東京・横浜と古都鎌倉の旅・・・・鎌倉編

2010年03月02日 | 
 朝ホテルでゆっくりとバイキングの朝食。出発の前にホテルの中を案内してもらう。迎賓館として使われた頃の面影がそのままに残されている。重厚だー、重々しいような階段で記念撮影をする。

 一路鎌倉を目指す、鎌倉は山に囲まれているということか、7つの坂というか切通が7つあり、私たちは確か「朝比奈」の切通から入ったはず。その道沿いには鎌倉霊園があったが、お墓の地域の特徴などチエックしながら川端康成さんも眠っているという広大な墓地を眺めた。平地には墓地を作ってはならないと決まりがあるので、墓地は山にあるらしい。

 まず建長寺から、鎌倉ガイド協会の自称「後期高齢者」とおっしゃられた女性が付いてくれた。かってはボランティアというかたちだったが、今はNPОということで有料である。

 どうみても、これから学者になるわけでもないメンバーであるし、もっとも3時間弱で鶴岡八幡宮・大仏を回るという超特急コースでもあるから、駆け足である。。

 建長寺は建長時代に建立されたところから名前がついているが、たびたびの火災で焼失しているから、本当に古いのは梵鐘のようだ。

 一通りの説明の後、ガイド氏が案内したのは山際の「海軍神雷部隊の慰霊碑」だった。
本当の戦争を知らない私にとっても、この慰霊碑の重みはずっしりと感じる。説明を聞いた後、全員が手を合わせてお参りをした。出入り口の竹の通行止めを閉めるために、最後まで待っていた私は、同行した男性人3人が最後までお参りしていたのを見ていた。

 生まれるのがもう少し早かったら・・・・・そんな思いが去来したのではないだろうか、とその背を見ながら心をはせつつ。

 ここにきてお庭をみないという手はないわね、と駆け足で方丈とお庭を回ったが、今の季節でもあり・・・趣まで味わえない。

 どたばたして、お帰りに寄って下さいといわれたご朱印も忘れて、次の鶴岡八幡宮へ。お土産は鳩サブレーとガスガイドさんはお勧めしてくれたけど、ガイド氏は鳩落雁が一押しのご様子。・・・・でも帰ってきて缶の中をみたら・・・ボリュウムが上品でしたねえ。

 鶴岡八幡宮には、もう早咲きの桜が咲き、信州人の度肝を抜くのです。
ガイド氏のごきげんが少しおかしいようです。説明を8分目までして、落ちまで行きません。「私気分がよくありません」と言われて???? 歴史的なことを説明してと言われたとのこと。ますます?????。事情を知らない皆さんも、なんとなく腑に落ちない様子。

 ようは、添乗員さんが建長寺の梵鐘の説明をしなかったので、一番古いものを抜いたから、そのあたりは駆け足でも欠かさないでと言ったのを、彼女は慰霊碑のお参りをしたのに文句を言われたと理解したものらしい。
 私は双方の話を聞いて納得した。

 私たち一行は決して慰霊碑のお参りに誰一人意義を申し立てた人はいない。お国のために散らした若い命に心から手を合わせご冥福と二度とこんな日のないことを祈ったのだった。
ガイド氏と「語り継がねばならないことですよね」と話して、ようやく彼女のペースが元に戻ったようだった。

 今回修学旅行の再来と参加をしてくださった方があったが、私も大仏様を楽しみにしていた。実は修学旅行で鎌倉の大仏を見たはずなのに、その記憶が一つも残っていない。本当に見たのだろうかと思う。中学3年のその春は寒かった。4月の下旬の修学旅行で横浜の氷川丸と、東京に宿泊したのは覚えているのに。

 雨が降っていた、バスの中から歩道の石畳が濡れているのを見ながら、この景色を再びみることがあるだろうかと考えていた。何で石畳なのかがわからないが。
 修学旅行が終わり連休の終わった日、私は東京の病院へ心臓手術をするために入院をした。その日になっても佐久の桜は咲かなかった。

 無事に生還したけど、東京の石畳はその後学生運動の投石のため剥がされ、コンクリートになってしまったから、あの雨に打たれた石畳をあの場所で見ることはなくなった。

 あらためて修学旅行のやり直しをしたような鎌倉の旅だった。

  依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


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