沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩382 事態は極めて深刻かもしれない。

2012年09月17日 12時05分46秒 | 政治論
 「軍隊は住民を守らない」という文言は、沖縄戦に関してしばしば析出される、軍事における特有の性格乃至本質として多分多くの識者の方々が言われてきたことであった。多くの沖縄研究者始め論者がこれを沖縄戦で見られた集団強制死(既に大江岩波裁判が結審している以上これは疑いのない軍の強制による集団での殺し合いだったといえる)、スパイ視による住民虐殺、あるいは壕からの追放、軍官民共生共死一体化精神、などの事例から導き出した、旧日本軍の、根本的な「沖縄差別」による住民軽視の傾向から言えることだと一応考えられるのだが、ここにあるように、これを沖縄戦に特定される傾向として見るのかどうかはまた別問題らしく(あらゆる軍官民雑居の所謂合囲地境状態での戦場一般にいえることかどうか、つまり本土でも同じことが起こるのかどうか)、少なくとも国内74%の米軍基地、及び自衛隊が集中的に配置された沖縄こそまさに戦争のための集中的発進基地として捉えられ(彼らの言う中露北朝鮮攻撃対象地点地域)、同時にさながら軍民雑居する「共生共死」の事実上の一体化が図られている島嶼として実態を特定しておくべきところである。つまり既に沖縄は知らぬ間に日本国において集中的に軍民総動員体制を実施している行政単位なのである。(しかも軍は異国人の戦闘部隊が中心であり自衛隊は軍事的にはともかく法的にはむしろ銃後となる付け足しの後方支援に過ぎないわけだ。)この事は、太平洋戦争にあって「捨石」とされ本土の防波堤にされた沖縄戦の本質そのままに同じ「住民軽視」傾向を再現している状態といえる。「地位協定」から治外法権的に優遇され横暴な法的格差を蔓延らせ住民の基本的人権を「泣き寝入り」させるこの行為は軍人の「住民を守らない」性質それ自身であり、このようにして沖縄県民に対しては、あの戦争が今も継続的に態様を変えて襲いかかってきているのだということになる。軍隊にしてみれば「お前たちを守るためにやっていることだ」という旧日本軍の言い訳そのままにオスプレイという欠陥機を我が物顔に飛ばそうというわけで、県民が10万人抗議に集おうがお構いなしで実戦配備に勤しんでいる。勿論将軍たちは机上作戦に夢中で西太平洋の覇権競争軍拡競争にしか興味がなく、折角大戦で苦労して分捕った占領地に「人間」が住んでいることなどとんと忘れ去りいかにして効率的に部隊展開するかを思案するのみだ。このような存在に対して、自身の生存と安定した生活空間を真剣に確保するには、一切軍関連行為に協力しないという決意すら必要になる。否、更に知恵を絞って、彼らの犠牲になってむざむざ死ぬのはごめんだという意識、彼らは決して「我々」の安否は考慮しないという認識からくる自助手段の模索、最後に彼らの手で戦場に放置され逃げ惑う自身を想像する、つまりこの国によって沖縄は人間として民として「見捨てられている」という状況確置、を決定的に保持する必要があろう。(中断)