どこ吹く風

旅のことを主に書く。

フリアカ  プーノからリマへ

2006年04月29日 14時41分12秒 | マチュピチュ
 チチカカ湖の観光を終えてバスに乗りフリアカに向かう、そこはこの近辺ではイチバン大きな街で空港もあり商業都市、都市というにはちょっと田舎過ぎるが、とにかく近郊の商業地区とのこと。

 昨日も街の中を通ったが薄汚く、レンガや土壁が周辺の自然にマッチしているとの表現より平野に埋もれてしまっているという感じだ。なんだかフリアカの悪印象、悪口だけ書いているが、ただ見ただけの印象なのでホンキにしないで下さい。

 そのフリアカでランチタイム、パクチー香りがするスープに、メインは鱸(すずき)で、フリアカの悪口めいた事を書いたがこの味は私の印象を一蹴するものであった。見直しました、前言撤回というところ。みなさんも大いに満足していた。

 レストランの向かいは選挙事務所になっているようで、スピーカーを路上に設置して候補者名か政策か何か知らないが連呼している、うるさい大音量でなので喚いているという感じだ。しかもエンドレステープのようで繰り返し繰り返し流れてている。付近から文句が出ないのか、と思うほどである。
こういうのがペルーの選挙なのだろう。
 散歩しようと通りに出るとガイドがカメラの持ち方が悪い、肩にかけるのではなくて首に掛け前にぶら下げて引ったくりに合わないようにしなさいと注意を受けた。何回も聞かされた事だが直ぐ忘れる、常に注意を払うべきだという基本的な事を守れない、ホントに注意散漫だ、反省ハンセイ。
時間も中途半端だし太陽が照り付けて熱くなってきたので歩く気も失せた、ただ通りを眺めて過ごした。

 飛行場は小さいがミヤゲのアルパカ製品を売るオバチャン達がいっぱいいる。しかしターミナルへの出入りは禁じれているようで玄関口に立って手招きするだけだ。駐車場の隣にオミヤゲ品店があるので覗きに行ったら結局強引に買わされた、アルパカの敷物を1枚は記念として買うツモリだったので値切り方に甘さがあった。

 フリアカからリマへは途中何処かの空港に寄るとの説明だったが直行便になった。飛行機なんて搭乗時間は短い方がいい。
 そうそうピサクの市場で買った竹筒に種子か砂あるいは石ころを入れた楽器風なものは手荷物にはできないと検査場で係官に言われた。内部に何が入っているのか分からないので手荷物にできないのだろう。カウンターで預けなおした。

、二度目のリマ空港に到着し前に泊まったホテルに向かった。夕食に寿司が出ていたが食べなかった。
旅ももう終りに近い。

プーノ チチカカ湖

2006年04月28日 14時14分27秒 | マチュピチュ
 プーノでは市内散策が楽しめた。
ホテルに着いて夕食までの空き時間に近くの市場へ行った。公設市場のように様々な店が入っている、果物、穀類、肉に野菜や雑貨まで狭い間口に所狭しと商品が詰められている。果物を1個買って分け合って味見した、でっぷり太ったオバチャンが私の身振り手振りを相手してくれた、隣の店の人も笑って何やら話している。このような場所は楽しい。

 夕食後も又出かけた、今度はデモ行進とかち合った。選挙の候補者アピールのデモで大勢の住民がスピーカーを付けた車両を先頭にプラカードや横断幕ポスターを持って口々に候補者名らしき言葉を発している。現職の大統領は人気が無いようで軍人出身の候補が1歩リードしているようだ。ガイドの話なので自分の贔屓候補を宣伝しているのかもしれない。

 市場の中の肉屋にはアルパカの頭がある、出汁に使うのだろうか。クイもある、肉屋は何処でも同じ光景を目にするが、日本の肉屋にアタマを置いてあるだろうか。チラガーのようなものもあった。市場は夜よりも朝が活気があるようだ。
チーズが並んでいる店で大きなチーズの塊りを買った、高くて美味しそうなものを買って帰ったが美味しくないチーズだった。500円であの大きさだからしょうがないだろう。

 翌日朝食後にまた市場へ行った。チチカカ湖への出発までタップリ時間があったので出かけた。街角のスープ屋が大繁盛していた。大皿一杯のスープが1ソルのようだ、皿にビニールを被せてスープを注いでクルッとビニール袋を引っくり返してスープを入れ、そのままテイクアウト用にする。
見事な手さばきで次々と捌いている。店の腰掛で食べている人もいて、とにかく大賑わい。見ているだけでもおもしろかった。朝から腹いっぱい食べているのでこのスープは飲まなかった。

 その後三輪車に乗ってカテドラルや別の市場見物をしたが、この模様は最初の頃の「三輪車」の項に書いた。

 チチカカ湖はボートに乗って行く。屋根上のベンチや船尾のベンチが風通しも良く眺めもいい。葦、トトラの間の水路を通りトトラの島へ行く、幾つか大小の島がありその内の小さな島に上陸(?)する。6~7所帯が住んでいて、その生活まで見られるところである。生活そのものを見るのはある種珍しくおもしろいが、観光しかも集団で他人の生活を見るのは何か後ろめたさを感じる。不躾にジロジロ見てもいいのかな、見られる事で生業が成り立っているのだから割り切って見てもいいのだろうが、でもね・・・という感じがする。

 トトラも齧ったし竈で揚げたテンプラも食べたし、浮島についてもそれなりに分かったし、何より小学生の頃チチカカ湖の学術調査を纏めた映画を学校の映画見学で見たときのオドロキを体現できた。その頃よりも大量の情報が入ったのでオドロキは薄くなったがチチカカ湖はやはり子供の頃から見たい場所の一つだ。
でも生の生活をドヤドヤと見るのは抵抗を覚える、これなら博物館のような施設で見たほうが気が休まる。

 他の島にも渡ったが其処にはソーラー発電の設備があった。フジモリ大統領より贈られたものだとのこと、学校は休みの日だったので行かなかった。勉強まで邪魔することは無いだろう。
 トトラはスゴイ植物だというのは良く分かった、チチカカ湖の何処にでもあると思っていたら、そうではなく限られた場所にしか生えていない。最近は水質汚染の問題が出てアオコが発生して陸地側は一面緑に覆われている、貴重なトトラに影響を及ぼす事態にまでなってきている。
これからは環境・陸の方の生活をもっと考える必要があるようだ。

