いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
マトリックス
五蘊は、それぞれのエレメントの連携プレーによって、<わたし>という分離空間を保ちます。
これを逆から見れば、この連携がとれないと、<わたし>というパーソナリティを維持することができなくなる、ということです。
今回は、この5つのエレメントの連携を、コンピューターの世界をベースに言い換えてみます。
色蘊(身体/ハードウエア)
受蘊(感覚/インプット)
想蘊(概念/データベース入力および参照)
行蘊(意志/ソフトウエア実行)
識蘊(認識/アウトプット)
補足:
意識(アウトプットされたものを示すポインタ)
命(電力)
五蘊の5つの中の、どれか一つでも抜け落ちれば、それで<わたし>を作り出す演算に穴があき、プログラムの世界(マトリックス)から、「いま」というリアリティに帰ることになります。
すべてのエレメントを停止する必要はなく、「どれか一つ」で充分なんです。
老子は「無為の最奥を極める」という言葉を残しています。
「無為」というのは、「何もしない」ということではありません。
「徹底的に意図や作為を落とし、タオの流れ(起こること)に身を任せること」といった感じです。
道は常に無為にして、而も為さざる無し。
意:タオは作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している
この「無為」の教えは、「行蘊」の停止を示しています。
ハードウエアがある。
入力もある。
データベースもある。
しかし、それらのデータもソフトウエアの演算がない限り、アウトプットは起こりません。
行蘊の停止だけで、<わたし>は成立できなくなってしまいます。
以前もご紹介したことのある『奇跡のコース(A Course in Miracles)』は、「想蘊」の解体です。
これまでの人生で培ってきたあらゆるデータベースを解体することによって、<わたし>に穴を開ける試みです。
自分にとっての「当たり前」が当たり前でなくなるほどに、凝り固まった思考も柔軟性を取り戻していきます。
それが最終的にすべて解け落ちたとき、リアリティが現れます。
ちなみに『奇跡のコース』ワークブック 365日(ナチュラル・スピリット社による無料提供)の、最初のレッスンがこれです。
レッスン1 この部屋の中で私がみているものには何も意味がありません。
この部屋の中で(この通りで、この窓から、この場所で)私が見ているものには何も意味がありません。
ここであなたの周囲をゆっくりと見まわしてください。そして、この考えをあなたが見ているものすべてに対して、非常に具体的に適用してください。
このテーブルは何も意味がありません。
この椅子は何も意味がありません。
この手は何も意味がありません。
この足は何も意味がありません。
このペンは何も意味がありません。
それから、身近なところから遠くに目を移して、この考えをより広い範囲に適用してください。
あのドアは何も意味がありません。
あの体は何も意味がありません。
あのランプは何も意味がありません。
あの看板は何も意味がありません。
あの影は何も意味がありません。
これらの文章は、意味のある順序で並べられていないことに気づいてください。あらゆる種類のことに対して等しくこれらの文章を適用してください。それがこの練習の目的です。この言葉はあなたが見るものすべてに対してただ適用されるだけです。一日を通してこの考えを適用するとき、まったく区別することなく使ってください。見るものすべてに対して適用しようとはしないでください。というのは、この練習は儀式的なものになるべきではないからです。ただ、あなたが見る何かを特別に除外することのないようにしてください。この考えを応用することに関して言えば、すべてのものに等しく応用されなければなりません。
最初の3つのレッスンのそれぞれに関しては、1日2回、理想的には朝と夜行いますが、2回以上なされるべきではありません。また、1分以上試みるべきではありません。ただし、そのためにせかされた感じがするのであればその限りではありません。快適でゆったりとした感覚が不可欠です。
*****
こういった、既存概念・固定概念を、延々と解体していく作業が、『奇跡のコース』です。
色蘊(身体)に、不具合が起きることによって、このプログラムが演算できなくなる場合もあります。
一例を挙げるなら、『奇跡の脳』の著者である、脳解剖学者ジル・ボルト・テイラーさんに起こった出来事。
ある朝、脳卒中を起こした彼女は、脳の感覚野(皮膚と筋で世界を感じる能力)・方向定位連合野(身体の境界、空間と時間を把握する能力)・ウェルニッケ野(言葉の意味を理解する能力)・ブローカー野(文章を作る能力)・運動野(身体を動かす能力)に損傷を受け、強制的に三次元の現実感覚を失うとともに、宇宙と融合し一つになりました。
これは、「色蘊(身体)」と「想蘊(概念)」の連携が失われたことによるものです。
脳に損傷を与えることなく、その境地に辿り着こうとする試みが、「思考の停止」です。
このブログでも度々お話してきた、「Don't Think.(考えるな)」ですね。
これは、「想蘊(データベース入力および参照)」と「行蘊(ソフトウエア実行)」を停止することを指しています。
僕はあまり詳しくはありませんが、こういったアプローチ以外にも、マインドを完成させない道が、いろいろあるようです。
とにかく、五蘊のどこかの連携を切ってしまえば良いんです。
どの連携を解くことが、自分にとって受け入れやすいのか。それはやはり人それぞれだと思います。
とにもかくにも、<マトリックス>を超えるために大切なのは、「マインド」を完成させないこと。
Don't Mind.
