かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

皇室の記憶

2014-11-07 14:55:48 | わがうちなるつれづれの記

80歳になったことを”傘寿”(さんじゅ)というと知った。

美智子妃の誕生日を迎えての言葉が心に残った。

「争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を

積み重ねていくことが大切ではないかと」

 

皇室の記憶。

皇太子と美智子妃の結婚式のパレードを商店街の

外れにある床屋さんのテレビで見たと記憶している。

当時、小学校6年生だったか。一人で見ている。

明るい気分。皇室という何だか良くわからないものが

自分みたいな、縁もゆかりも、関係もないものまで、

テレビというものから、見ることができる。

美智子妃の美貌、そんなのが心に焼きついた。

 

成長するにしたがい、戦争と天皇制とか、敗戦後、

天皇の戦争責任とか、いろいろな知識が入ってきて、

天皇とか皇室というものについて、じぶんがどんな気持ちで

いるか、あんまり向きあってこなかったかな。

 

20年ほど前か、美智子妃が国際児童図書をすすめる大会で

基調演説をしたテレビが放映された。

どこで、どんな状態でそれを見たか覚えていないが、深い感動が

あった。

疎開中、父から送られた本が美智子妃に及ぼした影響について

語っている。

 読書と平和について、最後にこう結んだ。

 「子どもたちが、自分の中にしっかり根を持つために

  子どもたちが、喜びと想像の強い翼を持つために

  子どもたちが、痛みを伴う愛を知るために

  そして、子どもたちが、人生の複雑さに耐え、それぞれに

  与えられた人生を受け入れて生き、やがて私どもの

  全てのふるさと、この地球で平和の道具になっていくために」

 

”翼”について。

「この翼は、私が外に、内に橋をかけ、自分の世界を少しづつ

広げて育てていくときに大きな助けになりました」

外に、内に「橋をかける」、これはどんな世界に育っていくのだろう。

このとき、自分の中に、皇室への親しみが生じていた。

皇室なのか、その人格になのか・・・でも、そこから醸しだされる

ものに。

 

この10月中旬、ぼんやりテレビを見ていた。

天皇と美智子さまがテーマのテレビだった。

はじめは「いつもの、あの皇室の様子を伝えるものかな」と見ていた。

いまの天皇陛下の少年時代にアメリカから英語の家庭教師を

呼んで来た、という下りでグッと気持ちが集中した。

明仁親王、12歳。この家庭教師については、昭和天皇が周りに

相談せず、「この人に来てもらう」と決めたと聞いた。(へえー)

家庭教師の名はエリザベス・ヴァイニング夫人。30歳代。

アメリカ合衆国ペンシルバニア出身。

ヴァイニング夫人は学習院初等部で英語も教えた。

そのとき、ある考えがあって、生徒一人ひとりに英語名を

つけた。12歳の皇太子は自分が英語名で呼ばれることに

抵抗したと学友が回顧していた。

ヴァイニング夫人は皇太子が英語のクラスのなかでは、

タダの人であることを味わってほしかったらしい。

 

ヴァイニング夫人は、また皇太子が何かにつけ侍従の顔を

見ていることに気がついた。

その後、ことあるごとに、「Think for yourselves」と

皇太子に語りかけたらしい。

皇太子とヴァイニング夫人の交情は彼女の死のときまで、

続いた。

 

一つ、どうしても解せないことが、ヴァイニング夫人には

あったという。

昭和天皇が皇太子と一緒に住まないことだった。

ある時、葉山の御用邸で二人になったとき、昭和天皇に

そのことを聞いてみたという。

天皇のお答え。

「自分は、戦争を止められなかった。その自分が息子を

育てられると思っていないからです」

真偽のほどは分からない。言葉の表現も分からない。

昭和天皇の心中だって、どんなもんだったか。

でも、その人として、想像すると、人の心からの言葉として、

親しみとい温かさがぼくには湧いてくる。

昭和天皇、今上天皇、いまのぼくには今までにない

イメージが湧いてきている。


10月20日の誕生日を前にした文書コメントで、美智子皇后が

「来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ

下さい」という質問に、こう答えたという記事を最近見た。

 

「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の

言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。

まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは

少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう

筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う

立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと

思います」

 

記者が「A級戦犯」ということについてと聞いたということはないらしい。

今の平和がどんな過去の痛みや苦しみの中から、ようやく築かれて

きたのか、築かれているか、そういう実際についてはっきり見えて

いるところからの、美智子妃の心からの表現と受け取りたい。

 

 

