哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

ソクラテスの死

2009-08-14 16:46:16 | 哲学
前回『孔子』で触れた「ソクラテスの死」に関する記述はこうだ。

「ソクラテスもまた、逃亡によって生を永らえ得るにかかわらず、自ら甘んじて不正なる判決に従い、その倫理的覚醒の使命の証しとして毒杯を飲むのである。」(『孔子』岩波文庫より)

和辻氏はこのように、ソクラテスにおいても(イエスや釈迦と同じく)その死が重大な意義を担っており、従ってその死に方がそれぞれの(人類の)教師の特性を示す、としている。

しかし、池田晶子さんはこう書いている。

「かくして毒杯を仰いだとプラトンの筆によって記されたソクラテスを、後二千年間人々は、「正義に殉じた真実の人」と讃えている。すなわち、未だもって殺し続けているのである。」(『メタフィジカル・パンチ』以下の引用も同じ)

未だもって殺し続けている、とは随分な言い方である。その死に意義があるとの見方については、何らソクラテスの真意を解していないというのだから。

ではソクラテスの真意とは何か。池田さんは、「語を定義しないまま、いかに正確に使うか」をソクラテスの方法だという。そして、「現実とは言葉なのだから、生きるということは言葉を生きることである」とも。

確かに定義されなくても、我々は明らかに言葉を生きている。定義以前に既に言葉を知っている。これは一体何なのか。

ソクラテスはいざ知らず、池田さんが形而上から形而下に降りてきた巫女に思えるのは、このような言質が豊富だからだろう。