沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩372 辺野古浜、高江 「座り込み」による日米国家圧制への抑止

2012年09月06日 11時07分38秒 | 政治論
 米軍北部訓練場一部返還に伴う(この、伴う、というのが曲者で、辺野古の新基地建設も普天間返還に伴って浮上した、欺瞞に満ちた、いよいよ拡大する軍拡行動にほかならない)ヘリパッド移設工事は、沖縄本島北部「やんばる」(山原)と呼ばれる亜熱帯原生林の、行政区としては国頭郡になる東村に当たる、緑豊かな、野生生物の宝庫といわれている地域に執行されるのだが、村北高江地区住民の強固な「座り込み」による反対行動にもかかわらず、強行しようとする工事人との攻防を連日繰り返しているために恐らくは10月普天間配備の時期を目指す工事としては、遅々たる歩みとなっているものらしい。ヘリパッドといえばオスプレイであり、東村長はオスプレイには反対だがヘリパッド建設を容認する方針を自己矛盾とも思わず変えようとしない。「軍隊は住民を守らない」のは「軍隊」論理からすれば至極当たり前のことで、住環境の破壊と自然環境ダメージ、騒音と墜落危険ストレスについては指揮命令系統頂点であるアメリカ大統領と追随する日本政府が「それはまずい」という認識に達しない限り下部構造に行くに従って「上官の命令通り」住民を蹴散らしてでも命令遂行に「命をかける」構図に変更はありえない。この実質はあらゆる局面においてその通りである。但し工事請負人が軍人でない限りは彼らが、住民を殺してでも工事をすすめる程に企業エゴを実践するとは思えないので、彼らに対し切々と訴えたり体を張ってブルの前に身を投じたりすることは有効な行為と思われる。いずれにしても現在沖縄に展開する米軍軍事施設に駐留する軍隊には、「住民保護」意識(住民を直接標的とする行為さえないとは言い切れない)は皆無であり、それはすべての訓練にあってその通りである。言ってみれば住民は自己保存という生来の防御意識はもちろん住環境への精神的アプローチにおいてさえ生存権を行使する、完全な敵対存在として米軍基地を措定することになる。今まさに少人数ながら民力の行使がされている辺野古、高江の「座り込み」は,オスプレイのためのヘリパッド建設という事態に直面して、本来民衆が、人民が当然にしなければならない「民主行動」にほかならない。つまりはオスプレイ沖縄配備反対県民大会(9月9日)の先駆けでもあり同じ「非戦」意思と「住環境守護」権利行使の意思によってなされるものであることを理解しなければならない。(中断)