「先決問題は、日本人自身の反省と努力によって、自身の頭脳・

技術・社会人としての教養・人格・肉体等、実質・外観共に歓迎

される優秀人になることで、これが国境を無くする近道です」

 

 


 



 

 

 

 

 

 

 

 


流氷

2014-11-06 09:17:36 | アズワンコミュニテイ暮らし

娘桃子が11月4日からサイエンズスクールの内観コースに入っている。

孫風友(ふゆ・中1)と晴空(はるく・小3)は、われら爺婆とパートナーの

雄一くんで見ることになる。

およそ1週間だけど、もうママの居ないのには慣れっこの様子。

晩ごはんは、ジジババのところ。

寝るのは、今回はなんとはなしに風友はジジババのところ、

晴空は雄一くんと自分のアパートでと分かれた。


風友は晩ごはんのあと、なにかゴソゴソしているが、そのうち

敷いてあるぼくらの布団にねっころがって、そのうち爆睡してしまう。

風友を真ん中にして、両側にぼくらが寝る。

何だか、心地いいんだよね。

夜中に毛布を剥いでいたら、かけてやったり。

でも、今朝はぼくがぐっすり寝込んでいた。

 

風友は朝6時前には起きているようだ。

居間で何か勉強している。

オシッコにいくので通りがかり、開いてある本やノートを覗こうと

すると、パタリと伏せて、両手で覆うってしまう。

この間はぼくもおなじ頃起きて、パソコンの部屋に居たら、

「ねえ、おじいちゃん、石炭って、なーに?」と聞いてきた。

 

今朝起きたら、居間のテーブルの上に紙片があった。

見たら、風友が書いたメモだった。

「流氷と私たちの暮らし」

綺麗な字で、丁寧に書いてある。

「流氷ができるまで

   海水が-1,7度になると

   氷晶と呼ばれる小さな結晶が発生

           ↓

   無数の氷晶はきらきらと輝きながら

   浮き上がり、連なりあって、薄い氷の膜となる

           ↓

   さざ波が消え、氷の膜は板状の

   氷へと成長していく

 

  こんな自然でできた流氷は地球や私たちにとって、

  いろいろな役割をしている。」

 

ついこの間、オホーツク海を望みながら知床半島を譲の

案内で小浪と巡ってきた。

譲は「ここに流氷ができるんだ」と激しく波が打ち寄せる

海岸を指差しながら説明してくれた。

「無数の氷晶がきらきらと輝きながら・・・」

風友のメモを見ながら、オホーツク海の波を思い浮かべていた。

 

風友が、なんで流氷を調べていたのか?

宿題なのか、彼女の好奇心なのか、いまのところ分からない。

 

 

<時間にゆとりがあるときに・・・>

 

流氷の役割

 

