いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
世界の全貌
『道(タオ)』は、悟りへの「道(みち)」、プロセスのことではありません。
辶(しんにょう)が「終わり」を、首が「始まり」を示し、『道』という、この一文字の中に、『太極』という万物の根源を示したものです。
聖書で言うところの『アルファであり、オメガである』、仏教的な言葉で表すなら『色即是空』。
マスターたちは、「存在」、この世界の全貌を、様々な言葉を駆使して表現してくれました。
そして同時に、「人は、その全貌を見失い、一部だけを捉えることによって、バランスを失っている」という事も示してくれました。
ブッダは、世界の全貌を『色』と『空』と大きく2つに分けて説明しましたが、老子は「4つの層」で示してくれました。
それが『玄のまた玄』『玄』『妙』『徼(きょう)』です。
道可道非常道。名可名非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者、同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。
名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う。
玄の又た玄、衆妙の門。
上記は、『老子道徳経』の第1章。
その原文と読み下しですが、大抵は、これだけ見ても「なんのこっちゃ?」ですよね。
でも、この「大前提」を理解できれば、老子が伝えんとした世界観が見えてくることと思います。
『ラブ、安堵、ピース』では、お話の導入部ということもあり、少々長くなってしまいました。
今日は改めて、この部分を、シンプルにお話してみたいと思います。
道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。
「これがタオです!」なんて決めようものなら、それは全然「タオ」じゃない。
「これが真理だ!」なんて決めつける言葉は、真理じゃない。
名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。
天地の始まり(空・くう)には言葉がない。しかし、僕たちの世界、「現実(色・しき)」においては『はじめに言葉ありき』だ。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
だから、思い込みがなければ、「あるがまま」を生きることができる。でも、決めつけに縛られるなら「解釈の世界」から逃れられない。
此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う。
「あるがまま」の現実と「解釈」の現実は、出どころは同じだけど、似て非なるものだ。この「2つの現実」が出てくるところは、「玄(ほとんど見えない)」。見えるようで、見えない。
玄の又た玄、衆妙の門。
そしてその「玄(ほとんど見えない)」よりもさらに深い闇(玄のまた玄)にこそ、全ての存在基盤がある。
*
この『玄のまた玄』『玄』『妙』『徼(きょう)』の関係は、「映画館」で例えるとわかりやすくなります。
こんな感じ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/bb/74e06033fcb12b5b36543c59d11afd73.jpg)
つづく。。。
【トークライブ・インフォメーション】
今年最後の『阿雲の呼吸』!
今回は「東洋哲学」をテーマに、阿部敏郎・雲黒斎それぞれのソロトークとコラボトークによる3部制でお送りいたします。
『阿雲スペシャル Part2』
【日時】12月18日(日)13:30~17:30(開場13:00)
【会場】KFC 2ndホール
東京都墨田区横網一丁目6番1号国際ファッションセンタービル 2階 (MAP)
【料金】お一人様4,500円+税
詳細・お申し込みは『こちら』から
○主催/いまここ塾さま
*****
12月の「平日のお話会」は、20日(火)名古屋、21日(水)大阪、26日(月)東京での開催を予定しております。
チケットのご購入や、事前予約等は不要です。当日、会場へ直接お越しください。
平日のお話会「でら☆月イチ」(名古屋開催)
【日時】12月20日(火)19:30〜21:30(開場19:00)
【会場】ウインクあいち 会議室906
愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38(MAP)
【料金】お一人様2,500円
平日のお話会「月イチ☆WEST」(大阪開催)
【日時】12月21日(水)19:00〜21:00(開場18:30)
【会場】大阪産業創造館 研修室E
大阪市中央区本町1-4-5(MAP)
【料金】お一人様2,500円
平日のお話会「月イチ☆」(東京開催)
【日時】12月26日(月)19:30〜21:30(開場19:00)
【会場】三鷹産業プラザ7階 701会議室(エレベーターを出て右奥の会場です)
東京都三鷹市下連雀3-38-4(MAP)
【料金】お一人様2,000円
