塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

人たらしとは結局何だろうか

2019-02-20 01:27:51 | 日記
 18日の23時20分からテレビ朝日で放送された「激レアさんを連れてきた」。

 今回は住宅の営業マンだった男性が、お得意のノミュニケーションでかつて訪問していた瀕死の動物園を、劇的に経営改善を図る様子が放送されました。

 ノミュニケーションを別の言葉でいえば、「人たらし」とでも言うのでしょうか。

 僕の人生で一番程遠い言葉ですね。

 他にも「人望」「付き合い」「友人」なども同様ですが。

 サッカーの世界でも、ユルゲン・クロップやかつてのモウリーニョのように、招かれたクラブのどこが弱みでどのような練習と補強を行えば、地力が蘇るのか、一瞬にして判断できる指揮官がいます。

 「香川は私にとって最高の選手だよ」

 とクロップに褒めたたえられた際、香川は嬉しかったでしょうね。

 逆に陽気で美しい物に目がないイタリア人ですが、指揮官は人たらしよりもむしろ冷徹の印象を受けますがどうしてでしょうか。

 その代表例が

 フランチェスコ・グイドリン(モナコやウディネーゼを指揮)
 ファビオ・カペロ(イングランド代表やミラン、レアルを指揮)
 ジョバンニ・トラパットーニ(イタリア代表やバイエルン、ユヴェントスを指揮)

 他にもゾフやベアルゾットが連想できますが、これはイタリアが地域によって産業が気候が変化するため、生まれ故郷の因果関係があるように思います。

 よくオーストリア国境に近いフリウリは、勤勉で真面目な方が多く、ターラントやパレルモのような南部では、暖かい日差しの下で陽気に育つようです。

 またアマルフィやピサは海洋国家の名残がありますから、故郷を離れることを寂しいとは思わないかもしれません。

 イタリア人指揮官が「人たらし」ではない印象があるのも不思議ですが、ベルルスコーニの「女たらし」も、ある意味威風堂々としていますが。
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