いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

スポーツとナショナリズム。 sports and nationalism

2012-04-16 19:44:26 | 日記
 (1)ナショナリズム(nationalism)というのはサジ加減がむずかしい。ジョン・レノンが言うように国境などなくなって世界がひとつになればみんな幸せになれるのか、壮大な政治、経済、社会の実験途上のEUでは経済事情、国民性、歴史、文化の違いをいまだ克服できずに格差のひずみ、ゆがみが責任の押し付け、なすり合いで共同体構想に暗い影を落としている。

 愛国心が利用されてみだりに高まれば旧ドイツ帝国のヒットラーや北朝鮮の金王朝のように全体主義、絶対主義社会を生むし、何より戦前の日本社会の不幸な歴史も身近にある。
 逆に愛国心が希薄になれば責任の押し付け、なすり合い、自立性、自律性を損ない、努力しない無責任、無気力社会を助長して成長力、発展性を欠く。

 昨日の北朝鮮では国内向けに国家主席生誕100年のナショナリズムに訴えて軍事パレードを行った。ミサイル発射失敗を初めて認めて報道した中での威信低下に、第一書記の初めての肉声メッセージの番外編で国威挽回を狙ったとも言われている、こちらは取り間違えた愛国心だ。

 (2)国民全体の競技力、体育力の普及、向上を目指して毎年全国の都道府県持ち回りで国民体育大会を開催しているが、いつしか開催自治体の勝利第一志向に変化して有力出場選手が開催自治体に合わせて大学時代を過ごしたとか所属企業があるとかで開催自治体出身を「はしご」して勝利に貢献する仕組みが出来上がって、本来趣旨とは相容れないと問題化した。

 愛国心ならぬ開催自治体の郷土愛さえ損なう、つくられた郷土愛の慢性化がやる気さえ奪う結果を招いている。郷土愛精神の代名詞の高校野球さえも勝利優先の同様の国内グローバル化が進んでいる。

 (3)オリンピックは国別メダル獲得数比較などでナショナリズムを過度に煽(あお)り各国もメダル獲得目標を設定して、記録よりも勝利優先の偏向姿勢だ。
 ヒットラーはナショナリズムに訴えてオリンピック開催を国威発揚に利用したとも言われて、愛国心も行き過ぎるとメダル獲得数比較でオリンピックを評価すると超人的個人能力、記録への挑戦というスポーツ・ダイナミズム(sports dynamism)を見失うことになる。

 (4)日本のタレントがマラソンレベルの低いカンボジアの国籍を取得して、2時間30分そこそこの日本の一般的な市民ランナー並みのタイムで同国のオリンピックマラソン代表になった。タレント出身なので話題性があり注目された。
 メディアでは国籍取得がオリンピック出場の目的に意図的に使われたこと、またそれに関して一部で同国関係者との金銭の授受があった疑いがあるとのことで同タレントを非難している。

 国籍取得のための不正行為があったかは未確認のことなので別にして、正規の手続き、条件で国籍取得してレベルに合った競技でオリンピック出場を狙うこと自体は、国体開催自治体の「はしご」出場とは別物のおかしなことではない。

 (5)スポーツも十分にグローバル化して、国籍とは違うスポーツ先進国でトレーニングし、そのうえで国籍国のメンバーとしてオリンピック、国際ゲームに出場することはあるし、あるいは規定にもとづいた資格取得で違う国のナショナルチームメンバーとして国際ゲームに出場することもあるグローバルスポーツの時代だ。

(6)国籍を取得した当該国の国民がそういうスポーツ選手を支持し応援するかどうかはその選手の人格、資質と当該国の意識の問題で、それは当該国の代表選考の際に検討されクリアーされる課題だ。

 スポーツとナショナリズムは、国民性(環境、人種)、歴史、文化、社会の違いを平和思想の中で比較競争できる目安となる考え方、捉え方論で、それは結果主義ではなく比較検証論でのことだ。

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