いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

なぜかカウント・ベーシーを聞いて夫婦別姓を考える。 I didn't know why but i think a couple's different name

2024-09-11 20:40:53 | 日記
 (1)カウント・ベーシー楽団のロンドン、欧州公演の実況録音盤を聞いている。大盛況だったようで、「音」からはリズム感、グルーブ感、スイング感が時にドラム、ベースとギターの繊細に、時にトランペット、トロンボーンが「バアッー」と迫力を持って圧倒する強弱の効いたスイングで「心」に響いてくる。
 70~80年前のライブ録音なのだが、もう新しいとか時代ものだとかの領域を超えたいつ聞いても「現代の音楽」だ。

 (2)新聞に目をやると、自民党総裁選で夫婦別姓が争点になりそうだという記事が目に入る。戦後日本は儒教思想に根差した家父長制度、封建社会の中で新憲法が施行されて、民法で婚姻により夫婦は男性か女性のどちらかの姓名を名乗ると規定されてその時代にしては相当に前衛的、革新的な法規定であったと思うが、そこまでいくなら男性、女性別々の姓名を引き継いで名乗ることも検討されなかったのか、家父長時代で男性、女性どちらかの姓名を名乗ることもできたというのは考えられないくらいに「個人の自由」を保障した大胆な発想制度だった。

 (3)それから半世紀近くたって96年に法相諮問機関で選択的夫婦別姓の導入が答申されて、実現にはいたっていない。自民党保守系思想派議員の「家族の一体感を損なう」などの主張で国会提出が見送られているが、今では国会議員の生活、素行問題をみれば夫婦別姓でなくても「家族の一体感」など感じられない実態だ。

 (4)芸術家、作家、音楽家など芸名、作家名の通称が社会的に認知されてそれで収入、活動をしており、通称を使って選挙に立候補して当選すれば通称のまま国会、政治活動ができる社会で経済界、学術界から実績、既得権益保障の必要性から夫婦別姓の要求が出されている。
 国会、政治活動同様にたとえば権利関係に限定してでも夫婦別姓を認めることができないのか、人の姓名は極めて個人的、自主的、自立的表現の問題であり、解決する問題(子どもの姓名など)はあってもいつの時代でも「現代社会の問題」として自由が保障されて当然の権利だ。
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