池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「善悪雑感」という題でした。警官が泥棒したとかのニュースに、最近池田さんは笑わなくなったそうです。
「やっていいこと悪いことのけじめを教え、取り締まる立場の人に、やっていいこと悪いことのけじめが、わからない。まさにこのことが、やっていいこと悪いことのけじめが、道徳や法律ではあり得ないことを示している。倫理意識とは、道徳や法律のことではない。倫理は外在的なものではないのである。
倫理すなわち善悪の問題は、本当に難しい。難しいのは、それが難しいゆえに何らか外在的なものに委ねてしまいたい、その誘惑に抗するのが難しいのである。
しかし判断の放棄とは、自由の放棄である。人生の自由を失いたくないのなら、人は、自ら内なる善悪を問い続けるしかないのである。」
池田さんはこの善悪の話を何度も繰り返し書いておられます。というか、池田さんの書かれるテーマの中でもっとも中心部分を占めているように思います。なお池田さんは、倫理を内在のもの、道徳を外在のもの、と使い方を分けておられます。
善悪というものの判断は、その判断基準を外在させる限り、自ら善悪の判断はしていないことになるわけですね。自らの内部にもつ善悪の判断基準を、倫理というわけです。
池田さんが今回例に出している「貧しく、食べ物もなく、子供を養わなければならない。やまれずに食べ物を盗んだ」という場合に、池田さんは「あらゆる場合に、泥棒は悪いことなのか、よくよく考えると、よくわからなくなる」と書いておられますが、場合によって泥棒が善いことにも悪いことにもなると考えられるのでしょうか。例えば、盗む人にとっては善いが、盗まれる人にとっては悪いとか、相対的な判断もありうるのでしょうか。
注意したいのは、池田さんは善悪を決して相対的なものと考えておられないことです。「善」や「悪」という言葉そのものが人々の間で通じるように、善悪の判断も、絶対的なものでなくては、そもそも善悪の判断が意味を成しません。
「悪いこと」は自分を悪くする、だから「悪いこと」をしたくない、というならば、泥棒をすることは、飽くまで他人のものを盗むという以上、素直に考えれば、悪いことと言わざるを得ない気がします。池田さんは、どこにも答えを書いておられませんので、自分で考えるしかありません。
「やっていいこと悪いことのけじめを教え、取り締まる立場の人に、やっていいこと悪いことのけじめが、わからない。まさにこのことが、やっていいこと悪いことのけじめが、道徳や法律ではあり得ないことを示している。倫理意識とは、道徳や法律のことではない。倫理は外在的なものではないのである。
倫理すなわち善悪の問題は、本当に難しい。難しいのは、それが難しいゆえに何らか外在的なものに委ねてしまいたい、その誘惑に抗するのが難しいのである。
しかし判断の放棄とは、自由の放棄である。人生の自由を失いたくないのなら、人は、自ら内なる善悪を問い続けるしかないのである。」
池田さんはこの善悪の話を何度も繰り返し書いておられます。というか、池田さんの書かれるテーマの中でもっとも中心部分を占めているように思います。なお池田さんは、倫理を内在のもの、道徳を外在のもの、と使い方を分けておられます。
善悪というものの判断は、その判断基準を外在させる限り、自ら善悪の判断はしていないことになるわけですね。自らの内部にもつ善悪の判断基準を、倫理というわけです。
池田さんが今回例に出している「貧しく、食べ物もなく、子供を養わなければならない。やまれずに食べ物を盗んだ」という場合に、池田さんは「あらゆる場合に、泥棒は悪いことなのか、よくよく考えると、よくわからなくなる」と書いておられますが、場合によって泥棒が善いことにも悪いことにもなると考えられるのでしょうか。例えば、盗む人にとっては善いが、盗まれる人にとっては悪いとか、相対的な判断もありうるのでしょうか。
注意したいのは、池田さんは善悪を決して相対的なものと考えておられないことです。「善」や「悪」という言葉そのものが人々の間で通じるように、善悪の判断も、絶対的なものでなくては、そもそも善悪の判断が意味を成しません。
「悪いこと」は自分を悪くする、だから「悪いこと」をしたくない、というならば、泥棒をすることは、飽くまで他人のものを盗むという以上、素直に考えれば、悪いことと言わざるを得ない気がします。池田さんは、どこにも答えを書いておられませんので、自分で考えるしかありません。
私も最近池田さんの本を読んでおります。でも、正直分からないことが多いです。池田さんは、哲学には才能がいるなんてこともどこかで書いていらしたので、やはり僕はちょっと畑違いかなとも思ってますが、なんか気になるからまた読んで考える、なんてことをしてます。でもやっぱり分からない。それで、ほかの人はどうなんだろうと思って、ネットで検索したらココに着きました。もしお分かりなるようでしたら、お答えいただけるとありがたいです。
『14歳の君へ』の「言葉」の節に
「意味は、自分ひとりのものではなく、他の誰にも共通するものでなければ、意味にはならない。それなら、最初に、或る言葉がその物の意味だと決めた時、その言葉の意味は、その物よりも前に皆に共通して「わかって」いたのでなければおかしい。言葉の意味は、物よりも前に存在していたのでなければおかしいじゃないか。」
との一節があります。
物よりも前に、意味がまず存在してるとは???
物としての犬より前に犬という言葉の意味がまず存在している???どうにもよく分かりません。
突然訪問して、ぶしつけな事をお尋ねして申し訳ございません。
池田さんにお尋ねすると「分かる人には分かる。分からない人には分からない。」と言われそうですが。
ここでは2つほど考えるポイントを申し上げましょう。
まずは、この世界は目に見える現実の物しかないのか。言い換えれば、物質というものと精神というものは別なのか、またどのような存在なのか。
例えば、自分というものは肉体という物質であるけれども、「考える」という精神をもっています。これは一体不可分にも思えますが、自分の腕を一本失ったとしても、「自分という精神」は減ったりしません。精神は脳にあるのでは?といっても、そもそも脳を切り開いても「精神」は取り出せません。つまり精神は物質とは明らかに別です。そして物質と精神とどちらが先に存在するのでしょうか。また「精神」は自分の中に留まらず、他人と考えを共有もできるということはどういうことか。
もうひとつは、池田さんの端的な表現の特徴に、倒置的表現があります。この倒置的表現をたどる事によって、考えて見てもいいと思います。
例えば、一般の人は「犬という動物がいるから犬という言葉があり、美しい物があるから美しいという言葉がある。」と考えているかも知れませんが、池田さんに言わせれば逆です。「犬という言葉があるから犬という動物が存在し、美しいという言葉があるから美しい物が存在する。」ということになります。
ただ最後に申し上げたいのは、何かも「わかりきる」なんていうことはあり得ないと思います。池田さんの本にもあちこちに「わからない」という言葉が出てきます。「自分にはわからない」ということをわかり、そして「考える」ということが大切なのです。
笑いというのも、正体不明ですね、なぜ、そんなものがあるのか、というとわかりません。
言葉それ自体というのも、正体不明、わかりません。
その言葉をあつかっている、自分とはなにか、これもわかりません。
なにもかも、まるっと、わかりません・・・。
でも、わからない・・・というこのこと、それはやっぱり、そこにあるんでしょうね。