プーノへの道

2006年04月27日 11時25分52秒 | マチュピチュ
 山あいの道をバスは走る。
ところどころに村が出てくる、沿線は畑が多い、作物はトウモロコシやキヌアが目に付く、もちろんジャガイモもある。集落の大きさに比べて畑の規模は大きい、水田は全く見えない。生産性が極端に低くなければ充分な食糧生産はなされているだろう。

 通り過ぎる村の家を見ながら思いついた、日本でもそうだがここペルーの片田舎でも塀に屋根がついている、どうしてだろう。リッパな塀には瓦の屋根、貧弱な塀には草を置いてその草が飛ばされないように(と思う)石が置かれている。
 どうしてか・・・と考えて答が見つかった。あの屋根は装飾ではない実用的な意味があったのだ。それは塀はレンガ積みの立派なものもあるが多くは土塀である。横から雨水がかかっても直ぐ流れ落ちるが、上が剥き出しになっていると雨水が滲みこんで塀が崩れてしまう。それを防ぐ水対策の瓦屋根であり、草で覆われているのだ。
そのように結論付けても間違いないだろう。
 時代劇に出てくる武家屋敷の塀も土壁、塗り壁なのだそれ故に屋根が必要だったのだ。
 昼食はこれまた鄙びたところにポツンと建っているレストランだった、スープもあり美味しく食べた、またまた雛には稀なという言葉が頭をよぎった。ペルーは「雛には稀な」ところが多い、ということは稀でないということになる。雛にはフツーのと表現すべきか・・・

 途中トイレ休憩中に近くの畑を耕している現場に出くわした、10名ほどのオトコが鍬を振っている、その様子がヘンだ、全員が肩をくっ付けるようにして鍬を持ち上げ振り下ろしている。私の常識では少なくとも1m以上は離れるだろう、しかしここの人たちは固まって作業している。
 何故だろう、おしゃべりが良く聞こえる為か、そうでは無いだろう。土が硬いので固まって仕事したほうが効率的なのか、離れて作業すると耕し忘れ残りが出るのだろうか。いずれの答えもヘンだ、分からない。雇い主も認めているだろうから効率は変わらないのだろう、安全面はどうだろう。
結局分からないが私の答えです。

 アンデスの山あい、山あいとは言え広いところで山に囲まれた小さな平野・盆地を走り続けて上りになった。気温も下がり始めた気がする。この旅の最高地点を通過するのだ、ほどなく標高4335mの峠に着いた。雪に覆われた山も見える、世界でも有数の峠だろうからシッカリとミヤゲの露店がある大きな石で台を作り品物を並べている。ララヤ峠というらしい。

 本日の日程はクスコからプーノへの移動だけなのでのんびりした行程で、観光巡りはシュスタニ遺跡だけである。
そのシュスタニ遺跡は墓の跡でインカ時代より前に作られたものも多いそうだ。タワーになっており窓は一ヵ所、夏至の日に光が真正面に当たるような作りとのこと。
太陽信仰を具体化するのに夏至を選ぶのはどうしてなのか。北欧では冬至を祝う習慣があった、南半球なので夏至がタイセツな日になったのだろうか。

 シュスタニ遺跡は荒涼たる地、湖のほとりの高台に塔がたっていて、もの思いにふけりたいような気分になった。夕方に訪ねたということもあろうが、湖・丘・遠くまで続く大地が陰鬱とも思える風景になっている。木が見えないのも一因だろう。
墓には似つかわしい場所だ。静かに来世で蘇る事を念じて静かに眠っていたのに静けさを破られて行く場のない魂が彷徨っていてもおかしくない。
遺跡は心を楽しいものにはしない。

 この遺跡に来る途中フリアカの街を通ったが、汚らしい街並みに通りだ。水溜りがあり埃っぽくバラックが延々と続き、降りて歩きになれない街だった。
フリアカの街を過ぎて暫らく走ると湖が見えてきた、坂を下りチチカカ湖畔のプーノに着いた。

プーノへ向かう

2006年04月26日 10時01分40秒 | マチュピチュ
 マチュピチュの帰りの汽車ではファッションショーがあり、真っ白けの顔で踊る衣裳身に付けた踊り手が狭い列車の通路で演じてアルパカ製品の宣伝をしていた。各車両を廻っているのだろう、若しかして日本人車両だけかな。

 汽車は来た道を戻る、急流を遡るようにすすむ、山手には雪山も見えてきた。晴れてきたので遠くの雪山に日が照って輝いている。
クスコまで行く列車だが一つ手前の駅で降りてバスに乗り換えるそうだ、山越えするのにスイッチバックで登るので時間がかかるのと、この区間はドロボウ列車と称されるほど犯罪が発生していると説明があった。

 クスコから日本の大学院生が乗り込んできた、席はガイドの席だったがオーバーブッキングのようで、ガイドが席を譲り移動したので彼が座ることになった。ひと月ほどペルーからボリビアを旅しているとのこと。いろいろな出来事を話しているの興味深く聞いた。
 我々がクスコの一つ前の駅で降り、その後はドロボウ列車と呼ばれるほどヒドイことが起きるかも知れないと告げると若干オロオロしていた。その後もしその彼が週刊誌に載るようなことが起きたら、”たまたま一緒の乗客・・云々”のインタービュー記事が出るのかと内心ハンブン期待(?)していたが、リマの空港で再開した。(笑)

 スイッチバックを経験したかった、でも途中一ヵ所スイッチバックで登ったところがあった。スイッチバックは阿蘇で乗った以来だ、阿蘇では別の機関車を連結して登ったが、そこで機関車の連結があったかどうかは分からない。もう暗くなっていたので景色も見えなくなっていた。

 バスで山越えしてクスコに降りる途中で夜景を見るために一時停車した。クスコの明かりが眼下に広がっている、街はピューマの形には見えなかった。写真を撮ったが手ブレを起こしている、一脚でもカメラ支えが必要だ。ペルーの明かりは蛍光灯色は少なく白熱灯の色・明かりだ、街全体が暖かい色で包まれている。
一昨日泊まったのと同じホテルに入った。

