日銀券を増刷して日本国を救う村島定行のBlog

①日本は世界最大の債権国、お金がなければ刷りなさい②英語を多用すると次第に馬鹿になる③靖国参拝は日本人の義務だ。

秀吉と貫之の辞世の句について

2010年10月11日 | 日本語

 豊臣秀吉の辞世の句は有名である。(十六世紀末)

 露と落ち露と消えにし吾が身かな、浪速(なにわ)のことは夢のまた夢。

最近、紀貫之の辞世の句も知った。(十世紀初頭)

 手に結ぶ水に宿れる月影の、あるかなきかの世にこそありけれ。

700年ほど年代に差にある人物の辞世の句であるが同じく儚さを謳ってることに興味を覚えた。

 紀の貫之は古今和歌集の編者である。894年に菅原道真の提案で遣唐使が廃止されることが決まった。
 このころ平仮名、カタカナが出現し大和言葉が漢字かな混じり文で表記することが始まったばかりで大和言葉を表記する方法を得て、古今集を初めて漢字かな混じり文で表記すると言う高揚感があったであろう。150年前の万葉集は四苦八苦して漢字ばかりの万葉仮名で表記していたのに比べれば大きな進歩というより、完璧な日本語の書き言葉を得たのである。菅原道真にも、紀貫之にも同じ高揚感があったはずである。これほどの人生を送ってきても終わりに際しては儚さは避けられないのであろう。

 「男もすなる日記というものを女もして見むとてすなり。」で始まる土佐日記は漢字かな混じり文で書かれた最初の日記である。儚さを謳っているが紀貫之の辞世の句も土佐日記の冒頭の部分等は少し理屈っぽいところがあるように感じる。貫之の個性であろうか。



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