深刻さから離れて、ドンマイ、ドンマイ、なのです。
さて、明日、明後日は、盟友のマッキーとともに、金沢・長野に伺います。
まだお席に余裕がありますので、当日受付も承ります。
ご都合がよろしければ、ぜひ遊びに来てください。
黒斎さん、牧野内さん、いまさらながらスピリチュアルって何ですか?
【金沢】6月27日(土)15:00~17:30(14:30開場)金沢市石川県文教会館
【長野】6月28日(日)14:00~16:30(13:30開場)長野市トイーゴ
※ 詳しくは牧野内大史さんの告知ページをご覧ください。[詳細・お申し込み]
←ばっちこーい!
これを逆から見れば、この連携がとれないと、<わたし>というパーソナリティを維持することができなくなる、ということです。
今回は、この5つのエレメントの連携を、コンピューターの世界をベースに言い換えてみます。
色蘊(身体/ハードウエア)
受蘊(感覚/インプット)
想蘊(概念/データベース入力および参照)
行蘊(意志/ソフトウエア実行)
識蘊(認識/アウトプット)
補足:
意識(アウトプットされたものを示すポインタ)
命(電力)
五蘊の5つの中の、どれか一つでも抜け落ちれば、それで<わたし>を作り出す演算に穴があき、プログラムの世界(マトリックス)から、「いま」というリアリティに帰ることになります。
すべてのエレメントを停止する必要はなく、「どれか一つ」で充分なんです。
老子は「無為の最奥を極める」という言葉を残しています。
「無為」というのは、「何もしない」ということではありません。
「徹底的に意図や作為を落とし、タオの流れ(起こること)に身を任せること」といった感じです。
道は常に無為にして、而も為さざる無し。
意:タオは作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している
この「無為」の教えは、「行蘊」の停止を示しています。
ハードウエアがある。
入力もある。
データベースもある。
しかし、それらのデータもソフトウエアの演算がない限り、アウトプットは起こりません。
行蘊の停止だけで、<わたし>は成立できなくなってしまいます。
以前もご紹介したことのある『奇跡のコース(A Course in Miracles)』は、「想蘊」の解体です。
これまでの人生で培ってきたあらゆるデータベースを解体することによって、<わたし>に穴を開ける試みです。
自分にとっての「当たり前」が当たり前でなくなるほどに、凝り固まった思考も柔軟性を取り戻していきます。
それが最終的にすべて解け落ちたとき、リアリティが現れます。
ちなみに『奇跡のコース』ワークブック 365日(ナチュラル・スピリット社による無料提供)の、最初のレッスンがこれです。
レッスン1 この部屋の中で私がみているものには何も意味がありません。
この部屋の中で(この通りで、この窓から、この場所で)私が見ているものには何も意味がありません。
ここであなたの周囲をゆっくりと見まわしてください。そして、この考えをあなたが見ているものすべてに対して、非常に具体的に適用してください。
このテーブルは何も意味がありません。
この椅子は何も意味がありません。
この手は何も意味がありません。
この足は何も意味がありません。
このペンは何も意味がありません。
それから、身近なところから遠くに目を移して、この考えをより広い範囲に適用してください。
あのドアは何も意味がありません。
あの体は何も意味がありません。
あのランプは何も意味がありません。
あの看板は何も意味がありません。
あの影は何も意味がありません。
