興津の仕事が午前中に終りランチを何処にするかで迷走する。
帰る途中の食堂を考えながら運転していたら家の近くまで来てしまい、いつもの蕎麦屋に行く事にした。元来「蕎麦男(そばお)」と呼ばれた程の蕎麦好きなので苦には成らないのだが、「鴨せいろ」が恋しく成る。この店には其れが無い。
最近、此処の天婦羅に有る発見をしてから見方が変わって、又は天婦羅に舌が慣れて、又は麻痺して馴染んで来た事は確かなのだ。良く天婦羅を食べる。
家人は天婦羅が苦手で家では殆ど天婦羅をしない。最近知恵を付けて魚屋で揚げた天婦羅を買って来たりしている。そこで烏賊のゲソ揚げをリクエストしたのだが毎回売り切れらしい。先日も買い物に連れ立って魚屋に行くのだが、やっぱりゲソ揚げが無い。
そこで烏賊と真鯛の天婦羅を買う。するとショーケースの向こうからモトさん(店主)が「鯛の天婦羅を食べれば家康に成れるよ」と言う。何の事かと思ったら家康は鯛の天婦羅を食べて死んだのだと言う。まあ、人間何れは死ぬので家康に成らなくても良いのであって、
こんな時に(天意鋸口)そんな話と気が沈む。
カリカリの天婦羅を揚げる蕎麦屋の天丼はご飯の上で天婦羅の衣が絶妙な触感に変わりそれが美味いと感じる。成るほどそう言う事かと納得。
天婦羅屋の天丼と蕎麦屋の天丼はどちらが美味いか、以前考えた事があって、それは天婦羅屋に違いないと思っていたのだけど案外蕎麦屋もイケるかもと思い始めている。
因みにとんかつ屋のカツ丼と蕎麦屋のカツ丼では、蕎麦屋の方が美味いと思っている。まあその辺りも店に依るので一概には言えないけど。
先日、ラジオで「本格的な二八蕎麦が食べられます」と店紹介をしていたのだけど、本格的な二八蕎麦を食べてみたいと思っている。
十割蕎麦を看板に掲げる店は見かけるが、二八蕎麦の看板はは中々見ない。
しかも本格的。一体何が。ちっちゃい事が気になる。
帰る途中の食堂を考えながら運転していたら家の近くまで来てしまい、いつもの蕎麦屋に行く事にした。元来「蕎麦男(そばお)」と呼ばれた程の蕎麦好きなので苦には成らないのだが、「鴨せいろ」が恋しく成る。この店には其れが無い。
最近、此処の天婦羅に有る発見をしてから見方が変わって、又は天婦羅に舌が慣れて、又は麻痺して馴染んで来た事は確かなのだ。良く天婦羅を食べる。
家人は天婦羅が苦手で家では殆ど天婦羅をしない。最近知恵を付けて魚屋で揚げた天婦羅を買って来たりしている。そこで烏賊のゲソ揚げをリクエストしたのだが毎回売り切れらしい。先日も買い物に連れ立って魚屋に行くのだが、やっぱりゲソ揚げが無い。
そこで烏賊と真鯛の天婦羅を買う。するとショーケースの向こうからモトさん(店主)が「鯛の天婦羅を食べれば家康に成れるよ」と言う。何の事かと思ったら家康は鯛の天婦羅を食べて死んだのだと言う。まあ、人間何れは死ぬので家康に成らなくても良いのであって、
こんな時に(天意鋸口)そんな話と気が沈む。
カリカリの天婦羅を揚げる蕎麦屋の天丼はご飯の上で天婦羅の衣が絶妙な触感に変わりそれが美味いと感じる。成るほどそう言う事かと納得。
天婦羅屋の天丼と蕎麦屋の天丼はどちらが美味いか、以前考えた事があって、それは天婦羅屋に違いないと思っていたのだけど案外蕎麦屋もイケるかもと思い始めている。
因みにとんかつ屋のカツ丼と蕎麦屋のカツ丼では、蕎麦屋の方が美味いと思っている。まあその辺りも店に依るので一概には言えないけど。
先日、ラジオで「本格的な二八蕎麦が食べられます」と店紹介をしていたのだけど、本格的な二八蕎麦を食べてみたいと思っている。
十割蕎麦を看板に掲げる店は見かけるが、二八蕎麦の看板はは中々見ない。
しかも本格的。一体何が。ちっちゃい事が気になる。
天麩羅は意外に難しいんですよね。母はよく天麩羅しますが、まあまあ料理ができる母でも天麩羅はプロとの差が歴然、、、。
こちら(兵庫)ではやはり蕎麦屋さんが少なく、清水に帰った時は必ず蕎麦食べます。
気が付いてしまいましたか。(笑)
写真を撮って原稿を書くのですが、愚痴に成ってたりしてボツ原稿も増えています。
暮れに会った弟からもそんな事を言われ、町歩きに徹しようかと思っています。
先日自転車で町走りをし旨そうな蕎麦屋(袖師か横砂辺り)を見付けたのだけど、再発見が出来す迷走しています。
スマホに替えたので、これからは地点登録して見逃さない積りなんだけど、どうなりますか。
お腹が空いていれば何でも美味いんだ!と何処かのオヤジに言われたけれど、不味い物は不味いと思っています。
美味しかった蕎麦屋が世代交代などで味が変わってしまうのは仕方のない事ですが寂しい限りです。でも、暫くは見守って行きたいと思います。