かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

おふくろをめくる

2013-03-11 11:00:36 | 家族あれやこれや

 昨年末、入院しているとき、黒瀬勝巳という人の

「文庫本としてのおふくろ」という詩を読んだ。

おなかにズシンとくるものがあった。


   おれはおふくろをめくり 

   おれはおふくろをくりかえし読む

   いまではおふくろは文庫本ぐらいに小さくなり

   おれの尻ポケットにも楽にはいる



 おふくろは、2005年2月に亡くなった。

  その9月、兄と妹と僕ら夫婦の4人で、おふくろの遺骨を宮地家の

墓に納めた。(その2年後、妹が59歳で寂しく亡くなった。)

 納骨のとき、わがおもいを墓前で読んだ。その時、じぶんの

気持ちを文章にした。

 それを、いま読み返している。

 そのとき、これはこれで治めようとしていた?

 じぶんのなかを見ないで、外のもので言い聞かせようととしていた

かもしれない。

 あれから、8年。「おふくろをめくる」

 

 

     オニオンスープ    

                            (2005年9月記)

 おふくろが亡くなったのは今年の2月だった。本人の生前の希望で

遺体を大学病院の献体に引き渡したこともあって、葬儀のようなことは

遺骨が病院から戻ってからにしようと兄妹で話合った。

 長年勤めてきた会社を定年で退職することになった兄の

もとへ、8月、おふくろの遺骨が戻ってきた。

 9月末に横浜の南郊外にある宮地家の墓に兄弟だけで納骨すること

にした。

 祖母のときあたりから葬儀のときにお寺さんの世話にはなって

いないらしい。戒名もわが親族のなかで、適当につけてきたらしい。

その戒名があの世で受け入れてもらえるかどうかわからない。

でも兄と話して、それでいこうとなった。

 ただ納骨の際には、二人で『般若心経』を読経しようと約束した。

兄が『心経』を座右の銘にしていると聞いたからである。それから

時間をみつけては『心経』を暗記した。『心経』の解説書も読んでみた。

〝色即是空 空即是色〟

 なんのことか、理屈は分かっても、身に迫ってこない。

 

 9月30日、妻といっしょに横浜にでかけた。

 墓の前で約束どおり二人で読経した。兄のお経はちゃんと節がついて

いて、ぼくは声を小さくして棒読みした。お経のあとで、気恥ずかしかった

けど、おふくろを<おくることば>をぼく一人で読んだ。

   

  <おふくろをおくることば>

 おふくろ、あなたの墓前で『般若心経』を詠むと決めて、ここ一ヶ月ほど

毎日繰り返し読んできた。

 そのうち、小さい頃からおふくろについてじぶんがずっとひっかかって

いたことがどんなことだったのか、薄ぼんやりだけど見えてきた感じがする。

 おやじの方は祖父母がおって、祖先の墓も尾道にあってと出生の系譜が

相当むかしまでたどれる。

 おふくろの方は両親がどこにいるかも分からない。聞くこともなかったが、

じぶんのなかではいわば闇だった。

 

 幼い頃の記憶で、なにか鮮明な二つ。

 一つ。鶴見駅前の豊岡商店街の四辻にある肉屋のところで、ひとりぼっち

になり泣いている記憶。まわりは人混みなのに宇宙の闇のなかでポツンと

ひとりになってしまった不安、焦り。

 二つ。ちょっと大きくなって親とけんかして「もう金輪際家に戻らない」と

きめて、隣の総持寺の境内に飛び出す。芝生に寝転んでじっと空や雲の

流れを見詰めていると、この宇宙のなかで、このじぶんが〝ここ〟にいる

ことの、ちっぽけなこととその不可思議さでいっぱいになった。

 そのうちあたりは暗くなり、お腹も空いてくる。家の裏からゴソゴソとみんなが

食べているところに帰るしかない。そのバツのわるかった記憶。

 

 成長するにしたがい、おふくろ、あなたのすること、なすことに

不機嫌な反応することが多かったし、長かったと思う。

 なぜ息子がそんな振る舞いをするのか、ほんとに不可解だったに

ちがいない。その当時のじぶんはそうしていることが切ないのに、

そうなってしまうのを御することができなかった。

  

 おふくろをようやく受け入れられるようになった頃には、現象面では

離れて暮らすようになっていた。それでもおふくろのことを考えるとき

には、おふくろの出生について闇のようなイメージがついてまわったし

じぶんの人生もそれにつらなっていて、いま、目の前のやるべきこと

山積みで、夢をいだいて奮闘している、そのすぐ隣、あるいは下には

そんな世界があるし、そこから対照されている感じがあった。

 それはじぶんの人生にとってよかったか、よくなかったかわからない。

 

