どこ吹く風

旅のことを主に書く。

思い出はいつまでも

2005年09月26日 17時21分37秒 | 旅-台湾
 出発前の伯母の駄々や母の体調不良などもあったが、全日程を終えた。
最後の夜はこれまでに増して思い出やこの旅のことで話が盛り上がった。わずか数日の出来事だったが数十年の重みのある数日であった。

 帰る日の朝伯父がユーチャーケーを食べたいと言い出した。それも朝食後のことで迎えのバスが来るころになってからである。
それではと、たまたまホテルの近くに市場があったので、その辺りなら朝から家台が並ぶのでは無いかと思われたのでそこへ行った。晴光市場と書いてあった。

 近くの家台でお目当てのユーチャーケーを注文する、伯父は「油條」と書いてあるものをユーチャーケーと説明する、あの頃天秤棒を担いだ台湾人が売りに来たそうだ。麩を揚げたようなもので豆乳に浸けて食べた。お土産に油條を袋一杯買い込んでいた。
伯母や母はホテルで待っていたが、ユーチャーケーを食べた話を懐かしそうに聞いていた。ユーチャーケーは姉たちも覚えているらしく暫しその話でワイワイした。

 その屋台に真っ白なゴーヤーがあった。めずらしい、苦味はそれほど無かった、どうして沖縄に入ってこないのか。やはり味が問題なのか、色の問題か。

 あれやこれや最後までかつてを思い出させる旅だった。
みんなの満足した顔を乗せたバスは一路飛行場に向かった。ここまで来る道のりは長かった。私が密かに考えてからでも相当期間が過ぎた、主に資金の都合だった。伯父にとっては引き上げ後何回か来たが、思い出の地を探す事は出来なかった、考えていただろうが術が無かった。母も同じ、伯父と一緒に来てもただ観光ルートを巡るだけに終わっている。
 私は明確な目的とそれを実現する方法を考えて実行した。目的達成の為の手段を手配しただけだが、それを考え付いただけでもエライとドゥフミーしておこう。
この旅は伯父夫婦に母、姉妹に妻に子供達で玄界灘から東京から集まった旅だった。義兄には手配でお世話になった、兄弟たち皆で伯父に感謝をする旅は成功した。
総費用は100万円からオツリが来た。

その程度の金で出来るならもっと早く父が生きているうちにやっておくべきだった。

 写真説明
 沖縄便出発待合の入口です。
 琉球とあるのが嬉しい。台湾と琉球とは特別な関係がある。

お祖父さん

2005年09月24日 06時40分13秒 | 旅-台湾
 私はお祖父さんの記憶が無い、母方のお祖父さんは私が生まれる前に死んだようだ。父方のお祖父さんは台湾で一緒に生活していたと思うが、あまりにも幼かったのでまるっきり覚えていない。

 オジイサンは風来坊的な性格があって家を出たり入ったりしていたようだ。母や伯父が話すには、短気者で手先が器用で生活力はあったらしい。金儲けが上手いという意味では無く食いっぱぐれが無いだろう、という意味です。

 たいへん優しく特に台湾人に良くしてあげていたようだ。そのオジイサンは困っている人がおれば自分は食うや食わずだのに面倒を見てあげる人だったとのこと。ある日オヤジの一張羅を貧乏人にあげてしまい大喧嘩したらしい、オジイサンはそのような人だった、また気に食わない事があると卓袱台をひっくり返して暴れたらしい。

 困った人のようだ。私もその血を引いている、ただし一部分だけ、他人の世話を焼く癖があるのと、短気なところ。ジイサンの良い面はあまり受け継いでいないのが残念だ。

伯父によると、ジイサンは共産党だという。困っている人には自分や家族を差し置いて何かしてあげる性格、台湾人つまり下層階級に優しい、それだけでなく実際に行動する、こういう面を共産党と表現しているのだろう。
 
 そのジイサンがある日いつものようにかどうか知らないが、オヤジと喧嘩をした。その日伯父さんの家に寄り、「これから南の方へ行く」と言い残して出て行き、それっきり行方が分からなくなった。