自然現象である流氷ですが、実はこれが起こることにより海流内に

非常によい影響が与えられます。

流氷は海水の温度が下がることにより表面が凍りつくという状態

ですが、海水のうち早く凍結をするのは塩分濃度の低い真水に

近い部分です。

イメージとしては、半分溶けた氷菓子を食べるとき先に溶けた部分だけ

吸ってしまうと味が濃くておいしいのだけれども、残った氷はほとんど味が

残っていないというのと同じです。

凍結はより真水に近い部分ほど長く起こるので、液体中の水以外の物質は

凍りづらかったり先に溶け出したりします。

魚介類への餌を提供

海水では、真水の中に塩分やミネラル分、プランクトンなどの小さな生物と

いった非常にたくさんの物質が混ざり合っています。

そこで流氷現象が起こると、水の部分が凍って海上表面に浮かんできて、

残った塩分やミネラル、プランクトン類は分離されて海の底に沈んでいくと

いうことが起こります。

すると、海流の深い部分には他の海域よりもかなり栄養分の豊富な海水が

できあがることになります。

この豊富な栄養分が海水内に棲む多くの生物にとって多くの餌を与えること

になり、魚介類の身を太らせ数を多くしていくことになります。

また流氷の底の部分には「アイス・アルジー」という植物プランクトンがよく

棲息しています。

アイス・アルジーは流氷を通して届く日光で光合成をしながら成長していく

植物で、流氷下にいる小魚たちにとっても貴重な餌となっています。

小魚が多く集まることでより大きな魚もたくさん集まってくることになります。

そのため流氷の起こる地域では海産物に大変恵まれ、たくさんのおいしい

魚を網にかけることができるようになるのです。

大気への影響

またより大きな規模で流氷という現象を見ていくと、海流の流れが大気に

影響をおよぼし、それが地球の気候環境を整えるという役割をしていく

ことにも気が付きます。

流氷が起こるときには、海表面が冷え込み凍りついたところで海面下に

ある温かい水が入れ替わるように浮かび上がってきて、その繰り返しに

より厚みのある氷になっていきます。

流氷が起こるということはこの海水の循環が常に起こっているという

ことになるため、これが海流の大きな流れを生み出し、大気の循環をも

促していきます。

海流や大気の循環が起こることで気候の変化を呼び起こすので、

それが大きな目でみたときの自然環境をよい方向にもっていくことに

なります。

流氷だけは小さな現象ですが、実際には地球の自然という大きな流れの

重要な一部分を担っているのです。





沖縄知事選

2014-11-05 17:24:45 | わがうちなるつれづれの記

10月はじめ、ぼくら夫婦は沖縄本島に行ってきた。

7日間那覇に滞在した。

ちょうど台風18号が沖縄をかすめる時と19号が上陸する

間の割合穏やかな日々だった。


その間で沖縄本島の真ん中辺にある辺野古に行ってきた。

宜野湾市にある普天間基地の移設先であり、新基地工事が

着々と進みはじめている現場だった。

新基地建設はしないでほしいという住民が建設現場のある

キャンプシュアブ米軍基地の資材搬入門の脇にテントを張り、

そこに泊り込んで、「新基地は要らない」という意志を表し

続けている。

実際の表現では「反対」とか「絶対作らせない」と言っているが、

一人ひとりの発する人としてのコトバの中身は、心底からの

他者への語りかけだと実際のそこに立って感じた。

 

沖縄那覇に暮らすE子さんがその日一日、辺野古を案内してくれた。

建設予定地を見渡せる海岸に住民の監視小屋・拠り所・支援者受付所が

ある。

そこから建設予定地の海上に行き、漁船やカヌーで建設してほしくないと

いう意思表示をしている。

ずっと反対の意思表示し続けている、そこで暮らす人たち何人かと

話す機会があった。

「普天間基地の負担軽減を移転の理由にしているが、半永久的な米軍

基地を日本の金で作ろうとしている。沖縄に戦後はじめて、新基地を

建設するということになる。その設計図はすでに描かれている」

そんな話を聞いた。切実なものが響いてくる。


沖縄に来て、実感したことのいくつか。

一つ。沖縄の人たちにとって、米軍といつも鼻付き合わせて暮らして

いること。何かあったときは、沖縄の人たちは日本の法規で守って

もらえない、誰かによって、つまり米軍によって支配されている、

という潜在的な不安定状態のなかにいる、ということ。

もう一つ。沖縄の地面を掘ると、すぐ戦争の残骸が出てくるということ。

本土と沖縄の戦争体験の決定的な違いは、本土は空襲体験だけだが、

沖縄の場合、地上戦で街や自然、すべてのものが焼き尽くされ、

破壊尽くされたことだ。まだ、戦争が足下にあるということ。

戦争の痕跡は表層では消えているように見えるが、皮一枚、

その下には戦争が記憶が息づいている。

 

沖縄知事選が10月30日に公示され、選挙運動がはじまった。

11月16日が投票日。

何日か前のFBで、俳優の菅原文太さんが、翁長雄志候補の応援演説

を沖縄の人たち1万人の前でしているのを知った。

彼は、ウチナンチューではないのでは。

彼は語った。

「プロでない私が言うんだから、あてになるのかならないのかは

分かりませんけど、政治の役割はふたつあります。

ひとつは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。

(拍手)

 もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!

(大きな拍手)

私が小学校の頃、戦国(軍国)少年でした。小学校、なんでゲートルを

巻いて、戦闘帽を被って、竹槍持たされたのか、今振り返ると、本当に

笑止千万です。もう二度と、ああいう経験は子どもたちに、子どもたちだけ

じゃない、大学生も雨のなかを、大勢の将来大事な大学生が戦地へ運ばれて、

半数が帰ってこなかった。
 
今の政府と、本土の政府ですよ、仲井眞知事は、まさに戦争が起きること、

戦争をすることを前提に、沖縄を考えていた。

前知事は、今、最も危険な政権と手を結んだ。(拍手)

沖縄の人々を裏切り、公約を反故にして、辺野古を売り渡した。

(そうだ!の声と拍手)
 
(中略)
 
沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家の

ものではありません。(大きな拍手)

そこに住んでいる人たちのものです。(拍手)

辺野古もしかり!

勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ。(大きな拍手)
 
まあそうは言っても、アメリカにも、良心厚い人々はいます。

中国にもいる。韓国にもいる。(拍手)その良心ある人々は、

国が違え、同じ人間だ。(拍手)
 
みな、手を結び合おうよ。(拍手)」



このメッセージに感じるものがあった。

「アメリカにも、中国にも、韓国にも、国は違え、同じ人間だ。

みな、手を結び合おうよ」

戦争体験としっかり向き合っている人の言葉・・・


 
辺野古新基地建設予定地に出かけた翌日、沖縄県庁を囲んで、
 
「辺野古に新基地は作らせない」という住民の気持ちを伝えよう
 
という行動が12時から13時まであると聞いた。
 
沖縄滞在先の那覇の仲本玲子さんのレストランに帰宅すると
 
そこに「明日は県庁を囲むぞ」と意気込んでいるウチナンチュウ
 
のおばさんがいた。玲子さんの友人T子さん。
 
「ぼくらも、明日行くつもりです」
 
ぼくなりに、盛り上がっている。
 
 
 
10月9日、モノレールで沖縄県庁に向かう。
 
車内でふと横を見ると、T子さんが椅子に座って、何かを見ている。
 
「T子さん!」と声かけた。
 
「昨日もらったアズワンコミュニテイのマップ見てたのよ。
 
いいわね。面白い」とT子さん。
 
県庁前駅についたら、T子さん、脇目もふらぬ勢いで県庁を
 
囲んでいる人々の群れのなかに入っていった。
 
ぼくは、妻ともT子さんともはぐれてしまって、一人宣伝カーから
 
流れてくる、それぞれの団体の人の挨拶を聞いていた。
 
宣伝カーのスピーカーから流れるコトバに合わせて、みんなで
 
復唱するのだ。
 
ああ、学生時代を思い出す。
 
そのうち、「あれ、このシップレヒコール、何か違う。ぼくらの時と全然
 
違う?」と思った。
 
「仲井真さーん、辺野古に基地を作るな」
 
「作るんだったら、知事をやめろ」
 
「安部さーん、沖縄に新基地をつくるのをやめろ」
 
「作るんだったら、総理をやめろ」
 
「仲井真」「安部」と呼び捨てにしていない。
 
これは、どんな感じなんだろう。
 
たしかにコトバは激しい。対抗的に聞こえざるをえない。
 
民意に耳をふさぐ、もしくは力まかせに進めようとしている
 
相手には、対抗という表れとうけとられようと、その気持ちや
 
意志を表明するほかないのかもしれない。
 
でも、何か最後のところで、「さん」づけして、何かに止まっている
 
尊厳のようなもの感じた。
 
 
 
三上智恵さんが取り続けている「沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記

というビデオを見た。
 
「新基地は要らない」という漁船の人と、海上保安庁の人たちが
 
珊瑚礁の美しい海でぶつかり合う。
 
圧倒的多数の海上保安庁の人たちが新基地現場に遠く入らせ
 
ない。
 
「手を出しちゃいけない」
 
必死の意思を、そういう現場で抑制している住民の人たち。
 
つらいんじゃないかと、ビデオを見ていてつくづく思う。
 
どんなにつらくても、この意思表示は止まないと思う。
 
もしかしたら、こういう抑制のなかに、いま日本政府が
 
やろうとしている拙劣な行いを元から見直す、基盤が少し
 
づつでも、積み重ねられているかもしれない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北の孫たち

2014-11-04 12:18:49 | 家族あれやこれや

北海道美幌に次男譲を訪ねた。

27日から今日まで町営のグリーンヴィレッジに滞在した。

30日夜、孫4人お泊りにきた。

枕投げなど、それは賑やかだった。

それぞれ、成長に応じて、子供らしく育ているな。

彼等のなかにお父さんやお母さんがいるな。

長女は、東京で母方の祖母の下で暮らしている。

 

長女  朱音 (あかね)  中2

長男  颯杜 (はやと)   小6

次男  翔己 (しょうき)   小5

三男  峻基 (としき)    小3

四男  魁斗 (かいと)    6歳


音の記憶

2014-11-04 10:34:19 | わがうちなるつれづれの記

微熱と咳が止まらない。

きのう、午前中は部屋で休養。

NHKBSアーカイブスにたまたま出っくわした。

 

佐々木昭一郎監督の「四季 ユートピアノ」

1980年のテレビ作品だという。

監督の名前も作品の名前もまったく知らなかった。

何かに惹かれて、最後まで観てしまった。

ピアノの響き、そのことを倍音とかいうのかな、その音が

いつまでも、ぼくの心のへんに響いていて、消えない感じ。

 