 翌朝出発までの時間を散歩に充てた、街角にオバサンのパン売りが並んでいる、直系30cmほどのクスコ独特のパンが3ソルという、あとで分かったが吹っかけた値段だったがそこでは買わなかったので被害(?)は無かった。小さなパンは5個で1ソルくらいに思えた、買って行く人の支払額から推測したのである。 

 今日は4月1日の土曜日になっている、散歩しながら教会にも寄った、週末なのか前に来たときより大きな礼拝堂を使ってミサが行なわれていた。入口でイチオウ十時を切って敬意を表した。
 教会には大きなメインの礼拝堂の回廊横に配置された部屋があり、絵画や彫刻などで飾られ祭壇まである箇所もある。前に来たときはその横の部屋で礼拝が行なわれていた。メインに対して横向きになって説教・礼拝が行なわれていたが、その日はメインが使われていた。

 私たちはジャマにならないようにそ~っと歩き祭壇の後ろ側も見て廻った。”クイの最後の晩餐”の見納めをした。
プーノへの出発は、市内は道が狭いのでまず中型バスで出て、街外れで大型に乗り換えた。飛行場の脇を通り抜け市外に向かう。途中でクスコパンが有名な、というより運転手が気に入ったパン屋に寄ったのでパンを買った、2ソルだった。
タンナフクルーを思い出す風味がある。

 バスは緩やかな坂道を登り始める、クスコを守る城門の遺跡が峠にあった。
土を取った跡のようなところが目立つ、池もある。クスコで使われている瓦や日干し煉瓦の生産地とのこと。
このツアーの最高地点の峠に向かってバスは快適に走った。

霧にかすむマチュピチュ

2006年04月25日 13時34分03秒 | マチュピチュ
 雨に濡れた石段を一歩一歩登りはじめた。入口は田舎のちょっとした施設の入口風で、これが世界に名を知られ多くの人の憧れの地の出発口かナという印象だった。
目の前にはチラッと遺跡が見える、しかし順路は遺跡に背を向けて石段に向かう。石段は短い距離をジグザグに折れ曲がりながら登る。足元は良くないが悪くも無い、大きな石が敷かれているが「石のインカ」を連想するような繊細緻密ではない。
 この道はマチュピチュでは重要な位置を占める場所に続かないからこうなったのだろう。あるいは他の理由かな。

 暫らく登っていくと展望台に着く。マチュピチュ遺跡は大きく言えば一方通行で見学するようなルート設定がなされている。展望台へ寄らずに遺跡に直接入ることもできそうだがそうはしない。まず全体を見てから個々の見るべき箇所に行くのがベストとの親切心なのか。通路が狭いので一方通行にして混雑回避する策にしているのか。足が不自由な人がツアーメンバーの中にもおられた、ゆっくり登っていた、マチュピチュにどのような想いがあったのだろうか。

 展望台からは付近の山々を含めて一望に見渡せ、1万人もの人々が住んでいた頃、発見当時のことをガイドの説明を聞きながら暫し夢想にふけった。ワイナピチュは見えたと思ったらがガスったりで、インカのことを想うにはいい雰囲気である。天候が思わしくないのを前向きに捉えてささやかな意地をみせた。
王の居住した建物天文を観測した所も時折り見えないほどガスる、そのうち雨が降りだしたので雨具を身に付ける。

 後ろの山にはインカ道があり、太陽門までのトレッキングはストの煽りで中止となった。このトレッキングについては私はカン違いしていて、太陽門はワイナピチュにあると思っていた。それで今回ワイナピチュに登れると書いたのだ。しかしストの影響を受けてマチュピチュでの日程が短縮されたのでトレッキングは取りやめになった。二度と無いチャンスだったのに惜しい事をした、ザンネンだ。

 展望台から雨の中をインティワタナ、主神殿、王の居室などを廻った。雨の中でも大勢の観光客がいる、天候に関係なく日程をこなさねばならないのがツアーなのだ。
クライネ・マタッターホルンでは天候が悪くなったので、翌日また出直すことができた個人旅行とは違う。
フリータイムになったので、コンドル神殿から居住区の辺りを散策した、せめてワイナピチュ入口まででも、行きたかったがそれも叶わなかった。ワイナピチュに魅かれていたのに・・・

 下山するときグッドバイボーイはいなかった。天気のせいかもう無くなったのかは知らない。ジグザグ道を直線で下る道を見つけようと探したが分からなかった。
帰りの汽車から遠くに白く輝く山が夕日に照らされる様は綺麗だった。

マチュピチュ 1

2006年04月23日 14時11分22秒 | マチュピチュ
 朝から雨が降っている、ツアー最大の目的マチュピチュへ行く日に雨になるなんて。
昨日の南十字星が見えた星空は何処へ消えたのか、山の天気だから嘆いたところで始まらない、運を天に任してまず朝食をとる。

 このホテルは二階建てで中庭に面して客室を配置してあり、その形式で広がっているリゾート式であった。花が美しき咲き乱れているので眺めるのも良し散歩も良しというところ。
 朝食は軽くとる、よく見るとコカの葉が飲物コーナーに置いてある、もちろんコカティーは作り置きがあるのだが葉っぱがおかれているのだ。さらにロビーにもティーと共に葉っぱも置かれている、コカはフツーに噛まれている現われだ。
精製すると身体の変調をきたすのだろう。アメリカの圧力でコカを全面的に無くすのは難しいようだ。

 バスでウルバンバ駅に向かう。駅はマチュピチュに向かう人で混雑している。マチュピチュへはインカ道で5日かかるのでクスコとの中間点になる。この汽車は外国資本(イギリスだったか・・)で運営されていて観光客が対象となっているので割高である。
 座席指定なので慌てる必要が無いので写真を撮りながら久しぶりの駅・汽車を楽しむ。出発すると山あい谷間を進んでいく、ビルバンバ川の流れはゆったり流れていたのに次第に速くなり岩に当たって水しぶきを上げる様が眺められる。高度が下がっていくのだろう。
 進行方向の左が川で右が山手になる。どちらの景色が良いかは好みの問題、川が良いか山が好きかの問題だろう。この日は曇っていて遠くの山は見えづらい。川の流れが迫力があった。 汽車はスピードを落として止まった、駅も何も無いところだがインカ道を歩く人のために臨時停車したのだ、ここからマチュピチュまでは2日コースとのこと。対岸へ渡るつり橋がある所はインカ道があるところのようだ。
1時間半でマチュピチュ駅に到着した。