これらの文章は、意味のある順序で並べられていないことに気づいてください。あらゆる種類のことに対して等しくこれらの文章を適用してください。それがこの練習の目的です。この言葉はあなたが見るものすべてに対してただ適用されるだけです。一日を通してこの考えを適用するとき、まったく区別することなく使ってください。見るものすべてに対して適用しようとはしないでください。というのは、この練習は儀式的なものになるべきではないからです。ただ、あなたが見る何かを特別に除外することのないようにしてください。この考えを応用することに関して言えば、すべてのものに等しく応用されなければなりません。
最初の3つのレッスンのそれぞれに関しては、1日2回、理想的には朝と夜行いますが、2回以上なされるべきではありません。また、1分以上試みるべきではありません。ただし、そのためにせかされた感じがするのであればその限りではありません。快適でゆったりとした感覚が不可欠です。
*****
こういった、既存概念・固定概念を、延々と解体していく作業が、『奇跡のコース』です。
色蘊(身体)に、不具合が起きることによって、このプログラムが演算できなくなる場合もあります。
一例を挙げるなら、『奇跡の脳』の著者である、脳解剖学者ジル・ボルト・テイラーさんに起こった出来事。
ある朝、脳卒中を起こした彼女は、脳の感覚野(皮膚と筋で世界を感じる能力)・方向定位連合野(身体の境界、空間と時間を把握する能力)・ウェルニッケ野(言葉の意味を理解する能力)・ブローカー野(文章を作る能力)・運動野(身体を動かす能力)に損傷を受け、強制的に三次元の現実感覚を失うとともに、宇宙と融合し一つになりました。
これは、「色蘊(身体)」と「想蘊(概念)」の連携が失われたことによるものです。
脳に損傷を与えることなく、その境地に辿り着こうとする試みが、「思考の停止」です。
このブログでも度々お話してきた、「Don't Think.(考えるな)」ですね。
これは、「想蘊(データベース入力および参照)」と「行蘊(ソフトウエア実行)」を停止することを指しています。
僕はあまり詳しくはありませんが、こういったアプローチ以外にも、マインドを完成させない道が、いろいろあるようです。
とにかく、五蘊のどこかの連携を切ってしまえば良いんです。
どの連携を解くことが、自分にとって受け入れやすいのか。それはやはり人それぞれだと思います。
とにもかくにも、<マトリックス>を超えるために大切なのは、「マインド」を完成させないこと。
Don't Mind.
深刻さから離れて、ドンマイ、ドンマイ、なのです。
さて、明日、明後日は、盟友のマッキーとともに、金沢・長野に伺います。
まだお席に余裕がありますので、当日受付も承ります。
ご都合がよろしければ、ぜひ遊びに来てください。
黒斎さん、牧野内さん、いまさらながらスピリチュアルって何ですか?
【金沢】6月27日(土)15:00~17:30(14:30開場)金沢市石川県文教会館
【長野】6月28日(日)14:00~16:30(13:30開場)長野市トイーゴ
※ 詳しくは牧野内大史さんの告知ページをご覧ください。[詳細・お申し込み]
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/fa/6b3c60afa073f105fd8c25d7764184f2.png)
コメント ( 36 ) | Trackback ( )
« 「掴める気づ... | 行蘊を実感し... » |
いつもは東京まで行かないと聞けないお話しが地元で聞ける!
