清水の街を走る仕事も今日が最終日となり、残り半日程度で終わると思うと自転車のペダルも軽い。今日は押切から下野、高橋辺りを走る。清水に住んで居ながら縁遠い地区なのだ。
山原の中継所が大きく見え、此処らまで来ると意外と高い所に有るんだと思ったりもする。何故なら住んでいる辺りから見る中継所は山の中腹辺りに立っている様に見えるからなのだ。
清水にある中学は一から八までは番号が名付けられている。第一中学校、第二中学校、…。
家人と中学の場所の話に成り、(最近愚息のサッカー部の練習試合に他校へ遠征に行く)五中は三保だし、七中は南幹線をちょっと上がった所だし、八中は追分の大沢川を入ったとこだ。さて、六中が分からない。二人とも行った事が無かったのだ。
仕事の地図に六中と有り、ちょっと回り道をする事にしたのだが思った所に正門がない。脇道に正門を作ると車の交通量が少ないから先生の心配事が一つ少なくなるのだろうか。(三中の正門は正門前の道幅が広くなり先生の見回りが欠かせない。)
六中だからと勝手に六角形の校章を想像していたのだけど星の様な模様だった。四中は四だから四つのペン先だと思って居たのだが、どうやら数字と校章は関係が無いらしい。
調べてみると五中は三保中学からの改称なので校章は当時の三保から「ホ」が三つ中の周りにあり三角形なのだ。そうなると六中の校章の星が意味する物なんだろうか。(不詳)
一中から五中までは昭和22年4月に一斉に改称している。
そしてこの六中だけど、昭和33年に当時の飯田中学と高部中学を統合して六中にして居る。
七中は昭和30年に有度村が清水市と合併し一旦は清水市立有度中学に成るのだが、昭和35年に七中に改称している。
八中は、二中の大規模化解消のために昭和36年に開校している。初めから八中なのだ。
番号以外の中学(興津、庵原、小島、両河内、袖師)はそれぞれ当時の町村が清水市と合併する時(昭和36年)に清水市立○○中学に改称している。地元の人にしたら、番号の校名にするのは余りにも味気なかったはずだ。
その後昭和56年に六中のマンモス化の解消のために飯田中学を開校しているが、昔から清水の地の中学だから九中にするべきだと思うがちょっと言い難いし時代に合わない。
飯田中学は統合されたり新設されたりして忙しい。それだけ清水市の人口の移り変わりが見て取れる。
「してがわこみち」山原川の支流の捨川に沿った道の事で北街道の富士見橋からそれははじまる。富士見橋と言っても富士山が見える訳ではない。
川と言ってもコンクリートで固められた水路に成っている。
飯田東小学校の脇を通って行くのだが何処まで小道と言われているのか分からない。ただ、捨川は飯田中学の方から流れて来ている。
駅前銀座の「小台湾」でランチを食べる事にした。仕事が早く終わったので陶芸教室に顔を出そうと思ったのだ。リビングハウスこまつにも近いので便利だし、町を元気にするって事は町でお金を使うって事かなと思ったりもしている。
少しずつ色々な料理が食べられて満足。次回は麺類を食べてみたい。
山原の中継所が大きく見え、此処らまで来ると意外と高い所に有るんだと思ったりもする。何故なら住んでいる辺りから見る中継所は山の中腹辺りに立っている様に見えるからなのだ。
清水にある中学は一から八までは番号が名付けられている。第一中学校、第二中学校、…。
家人と中学の場所の話に成り、(最近愚息のサッカー部の練習試合に他校へ遠征に行く)五中は三保だし、七中は南幹線をちょっと上がった所だし、八中は追分の大沢川を入ったとこだ。さて、六中が分からない。二人とも行った事が無かったのだ。
仕事の地図に六中と有り、ちょっと回り道をする事にしたのだが思った所に正門がない。脇道に正門を作ると車の交通量が少ないから先生の心配事が一つ少なくなるのだろうか。(三中の正門は正門前の道幅が広くなり先生の見回りが欠かせない。)
六中だからと勝手に六角形の校章を想像していたのだけど星の様な模様だった。四中は四だから四つのペン先だと思って居たのだが、どうやら数字と校章は関係が無いらしい。
調べてみると五中は三保中学からの改称なので校章は当時の三保から「ホ」が三つ中の周りにあり三角形なのだ。そうなると六中の校章の星が意味する物なんだろうか。(不詳)
一中から五中までは昭和22年4月に一斉に改称している。
そしてこの六中だけど、昭和33年に当時の飯田中学と高部中学を統合して六中にして居る。
七中は昭和30年に有度村が清水市と合併し一旦は清水市立有度中学に成るのだが、昭和35年に七中に改称している。
八中は、二中の大規模化解消のために昭和36年に開校している。初めから八中なのだ。
番号以外の中学(興津、庵原、小島、両河内、袖師)はそれぞれ当時の町村が清水市と合併する時(昭和36年)に清水市立○○中学に改称している。地元の人にしたら、番号の校名にするのは余りにも味気なかったはずだ。
その後昭和56年に六中のマンモス化の解消のために飯田中学を開校しているが、昔から清水の地の中学だから九中にするべきだと思うがちょっと言い難いし時代に合わない。
飯田中学は統合されたり新設されたりして忙しい。それだけ清水市の人口の移り変わりが見て取れる。
「してがわこみち」山原川の支流の捨川に沿った道の事で北街道の富士見橋からそれははじまる。富士見橋と言っても富士山が見える訳ではない。
川と言ってもコンクリートで固められた水路に成っている。
飯田東小学校の脇を通って行くのだが何処まで小道と言われているのか分からない。ただ、捨川は飯田中学の方から流れて来ている。
駅前銀座の「小台湾」でランチを食べる事にした。仕事が早く終わったので陶芸教室に顔を出そうと思ったのだ。リビングハウスこまつにも近いので便利だし、町を元気にするって事は町でお金を使うって事かなと思ったりもしている。
少しずつ色々な料理が食べられて満足。次回は麺類を食べてみたい。
第九中学校 ベートーベンの年末に歌うあの?
それとも大工中学校などとからかわれそう。やはり音の響きが良くなかったんでしょうか?
先日、飯田地区のまつりがあって飯田東小に行ったら、飯田東小は校舎が新しくなっていました。飯田小の校舎の方がかなり古いのに全面建て替えでなく、耐震補強のみ。卒業したからもういいんですが、えぇーずるーいと言いたくなりました(笑)飯田中も全面建て替えでしたから構造上の問題なんでしょうが、飯田中と同じような作りの高部東は建て替えしてないような、、、。