 小雨がちらついているなかバス乗り場へ移動する。アグアスカリエンテスの街は川を挟んで両岸に建物が立っており、山あいの温泉場を思い出させる風景だ。日程通りならここで一泊して温泉にも浸かれたのにザンネンだ。

 バスは川沿いに走りやがて山道に入る、九十九折の坂道をクネクネと登り始めた。高度をグングン稼いで行く、対岸の山は数百メートル切り立って迫ってくる。すごい岸壁だ。やがてワイナピチュらしきトンガリ山が目に入った、辺りは霧が立ち込めたり晴れたりと天候は目まぐるしく変わる。
ガスった山も趣がある。

 着いた、とうとうやって来たマチュピチュ、天気は思わしくないがとにかく着いた。地面も空気も湿っている。
届出用紙に氏名を書く、入山届けなのか?
何処でも着いたらまずトイレ、これから戻ってくるまでトイレは無いだろうから、便意のある無しに関わらず坐っておく事にした。
合羽を身に付けていざ出発だ。

写真は、マチュピチュ全体が顔を模しているという説の説明用の図。
見る場所・光の具合でこのように見えるらしい。
ガイドの説明マニュアルを写した。

オリャンタイタンボ遺跡へ

2006年04月22日 10時19分10秒 | マチュピチュ
 昼食をとったレストランは「鄙には稀な」と表現したくなるほどの田舎にありながらリッパなレストランだった。ウルバンバ、マチュピチュへの道にあるので観光客が多いのだろう。スープもその他も美味しい花が一杯咲いているレストランだった。
冷たいビールも格別美味しかった。

 クスコからの峠を越した頃から見え始めた川はウルバンバ川といい流れ流れてビルバンバ川になりアマゾンになるらしい。位置関係が理解できないが、あのアマゾンの上流にいると思うとワケも無く感動したくなる。赤土を含んだ水がゆったり私たちと共に流れている。

 通り過ぎる集落は豊かさは感じられないが、トウモロコシやキヌアその他果物類も見えるので貧しくはないだろう。市場で食べたサボテンの実があちこちに見られる、それも野生で。どうりで安かったのだわざわざ買って食べる人は田舎の都市地区の住人だけだろう。そのムラのあちらこちらの家の前に赤いビニールを竿の先にかけた印が見受けられた。これらがチチャを飲ます家の目印であることは前に書いた。
そうこうしている内にオリャンタイタンボの遺跡の村に入る。

 まず遺跡の全体を見るためムラの中を歩く、6・7歳のオンナの子が出てきて一緒についてくる歌が唄えると言い唄った。そして小遣いを要求する、その頃になると子供たちが数名出てきていた、ガイドはみんなが出し合ったお金を全員に分け与えていた。

 インカの神コンドルにピューマは神殿・遺跡に現されている、遺跡全体をそれに見立ててアレンジしている。説明を受けると成る程と思うように形になっている。あちらが頭で胴体はあそこと言われたらそのように見える。コンドルの羽もある、光の当たり具合ではもっとハッキリするだろう。
人物像もある、インカの顔もある。インカの顔は夏至の日の出の位置と関連付けられていると聞き天文に異常に興味を持ったインカの人々のことを想う。

 遺跡についてはガイドブックに任すとして、同行の人たちは年寄りが多いのに不自由な足で300段もの階段を一歩一歩登っていた。よほどインカに思い入れがあったのだろう。私たちも足が自由なうちに歩き回ろうと話した。
クスコからインカ道で5日行程のところにあるこの地、皇帝の娘と武将の伝説が残っているここに大きな遺跡があるというのは当時重要な土地だったのだろう。生産拠点だったのか、交通の要所だったのか・・写真を撮るためにウロウロしていたので聞き漏らしてしまった。

 遺跡を通して歴史を遡るには、季節を変えて昼夜時間を変えてその場所に立つ事がより広くより深く遡れるだろう。一瞬しか滞在しない駆け足ツアーでザンネンだ、その一瞬では武将の怒りの叫びも皇女の嘆きの声も聞くことは出来ない。
完成していない太陽石、遺跡の中の未完成品を見ると気分はなお更時のように深く沈んでいく。偉大さと辛さが同居するのが遺跡だ。

 ウルバンバのホテルは、これまた鄙には稀ないい施設だった。
暗くなってから外へ出て南十字星を探した。たぶんアレだろうということにして寝た。

ウルバンバへの道

2006年04月21日 13時51分24秒 | マチュピチュ
 今回のツアーは比較的低料金とマチュピチュ観光が二日予定されているのが目玉である。
ところが大統領を初め選挙の季節とかち合った所為か、春闘の季節なのか、何にも関係なくても要求がある時がストの時期なのか、理由は分からなかったがストの影響を受けた。ゼネストが二日間予定されてウルバンバやその奥へ行くと閉じ込められる虞があるので日程変更するとのことだった。

 ストの嵐が収まってからマチュピチュ入りしたいとの意向だった。こちらは様子が分からないのでお任せにする意外に無い。それで当初の予定はクスコ市内観光は山手のサクサイワマン遺跡やプカプカラなどを見てウルバンバへ向かいオリャンタイタンボ遺跡見学だった。それを急遽変更してクスコ泊まりとしてホテルを手配し、市内見学も加えてマチュピチュはストの様子を見て訪れる日を判断することになった。損得・良かったザンネンだったといろいろ場面状況が出てくるだろう。
その時々の状況下で精一杯楽しむことだ。

 サントドミンゴ教会を見学できたのも日程変更のお蔭といえる。
予定外のクスコの市内観光・宿泊をして翌朝ウルバンバへ向かった。出発前に広場付近を散歩しカテドラルにも入った。出勤前にお祈りを捧げる人もいた。内部は荘厳・壮大な飾りがなされている、煤けた大きな絵画が多数ある、最後の晩餐もあるが食卓に乗っているのはクイになっているのが有名だそうだ。