風のなかに、虹のなかに、四季のなかに音を感じながら。

遠い記憶のなかの音は、居心地の悪い音も。

主人公榮子(えいこ)のなかの音は、母や父との死別、

兄との別れ、祖父母との暮らしと旅立ち、仲間とのピアノ

作り、解散、友との出会いと別れ、時に深い記憶からの

問いかけ。

映像は、現われては消え、ぼくはその残像に一人残される。

気がついて、あわてて、またその音の世界へ戻ろうとして

いる。そのうち、その響きがぼくの心の中で共鳴していた・・

 

プロローグのナレーション。

1歳  母のミシンの音を聞いた。

2歳  父の靴音を聞いた。

3歳  古いレコードを聞いた。

4歳  兄とピアノを見た。

     大きなピアノだった。

     触るとダイヤのような音がお腹いっぱいに響いた。

 

1歳のとき、じぶんがどんな音を聞いていたのか、考えたこと

なかった。記憶がないだけで、実際はいろんな音を聞いていた。

聞き耳をたて、もしかしたら、ワクワクしたり、おどろいたり、

何だろうかと思っていたかもしれない。わが家には、ミシンは

なかったけど。

2歳のときだって、そんな記憶はない。ここでは、父の靴音を

聞いたとあって、この靴音は父の戦争体験の音であることが

暗示されている。

「父は爆音識別レコードにおびえている」

兄はそのレコードを雪のなかで金槌で叩き壊した。

3歳、兄とピアノの記憶は鮮烈だったのだろう。

「ダイヤのような音」って、どんな音のイメージが、そのとき

湧いてきたのだろう。

 

観終わったぼくは、じぶんのなかに響いているはずの音が

どうなっているか、考え始めている。

小学生5,6年のころ、音楽の授業では「ドレミファ」がよく

歌えなかったか、じぶんで勝手に「オレはには無理」としたのか、

みんなで声を和すところで、変な声をだし、注意されてもやるもん

だから、先生、女先生だったけど、「もう教室にいなくてもいい」と

言われて、校庭の隅で寂しい思いをしていた。

 

考えてみると、ぼくの暮らしのなかには音というか、音楽?

メロデイ?リズム?みたいなものあるかな。

過去何回か、音楽を聴くということをしてきたけど、あまり

身についたとは、とうていいえない。

たまたま聞いていいなあ、と感じることはたくさんあるけど、

この曲を聴きたいとか、カラオケなどで歌いたいというものは

ない。

カラオケでは、かつかつ「男はつらいよ」は歌っても、人は

どう思うかわからないが、歌った後は、悪い感じじゃない。

 

ちょっと、別のところから考えてみて・・・

リズムやメロデイーを感受するというのでは、どうなんだろう?

 

子どもの頃はラジオを聞いていた。

ただ聞いていた、というより、気持ちやイメージを膨らませながら

聞いていた。

何の番組か覚えていないが、「不知火海」を舞台にしたラジオトラマの

音楽が、真っ黒い海に浪が荒れている、じぶんはそこに立たされている

見たいに怖かった。

「李承晩ライン」で漁船が拿捕されるというニュースも怖かった。

アナウンサーの声で「リショーバンライン」とか「ダホ」というコトバが

聞こえてくると、じぶんが捕まえられてどこかに連れて行かれるのでは

ないかという恐怖感が湧いた。

 

わが家ではそのころ、「ヤンボーニンボートンボー」という

コマーシャルソングが流行っていた。

3人兄弟で、兄は伸一、ぼくは昌幸、妹は文子。

その3人をもじって、「伸ちゃん、まんちゃん、ふんちゃん」という

歌で子どもらはふざけ合っていた。

おふくろは、その影響か、一人の名前をいうのに、1,2回は

言い直していた。そんなリズムもあった。

 

小学生3,4年生のころ、落語をラジオでよく聞いていた。

それは熱心に聞き、楽しんでいた。一人でも笑っていた。

そういう語り口はじぶんのなかに滲みているのかもしれない。

小学唱歌や演歌も、意識の底にしっかりと滲みこんでいる感じが

する。

ときどき、演歌のメロデイに触れたりすると、思わずジーンと

きたり、涙が込み上げてくる、前触れのような現象がおこる。

 

ああ、いろんな音を感受するセンサーというか、そいういう

世界というものがぼくのなかにあるんだろうな。

そんなの、自分一人でつくったもんじゃないし、時代のせいだけ

にもできないだろう。

時代の影響は受けながらも、人自体に具わっている感受する心、

これはどうも暗いほうとか、好まぬほうえは行きたがっていない。

明るいほうへ、人と共鳴できるほうへ、そんな感じがする。

できうれば、周囲の環境がそういう感受する心をあるがままに

育んでくれるように・・・

 

ちょっと、面倒になり、飛んでしまった。