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ブログを使用しての種々の論考

詩519 過去と現代 1

2014年04月26日 15時41分38秒 | 政治論

 かつてドイツ連邦共和国大統領リヒャルト・フォン・ウ”ァイツゼッカーは1985年の議会演説で「過去に目を閉ざす者は未来にも盲目となる」と言った。外交官でナチスドイツ外務次官だった父エルンストが戦後戦犯として訴追されたニュルンベルグ裁判の弁護をした(エルンストへの判決は懲役5年のち釈放という結果であったが、その裁判の正当性が連合国からも疑問視された)のは息子のリヒャルトだったが、彼自身もポーランド侵攻作戦や対ソ戦に参戦した経験を持っていてほぼ直近の前線で兄の戦死に出くわしている。例のヒトラー暗殺計画の一端を認知していた形跡もある。彼のナチ犯罪認識は戦後のものだと思われるが、彼が言う過去とは当然に自国の有した第一次大戦後の歴史的経緯が示す、拭いようのない暴力的残虐行為をかつてなく組織的計画的具体的に実行した戦争犯罪、に究極する。

 ユダヤ人問題は西洋においてはイエス磔刑以来常に存在したものであり、故郷喪失の憂き目にあって主に欧州各地を彷徨う運命に落とされた彼らは、しかし人種的民族的に際立って特殊に選別される筋合いにはない。キリスト教的偏見が人種差別的特殊視を助長し、「侵入者」意識や存在性が醸し出す邪魔者扱いが延いてはヒトラーの「我が闘争」におけるユダヤ人排斥思潮となり、これと並行してアーリア人(この人種的観点も根拠は薄弱である)絶対優越主義に促された戦争外交主義(今の軍産複合体と大差ない)により第三の帝国をでっち上げようという、誇大妄想的な全体主義に突き進んだ。ユダヤ人、ジプシー(ロマ・シンテイ)、障害者、同性愛者、の絶滅と、更には戦争捕虜、政治犯、にも及ぶ殺戮の嵐である。

 現代の我々は、こうした過去に関わった具体的な経験はないし、実体験者の年齢も既に限界を超えて考慮されるべき時期に来ている。問題は「戦争責任」が我々にもついて回るのか、だが、それは実質上あり得ないと考えるのが一般的でわかりやすい。一方、「過去に目を閉ざす」ということは、見たくないものは見ない、ということで、逆に言えばそんなものあったことさえ認めない、という姿勢になる。これが史実の捻じ曲げであり歴史認識の改ざんにつながる。

 我々戦後世代が追究すべきは現代であり、現代という時代の海原に有無言わさずあるという感覚だ。我々が過去を見るとき、我々は同時に、現時点において過去は過去だという当たり前のことに気づかねばならないのである。つまりは我々の父祖たちが為した戦争時代の数々の行跡に我々が実質負うべき責任はない、というより責任の取りようがない。惟だ我々はこれらのことを限りなく想像することができる。この想像において我々は現代の自分が過去を追体験していると考える。(つづく)

 

 



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