 ウルバンバへは山越えをするが、昨日みたサクサイワマンの裏を通った、こちらが幹線道路で観光で使う道路が裏道かもしれない。山を越える道なかにアルパカ牧場があり各種のアルパカが飼われている、製品売り場もありトイレ休憩の場所である。
毛織物の形容は「ベイビーアルパカ」である、これはどの観光地も共通のようだ、ベイビーは品質が良いのだろう。

 山から降り切った所にある集落、ピサクの市場にも立ち寄った。日程変更したので時間的余裕ができてあちらこちら降りて見学できた。ピサク市場は街道沿いにあるので付近の集落の市場から次第に発展し観光客を呼び込むまでになったようだ、そういう雰囲気がある。
 オミヤゲ品より農産物に興味があり、珍しいサボテンの実を食べた、ほかにも果物を買ったが美味しくないものもあった。

 目をキョロキョロぐるぐるさせながら歩いていると大きな袋に一杯詰まったコカの葉がある、1Kgでも100円ほど、それほど要らないので小銭を出してこれだけ分ちょうだいと身振り手振りで話すとビニール袋にたくさん入れてくれた。
早速口に入れるが美味しくは無い、お茶っ葉のような味、バナバのような味匂い感じがした。噛んでいても何の変化も無い。高山病あるいは高地で動くときには元気をつけるというので用心のために携帯して行くつもりだ。

 市場はテントで仮設されただけで数多くの店が客を待っている、ここなら観光地よりも安いだろうと持ち帰るオミヤゲ品を調達した。竹筒に砂のようなものを入れて傾けたり、ひっくり返したりして音を出す楽器(?)を2個買った。
 あとで添乗員が、中に入っているのは種子なので日本の植物防疫で引っかかり没収される可能性があると言う。没収されたらその時さ、それに持ち運びしにくいものを買ったものだとチョッピリハンセイしたもののオミヤゲとしては価格に珍しさの面から見てもジョートーだと思う。
 
 これから昼食が待つレストランへバスは向かう。

写真はピサク市場のコカの葉を果物と並べて売っていた。

クスコにて

2006年04月20日 15時56分46秒 | マチュピチュ
 インカの守り神はコンドル・ピューマ・蛇とのこと。
これらのものへの執着というか、思い入れというのは私の常識の域を超えている。クスコを建設したときからピューマを意識して街をピューマになぞらえているとの説明があった。(写真参照)
その説明を受けたのはサクサイワマン遺跡で行なわれた、そのサクサイワマン遺跡を頭部として山から谷間に向かって肩から胴体になり街全体がピューマの形をしている。

 図示したのが写真です。後世の学者が考え出したのか、そのような言い伝えがあったのか知らないが文献の資料を用いてガイドが説明していた。
このような例は街の中、広場から伸びる道路にもあり、ピューマや蛇が石組みの仲に現されている、説明を受けて気をつけて見たら何となくそういう形に見えた。
いろいろ詮索するより素直にそういう目で見たほうがロマンがある。

 クスコ、インカの首都クスコは見るのに気が重くなる街だ。石造りのリッパな家々に意思を土台にした塗り壁、石の一つひとつが古を偲ばせるけどそれがなお更辛い。
トルコでギリシャ・ローマの遺跡を見るのとはワケが違う。クスコはインカと繋がっている、連綿と生身の内臓同士が繋がって感じを受ける。日の光を浴びても明るく輝くことなく陰鬱に石組みの隙間からうめき声が聞こえるようだ。
石の隙間にはカミソリの刃も入らないほど見事に削ってあるが、目に見えない隙間から漏れてくる怨念の叫びが心を震わせ感情を高ぶらせる。
これも高山病の症状の現れだろうか。

 サントドミンゴ教会、インカの住民の精神破壊の象徴だ、あの造りはキリスト教の独善的精神が如実に出ていて、「神」をカサにきた人間の傲慢さ、特に神の使いを自称する神父の冷徹な仕打ちが数百年経った今でも感じられる。
教会を観賞するなんて気持ちになれない教会だ。私がペルーの権力者なら即座にあのサントドミンゴ教会をぶち壊し撤去して基礎部分つまりインカ時代の物だけ残して何も無い空間にしてしまう。

 教会それ自体を素直に観賞したらそれなりに素晴らしいが、あの場所はキリストの平穏よりも遠い昔のインカぼ人々の心の方が勝っている。
教会の壁や尖塔にだけに目を向けず、壁の向こう地の下を見つめていると体内に心に浮かんでくるものがある。

 市内から山手の遺跡に向かう。
前述のサクサイワマン遺跡、山の上なのに清水が枯れることなく流れているタンボマチャイ遺跡、クスコを守る関所プカプカラ遺跡などを廻った。プカプカラ遺跡はインカ道の起点となっていたようでその跡が残っている。峠の向こうまで続いているがその先は見えない、現在のペルーと同じで先が見えない。

 遺跡はただ立つだけで時間と空間が捻じ曲がり、過去の出来事と現在が溶け合う。ペルーは時あたかも選挙の真っ最中、権力者と人民の関係を、インカとスペインからインカの末裔と新しい征服者との戦いの図式に置き換えて妄想を膨らませた。

 牛(スペイン・現代の侵略者の象徴)をやっつけるコンドルかピューマが現れる日が来るのはいつのことか。

リマからクスコへ

2006年04月19日 22時36分54秒 | マチュピチュ
 夕べ最初に目が覚めたときに見た時計の針は3時過ぎを指していた。もう少し寝なければならないと思いトイレから出てベッドに入った。どのくらい時が過ぎたのか又目が覚めた。
時計を見ると3時過ぎ、アレッ~と思って時計を見直す、やはり3時過ぎだ。とすると先ほど3時過ぎというのはどうなる。もしかしてあの時は1時過ぎだったのかもしれない。
持って行った時計は貰ったもので何年かぶりで腕にはめている。その時計の文字盤と針がが光に反射して見にくいので見間違えたのだろう。
直ぐには寝れそうも無いのでベランダへ出る、ライトアップされた最高裁判所は光の強弱があるので円筒形の柱が際立っている。

 空にはオリオンが見える、南十字星は何処だろうと思うも探せない。リマは建物が多く9Fとはいえ視界が遮られているうえ明るすぎる。
時計の見間違いにはハラがたつ。しかしどうしようも無い。ムリに目を瞑る。