 引き上げの際にも姿を見せなかった。父や伯父は引き揚げの人の世話役をしたようで、引き上げも終わりの方だったのでジイサンの情報をあれこれ聞きまわったが手がかりは無かった。

 あのような性格で器用だったので飢え死にすることは無いだろうとは皆の意見だ。あのような性格とは外面が良いし、実際世話を見たということです。
前に伯父と母が台湾に観光で出かけたときに、母はたぶん縁の地であろう処の石を拾ってきた。お墓の骨壷にはその石が入っている。

 ジイサンは私から見ると面白そうな人だ、家から飛び出すなんて考えただけでもゾクゾクする、ロマンだ。そして最後まで姿を見せない、望郷の念はあっただろうが押し殺して彼の地の土になった、できれば私もそうしたい。

 そのようなジイサンの話を聞いているので、台湾へ行った時にはお寺とか堂など先祖供養をするような場所ではジイサンの冥福を祈る事にしている。
オヤジからジイサンの話を聞いたことは無い。
オヤジは実際に台湾の地を踏む勇気は無かったのではなかろうか・・・

その翌日

2005年09月23日 11時23分00秒 | 旅-台湾

 翌日は基隆方面の観光をした。実質的な最終日である、3泊4日の旅なので往復の日を除けば実質2日しかない、基隆は母や伯父伯母にとって上陸の地であり、何度か通った事があるので懐かしい地の一つである。

 高台の観音像が立つ場所から港全体と街を見渡して数十年前に身体一つで上陸した頃を思い出している様子だった。それに引き上げのときもここから出た、そのときの様子はおぼろげながら私も覚えている。米兵が身体にDDTを吹きかけた、そしてLSTに乗り数日間揺られてカワサキに上陸した。たしか船の前が開いてそこを歩いて上陸した記憶がある。あの船は上陸用舟艇だったのにず~っと後から気づいた、LSTだから当然上陸用舟艇だけど大きな船だった、戦争映画で見る兵員の上陸用ではなく機械物資を運ぶ大型のLSTだったのだ。

 暫しの想いを後に野柳岬へ行き奇岩を眺める、クレオパトラとか亀の形をした岩が面白い。そのまま海岸線を走り陽明山への山道を上る。この辺りは田舎だ。陽明山は当時から知っているので懐かしそうに陽明山の名を口にする。

 硫黄が噴出しているところを見物したが雲が出てきて寒くなったので、早々に下山する、麓の温泉はかつて湯に浸かりに何回か来たらしく当事の様子を話している。姉は伯父と一緒に来たらしく、おんぶオンブとせがまれて疲れたヨ~と笑っていた。
戦前は物見遊山するゆとりも無かっただろうが、たまには北投温泉に入りに来たのだろう。

 士林の蒋介石別邸(?だったか・・)付近では、伯母が芋の苗をオーダー(もっこ)に担いできたことなどワイワイ我先に思い出したことを喋り捲る。とても和やかな車内であった。園山大飯店では丸山神社という地名が出てくるしアタマは昔に戻っている。

 今回のような企画はオヤジが生きているときにすべきだっただろうが、その頃は金が無かったし、そのような知恵も働かなかった。オヤジは引き上げ以来一度も台湾の地を踏む事は無かった。本来自分で行けばいいのに出不精なのか、行く勇気がなかったのかオヤジは行かなかった。

 行く勇気とは、自分で旅行社に申し込んでまで行くという行動、自分は台湾は知っているのだという自負心が観光旅行というものに偏見を持っていたのかもしれない。それともう一つ台湾で苦い思いがあったのかもしれない。

 伯父もいつも話しているが私から見てお祖父さんのこと、台湾で一緒に生活していたようだがオヤジと諍いが絶えず、いろいろあったらしい。今回もその話が出た、オヤジはその件も気がかりだったのやも知れない。
いずれにしてもそのあたりの事情を何も語らずオヤジは死んだ。

