塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

寡黙であることは防御すること

2019-02-20 01:39:57 | 日記
 白水社から刊行されているJDサリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」

 村上春樹さんが翻訳を手掛け、新しい解釈として同様に白水社から刊行されたときは、俄然注目を集めたものです。

 僕は従来の野崎孝氏の翻訳でゆっくり、ゆっくり読んだ事をおぼえています。

 サリンジャーが晩年隠遁した生活を送ったのは、もう耐えられないと思うことが多々あったため、と推測します。

 僕の記憶違いでなければ、ジョン・レノンとJFK,両者の暗殺に手をそめた犯人は、ライ麦畑で捕まえての熱狂的な読者だったと聞きます。

 自分の発言、自分の作品が人々の論争を巻き起こし、大切な生命が奪われる。

 この喧噪から身を引くには、隠遁するしかないと考えたのでしょう。

 今も昔も不用意な発言で多くの批判を受けることは、大きな心理的負担になります。

 イタリア出身の指揮官に寡黙な印象が多いのは、イタリアがおしゃべるだからではないでしょうか。

 自分が安直な発言をしなければ

 1・ブーメランのように自分に戻ってこない
 2・クラブや代表の広報を慌てされることはない
 3・喧噪を引き起こさない

 という自衛だと思うのです。

 1982年のイタリア代表は、ベアルゾットが最後の最後でパオロ・ロッシにかけ、見事彼が6得点と得点王に輝き、世界一に輝きます。

 それまでは罵声を飛ばし続けてきたイタリア国民は、完全に

 「手のひら返し」

 を行い、選手団はスペインから大統領専用機で帰国します。

 僕がベアルゾットならば記者団に

 「あなた方の手のひらを見せてほしいね」

 と皮肉の一言でも言いたくなるほど、戦前の批判と罵声は強かった模様です。

 寡黙になるはずですよね。
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