幸せだな。
ですがここ3日ほどなかなか寝付けず体調あまり良くなく 少し心配です。
思考が暴走してるのかなぁ。
どうすれば良いのですか系の質問は聞き飽きてるかも知れませんが、
してしまうかも、、、、、。
きっと抵抗してるんでしょうね…。
今日阿部さんのリーラで、死刑についてふれていたので、思い切って、池田晶子さんの本を読んだことありますか?って質問したら、黒斎さんから勧められてるってかいてありました。嬉しかったです
そのことが伝えたくおじゃましました(^^)
識蘊を検索してみると、意識そのものとしているところもあり、
識蘊=意識=アウトプット
だと、個人的にピタッときます。
色蘊=体から受蘊=入力し、結果が識蘊=意識に出力される、と捉えると、
受動意識仮説と併せて考えても、やはり意識で行動するのではなく、行動した結果が意識になるんだな、
となるほどと思います。
続きを楽しみにしています。
でも、意味なくポチポチ。
決めてたのですが、内気なものでできませんでした。
この非二元、子育てについてはどのように活かせるので
しょうか。15歳、11歳の男子がいます。海外に住んでいる
ので塾などなく本当に子供と向き合って日々暮らしている
中で子供に対しての執着が一向になくなりません。
十ヶ月間自分の中で命を育んできたものを前に
「意味はない」「わたしはいない、あなたもいない」
は、気が狂いそうなほど訳わかりません。
そうです、この執着、「あなたが何においても
優秀であれば、わ。た。し。は安心なのよ」という自我
です。これ、本当になくしたいです。
黒斎さんの情に惹かれてコメントしました。
ありがとうございました
結局、スピリチュアルから離れる離れないじゃないんですよね。めんどうくさいと思いましたが、それは私は自分の思考自体が全部面倒くさくなってきていたから。納得する時期から、体感する時期に入ってきたのかも。方法はいろいろあれど、五蘊をいかに自分でコントロールするかが大事だと思ってます。なくすのは無理。だからこそ、お釈迦様は森の中で何年もただ瞑想をしていたし、八正道みたいなマニュアルを教えてくれたのかなと。
そして悟りに段階があるというのもそうだろうと思います。でも、反復練習と時間が必要かも。いろんな意味でw
ランキングにあるほかのブログを見ると、大和田さんの登場、とてもタイムリーに思えてきました。はじめは、ルックス的に欧米の人にとっての絶世の美女の外見をなさっているので、ヨーロッパベースで広める役割の方かなと思っていました。しかし、ああいうずばり身も蓋もないことを語る方も、サディスティックでいいかも。女王様な感じ。いろいろな人がいて、世の中面白いですね。
凄く面白くて会場内の空気が心地よかったです。
今日は前に何もわからずに観た映画マトリックスを全作観ようと思い、以前黒斎さんが書かれていたスピリチュアル的解説を読んでからまずは1作目観ました。
今1番興味がある内容なので引き込まれまくりました。
解説も的確でほんとに凄いなと思います。
そして今、ブログを開いたら今日の記事のタイトルがマトリックスだったのでニヤリとしました。
なんか繋がれたようで嬉しいです^ ^
私は禅(阿部さんのじゃない)をしたことがあるので、師に起きていることを観察していたのですが、まさに行ウンの停止でした。
今はヨガをしているので別アプローチで、心身などへの作用が全く違って感じられるのですが、
それが禅であろうが、ヨガであろうが、瞑想、武道、スピ、脱スピ、全てが高低のないアプローチですね!(他のブログで、他の道は低レベル、幼いのようなことを書かれていた方がいたので、疑問を感じていたところでした。)
ちゃんと明快に解説出来る黒澤さんは素晴らしいです(^O^)
もやっとするので自分なりに整理したんですが、五蘊ハウスの例えだと、感覚の元となるエネルギーが空間を漂っていて、「感じる」は、そのエネルギーが風のように家を吹き抜けてゆくイメージで、受蘊(感覚)の場合はそれを壁として固定する働きを指しているのではと解釈しました。
今から行けるかなあ
だけど、今回の私みたいに暴発するのはやっぱりお勧めできることではないと思うのです。
人によるのです。
女性は特に飛びやすいです。シャーマンとか、巫女とかね。
小さい子供がいる女性が神懸かり的になってしまったら、その子はどうなるのでしょう?考えただけで涙が溢れます。
あくまで自己責任なのはわかった上での苦言です。
あなたも私も同じ、という感覚を持った人が、それを実践する。そのことの方が、世の中が良くなるんじゃないんでしょうか?
ごめんなさい
ごめんなさい
でも、本当に逢いたいです。
京都駅で、足踏みしています。
(;_;)
ありがとうございます。
五蘊とPCの例えすごいですね。
六根のお話もまた聴きたいです。
実践することで想蘊に穴を空けられたら素晴らしいと思います。
ただ奇跡のコース、どうなんでしょう。開発者の趣旨に違わず進むのはかなり難しいと思います。
次の本作品は「例えシリーズ」で行くのはいかがでしょうか!売れる予感がします(笑)
PC例えが難しい人がいるなら、以前紹介された「RPGドラ○ンクエスト」の例えが分かりやすかったです!
機会がありましたら、再解説に期待です。
意識=アウトプットされたものを示すポインタ
で、ポインタを『建材』にポイントするか、『居間』にポイントするかでSTAGEが変わってくる、のでしたよね・・・
・・・
・・・『意識』=『ポインタ』って、何物?