 朝食はハム数種類にチーズ、ベーコンを皿に盛りお粥と食べた。日本食としてのお粥ではなく、お粥が好きだから食べるのだ。ライスにスープがあればジューシー風にして食べるのが好き。果物はブドウが美味しい。
時間通りにバスに乗り込み空港向け出発した、暫らく進んでバスは大回りでホテルに向かっている気がした。一人乗り忘れた人がいるのが判明したのだ。笑った、しかし当人はさぞ慌てただろう、でもこのツアー参加者は初めての海外旅行という人はいないようなので大騒ぎはしなかっただろう。

 昨日着いた飛行場へ行きクスコへ飛ぶ。海、荒涼たる荒地、砂漠がだんだん高くなりひと山超えると緑が出てきた草に覆われている、木は疎ら、アンデスの外れになるのだろう。

 クスコは谷間にある街で高地なのに暑い、空港ではアンデス音楽の生演奏で出迎えられた。もちろん定番のコンドルは飛んでいる、は何処でもかかる曲だ。
ホテルにチェックインしてから観光へ出る。中央広場ではここでも民族舞踊があった、広場の定番、噴水に教会がある。

 石に赤瓦、漆喰がクスコの特徴だ。街は世界遺産に指定されているので昔からの風情が色濃く残されている。昼食はマス料理をレストランで食べた。山国になるが湖があるのだろう、美味しいマスだった。お肉はアルパカ、脂肪分が少なくアッサリした味で口に合うが高山病の予兆があったので腹八分にとどめた。
高山病については、驚かされた面もあるがホントにかかってしまったら苦しそうなので用心することにした。

 腹八分目、アルコールを控える、急激に身体を動かさない、動作はゆっくり、ときどき深呼吸するetcというところ。妻はビールもだめという、ツマラナイ街だ。
食後バスを広場で降りて徒歩による観光・散策となった。
これ以降は次の機会に・・・

リマ観光

2006年04月18日 13時42分07秒 | マチュピチュ
 本日は3月28日の火曜日のはずだ、昨日のメモ日記を見ると2回目の27日と書かれているので今日は28日でマチガイ無い。
天野博物館の見学を終えてから昼食をとった。海辺のレストランで食事らしい食事は久しぶりだ。白身魚とかぼちゃ(若しかしてイモかもしれない。)大粒のトウモロコシに前菜と貝・エビのパエリア(ペルー風とのこと)で量が多いと思ったが全て腹の中に納まってしまった。
ビールを2杯頼む、9ソルなり、約3ドルというところ。

 海辺にあるレストランだが、海辺とはいえ数十メートルの高さにあるので南半球の太平洋に触れることは出来なかった。波が高くてサーファーには良い海岸だろう、近くに恋人が抱き合っている大きな像のある公園があり記念撮影した。
 ガウディ調のなが~い曲面を持ったベンチには色とりどりのタイルが張られて波を思わせ、恋人たちの心はずむ躍動感を現しているようだ。

 写真は人物がいないほうが良かったがこの写真しかないので載せる。
太平洋の荒波、フンボルト海流の冷たさをも気にせずに自分世界に没頭しているかのような二人、逞しい二人はその情熱で世の憂さ苦しみを乗り越えるであろう。

 次の黄金博物館へ行く前に、添乗員の計らいでスーパーに寄る。シェラトンホテルの付近は店も少ないし夜から出歩くのは良くないとからと買い物の時間を作ったようだ。ごくフツーのスーパーなので市民生活が垣間見れるので品物・価格を注意深く見た。
 その積もりでいたのだが、強烈に便意を催した。体内時計は未だウチナータイムなので本来ならトイレに坐っている頃なのだ。店内に万国共通のサインが無いかと探したが見当たらない。博物館まで我慢することにして店内をぶらついたがとてもその時間まで持ちそうに無い。お尻付近の筋肉が硬くなり始める、慌てて店内を見回して従業員用の通路を見つけたので、奥には従業員用のトイレがあるだろうと入りかけた。
 店員が何か言うがスペイン語は全くわからないので身振り手振りで伝えようとした、トイレのことだからすぐ通じた。

 ディレッチョと聞こえた、タガログ語にも方向を指す言葉として似た様な発音があった、指さす方へ行き、事なきを得た、と思ったら紙が無い。こういうこともあろうかとポケットティッシュを持ち歩いていたので、ホントに事無きを得た。

 そのスーパーでビールを買って黄金博物館へ行く、睡魔は時々襲ってくる。博物館の事はあまり記憶に無い。銃器の部屋へは寄らずに外へ出た。
外は選挙のポスターがいたるところで目に付く、大統領を初め議員選挙が近いのだ。関心も高いようだ、高いも低いも投票が義務付けられているので無関心で通すのはムツカシイのだろう。

 ペルー最初の夜は静かに暮れて行く。食事を済ませて買い置きのビールを平らげて早々に寝床に着く。道路を隔てた部屋向かいにある最高裁判所がライトアップされている、遠くの山の上まで明かりが点いている。
これは目が覚めたときの印象です、時計を見たら1時過ぎで身体はまだまだ順応していない。ムリに目を瞑り5時ごろまで寝る。
リマの夜景は美しかった。光が白熱灯の色なのが他所、特に日本と違う。暖かい色で街を包んでいた。

リマ

2006年04月17日 06時53分43秒 | マチュピチュ
 リマ近郊の山々には草木が生えてなく禿山のようだ、砂漠地帯の気候と風土ということなのか。
入管検査は行列を作り待つ時間は掛かるが問題は無い、夫婦なら同時に一緒に並んでパスポート検査をするのは初めてだった。検査は一人一人だから他の国と変わらずそれほど時間短縮になるとは思えないが夫婦・家族が一緒に受けられるのはおもしろい、家族関係を大切にするラテン気質なのだろうか。

 また税関検査がおもしろかった、出口でボタンを押すと青や赤ランプが点くがそれがランダムのようだ。赤ランプが点灯したした人は別ラインに誘導されて荷物を全部広げて検査を受けるハメになる。ランダムなので私情が入ることないので、ウン悪く検査を受けることになっても素直に検査を受けられるだろう。
不正防止にも役立つ良い方法だと思う。

