沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩516 国家犯罪に手を染めないためには 2

2014年04月23日 16時42分52秒 | 政治論

 罪とは、ある種の心根の発露を覆い隠し、捻じ曲げ踏みにじっている状態を言う。その結果を問わず、これを魂の自由という観点から罪の捕囚、執着、あるいは偏執と称し、ここに立ち現れる国家犯罪はイデオロギーの問題において存在するのでなく、国家を構成する人民において結果的に裁かれる。従って、国家あるいは政府、行政機関、が為すところを看過するのでなく、あるいは諦観したり黙認するのでなく(抹殺される前に)、これを必ずおのれらの身に置き換えて監視し検証し査察する必要がある。琉球沖縄における道州制論議の根本は、必要不可欠な人民における対国家監察機能の確保とその有効性の担保としての地方自治権保証にある。独立論の根本である異民族性の論議はアナクロニックにしか俎上に乗らない。あるいは学術的民俗学的見地から論究される、本来政治的な意味合いが希薄な問題と思われる。

 但し、独立論が喚起される唯一の政治的理由は必ず受動的な政治的不如意に拠っていた。即ち、先ずは敗戦後米軍統治に拠る日琉分離策が祖国復帰運動へ連繋し、この時に独立論が持ち出された。しかしこれは既に占領政策のうちに問題の胚種が内在し、加えて天皇メッセージがあり、必然醸成された「差別感」から直結する自在性の希求であった。この独立のモチーフは革命的に無政府的にしか現実化しない。道州制は琉球沖縄に関する限り独立志向の修正主義的な意味合いになる。返還後、独立論はその動機を「マグマ」という質で内在化、潜在化させた。何故コザ暴動は革命路線を形成しなかったか。(つづく)