いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

アウトサイダーとアウトロー。 outsider and outlaw

2016-12-10 19:49:42 | 日記
 (1)アウトサイダー(outsider)とアウトロー(outlaw)はもちろん違う。合法者(legalist)と非合法者(illegalist)の土台の違いもあれば、一般社会に迎合できずに、せずに独自の合法的理念、信条の道を歩むのがアウトサイダーなら、一般社会に迎合できずに、せずに違法、不法な道へ進むのがアウトローだ。

 いつの五輪だったか帰国にあたってスノーボードの10代の代表選手が五輪代表正式スーツスタイルを独自の感性でシャーツのボタンは外して、タイはゆるめてぶら下げてスラックスは腰回りまで下げて着くずして到着ロビーにあらわれて、これが問題となったことがあった。

 (2)従来の五輪代表団のいかにも日本的といえる統率のとれた行動スタイルからすればはみ出したスタイルの異例の光景ではあったが、五輪という世界スポーツ祭典の大舞台で普段の力量、技量を存分に発揮するにはこれぐらいに自我、自信が強く度胸がすわっていないと簡単ではないと思っていたので、その場の雰囲気にはふさわしいとは必ずしも見えなかったが未成年者の若気の至りもありほほえましい印象もあった。

 一方では国、国民投資の支援も受けて国を代表して五輪に出場する意味、意義を問えば、そこぐらいは「まとも」な格好を自覚すべきだという考えもある。これがアウトサイダーだ。

 (3)そのスノーボード競技で未成年者の強化指定選手による大麻使用、飲酒が発覚して、他にもチーム内のパワーハラスメント疑惑(報道)もあり、国際競技への派遣中止も含めて一時的に全活動を休止することになった。これがアウトローだ。

 結局は競技に臨むアウトサイダー的気概、意気込みがコントロールできずに日常化していて、社会正義のパラダイム(paradigm)を踏み外したアウトローになっていた。

 (4)あの時の到着ロビーでのスノーボードの若い代表選手の五輪正式服装の乱れを指摘した競技連盟の注意深い目配りの利いた責任感は一般社会向けの大衆迎合集団主義(populism)であったのか、一般社会から隔離された競技生活の中までは届かなかったようだ。

 もちろん日本に限ったことではないが、見栄にこだわるところは島国としての限られた民族構成の日本社会により強い特性でもある。

 (5)スポーツも広く一般大衆文化のアマチュア(amateur)からそれを職業とする特異能力、技量のプロフェッショナル(professional)となって、個性主義が中心の能力、技量集団社会だ。

 それぞれの能力管理はプロフェッショナルのアスリート自身が責任を持つものであり、これまでの大衆迎合集団主義、見栄の世界は通用しなくなっている。

 (6)しかし一方で特異能力、技量は個人だけのものではなく、国、社会全体の知的財産(intellectual property)でもあり、余人をもってかえがたいものであり、特に若年層アスリートに対しては踏み外すことがない持続的成長(sustainability)を後押しする統率力は必要で避けられない。

 (7)そういう管理哲学が求められて、競技連盟が変わらなければならない時代だ。これまで企業支援が主体の体操競技の内村航平さんがプロ宣言し、アマチュアとプロフェッショナルの交流も普通になり、アスリートは進化し続けている。

 

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