 現地受け入れ会社のガイドはウチナー三世の若い女性だった。あいさつのした時の名前で直ぐ分かった。博物館見学のとき私もウチナーンチュですと挨拶したら、つい2年前まで宜野湾の喜友名に住んでいたとニコニコした笑顔で懐かしがってもらえた。
ペルーにもウチナーンチュは大勢住んでおり今年はペルー移民100周年記念の年で1月には知事を初めとした使節団が訪問したばかりだ、リマには6万人のウチナー関係者がいるとのこと。

 リマは埃っぽい感じがする街で出勤時の慌しい風景を眺めながらホテルに向かった。幸い朝の時間なのにチェックインできたので部屋で1時間半休んで観光へ出発した。まずマルマス広場へ行く、リマの中心的な広場で廻りには官庁や商店があり、中央には噴水がある典型的なヨーロッパ調の広場だ。
 たまたま何かのお祭りなのか数組の民族衣裳をきたグループが楽団の奏でる音楽と共に踊っている。のんびり日向ぼっこをしている広場の風景もいいが、市民が楽しんでいる何かの行事風景もいい。

 横にあるカテドラルはさすがに見事だ、マニラのカテドラルとどちらがすばらしいものか比べたかったが中には入らなかった。ここのカテドラルには張り出しバルコニーが付いている。バルコニーはスペイン・ヨーロッパの特徴と思っていたらサラセン帝国時代にモロッコからスペインに伝わったものと説明があった。

 そのご天野博物館へ向かう、天野博物館についてはガイドブックや多くのサイトに設立由来・展示物の紹介がなされています。そこを読んだ方が正確な理解が得られます、あの時私は眠気に襲われて説明を聞きながら寝てしまいグラ~ッと身体が動き、その揺れで目が覚めるのがしばしばという状況でした。
 
 天野博物館の印象は、天野さんの功績は言うまでもありません、ここまで蒐集したのはスゴイことです。展示物は殆んど完全な形をしている、これは出土品ではなく墳墓からの発掘品だからあのように色・形がそのままの状態で現在まで残ったのであろう。
プレインカの生活を髣髴とさせるものでした。

 焼物だけでなく布も良かった、意識がハッキリしていたならもっと感動しただろうにザンネンです。多くのものを見逃しました。

機内食 時間

2006年04月16日 15時15分02秒 | マチュピチュ
 カナダ航空のカウンター前に行くと、このツアーの参加者らしい方々が既にいる。
添乗員からの指示で荷物を預けてそれぞれが出国手続きをして搭乗口へ向かう。いつもの事ながら仲間意識は未だ無くチラッちらっと見るだけで、この人あの人がメンバーなのだという程度。

 5時ごろ飛び立つ、飲物の案内があったのでワインを頼む妻はビール、おつまみが美味しい、妻のビールも飲んだせいか酔いが早い。
ディナーはチキンorフィッシュなのでフィッシュをとった、赤ワインにパン、チーズに野菜のサラダも美味しく残さずに食べた。

 食後も水のサービスがひっきりなしに来る、エコノミー症候群の防止なのだろう以前に比べて回数が飛躍的に多い、カナダ航空だけのことなのか。
 初めて中華航空に乗りオシボリを挟む用具で摘まんで渡されたときはビックリした、摘まんで渡すなんて事は見たことも無かった。とても違和感を覚えた記憶がある。でもこの方式は外国では一般的なのだろう、ここでもその方式だ。
 
 夜明けの太陽がはるか彼方の空を赤く染め始めた。アラスカの氷河が山々の間を縫うようにクネクネと流れている。山も川も雪一色、ところどころに蒼く見える所は湖だろう。人家の光もチラホラ見える。はるか彼方の夜明けの雲海が赤く細長い横の線になり、赤からオレンジに色が膨らみ白みも増してきた。
アラスカの夜明けは真下の雪景色や氷河と共に目を楽しませてくれる。

 夜食ならぬ夜明けのハラ覚ましのコーヒーとカップヌードルになぜかおにぎりが出た。出された時間もメニューもフ~ンと言うしかない。
夜明けだから6時ごろとしてあと3時間ほどで午後3時過ぎになる。この時差の感覚が分からない、理解できない。身体は未だ日本時間で今は自然界の時間の6時ごろ、自然界というのは真下にある地域の時間と同じ意味、そして到着時間の3時過ぎというのはトロント時間、・・・???・・・
 時間というのがグチャグチャになっている。東に向かって飛んでいるので夜明けから3時間ほどで昼過ぎになってしまうことがアタマでも理解できない。

 眠れなかった上時差ぼけでボ~ッとしているアタマで考えても理解できるわけが無いのに頭を捻る、そうこうしているうちに今度は朝食が出た。オムレツorチキンなのでオムレツを選んだが食は進まない。

 トロントの空港は新しいターミナルを建設中で、到着と出発ターミナルが違う、そのために一度入国手続きをとり、また出国手続きをとる事になる。メンドウだが出国税が無いし乗換時間がタップリあったので苦にはならなかった。待ち時間を利用して市内観光へ出かけたグループあった。
私たちはターミナルビル内で時間を過ごした。ビルが完成したら店の数も内容も充実するので時間潰しもラクになるだろう。機内食の残りを腹に入れる。

 トロントを夜の11時ごろ飛び立った、夜食はチキンorビーフだった。時間の感覚も狂っているが何で今頃食事なのかと思いつつもお腹に詰め込んだ、飲物はビール。
 夜明けと共に菓子パン、フルーツの詰め合わせ、レーズンにオレンジジュースの朝食が出た、内容はお子様パックというところ。機内食がこう連続すると飽きた、美味しくないわけではないがただア・キ・タというところ。

 早朝にリマに着いた。時差が殆んど無いので深夜のフライトであった。本来なら体内時計の調整時間に充てられて良いフライトなのだろうが、個人的には体内時計は変わらずに時間だけが勝手に動いている感じだ。
 それでもようやくリマに到着した、どれだけの時間を要したのかサッパリ分からない。それほど時間の感覚が狂っている。
しかしリマまで来たのだ。

写真はアラスカの夜明けです。

出発

2006年04月15日 06時01分01秒 | マチュピチュ
話しは前後しますが、今回のツアー参加は当初の予定には無かったものです。
娘は以前から南米へ行きたい、できることならリオのカーニバルを見たいと言うていた。それも息子私から見ると孫だがその子が2歳になる前なら航空運賃がタダなので2月に行きたいと考えていたようだ。