*****
←妙(スクリーン)を見る僕たちに「ボタン」という徼(解釈)がある。
辶(しんにょう)が「終わり」を、首が「始まり」を示し、『道』という、この一文字の中に、『太極』という万物の根源を示したものです。
聖書で言うところの『アルファであり、オメガである』、仏教的な言葉で表すなら『色即是空』。
マスターたちは、「存在」、この世界の全貌を、様々な言葉を駆使して表現してくれました。
そして同時に、「人は、その全貌を見失い、一部だけを捉えることによって、バランスを失っている」という事も示してくれました。
ブッダは、世界の全貌を『色』と『空』と大きく2つに分けて説明しましたが、老子は「4つの層」で示してくれました。
それが『玄のまた玄』『玄』『妙』『徼(きょう)』です。
道可道非常道。名可名非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者、同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。
名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う。
玄の又た玄、衆妙の門。
上記は、『老子道徳経』の第1章。
その原文と読み下しですが、大抵は、これだけ見ても「なんのこっちゃ?」ですよね。
でも、この「大前提」を理解できれば、老子が伝えんとした世界観が見えてくることと思います。
『ラブ、安堵、ピース』では、お話の導入部ということもあり、少々長くなってしまいました。
今日は改めて、この部分を、シンプルにお話してみたいと思います。
道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。
「これがタオです!」なんて決めようものなら、それは全然「タオ」じゃない。
「これが真理だ!」なんて決めつける言葉は、真理じゃない。
名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。
天地の始まり(空・くう)には言葉がない。しかし、僕たちの世界、「現実(色・しき)」においては『はじめに言葉ありき』だ。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
だから、思い込みがなければ、「あるがまま」を生きることができる。でも、決めつけに縛られるなら「解釈の世界」から逃れられない。
此の両者は、同じく出でて名を異にし、同じく之を玄と謂う。
「あるがまま」の現実と「解釈」の現実は、出どころは同じだけど、似て非なるものだ。この「2つの現実」が出てくるところは、「玄(ほとんど見えない)」。見えるようで、見えない。
玄の又た玄、衆妙の門。
そしてその「玄(ほとんど見えない)」よりもさらに深い闇(玄のまた玄)にこそ、全ての存在基盤がある。
*
この『玄のまた玄』『玄』『妙』『徼(きょう)』の関係は、「映画館」で例えるとわかりやすくなります。
こんな感じ。
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つづく。。。
【トークライブ・インフォメーション】
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今回は「東洋哲学」をテーマに、阿部敏郎・雲黒斎それぞれのソロトークとコラボトークによる3部制でお送りいたします。
『阿雲スペシャル Part2』
【日時】12月18日(日)13:30~17:30(開場13:00)
【会場】KFC 2ndホール
東京都墨田区横網一丁目6番1号国際ファッションセンタービル 2階 (MAP)
【料金】お一人様4,500円+税
詳細・お申し込みは『こちら』から
○主催/いまここ塾さま
*****
12月の「平日のお話会」は、20日(火)名古屋、21日(水)大阪、26日(月)東京での開催を予定しております。
チケットのご購入や、事前予約等は不要です。当日、会場へ直接お越しください。
平日のお話会「でら☆月イチ」(名古屋開催)
【日時】12月20日(火)19:30〜21:30(開場19:00)
【会場】ウインクあいち 会議室906
愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38(MAP)
【料金】お一人様2,500円
平日のお話会「月イチ☆WEST」(大阪開催)
【日時】12月21日(水)19:00〜21:00(開場18:30)
【会場】大阪産業創造館 研修室E
大阪市中央区本町1-4-5(MAP)
【料金】お一人様2,500円
平日のお話会「月イチ☆」(東京開催)
【日時】12月26日(月)19:30〜21:30(開場19:00)
【会場】三鷹産業プラザ7階 701会議室(エレベーターを出て右奥の会場です)
東京都三鷹市下連雀3-38-4(MAP)
【料金】お一人様2,000円
*****
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コメント ( 20 ) | Trackback ( )
« コデックス | 今年も1年あり... » |