今、残酷人生論も読ませてゆっくりと読ませて頂いてるんですが、
考えているのが「私」である
「自分のことを『私』という神、コイツはいったい何なんだっ!」
これですか?
つまり、
アウトプットされたものをポイントしているのが・・・
でも、ワークより先にテキストを読むのをお勧めします。
少しずつしか読めないのですが、
非二元の勉強になります。
何より、日常の出来事の解決になりました。
解説本であるワプニック氏の奇跡講座入門は、とてもわかりやすくしてくれました。
忙しい中で読むには、There Is No Spoonというサイトが、英文もあってお勧めです。
今まで一度も感情を剥き出しにして怒った事がなかったのですが、数カ月前に酔った勢いで自分でも止められないくらいに怒りが出てしまったんですが、それが引き金となったようでリウマチになってしまいました。
その後、反省をした私は病気に対してヒラメキがあると守護霊様が導いている気がしてます。(まだ悟ってないので勝手に思ってるだけですが…)これも乗り越えられる試練だと思ってます。
でも、何でわたしがいないのに守護霊様が導くのでしょうか?
スピ界の大御所相手にバンバン突っ込まれてて面白かった。
山川さんのいう輪廻転生、過去世の存在。
あって欲しくないな~。
あるとしたら、絶対一番最初の<自分>にお前どうしてくれるんだって文句言いたくなるよ。(笑)
まさに真理です。私は中国武術を長年稽古していますが、武術(及びあらゆるスポーツ)の極意は自分の無駄な、無意味な力みと雑念を捨て、その代わりに体に伝わる重力を感じとり、地球と一体になって動くことに他なりません。
その状態こそが、老子の言う「道」(TAO)の境地であり、武術が別名「動禅」といわれてきた所以だと思っています。
真理は常に目の前に在り、否、自らの生命機能から宇宙の運行に至るまですべてが真理そのものの現れであるにも関わらず、何ゆえ人は誰かの言説を求めさ迷うのでしょうか。
与える人、求める人、
どちらの業が深いでしょうか。
あるいは両者は一蓮托生でしょうか。
今日の記事にあった老子という方、2500年も前の人物のようですが、
我らもいつかはお互い、
虚言を与えず、虚言を求めず、虚構へ導かず、虚構へ向かわず、
それらに縛られることなくただ自由な精神でいられるようになるでしょうか。
こうだからこうなんだ といういろいろな事柄は 必ずしも 絶対的な存在であるとは 一致しないのだろうと。
それぞれが膜で密封 イクラ状態ででいるかぎりはね。あ、空気の出入りはあるのかな?
イクラ。調べてみよっと!
1作目は黒斎さんの解説があったので非常にわかりやすかったですが、
2作目からはやっぱりほんとの意味は難しかったです。
今度時間がある時、リローデッド、レボリューションの方も解説お願いします!
もし感情、思考そのものならば
この自分は何も感じたことがないし
何もやったことはない!と気づいてから
同時に周りにある全てが私と同じに見えかけています。
それが…気をぬくと元に戻されるのよorz
どうすればいいものか…
今日のお話、とても楽しかったです!
握手とサイン凄く嬉しかったです。
お話わかり易くて、トークライブの間~後まで、凄くエネルギーが強くて、
カタリストの説明の通り、直接お会いする影響力はスゴイなあと感じてます。
質問したことは、ずっと気になっていた経験で、最近のブログの五蘊のお話と関係あると思いながらも自信のなかった事だったので、キッパリ答えを頂けて、ホントに良かったです。
黒澤さんは、想像以上にパワフルでした。
牧ノ内さんはこの機会に知ることができて、お二人のお話を聞いていて、牧ノ内さんの本も読んでみたくなりました。
これから、お二人のサイン本を読む楽しみが待っています♪
今日はありがとうございました。
ただ、リンク先の「奇跡コース」をチョロっと読んで見ましたが、なんか得体の知れない気持ち悪さと恐怖を感じました。
宗教チックな語り口調だからかな。
全部読んでないからアレだけど、逆に何かに執着しているようで息苦しさを感じた。
これは自我の抵抗かな?