 台湾への旅は楽しくかつ有意義であった。
父・母に伯父伯母、それにお祖父さんのことを想う旅でもあった。
突如として父とお祖父さんが出てくるが、台湾はこの二人を外しては語れない部分もある。私も詳しく聞いてはいないがいろいろあったようだ。そのことは又にする。

旅の目的達成

2005年09月20日 12時45分38秒 | 旅-台湾
 伯父は旧地主の息子さんに会えて大満足のようだった、伯母も引き揚げ後初めて訪れた懐かしい地で図らずも住んでいた場所を確認できて喜んでいた。

 姉たちは戦況が厳しくなる頃この場所に避難してきたので、遊んだ川が昔のまま流れているのを見て泳いだり蟹と遊んだ頃を懐かしんでいた。私はサッパリ覚えていません。

 なつかしの地を後に又市内に向かう。かつて新公園と呼ばれた公園、植物園(?)へ行く、小さな博物館らしき建物もあったが入らずにその辺りを歩いた。
私たちのツアーは個人的に計画して、こちらが要望・指示・手配したのであるが、現地受け入れの旅行社は商魂逞しく、カメラマンを同行させて記念写真をパチパチ撮らせている、必要な方だけ後で買ってくださいと言いながら。

 旅行社主催のツアーならしょうがないだろうが、個人が企画したものまで入り込むなんてホントに商売根性がある。この辺りは見習ってもいい。

 ホテルに戻り夕食までの時間は各自フリーに過ごした。
夕食時に聞いた話だが長姉は母に呼ばれてもう一度かつての住まいまで行ったそうだ。伯父が探し当てたのを見て、朝チラッとだけ見た自分の住まい跡をもっと間近に見たくなったようだ。当時の建物は無いが、線路の直ぐ近くで大通りの位置は変わらず広くなっただけなので場所の特定は容易にできたようだ。

伯父・伯母の喜びようを見て、身体の不調もナンのその、気分が優れない事を忘れるほど感慨深いものを感じたのだろう。身体の不調を吹き飛ばしてかつての家まで出かけるほどのエネルギーが蘇ったのは良い事だ。
母は負けん気が強いので伯父伯母にジェラシーを感じたのかもしれない。

こういうことがあったが、それもこれも全ての面で今度の旅は大成功だ。企画した私としても鼻高々であった。
皆さんから、こういう機会をもっと作るように言われた、あの頃は金を稼ぐ目途があったので又チャンスを作ろうなんて思ったが、状況の変化により未だ実効に移せないまま伯父は他界し、伯母は施設生活になってしまった。

 今にして思えば、恩返しが間に合ってよかった。

伯父の思い出の場所

2005年09月19日 07時29分02秒 | 旅-台湾
 伯父が住んでいたところをカワバタと呼んでいた、行政上の地名なのかたんに川の傍にあったのでそう呼んだのかは聞いていないので知らない。

 ”橋を渡り川沿いに上流にちょっと歩いて、川がカーブしたところを入ったところにあったはずだ。”とバスを降りてその付近を歩く。姉もこの辺りから川に降りて遊んだと言い出す。
ひと筋入ったところに店、沖縄ならマチヤグァー程度の店のオバサンに昔のことを尋ねるも戦前の事は知らない。昔は田園風景が続いたこの辺りも今では全域が住宅地に変わっている。昔の面影はカケラさえ無い。ガイドの謝さんを通じて付近にお住まいの方にあれこれ聞いてもらったが手がかりが得られない。

 伯父は土地を売ってもらった台湾人の息子の写真、それも子供頃の写真を持ってこの子を知らないかと問う。戦後住宅地になった地域なので誰からも情報は得られなかった。
私たちは諦めてバスに戻ったが伯父が戻ってこない、手分けして探したが何処まで行ったものやら見つからない。
 
 バスで待っていると、謝さんが「見つかった!」と知らせに来た。伯父さんが元の地主を知っている人を見つけたようだ。 皆で店のところまで戻ると一人の台湾人のオジサンを連れて伯父が居る。