 昨年の夏、特別養護老人ホームに小浪と二人で見舞いに行ったよね。

 病院からホームに戻ってきたときだった。持っていったゼリーを二つ

ペロリと食べてしまった。介護の人もびっくりされていた。

 そしてぼくら夫婦に、いつもの邪気のない、ゆだれをすすり込むよう

に目を細めながら「あんたたち、仲良くやってる?」となにげに問うて

くれた。ぼくらは、とっさのことでびっくりした。

 病院やホームへおふくろを訪ねたあとは、いつも「おふくろは生きる

ことに耐えている」と感じたし、そう感じるたびに切ないものがあった。

 

 それが『心経』を読み、その過程で次のような詩に出会った。

 今日の日を節にして、さらに考え続けていきたい。

 

  無明と仏性                菅野国夫

 

  無明の闇にとざされて 

  ああだ こうだとわめいている

  わめかず 無明の場所を見てごらん

  どこにもない 自分の中にあるでしょう

  その中をどこまでもどこまでも行ってごらん

  はかり知れない無明が次々にあらわれる

  どこまでいっても底がない 

  どうしようもなく もがくほかはない

  ここしか住むところがないのなら

  苦しめ苦しめ ああ苦しめ

  無明よ おまえが生きてくれ

  苦しみもなにもかも おまえにあげる 

  見よ おまえがおまえ自身をほろぼせないところに

  おまえの限界がある

  無明よ おまえはすべての無明の重たさをせおって  

  おまえ自身を苦しまなければならないところに

  おまえは助けを呼ぶ

  助けを呼ぶところに仏の入口がある

  無明の涙が すなわち仏の光である

  無明があるところに 仏があったのだ

 

  仏のことを〝慈悲〟あるいは〝愛〟ともいえるのではないか。

  おふくろ、あなたは〝愛〟につつまれて生ききったとぼくには

今感じられます。やすらかに。

  二〇〇五年九月三十日           次男 昌幸

 

 

 納骨式のあと、妻と二人、富士山に寄った。

 秋晴れで富士山の容姿がくっきりと浮かんでいた。地元の人も、

久しぶりに見えたと言っておられた。

 ひとつ肩の荷が下りた気持ちもあり、富士山を照らす秋の陽光が

おふくろの微笑みのように感じられた。

 富士山の五合目まで車で登ってみた。頂上を仰いだ。小学生のころ、

富士登山の好きな親父と夜を徹して二回ほど登ったことがある。

不思議と苦しかったという思い出はない。帰りは溶岩の砂を滑りおりた

のが、爽快だった。


 頂上まで続く登山道を遥かに目で追いながら、親父の面影も追憶

していたかもしれない。

 さすが五合目まで来ると、晴天とはいえ冷気は身にしみた。

下山したときは、二人ともすっかり身体が冷え込んでいた。

お腹も空いた。

 「富士グリル」というお店に入った。道路沿いの木立のなかにある

瀟洒なレストランだった。お客はぼくらが今日はじめてらしい。

ママさんらしき人が掃除をしておられた。

 席に着いてしばらく待っていたら、そのママさんが注文を取りに

きてくれた。小浪が「おすすめのメニューありますか?」とたずねたら、

「オニオンスープ」と即座に応じてくれた。

 早速、それとご飯ものを注文した。ほどなくオニオンスープが

運ばれてきた。一口飲む。温かい、そしてとろみがある。

 スープはのどから食道を通ってお腹におさまっていく。

こくがあって、温かいものがじわっとお腹のあたりにひろがっていく。

 ママさんに聞くと、このスープ、シェフつまりママさんの夫君が何日も

かけてコトコト火にかけてできた一品なんですよと説明してくれた。

 一品だけで、お腹のなかにとろけていって、それだけで満足させ

られてしまう料理というものがあるんだなあと思った。

 おふくろがすでにこの世にはいないという事実もなんとか

オニオンスープとともに腹におさまっていくかに感じたのだった。

                                    (完)

 

 

 あれから、8年。

 やはり、頭のほうで、なにかを治めようとしてきたかも・・・

 そんなに、簡単には片付かないもの・・・

 いくら、理屈のコトバを並べても、ぼくの底にはおふくろの

まなざしを感じる。

 

 ”おふくろをめくる” この譬喩はこころに響いた。

 もっと、読めるようになるのかなあ。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