老子も大好きで、信頼出来る一樹さん訳なのですーと入ってくる。
本当ありがとう😊
あと極楽飯店も大好き💕
プレゼントにとても良いと思います。今年のクリスマスプレゼントにしようと又数冊アマゾンに発注しました。小さい書店に並ばないのは残念ですね。皆に読んでもらいたいな。
「わかラジ」を拝聴しながら、分かったことがあります。
いつも一元の話を聴きながら、それを二元で理解しようとしているから、分からないんだな。
と言うことが分かりました。
一元は、一元でしか分からない。
二元で解釈しつつ、理解しようったって、それは無理に決まっているじゃない。
だから、「以上!」と言われると、どうしていいか分からなくなる。
あるがまま、なんて言われても、二元で解釈したら、あるがままでいいわけがない、となる。
そういうことが分かった。
だから、一元は分からないということで、いい。
ただ、一元の流れに抵抗せず、私というキャラを通して表現する「生」の、なすがままに生きればいいんだな。
分からないなりに、生が送り出した役割(自分)を生きればいいんだと。
手放して、手放して、執着せず、考えず、流れに沿って、起きることに従う。
ただ、それだけ。な~んて思いました。
なぜソフの目には闇が映ったのだろう。それは闇に惹かれたからだ。
闇は知っていた。ソフのうちに闇があることを。しかしソフは知らなかった。自らのうちに闇があることを。
ソフは光を求める為に敢えてそのうちに闇を招き寄せたのだ。闇は喜んでソフのうちに入った。なぜならソフが光を求めていることを知っていたから。
なぜ知っていたのか。それはソフが闇と同じ性質にあったから。そう、ソフは光から離れていたからだ。
なぜ彼は光から離れたのだろう。それは、あるがままを光であると認められなかったからだ。幼き日のソフは何度となくこう言い聞かせられた。ソフよ光であれと。
あるがまま、それは人が悪と位置づけた怪物だ。
人々は制御できない怪物を恐れ、失格の烙印を押した。ソフもまた例外ではなく、自らにある怪物を恐れ、深い深い闇へ葬ったのだ。その頃からソフのうちに闇が入り込み、あるがままをあるがままに見る力を失った。
そして呟いたんだ、こんなにも世界は闇に覆われてるのか…。
しかし、世界が闇に覆われているわけではない。ソフのうちにあるモノが、その目に投影されているだけなのだ。深い深い闇へ葬ったあの怪物だ。怪物は常にソフの目の前にいた。しかし実体がないのでその目には捉えられない。
そう、彼はこの世界に自らを見ていたんだ。
この怪物はいったい何者なのだろう。それは幼き日のソフ自身だ。彼は光であろうとした為に自らを光ではないと確信し、闇と契約を結んでしまったのだ。それゆえソフは分離を行い、もうひとりの自分を引きちぎってしまった。
闇に葬り去られた幼き日のソフはその実体もないままに、現実のソフの目の前で世界の闇を見せ続け、こう叫んだ。
ぼくを愛してよ。
しかしその声は届かない。仮に届いたとしても現実のソフはこの言うだろう、闇なんて愛せるわけないだろ!
これにより彼はこの世界の闇を見続けることになる。そして世界に向かって叫ぶだろう。世界よ光であれ!
そう言って闇を裁き続ける。剣を振りかざし、敵を足下に従え、正義を名乗る。そう、彼は闇の存在となるのだ。その口からは火が燃え盛り、道理を盾に神の名を保身のままに利用するだろう。
ソフが目覚めるときは来るのだろうか。それは彼自身が決めること。目覚めるも目覚めないも、その全てはあるがまま、善も悪もないのだ。彼の周りには多くの光が点在している。彼が光に目を向けさえすれば道は照らし出されるだろう。
買いました。「世渡りの教科書」という題名です。
これが、すごく面白く役に立ちました。もっと早く
読んでいればと思える内容でした。老子は反体制から
の視点の要素がありますが、この本は最悪の視点
からの考え方の指南です。
>「これがタオです!」なんて決めようものなら、それは全然「タオ」じゃない。
>「これが真理だ!」なんて決めつける言葉は、真理じゃない。
素人目にはココの訳はちょっと極端過ぎるのではないか?と感じた。
だったら何故、老子は「4つの層」に分けて世界の全貌を語るの?という話になるよね。
「常の道に非ず」「常の名に非ず」
文章から受ける印象は、せいぜい「いつでもそうとは限らない」でしょ?
まぁ、「つづく」とあるのでこの後に老子が「だから私の言うことも道じゃない」的なこと等を語って上手くまとまっているなら問題ないけど
内容がどうのこうではなくてその喧嘩腰、偉そうな物言いにみんな引いているのその自覚がないに。で、それを指摘すると「違います、私は…」と持論ばかり述べて、相手がどう受け止めているかはいつも御構い無し。
部分引用繰り返しているあなたの文章は、本当いつも見ていて気分が悪くなります。
>喧嘩腰
>偉そうな物言い
>みんな引いている
>その自覚がない
>相手がどう受け止めているかはいつも御構い無し
これら全て貴方の徼(思い込み)ではないですか?「私が書いた」と思ったからそう感じるのではないですか?結局、突き詰めればそう思った理由は「何となく」ではないですか?
例えば、私のコメント内容を他の人が書き込んでいた場合、貴方は同じように感じるでしょうか?
