呉茂一の「ギリシア神話」を読書中。まだまだ、ブレーズ・パスカルの「パンセ」、ジェイムズ・ジョージ・フレイザーの「金枝篇」、ジュール・ミシュレの「魔女」、マーガレット・アリス・マレーの「魔女の神」、マックス・ヴェーバーの「古代ユダヤ教」、オスヴァルト・シュペングラーの「西洋の没落」・・・・・等が待っている。
「書を捨てよ、町へ出よう」の著者は、それ以前に何冊の本を読んだのか、と考えてみる。だが、何冊読んでも、歴史に食われないようにしなければ。歴史は自分の中で消費して、外に溢れさせないようにしよう。私自身が、歴史の終点。
「自分の国が歴史上の悪者にされたのでは、守る気になれない」、と田母神氏は言うが、「そんなの関係ねえ」、だ。自衛隊が守ろうとしているのは歴史上の日本ではなく、現在する日本なのだから。そもそも、悪者だろうがなんだろうが、自分の国は守るものだ。
過去を学ぶのもいいが、学んだことを現在の問題にそもそも適用すべきか否か。歴史というものに対するスタンス、つきあい方という意味での歴史教育が、見落とされている。
「歴史における個人の役割」ではなく、「個人における歴史の役割」が、厳しく問い直されるべきだろう。歴史は言葉。せいぜい、出来の悪い小説かドラマ。だからみんなで書き換えようとする。その時のみんなの表情は、生き生きとしているのだ。
落ち着く先は、一時の思考停止。それは、人生における至福の時間(とき)だ。なぜなら、思考すればするほど、間違いは大きくなるのだから。