沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩512 琉球の捉え返し 8の1

2014年04月04日 12時27分47秒 | 政治論

 ある日不図したときに人は「虚しさ」を感じ一切に対して投げやりになるときがある。人は「無」「空」「虚」といったものに耐えない精神構造になっているのだが、一方パスカルに言わせれば「全」「無限」といったものにもそぐわない気組みになっている。この「中間者」という認識は、人間的な事柄においては最も重要な知であり、それは「虚しさ」を感じ一切を放棄したくなるときに必ず立ち現れて人をひとつの均衡への精神衛生学に導こうとするのだ。庭先の種々の雑草をむしるとき、一心不乱に鎌を振るうのだが、雑草たちは細かく砕かれて散り散りになる。これらを箒で掃きだすとあとにはスッキリした大地が広がる。ここにあるちょっとした感覚が時空の拘束を一瞬解いて「虚しさ」を駆逐する。

 我々にあるニヒルな傾きは、我々がこれに容易に呑み込まれるありようを示している。ところがよくよく考えてみるとそれは我々を揺り動かす「人間」の存在性によって、むしろもがくようになんとかそこから脱しようとしているのが実態だ。つまりこの自然性に感覚的に依拠しそこに感情の生活性を展開するなら、それは「詩的生存」とでもいうものになるのだろうか。「神は死んだ」という19世紀的総括は現世的な神がなければ必要のない宣言だ。「現人神」は嘘だが人間宣言はもっと嘘だ。「天皇(制)は死んだ」というべきであろう。しかし憲法はこれを残した。

 神が死んだという超人出生の思想的勃興はドイツの伝統的思惟傾向から必然に齎された。日本では高々人間宣言だが、この違いは那辺にあるか。観念にも抽象論にも独自な自在性を有し得ない日本人的思考法では、「武士道」のようなまたは「葉隠れ」のような、精神主義の割には肝心の精神性に関する客観的な考察を加えるどんな主導的な思潮も見られなかった。この表象がとりわけ政治において著しく現象した。これが日本における政治的な無責任性として丸山真男に指摘されたところだが、恐らくは日本的な文化潮流と西欧的な合理主義が、殆ど無反省に混交した結果だと思われる。これは古来、日本文化と言われるはずのアイデンティテイが専ら帰化文化に本質化されている事情を因源とするもので、オリジナリテイとでもいうべき、土着ともいうべき草の根的な民族性を欠いている宿命というしかない。(つづく)