池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「寒い!」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。
「たとえば時候の挨拶「寒さ厳しい折」、そういう言葉を書くことができるのは、ひとつの深い安心である。わかりきったことに、人は安心を覚える。
人生の一回性、喜びも悲しみも一回きりの経験である。そういう経験の総体としての人生が、一回きりで過ぎてゆき、二度と戻らない。だからこそ人は、過ぎてゆかないもの、あるいは過ぎても巡るものを見出して嬉しい。「今年も花が咲きましたね」と言える幸せ。
ゆえに季節とは、人生の句読点のようなものだろう。一回性における永遠性、永遠の循環性を見出す時、人は、自分が自分の人生を生きている奇跡をも知りえるはずである。ああ、私の人生はこのようでしかあり得なかった、と。永遠的偶然、偶然的現在。だから一期一会なのである。」
一期一会という言葉は、茶道でよく使われます。このような禅的言葉と、池田さんの言葉には親和性があります。
時候の挨拶一つに、人間存在の一回性・偶然性、翻って永遠性と循環性がこめられるというのは、何か無常観を思いながら、言葉の永遠性を思うことのように感じます。そういえば小林秀雄さんの「無常ということ」も、そんな感じの文章でしたね。
「たとえば時候の挨拶「寒さ厳しい折」、そういう言葉を書くことができるのは、ひとつの深い安心である。わかりきったことに、人は安心を覚える。
人生の一回性、喜びも悲しみも一回きりの経験である。そういう経験の総体としての人生が、一回きりで過ぎてゆき、二度と戻らない。だからこそ人は、過ぎてゆかないもの、あるいは過ぎても巡るものを見出して嬉しい。「今年も花が咲きましたね」と言える幸せ。
ゆえに季節とは、人生の句読点のようなものだろう。一回性における永遠性、永遠の循環性を見出す時、人は、自分が自分の人生を生きている奇跡をも知りえるはずである。ああ、私の人生はこのようでしかあり得なかった、と。永遠的偶然、偶然的現在。だから一期一会なのである。」
一期一会という言葉は、茶道でよく使われます。このような禅的言葉と、池田さんの言葉には親和性があります。
時候の挨拶一つに、人間存在の一回性・偶然性、翻って永遠性と循環性がこめられるというのは、何か無常観を思いながら、言葉の永遠性を思うことのように感じます。そういえば小林秀雄さんの「無常ということ」も、そんな感じの文章でしたね。