いや、貴方は感じたからあのコメントなんだろうな(笑)
例えば、過去の私のコメント内容を全く知らない人が今回の私のコメントをみた場合、喧嘩腰に感じるでしょうか?偉そうに感じるでしょうか?
盲信的な信者ならともかく、大抵の人は「そういう意見もあるんだな」程度にしか恐らく感じないのではないでしょうか。(まぁ、多少はいるかもしれませんが)
故に、貴方の気分の悪さは貴方の徼(思い込み)に起因して生まれていると思いませんか?
誰が書いているかとかそういう先入観を捨てて、毎回まっさらな気持ちで文章内容に向き合ってみたらどうですか?
>故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
>だから、思い込みがなければ、「あるがまま」を生きることができる。でも、決めつけに縛られるなら「解釈の世界」から逃れられない。
上記は今回の記事の引用ですが、この部分を読みましたか?読んだ上であのコメントを書こうと思ったのですか?
それと、部分引用に拘っているようですが、前にも言ったように全文引用したところで私の言うことは変わりませんよ?全文引用したらどこに着目しているか分かりづらいだろうから配慮の気持ちで部分引用しているのだから。
「わかラジ」拝聴も、残すところあと一回となりました。
で、16日放送分を聴きながら、分かってきたなぁ~と思いました(笑)
無極…つまり空間ですよね。
以前、黒斎さんのブログに書かれていた、空間に溶け込んだ人間の絵。
あれを思い出しました。
空間からは逃げられない。だって、そもそも空間なんだもの。
その空間に浮かんだ蜃気楼のような人間の形が、私。だと思い込んでいる自我。
宇宙空間には上下左右がない。無極だから。それが、実相かと。
そう思ったら、確かに、いつも目の前に在りますよね。だって空間なんだもの。
うまく説明できませんが、なんとなく分かったような気になりました。
「読んでいて文体に不快感を感じる」
といういたって単純な感想だったのですが、それに対し「徼」の理屈を用いられ反論されたことに驚きました。
その「徼」の理屈だと相手の思い込み云々だけでなく、自分の思い込みによるご自身の書き込みのことを諭している「ブーメラン状態」になっていることにお気づきでしょうか?
それこそ他人のコメントに反応して解釈を生み相手を諭すコメントなどをするのではなく「ありのままに」相手のコメントを受け止める話。
また部分解釈も全体解釈も同じという話も引用の形式云々を言っているのではなく、文全体の趣旨を理解できないが故に毎回一つの単語、ワンフレーズといった部分、瑣末へこだわるのでは?と指摘したまでです。
(思考は現実化するの記事へのメッセンジャー批判、思考にそんな意味など含んでいないというコメントこそがその言葉の瑣末へのこだわりの最たるものかと)
しかし、それ以上に不思議に思った点があります。
毎回スピリチュアル全般に対し「断言するな」、「具体的な説明が必要だ」、「証明、説明出来ないなら疑うべき」という旨を主張しているはずの方が、今回それらを決して満たしているとは言えない道徳経の記事説明に乗って反論してきたことです。
今回道徳経、この記事の断言の文章をいつものように疑いもせずに相手コメントへの反論の土台に出来た理由とは一体何ですか?
「徼」なんて言葉を疑うことなく当たり前のように使うということは、それに付随する「妙」「玄」「玄のまたの玄」も理解しているからだと考えますが、そう理解してもよろしいですか?
それともここでも道徳経の全体性を無視して「徼」だけを都合よく引用した部分引用、部分解釈ですか?