 ところが妻は南米へ行くならマチュピチュへ行きたいと考えていた。そこにツアー案内の冊子が舞い込んできた、娘は地山へ幼児を連れては行けないと降りたので私にお鉢が廻ってきた。タナボタ式で私は美味しいところを頂いたのです。

 ペルーといえばマチュピチュ、チチカカ湖にナスカの地上絵しか知らない、まあそれだけ廻ればペルーへ行ったことになる。今回はインターネットで事前勉強した、一般的なコースなのでたくさんある。
個人旅行もあるがツアー参加記も数多くある、それに全く同じツアー参加の紀行文もあるので手軽に概要を仕入れることが出来た。

 いろいろ読んでいて妙だな~と感じたのは高山病のことだった。
4000メートルまで登るので高山病に注意という記述が多い、中にはペルー旅行は勧めないと書いたものまである。確かに高山病は苦しいと思うがペルー関連には書いてあるがスイス関連では見たことが無い。あそこも4000メートルまで上がるのに。
 地域差別じゃないかと思われるほどだ、この疑問はず~っとあったが答えは見つからない。

 ツアーに参加するたび或いは個人旅行で出かけるたびに思うのは、関空・成田近辺の人はいいな~ということ。殆んどの出発地は大都市なのでそこまで行く費用が別途田舎者には掛かる。出発地までの格安チケットを手配してもらいたいよ、企画する旅行社には。
 私たちも安売りチケットを利用して出発地まで行くが、安売りの為に時間指定ができない。3時集合なので朝の便に乗れば充分間に合うが、間に合う便を指定したら高くなる。しょうがないので東京で前泊することになった。その方が便を指定するより安くつくのだから妙なものだ。
時間と金を天秤に掛ければ金が重い、時間だけは充分取れる年になってしまった。気の乗らない東京見物をするハメになってしまった。東京駅前のホテルに泊まったが桜並木があり今を盛りに咲いている。久しぶりに見るソメイヨシノに若かりし頃を想う。

 翌日は築地へ出かけたが経営主体が違うメトロの乗り方も知らず、キップを入れても開かない改札口をムリに通ったが、出るときは全く出られないので駅員に聞いたらキップが違うと言う、10円の追加払いで出してもらった。
築地は田舎者の私が説明するまでも無いでしょう、築地は築地、本やガイドブックに書かれている通りです、これが帰りならスーツケース一杯どころか別送品で送りたいほどだ。
 海鮮丼を贅沢な朝食にし、築地本願寺で他人の年忌供養の読経を聞きながら一休みして時間を潰した。成田エクスプレスで持参したチマキを昼食とする。このチマキは丸国マーケット(というても知らないでしょうが、昔はGパンや米軍放出品をここで買っていた。)裏の台湾人の店に予約を入れて買ったもので豆入りの本格的なチマキである。1個200円也。

向かいの席に坐った若者夫婦、新婚旅行かと想ったらロス在住とのこと、ラフなカッコウで旅慣れているようだった、お話が楽しかったのでアッという間に着いた。
予定した時間に大阪から参加した妻の妹と合流する。

写真は上野の西洋美術館の桜です、

三輪自転車 トリシクロ

2006年04月14日 07時46分46秒 | マチュピチュ
 観光旅行の楽しみの一つに各地の市場巡りがある。
しかしツアーでは市場へ行けないことも多い。宿泊する場所がリゾート地なら民家・住宅地・市街地から遠い場所にあるので市場まで出かける時間が取れない。

 今回のツアーでは幸い市場見物へ出かけることが出来た、チチカカ湖畔の街プーノのホテルは市場までワンブロックしか離れていなかった。夕食前の時間を利用して早速市場へいった。しかし市場と言うのは朝がメインなのか閉めた店も多い、それでも穀物・果物・肉・野菜などの店は営業している。果物屋には珍しいものがあるので少しだけ買って試食する、また大きなチーズが500円ほどなのでオミヤゲに買う。

 翌朝も浮島観光へ出かけるまでの時間を利用して市場へ出かけた。すると三輪自転車が近寄ってきたので交渉し一人1ソルのところを3人乗りで2ソルにまけさせてカテドラルまで行った。
チョットした坂道なので運転手はフーフー言いながら漕いでいる、気の毒な事をしたかなと思いつつも2ソルしか払わなかった、3ソルでも1ドルなので奮発すればよかった。

 カテドラル前の広場で別の自転車が寄って来て、20分ほど掛かる市場巡りを一人10ソルでどうかと言う。集合時間までの時間潰しと市場巡りに魅力を感じて3人が2台に分乗する。その日は週末だったので市場も活況があった。

 途中雨が降り出したが元々屋根付きなのと、やおら取り出したビニールの膝覆いで乗客は濡れる事が無い。自転車なので車両が多い通りでは不安がある。
ここの三輪自転車はトリシクロと呼ばれ、客席が前にあり二人乗りで漕ぎ手の運転手は後ろにいる。見晴らしはよく遮るものが何も無いので気分爽快である。

 フィリピンのトライシクルとは趣がだいぶ違う、こちらの方がご機嫌だ。運転手は客席の背もたれバーを掴んで漕ぎ、かつハンドル代わりにする。ハンドルを切ったら実際は後輪が向きを変えて方向変換するのだろう。重い客席が動くわけが無いといつもの妄想を働かせながら市場へ向かった。

 市場は道路沿いに並びテント小屋がずら~っと続いている、狭い路地に入っても店は続いている、狭い路地も自転車の利点でスイスイでは無いが人を掻き分けるように進む。自分は坐ったまま他人と顔を合わすのは知らない人とはいえ何となく面映い感じだ。

 坐ったまま写真をパチリパチリ、後ろ向きになって同行の妻たち(複数の妻という意味ではなくて妻プラスもう一人ということ。)にもレンズを向ける。妻には出来る限りの誠意を示す必要がある、スポンサーだから。
朝から愉快な経験をした。

 同行の皆さんに三輪自転車に乗った事を自慢しようと思ったら、ホテルから港までは全員三輪自転車での移動だった。運転手のサービスなのか抜きつ抜かれつのスピード競争までしたので皆さん年を忘れて大はしゃぎだった。