沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩393 日米平和友好条約へ

2012年09月28日 22時52分50秒 | 政治論
 日米安保条約とは何か。言わずと知れた日米間の軍事的同盟条約にほかならない。しかもその内容においては、到底双務的互恵関係になってない。つまり、「核の傘」という位置づけを、日本国が金を出してアメリカに依頼しているという形になっていて、これは、一方から見れば軍事的に、他方から見れば経済的に利益分担しているように思われがちだが、実は、軍事的には、決して実質的な利益を得ているわけではないのに、経済的恩恵に浴す方(アメリカ)は、実質上稀に見る詐欺的掻払いを可能にしているのだ。何故なら「核の傘」という状態表現が全く意味をなさないことは、現今国際情勢からも明らかであるし、同様に、「抑止力」という言い訳も付け焼刃の感を否めない。ここに働く力学というのは、アメリカの軍産共益経済体制からくる既得権益圧力が、強制的かつ人工的に加わっている状態の力学と言うべきであろう。日米安保の堅持持続は、この不自然な力学実質によってなされていると言って良いはずだ。これはアメリカの側の実像であり、これに対し、同様に堅持持続方針に一切変更のない日本国はというと。戦後処理の一環としてあった日本帝国国軍の解体没収から敷衍して、戦後日本国の再軍備防止策として考慮された、米軍の常時駐留という安保の先駆けであったが、この実質は、むしろ、アメリカ乃至西側陣営の対ソ軍略からくる軍事的必要性という観点から、事実上殆どその意味をなさなくなり、日本は言われるまま自衛隊という軍隊を違憲状態で保有するはめになったのであり、日米安保条約も彼らの都合、すなわち対ソ防共極東最前線という日本の位置づけから派生した、アメリカ側の軍事的論理によって成立したものにほかならないわけで、自動的に西側陣営の構造的枠組みに組み込まれた結果、自律的国防理念を不問に付す安易な軽負担国策の持続という「楽な道」を歩くことになったわけだ。この、国にとって楽な道がその民にあって決して楽でないことは、現在米軍基地負担を集中的に担わされている沖縄において顕著な事例を示していることは広く知られている事実だ。政府官僚にとって業務的に「楽な道」が、民の犠牲の上に立っているのなら、これを国策とは言わない。主権在民の原則放棄にすぎない。沖縄がここに生じる不公平を忌嫌し、「少なくとも」日本人一律平等負担を要求するというのは至極当たり前のことであり、政府が、少なくとも民の代理で国政を動かしているというのなら、これに呼応して、日本人一律平等負担の国策に方向転換するのが当然の責務だ。にもかかわらず、「世界一危険な軍事基地」という認識が世界の「常識」だという明確な保証がある場合に、それゆえにこそ持ち上がったはずの普天間飛行場返還事案にあっては、即時返還原状回復無条件撤退を促すのが、民によって付与された代理人としての政府の仕事のはずなのに、この仕事をどの政権も政治家も誠意努力してやり遂げなかったことはまさに民主国家として恥ずべき事態である。「沖縄の負担軽減」などとまやかしの言辞を弄して国民の目を欺き、沖縄において生じている一切の矛盾をさながら「ゆすりたかり」の県民性に発するとでも言い募る心算か(アメリカの国防外務関係官僚はそう思っているに違いない)。アメリカの世界戦略において、西太平洋の覇権構想からひねり出した海兵隊展開の自在的機動性の配置のために、旧式を廃して新型輸送機オスプレイを配備し、順次、訓練実戦可能段階へ踏み込もうという、その全国的訓練体系を日本全国に実施するのが今回の問題を生じさせた内容だが、基本的に、その発進基地を普天間にしたことは、「負担軽減」という名目に対しての、紛れもない米軍の欺瞞、日本政府の卑劣さ、の証明である。「軍隊論理は一般住民を守らない」原理から、指揮命令系統最上部への直訴以外には恐らく何の効果も期待できない、という事実は、およそ軍事にまつわる銃後と非戦闘員の悲劇としてしか現象せず、多くの場合流れ弾被弾という偶然と「軍民雑居」による「共生共死」状態の運命的必然性からの「戦場放置」、つまり「頭上を危険物が往来することの常態化」というこのオスプレイ現実が問答無用で強行されることである。日本国はこの、民の危機に差し掛かって「安保破棄」を切り札にアメリカと交渉する重大な責任を負っていると思わなければならない。そして代替案は日米平和友好条約の締結だが、この場合、所謂戦略的互恵関係の構築を日中友好条約と同質の意味において成立させること。そこにパワーバランスを見極める外交技術のノーハウを得ることだ(中断)