ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



キリスト教国って、イスラム教国とすごく対立してる気がするんだけど、逆に、イスラム教からはキリスト教って、どう見えてるんだろうね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ムハンマドの幸福論』(幸福の科学出版)で、そのイスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット)の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 キリスト教には、やはり、少し「甘さ」があるような気がするんだな。
 イエスは、最後には、あのようなかたち、要するに、この世的には、「人間の手にかかって殺される」という姿を取った。
 「彼は偉大な預言者である」ということは、もちろん、私も認めておりますけれども、少なくとも。
 彼は、「自分自身の権威」によらずして、「神の権威」で、いろいろな業を起こしました。病気治しもそうですし、言葉を語るときにも、「私が語るのではなく、天なる父が私を通して語っている」というようなことを言っておりますので、彼は、やっぱり、「天なる神のツール、道具」であったことは否めないし、それを自分で認めていますね。
 キリスト教徒は、イエスを偉くしようとして、一生懸命、「神の独り子」にしたり、「神そのもの」に持ち上げようとしたりしているけれども、「キリストの言葉自体」によって、そうではないことが明らかになっているわね。
 そういうことで、人間によって滅ぼされた「神」は実際に存在したわけですよ、二千年前にね。あるいは、「神の独り子」と彼らが言う者が、人間によって滅ぼされた。私から見れば、「預言者の一人」ですけれども、それが人間によって滅ぼされたわけです。(中略)
 ところが、私のほうは、人間によって滅ぼされてはいません。私に従わない人々、要するに、雑教といいますか、いろいろなものが混じり合っていて、まだ整理されていない、「前近代的な宗教である多神教」を信じ、偶像崇拝するクライシュ族に対して、「近代的な一神教」を開いたわけですね。
 戦いも起きましたけれども、その戦いに勝利し、教えにおいても勝利して、彼らを呑み込んでいきました。
 その意味において、イエスの最期に比べれば、「完成者たるにふさわしい」と言えるのではないかと思う。
 だから、「最後にして最大の預言者かどうか」というようなところはあるかと思いますが、それでも、「神の僕であり、一預言者であって、自らは神ではない」ということであり、これは、仏教的に言えば、「仏ではない」という位置づけです。
 自らが人間であることを認め、「神の使徒である」という立場だけど、「最後にして最大の預言者」という位置づけでもあり、それは「謙虚さ」と「神の偉大さ」を同時に表していると考えられます。
 その意味では、イスラム教は、やはり、「世界宗教」にふさわしいんじゃないかなあ。
(41~44ページ)

イエスは、この世的には、人間によって滅ぼされたのであって、キリスト教には、少し「甘さ」がある。

ところが、ムハンマドは、人間によって滅ぼされてはいない。戦いに勝利し、教えにおいても勝利したのであって、イエスの最期に比べれば、完成者たるにふさわしい。

ムハンマドは、自らが人間であることを認め、「神の使徒」の立場ではあるが、「最後にして最大の預言者」という位置づけでもあり、それは「謙虚さ」と「神の偉大さ」を同時に表している――。

日本のマスコミを通じて流される日々の国際ニュースは、欧米のキリスト教国を通じたニュースが大半です。

ですから、知らず知らずのうちにキリスト教的な見方で海外を見ているのが、じつは日本人の普通の姿ではないでしょうか。

その感覚から、イスラム教国やイスラム教徒の習慣や行動について、しばしば不思議な人たちという感じで見ている気がします。

ところが、今日のムハンマドの言葉に従って、イスラム教の側からキリスト教や欧米社会を見てみると、ぜんぜん見え方が違ってくることに気がつきます。

いずれにしても、なぜにイスラム教が世界宗教になっているのかについては、もっともっと学びを深めてみる必要があるのではないかと、改めて私は思っているのです。
 

『ムハンマドの幸福論』

 大川隆法著


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