 ”この方が写真の子供だ。”と興奮した様子で私たちに紹介する。何処でどう探し出したものやら執念とはスゴイものだ。

 そのオジサンによればかつての伯父の土地は最初の予想通りの場所だった。今は学校になっている、謝さんが学校に交渉して校内に入れてもらった。台湾の学校は高さが3mほどの塀で囲まれて門は閉じられている。

 校舎の脇を抜けて運動場を行き、「ここだ、ここだ!」との説明に感慨深そうな伯父の顔、しゃがんで土を握った姿は、過ぎ去ったあの頃を思い出している様子だった。
これでこの旅の目的は果たされた。

 私は、もちろん私の家族もだがお世話になった伯父に恩返しができたと思った。

思い出の地は何処

2005年09月18日 07時44分22秒 | 旅-台湾
 母の調子は良くない、出発前日まで点滴をしたが回復までには至らず気分も晴れないようだ。今回の旅は自前のツアーなので全て融通が利くので万一の場合でも何とかなるだろう。また出発前に伯母が歩けないとの駄々を捏ねた事もあり車椅子を持参している、万全とまではいかないが備えもある程度はできている、みんなは意気揚々としている、出発だ~。

 まず台北駅の付近へ行く、この辺りだ、あの角のビルの・・・とかつての我が家のあった付近をあれこれ詮索している。何故か下車せずに素通りした。案内の謝さんは流暢というても良い日本語で説明している、「あれが戦前から続いている林田桶店です。」と桶屋を指す。母と伯父伯母はうなずいている、「そこは戦前の○○小学校で今は・・・」姉たちが通っていた学校のようだ。台湾の学校は3mほどの塀に囲まれているので2・3階の教室が見えるだけ、昔そのままでは無いようだ。

 このように戦前の記憶のある人は懐かしむように、また古いことを思い出すようにその頃の事を勝手に話し始める。共通したものではなく自分だけの想いを勝手に話して同意を求めたりしている。心の中はタイムスリップして目の前の風景を透かしてあの頃の姿が目の前に現れているのだろう。

 育った地では食えず、外地で何とか食いつないだ私たちの父母、頑張って自分の土地を手に入れ農園を軌道に乗せ始めた伯父夫婦、三人の姉たちは年齢に応じた量の思い出、それぞれが自分を振り返っている。

 私は全部で指折り数えても片手ほどの出来事しか覚えていない、それも土地・場所とは関係の無いことばかりなので大雑把な空気だけを味わう。
昔の総督府の前を中正祈念堂へ行く、衛兵の交代式の時間が近いので観ることにした。広いので念のために車椅子を下ろす、母と伯母は階段があるので下で待つと言う、エレベーターがあるのは下りるときに気づいた。見物が終わり下へ行くと気分が悪いはずの母が車椅子の伯母を押している姿があった、昔のことを思い出したら身体も元気になったようだ、年寄り二人、それも車椅子を押している姿をみて皆で大笑いした、元気を取り戻してよかった。

 中正祈念堂は戦前の錬兵場のあったところだと伯父がいう、母も伯母もそうだそうだと頷く。総督府とか駅の所在地から記憶を辿ったのだろう。二胡の音が聞こえる、戦前もこのような風景があったかどうか知らないが、引き上げてから51年たった半日足らずの時間で遠くなった若い頃を引き戻したようだ。

 次に川向こうの伯父の住んでいた処へ向かう。
前回伯父が住んでいたのは萬華と書いたが、改めて地図を見ると台北から橋を渡ったところだったので板橋市か永和市のようだ。どの橋を渡ったのか定かではないがたぶん中正橋だろう、その橋を渡り直ぐ左に曲がり数百メートル行った所で、「この辺りだ」と伯父が言う。

