでフィリピンのあの味が出せるなら大当たりする事間違いない。味付けもさることながらきっと飼育方法が違うのだろう。そうでなければ当地で買うものとあれほど味の差が出るわけが無い。

 スパイスと調理法で日本のブロイラーをフィリピンのような美味しい味が出せるのなら、その調理法・レシピを是非教えてもらいたい。


 初めてマニラへ行って奇妙に感じたのは男も女も若い人がポケットに櫛を入れていて、処かまわず髪を梳かすことであった。若い娘はハンドタオルに毛髪用ブラシを巻いて持っていた。アセでベトついた髪がまとわりつくのがイヤでそうするのか、乱れ髪のままでいるとシツレイになるのか、とにかく櫛を持った若者が多かった。

 今回はそれほど気づかなかった、そういうことが流行らなくなったのだろうか。それともそのような若者が屯する場所に行かなかっただけなのか・・・

安全
 工事中の現場を見ると、あの足場には驚かされる。竹で組んだ足場を利用して建物外部の工事をしているが、その足場が物凄い。日本ではBTだろうが単管足場だろうが1間(1.8m)ごとに支柱がある、しかしフィリピンで見た足場は竹で組みしかも間隔が3m以上も離れている、横方向の竹が撓んでいるのにその上で作業をしている。

見ているほうが怖くなる、しかもその足場が6~7階までその調子で組んである。あまりにもお粗末なのでむしろ注意力が増して事故は少なくなるのかな、と逆説的に考えたくなる。働いているみなさん、くれぐれもご注意の程を!

写真は、竹で組んだ足場、
    これで4階まで何かの作業をするのだろう。
    窓ガラス拭きかな。