池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「見たいもの見えるもの」という題でした。冒頭からの話は要するに、わかる気がない、反論してやろう、という気構えの人と語り合うのは時間の無駄、とまず言っています。その後の文章でポイントとなるところを抜粋してみましょう。
「すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。自分に見える見方でしか、世界を見ることができない。賢くなろうと思うなら、それに気づいて自分の見方を相対化し、他の見方を学ぼうとする。自分にはわからないことを言う人の言うことをわかろうと努めるだろう。」
想像するに、池田さんのように有名になってしまうと、討論会等で質問と称して、池田さんの論理の綻びを何とかあぶり出そうと企む輩が出てきてもおかしくありません。でも大抵そういう場合の質問者は、自ら独特の用語定義や理屈をもって池田さんの論理破綻を導こうとするので、「前提が間違っている」ということになるのですが、それを指摘しても、質問者は頑固に自分の考えに固執します。池田さんにとっては、そんな輩と話すこと自体が時間の無駄、ということなのでしょう。
自分の見方でしか世界は見ることができないとはいいつつも、我々は他の見方を学ぶことはできます。「わかる」ことしか知らないで終わらず、「わからない」ことを探究する気持ちがあればいいわけですね。自分がまだ「わからない」ということが「わかる」のだから、「わからない」ことも考えることによって「わかる」のではないか、とよく池田さんが言っているのはそういうことですね。
「すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。自分に見える見方でしか、世界を見ることができない。賢くなろうと思うなら、それに気づいて自分の見方を相対化し、他の見方を学ぼうとする。自分にはわからないことを言う人の言うことをわかろうと努めるだろう。」
想像するに、池田さんのように有名になってしまうと、討論会等で質問と称して、池田さんの論理の綻びを何とかあぶり出そうと企む輩が出てきてもおかしくありません。でも大抵そういう場合の質問者は、自ら独特の用語定義や理屈をもって池田さんの論理破綻を導こうとするので、「前提が間違っている」ということになるのですが、それを指摘しても、質問者は頑固に自分の考えに固執します。池田さんにとっては、そんな輩と話すこと自体が時間の無駄、ということなのでしょう。
自分の見方でしか世界は見ることができないとはいいつつも、我々は他の見方を学ぶことはできます。「わかる」ことしか知らないで終わらず、「わからない」ことを探究する気持ちがあればいいわけですね。自分がまだ「わからない」ということが「わかる」のだから、「わからない」ことも考えることによって「わかる」のではないか、とよく池田さんが言っているのはそういうことですね。
「対自」「向自」の過程と捉えてよろしいでしょうか?
まず弁証法というのは、正-反-合のあれですね。自分と全く反対の相手が居て、ふたつが影響しあってより高次の段階に移行するというやつですよね。議論をしてお互いの意見を闘わせた結果、当初のお互いの意見とは異なる新しい合意事項が生まれるようなものでしょう。
次に対自とは何でしょうか。想像するに自分に対するものですから、要するに自分と反対の他者のことでしょうか。すると向自というのは自分に向かうということですから、他者が自分に影響するということを意味するのでしょうか。
そう考えると、コメントいただいた対自・向自の過程というのは、自分に反する他者がまず存在し、他者が自分に影響を与える過程ということになりますね。まさに自分の見方を相対化し、他人の見方をわかろうと考える過程と同じではないですか。
なあ~んだ、同じことを言い換えているだけなんだ、と言うわけですね。
私も哲学研究者になる予定は全くありませんので、専門用語は無視して、徒手空拳で突き進みたいと思います。