沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩516 国家犯罪に手を染めないためには

2014年04月22日 19時43分59秒 | 政治論

 誰でも、何らかの行動モチベーションを喚起する決定的な過去を持っているものと思われる。憚りながら筆者にそういう過去は余りない。あったとしても語るに足らぬものと心得ている。もしかするとある日、一人だけのノートにそっと自ら暴いて見せる、というようなことがあるかもしれないが、おそらくは「社会」とか「歴史」とかあるいは「人間」とかにおいてさえ、さながら行く川のさざ波に漂う木の葉のごとく、どこへ運ばれるのか知れない運命に翻弄され尽くすのである。それはしかし少しも口惜しいことではない。

 アウシュビッツ絶滅収容所を古来史上に見ない残虐さで括ることは多分大嘘になる。ナチスの「ユダヤ人問題最終解決」手段はチクロンBガスによる窒息死であった(この効率的な大量抹殺法以前には様々な殺傷法が試された)。しかし今我々の見るところそのおぞましい事実に比して、いかにも、600万ほどの人間群がホロコーストの憂き目に遭ったというのに、片や戦場に潰えた命やら原爆に消された未だ正確な数を把握しないヒロシマ長崎の人々、あるいは焼夷弾の餌食となって燃えつくした市民など、その死に方はともかく戦争の犠牲者であることに変わりはなく、等しくその戦争の概括的な犯罪性については目を背けることなくどこまでも追究していなければならないのは、事、ドイツ日本に限ったことではない。「おぞましい」殺戮の命令は総統から発したが、命令系統を辿ればそこに何人もの担当者が関わっていたことは間違いなく、彼らそれぞれその行為の責任については当然にこれを負わねばならない立場にあった。だからいかにアイヒマンが「上からの命令は絶対だった」という言い訳に逃げようとしても、いかに「身動きならぬ歯車の一つ」と言い張っても、彼がこうした行為に加担した事実は消去しきれない。彼の事後の生涯において更新していく事実関係が彼自身の内面に深く根をおろせばおろすほどに、彼が殺しに手を貸した同じ人間の内面を省みる責任は益々新たに発生していく。

 我々は如何に我々自身の行動と言論に正当な責めを負うべきか。我々自身の独立した認識と判断にその根拠を見出すしかない。それの正しさを担保するのは結局「良心」の声、ということになるのだろう。(つづく)

    



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