ニーチェは大げさな哲学者である。何故彼は大音声で「超人」をすら生み出さねばならなかったか。多くの伝記はこうして顕現するその著作と業績に裏腹な、彼自身の消え入るように希薄な生身の生を示している。その晩年、己が何たるかさえ知らない狂人となりおおしたことは象徴的だ。カフカとヤノーホの対話に「詩人」の存在性を語る場面があるが、この世ではひとつの単位にさえなれない微小な存在として「詩人」を見るカフカ自身、不気味に行進してくる野蛮なナチスの「悪魔」的足音が聞こえてきたかのように、人種絶滅の惨禍を見ることなくすみやかにこの世を去る。芥川は「ぼんやりとした不安」の先にやがて迫り来る軍靴の機械的な音響を予感するかのように、耐え難く踏み支えきれない近代日本の前にポッキリと折れてしまった。
ワグネリアンとして知られたニーチェの熱狂はヒトラーの官能さえ刺激して止まなかったが、彼の国家社会主義はある種の芸術作品を模しているようにさえ思われる。独裁者として、「我が闘争」に開陳したところの反ユダヤ主義と戦争外交論乃至嗜好とによって、アーリア人絶対主義の優越的選良意識を究極にまで高める行為に、恍惚と「美的政治的成就」の興奮に酔いしれるひとりの倒錯した異常性格者を見るのだ。この熱狂を半ば覚めた目で見ていた財界もやがてナチズムに取り込まれていくが、どういうわけか国内のドイツ人女性の圧倒的な人気を得ていたことはいかにもこの政治家が、情念や官能に囁きかける政治家だったかを示す証拠のようにさえ思われる。
安倍晋三は歩いている。走っているのかもしれない。彼は数年前に失敗した経験に依拠して今度こそ遅滞なく何事かをやり遂げようとしていることは間違いない。彼は明らかに右寄りに動いている。だが、なんという時間の無駄遣いに勤しんでいるのだろう。その復古主義に未来はないのに。(つづく)