沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩515 認知症

2014年04月09日 23時10分36秒 | 政治論

 老人に対する嫌気感は如何ともしがたい。筆者自ら還暦を越していよいよ老化の一途を辿るはずの境涯に立っているが、例えば「老人会」なんてものには全く存在意義が見出せないでいる。もしこれに自動的に組み込まれるというのなら、最初から大いにごねてやろうと思う。何故、ある年齢に達したなら" 老人 "という括りで集合しなければならないか、寄り集まって適当な運動としゃべくりに勤しむのは結構だが、そこにあるのは社会的に退役したために「暇になった」運動不足の年寄り、というレッテル以外にはない。檻に入れられた弱小動物の群れだ。こうした事実は改変できないので、このことをもってかの集会を認めないというのではない。一体にその非向上性、非社会性(非政治性、非発言性)、が気に食わない。そしてなにより人生の主流たる方向への諦念が我慢ならない。重大な革新的発明、発見をなすような若い学究の年齢、経験不足からくる拙劣なプレゼンテーションにいちゃもんつけるのは必ずこうしたわからずや、体制守護に凝固する成功者たちの停滞的保守性、あるいは天動説から脱け出せない石頭の司教たちだ。真相は恐らくガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」というつぶやきにしか、歴史はその正体を明示しないということだろう(一般論だが)。最近ではあるスポーツジャンルで一人の女子アスリートが示したような真に大きな成果というものが、必ずしも世間の一般的な評価基準に沿わない事実を、我々は半ば地団太踏む思いで眼にしている。70歳を越してなお16歳の少女に青年のような恋をするゲーテが特殊なものとは思えない。団塊化する「老人」という括りで、生きたまま死滅するような生き方を強いられるというようなことは、よくよく噛み砕いて省察吟味する必要があるに違いない。てなことを考えた。(つづく)