改めて述べます。
まず我々個的魂は、実は大霊である。
そしてあの世には個的な大霊がたくさんいて、中でも似た者同士の大霊はグループソールとして意識融合している。記憶経験は共有しているがカルマ、負債は個的大霊が個人的に償わないといけない。
さて、その個的大霊がそのほんの一部を地上に人間として再生させているが、死後は個的魂は大霊に帰る。
大霊はまた別の一部の魂を人間として再生する。
だから個的魂には前世はないし来世もないらしい。
しかし、個的大霊からみたら前世も来世もある。
次に転生する魂にも多少は前世あるように思うし多少は来世もあるんだろうけど。
黒斎さんの言う木と葉の関係に似ていますね。
でも完全に違いますよね。
黒斎さんの場合は大霊、グループソール通り越して死後はいきなりワンネス融合して、くじ引きのように、個的大霊、個的魂が再生し、抽選のように前世とカルマがくっついてくる。
シルバーバーチや江原さんは間違っていますか。
黒斎さんからもう少し説明頂けませんか。
マトリックスの話とかはもう充分だし、他のブログや過去記事でも見れます。
もう皆知ってる事です。
死後どうなるかはお釈迦様も教えてくれなかったし皆もあまり知りませんし聞きたいです。
その話は黒斎さんしかできない話なので是非お願いします。
つまり個的大霊から一部の個的魂が地上再生したと。
そういう風に置き換えたら府に落ちます。
一応シルバーバーチはそんな感じで話しているので、黒斎さんのインスピレーションも若干誤解等があり実はそういう事ではないですか?
間違ってたらすいません。
間違ってたらまた教えてください。
日時指定のキメ打ちじゃないところに、私は本物を感じてます。
雲黒斎うんこクサイ名前は、いずれ自然と改名されるそんな予感がします。
ただ、画数というひとつの次元でみますとね。外部から誤解を招く画数。気をつけてくだされ
書籍まだ完読していませんが読みやすいですね。読書が久しぶりだったのですが、(^o^ゞ
堅苦しくなく対話式で思いが伝わってくるのが良いです。
ところで、
ブログではスピリチュアルな意味での我々の存在の構造や視点の転換・気付きを黒澤さん流に解説して下さってますが、それらについて思うことがありました。
やはりお話の根底にあるのは、我々もこの世界もその本質はボーダーレスなんだ、ということがあると思うのですが、
それを言葉で伝えようとした時、必然的に伝える側・受け取る側という相対関係が生じます。
このジレンマは重々承知だとは思いますが、ともすれば黒澤さんが解答を与える側、読者は解答を与えられる側ということになり、下手をすると相対関係から「もっと分かるように説明してくれよ」、「あれもこれも教えてくれよ」といった依存関係すら生じます。
こうした黒澤さんが伝えたい事と本末転倒の結果を生む原因の一つに、インターネットの相方向性というのがあると思います。
インターネットはボーダーレスな世界を構築できるテクノロジーであると同時に、人の持つ相方向性、個と個の相対関係をより強固にグレードアップできるツールでもあるのではないでしょうか。
今回書籍を読みつつ同時にブログを見て思うことは、
書籍は相方向性度が低くなる分、読者が自分でじっくり内的観察を行うため理論的なことを発表するのに向いているし、ブログは相方向性度が高くリアルタイムにかなり近い分、感覚的に共感を得られる日常生活の話題に向いているなあ、ということです。
トークライブは時間はかなり限られますがどちらのテーマにも融通が効くかもしれませんね。
で、結論としての思いは、
僕はこうした場が、「黒澤さんが説明する側、読者が説明される側」という会議の場ではなく、「スピリチュアル的な視点による黒澤さんの日常の幸せ・喜びが読者の幸せとして勝手に伝播されていく」乳酸菌の発酵のような場であると素敵だなあ、ということです。
長々と申し訳ありませんでしたが、
イメージが降りてきて書かずに寝れない状態でして。(´∀`;)
夜勤なんで今から寝ます。(笑)
黒澤さんとご家族と読者の皆さんがますます幸せで平安に包まれますように。
お休みなさい。
たとえば粘度のある砂場がある
砂を固めて乾かしてスコップを作る
そのスコップ(私)で
あれこれ
街をつくる
※それでも砂場(いしき)の量はなにもかわらない
街をくずしても
スコップをくずしても
ね
いろいろやってみたけど、やってみても…意味が無い ♪
なぜなら
想像だから
このいしきの量はじてはかわらない
スクリーンに宇宙が映されすげー
スクリーンに自室が映されせまー
たんなる幻覚
なにもかわらない事実(いしき)
いしきの量はじつは!変わってない