 近づいたようだ・・・

台湾は第二の故郷

2005年09月15日 09時01分15秒 | 旅-台湾
 私たちにとって台湾は生まれ島、父母伯父にとっても青年期を過ごした場所である。
聞いたけど忘れた、あるいは確認していない、どちらか知らないが昔のことを私はあまり知らない。類推するに父と母が台湾に移住したのは昭和10年頃でしょう。台湾で姉3名と私の4名が生まれた。伯父夫婦は2年ほど遅れて来たそうだ、

 住んでいたのは台北駅の直ぐ傍、家の裏を線路が通っていると思えるほどの場所にだったそうで、その頃は佐久間町と呼ばれていたと思う。私の記憶に残っている地名はこれ以外には御成町だけだ。伯父は川端と呼ばていた今の萬華に居たという。

 空港に着くと手配してあった現地旅行社ガイドの出迎えを受けてバスで台北に向かう。ガイドは戦前中学まで通った方なので日本語も上手だしせんぜんの事も良く知っているような印象を持った。
車中で日程の説明があり、私たちの目的を汲みいれて観光コースの中に故郷探訪を入れてあることを確認した。
 ホテルは中山北路にありそこに着くまでも車窓の風景を昔の記憶に重ね合わせている様子だ。

 夕食は近くのレストランでの会食、それぞれの喜びを語りながらの食事だった。次第に昔のことが蘇ってくるのか話はあちらこちらに飛びながらも、伯父はかつての棲家付近へ行ける期待が増してきたようだ。古い記憶が役立つのかということは一切気にしていないようだ、大丈夫なのか・・

 私は古い台北は知らない、でも10数年ほど前から遊び・観光で何回か来たこがあるので、別の意味で懐かしく見ていた。

仕事の時間だ、久しぶりにマジメに働らこう・・・

一族のたびー台北

2005年09月14日 08時41分42秒 | 旅-台湾
 大袈裟に言えば一族の旅でした。母・姉・妹に伯父夫婦それに私の家族が参加連れだっての台北への旅を企画したのは1998年のことだった。
この旅の大きな目的は、伯父は私たち家族に物心両面に亘って様々な援助をしてくれた、私個人も大学入学の際に金銭的援助を受けた。いつの日かそのお返しを僅かでもやりたいと常々考えていたが、ようやくその頃金が何とかなる目途がついたので義兄に相談して計画を立てた。

 行く先は当然第二の故郷と呼べる台湾である。伯父は組合の旅行で何回か訪問しているが団体から外れて個人行動をしていないので自分の住んでいた地域へは行った事が無いと話していた。
 そういえば母は伯父に連れられて一緒に台湾へ行っている。しかし年寄りなので自分達だけで動き回る才覚が無いので、表面的に”あの辺り”という感じで返ってきている。

 そこで私は今回の旅を故郷訪問と位置づけて、企画段階から目的を絞った。手配は義兄が長年仕事で利用している旅行社に頼み、目的を話して戦前をよく知っているガイドを手配してもらった。日程は3泊4日、この日程で故郷探しとある程度の観光ができるだろう。
 大きな懸案事項や問題は無いが、10数名の大所帯となると日程やらそれぞれの家族間の細々したことが出てくる。姉は九州、妹は東京に住んでいるので出発地をどうするかを話し合う、姉はここに合流、妹は東京発着になった。

 計画がある程度煮詰まりパスポートの準備も揃った頃、伯母が足の具合が悪いので行かないと言い出した。伯父・伯母が参加しなければ目的の何割かが損なわれる事になるので何とか説得する。足が悪くなっても支障を最小限に抑えるために車椅子まで準備した。
伯母の気まぐれなわがままだということは分かっていたが、笑いながら準備状況を説明して伯母の気分を盛り上げた。

 出発直前になって母が高熱を出した、どうするか姉たちと検討したがこのような旅はもう二度と企画できないので何とか連れて行くことにする。前日まで点滴を受けさせた、医者にこのよう状況で旅行へ行けるかどうかを聞くと、ダメと言われるに決まっているので黙っていた。母はキツイだろうが頑張ってもらいたい、このように考えるのは私の自己満足・思いやりの無さの表れだろうか。

 いろいろあったがとにかく出発まで漕ぎつけた。