(1)東電福島第一原発事故を受けて株主が旧経営陣が損害を与えたとして総額23兆円超を東電に賠償するよう求めた株主代表訴訟は、1審は旧経営陣の責任を認め13兆円超の賠償を命じ、2審は旧経営陣は「巨大津波は予見できず取締役としての任務を怠ったとは認められない」と1審判決を覆し株主側敗訴とした。
(2)1審判決は企業組織論、法律論に沿った判断であり、それを敗訴とした2審判決はお上(かみ)的唯物論の判断だ。1審は企業ヒエラルヒーの組織責任体制がなぜあるのか、必要性を前提に企業トップの責任のあり方を説いた。
2審は企業はひとり、ひとりの責任、判断、能力の集合体でなりたつもので、経営陣もそのひとりですべてのことを制限もなく代表しないお上(かみ)的存在、立場とした。最近の裁判判決は沖縄問題など政府寄りのお上(かみ)的判断が多くみられる。
(3)電力事業はようやく自由化したが、国策として全国をブロック化してすみわけをしてそれぞれの電力会社が地域、国民、数千万人単位の電力供給事業を担っている。電力、電気は近代社会、産業革命、経済成長には必要不可欠の重要な近代社会インフラであり、地域、企業活動、国民生活には欠かすことのできないエネルギー源だ。
(4)地域、企業活動、国民生活は電力、電気エネルギーを供給して「もらう」ことで、対価を払って活動、生活基盤を維持している。いうならお上(かみ)の「ありがたみ」を知らなければならないというわけだ。
電力、電気エネルギーは水力、火力にしろ原発にしろ、電力、電気供給源と需要元は必ずしも一致しない。必ずどころか原発にいたっては大量消費の危険、リスクは別のブロックエリアに依存して、エネルギー供給の利益を受けている不公平、不規則、不整合感がある。
(5)東電福島第一原発は電力、電気エネルギーを首都圏に供給しており、福島第一原発事故は別ブロックの福島県内一部が帰宅困難地域になって危険、リスクが残った。供給源と需要元が異なる場合、危険、リスク回避の最高の対策は電力企業に責任上当然求められて、もちろん「最高」の対策が何かは限度もなく知り得ない事もあり原発の場合は企業が安全対策の全責任を負うことが「すべて」だ。
(6)その企業の代表が経営陣であり、経営陣が知り得る立場にないとか、知らされていなかったなどとはありえない企業責任回避論だ。