だけどよく見たら「徼」の後に(思い込み)とあるから、単に「あなたの思い込みでしょ!」と言えば済む話を、東洋哲学の用語で飾り付けたかったのかなという風にも見えなくもないので、あまりそこは問い詰めませんが。
※以上、どうぞありのままに思い込みなどなく「妙」で受け止めて下さい。それでも「徼」思い込みのメガネで反論するでしょうが。
具体的にどこがブーメラン状態なのか言わないと分かりませんよ?私が「ありのままに」相手のコメントを受け止めていない具体的な例を出してみて下さい。それで本当にそうだったら「そうだね」って認めてやってもいいですよ。所詮、過去の書き込みですから。
>また部分解釈も全体解釈も同じという話も引用の形式云々を言っているのではなく、文全体の趣旨を理解できないが故に毎回一つの単語、ワンフレーズといった部分、瑣末へこだわるのでは?と指摘したまでです。(思考は現実化するの記事へのメッセンジャー批判、思考にそんな意味など含んでいないというコメントこそがその言葉の瑣末へのこだわりの最たるものかと)
それで部分引用とやらに拘ってたんですね(笑)ちょっとさ、その具体例で具体的に説明してみてくださいよ。文全体の趣旨はこうなのに理解してない故にこういうふうに噛み合わなかったというのをさ。自分じゃ分からないでしょうから。それで本当にそうなら「そうだね」って認めてやってもいいですから。
>しかし、それ以上に不思議に思った点があります。毎回スピリチュアル全般に対し「断言するな」、「具体的な説明が必要だ」、「証明、説明出来ないなら疑うべき」という旨を主張しているはずの方が、今回それらを決して満たしているとは言えない道徳経の記事説明に乗って反論してきたことです。今回道徳経、この記事の断言の文章をいつものように疑いもせずに相手コメントへの反論の土台に出来た理由とは一体何ですか?「徼」なんて言葉を疑うことなく当たり前のように使うということは、それに付随する「妙」「玄」「玄のまたの玄」も理解しているからだと考えますが、そう理解してもよろしいですか?それともここでも道徳経の全体性を無視して「徼」だけを都合よく引用した部分引用、部分解釈ですか?だけどよく見たら「徼」の後に(思い込み)とあるから、単に「あなたの思い込みでしょ!」と言えば済む話を、東洋哲学の用語で飾り付けたかったのかなという風にも見えなくもないので、あまりそこは問い詰めませんが。
お、おぅ・・・
>※以上、どうぞありのままに思い込みなどなく「妙」で受け止めて下さい。それでも「徼」思い込みのメガネで反論するでしょうが。
ありのまま受け止めた結果、
よくわかりません(笑
お、おう
まぁその「便所の落書き」も捉え方は色々考えられますから何とも言えませんが。
例えば、トイレで自分が綺麗だと思える落書きしか見たことがない人がいた場合、その人は「便所の落書き」を褒め言葉と捉えるかもしれない(笑)
更に言えば、トイレに描かれたモノを「落書きだ」と捉える人もいれば「絵画だ」と捉える人もいるだろうし「芸術だ」と捉える人もいるかもしれない(笑)
おっと、話が脱線しましたね。
まぁともかく、納得出来たようで何よりです。
途中で偉そうに見えるように書いたことは謝りましょう。
おちょくってすみませんでした。
黒澤さん頑張ってますね。
新刊も素晴らしいみたいで、Amazonでも絶賛されていて、今度買ってみようと思います。
私には長年大切にしているノートがあり、その一部に黒澤さんの2007年3月、10月位の記事をそのまま書き写したところがあります。
あれから10年ですか。再読しても、新鮮に感じます。
黒澤さん、たくさんの恩恵を有り難う。
「これがいいと思ってるけど、ほんとにいいのかなぁ?」
「こっちは嫌だけど、そう思っちゃダメかなぁ?」
よりは『妙』に近いし
(子供の感覚ってそうですよね)
それよりは
「どっちでもいいと思うよ」
と、心底腑に落ちてる方が『妙』に近いし、て感じじゃないかなと思いました。
おおさか きてもらって ありがとうございました。
また おおさかきてもらったとき
お話 ききにきます。
⋆。˚✩
わかラジ、ほんとに楽しかったです。
終わって、残念。でも、動画楽しみにします。有料でも、私はいいです。
黒斎さんのライブにごくたまに行くのは、極上の贅沢な時間です。スマップのファンがスマップに会いに行くくらいです。(つまり、ファン)
^ - ^
ただ、私も日本の長時間労働者のひとりで、溜まった疲労が抜けた時に行くのがやっとです。動画配信ほど嬉しいものはありません。
今 最終回のわかラジお聴きしました^^
最後のご挨拶をお聞きして
SMAPさんと被ったように思えてしまい(スマスマが昨日最終回だったから?)
すごーーく 寂しくなり号泣してしまいました。・゚゚・(>_<;)・゚゚・。
お二人のお声が聞きたいので
また ぜひぜひ なんらかの形でお逢いしたいです^^
本当にお疲れ様でした^^
そして本当にありがとうございます♪
良いお年をお迎えくださいね^^
たくさんの書籍にかかわって、お疲れでしょう
ラジオは聞いてませんが、ブログには、たまにきて拝見させていただきました
根源と思考と現実、これは、ひとつなんでしょうね
僕はあちこち探してました笑
来年もご活躍を楽しみにしています
よいお年を!