哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

あぶない勘違い(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-08 06:27:24 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「あぶない勘違い」という題でした。やっと『国家の品格』を読んだそうです。主なところを要約しつつ抜粋します。

「人を殺してはいけない論理的な理由がないのと同様、私が日本という国に生まれたことにも論理的な理由はない。つまり日本人に生まれたことは偶然である。日本に素晴らしいものがいくらあっても、べつに私が偉いわけではない。人はここを勘違いしやすい。
 国家や民族は、最もわかりやすいアイデンティティである。しかし、そもそも「国」というもの自体が、観念としてしか存在しないのである。この種の相対性を見抜き、自覚してゆくのでなければ、著者の目標とする「二度と大戦争を起こさない」を達成するのは難しいのではないか。」



 さすが、池田さんはラディカルについてきます。「国」というもの自体が観念でしかない、という話は池田さんの文にはさんざん出てきますね。国家観念が相対的なものであれば、一体何のために人は戦争するのかと。

 著者の目標である「二度と大戦争を起こさない」は、20世紀という「戦争の世紀」の記憶がまだ生々しい人類の最大の目標であるはずですが、現実にはイラク戦争をはじめ、大戦争に近い事態は繰り返されています。


 歴史関連の書物を読んでつくづく思うのは、おそらく冷徹に人類の歴史を考えれば、将来においても決して戦争はなくならないだろう、と断言できるのではないか、ということです。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でも、必要悪としての戦争、という表現が出てきます。近隣諸国とのトラブルを解消するために最小限の戦争行為はやむをえない、しかし双方の被害を少なくするため極力最小限に留めなくてはならない、というのです。

 確かに為政者からすれば、この「必要悪としての戦争」という観点は、事前準備を必要とする、避けることのできない政策なのかもしれません。だからこそ「大戦争」にはならないように、外交面も含めてさらに周到な準備が必要なのでしょう。


 国家や民族や宗教という観念の相対化という観念でさえ、すべての人間と共有化できるとは限らず、観念の共有化ができない人間との共存においては、寛容な精神で包み込むことを目指す一方で、強制力の行使の可能性を保持しておくことも必要になる、というのが平和維持を目的とする為政者の立場でしょう。

 そう考えると『国家の品格』の著者の言う「武士道」の精神も正当ではないか、と思ってしまいますが、しかしやはり池田さんの言う通り、国家観念が相対的であるという考えは、すべての戦争が無意味であるという点において何の曇りもなく、その意味で「茶の心」(あるいは「禅の心」)の方が、あらゆる人間を平等に扱い、武器も拒否する点で優れています。

 そして国家観念が相対的であるという考えを理解することが、市民として「正しく生きる」あるいは「善く生きる」ことであることに間違いはないと言えましょう。