かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

動画「養老先生とまる」

2018-05-30 10:01:28 | アズワンネットワークのある暮らし

雨が降っている。

梅雨入りになってもおかしくない。

しっとりした気持ち。

 

一昨日、ちらっと「養老先生とまる 鎌倉に暮らす」という

テレビを観た。インターネットで検索したら、50分以上の動画が

でてきた。

 

まるは猫である。14歳とか。

猫にとりわけ、入れ込んでいるわけではない。

たくさんの猫ものがたりにも触れてきた。

今回は何か琴線に触れた。

 

時間にゆとりがあれば、ごらんください。

本来のいきものの姿、人とのかかわり方、幸せとはどんなことか、

人生の目的は、宇宙のなかのほんの一部。

静寂のなかで、日がな食べては寝てあそんでいるまる。

警戒心がまったくない。養老先生との暮らし。

時間というものにも、根っから不思議さが湧いた。

どこから、はじめるのだろう。

 

http://www.dailymotion.com/video/x6ilmgt


初夏の風卵温めしツバクラメ

2018-05-24 16:16:14 | アズワンネットワークのある暮らし

 

昨日のお昼前、ご近所散歩のとき 空を飛びかうツバメを見つけた。

チュルチュル(?)短く鳴いて、電線や屋根に止まっては、身体を

流線型にして、一直線に飛んでいる。あちこち留まるので、どこに

いるか分からない。どうも、何羽も飛行している。

 

わが家に戻ったら、玄関の巣の近くに2羽のツバメが低く飛び交って

いて、どうも巣に戻ろうとしているらしい。

どうなるか、ちょっと離れたところから、見上げていた。

ときどき、1羽がクーリンタワーの天辺に留まって、当たりの

気配をうかがっているようにみえた。

 

 

そのうち、もう1羽も巣に飛んできて、ちょっと交差したように

見えた。

 

次の瞬間、1羽が巣のなかにヒョイと入って、首だけ巣の外に

あげて、キョロキョロ、首を動かしていた。

 

昼間、ずっと留守居だと見ていたけど、ぼくらが気づかないうちに

卵産んで、抱卵をはじめているのかも。

抱卵が気がつかないうちに

 

 

 

 

巣の中を見ようとしたが、天井と巣の間が狭く、覗けない。

巣に近づくと、2羽羽ばたきして、飛んで出て行った。

息子がスマホで、巣の中を撮影したら6個が産んであった。

「いつのまに?」

 

 

巣を覗いたり、玄関を出入りするたびツバメは巣を離れる。

これは、昼間だけかも。夜はしっかり、卵を抱いているようだ。

ツバメにとって、人間が何をするか分からない、危険の生きもの

と感覚しているかも。

それでも、なお、人が住む近くに営巣し、産卵している。

この空には、ツバメを襲う外敵がいる。

その恐ろしさに比べたら、人間のほうが、怖いけど、よっぽど

ましだと、なっているのか。

「そう思って」そうしているとは、思えない。

長い年月、歳月を経て、引き継がれてきた習性なのかもしれない。

人と人の間は、本来どんなものなのだろう。


死は一人だけのものでない

2018-05-23 16:21:20 | アズワンネットワークのある暮らし

どんよりした一日。小雨が降っている。

毎週水曜日の午後は「じじいの会」なるものを、ぼくのところで

やっている。

寄っているのは、鈴木英二、高崎広、中井正信。

それぞれの話題を出し合っている。

 

今日は、中井さん一人だった。

中井さんは、鈴鹿に住む人たちが、気軽に立ち寄って、ちょっとした

身体の健康上の心配や、そのほか近所同士でも話ができる「暮らしの

保健室」が実際に出来上がって行くことをめざしている。

鈴鹿や亀山、四日市など、地域の人たちが隔てなく話し合える場を

作りたいという人たちと話し合いを続けている。

街のお医者さんや、地域の在宅医療や介護、看取りの専門の方にも

会いにいっている。

 

中井さんのこんな暮らしの発端は、病や死について、もっとオープンに

語り合える場がほしね、ということだった。

ぼくも、何年かいっしょに動いたけれど、僕自身が重度の心不全状態

になり、療養暮らしになっている。

 

今日は、31歳の若き医師にあって、話してきたと報告してくれた。

「在宅医療、看取りと言っても、最後は本人の納得と覚悟だろう」

若き医師は語ったという。

 

ぼくが、「もう手の打ちようがなくなったときは、延命治療は

しないでほしい」と考えていると呟いた。

 

中井さんは、死がまぬがれないものとなっているとき、「納得」

とは、親近の人たちの話しや気持ちを受けとることであり、「覚悟」

とは、たとえ死の間際になっても、「死んで欲しくない」と願う周囲

の人と最後まで生きるということもある、と思ったという。

実際、中井さんの母が亡くなるときがそうだった。

死は本人一人だけのものではないと思うんだ、熱を込めて話して

くれた。

聞きながら、ほんとにそうかもしれないなあ、と思っていた。

そして、最後に、「実際そのときになってみないと、分からない

よね」とぼくは言った。

「それは、そうかもしれない」と中井さんも相槌打った。

 

別れたあと、心に浮かんで来ることと、しばらく付き合った。

「なんで、こんなにまでして、生きようとしているのだろうか?」

 

たまたま夏目漱石の「硝子戸の中」という随筆を読みはじめた

ところだった。

毎日、部屋の中にいると周囲の風物もきわめて単調に見えてくる。

人の出入りがあると、興味のあることが起こる。

 

ある日、話しを聞いてほしいう女の人が来て、げんざいの心情を

打ち明け、小説にしてもいいと話していた。

何回目かの訪問のとき、「その女の人は生かすように書きますか、

死んでしまうように書きますか」という問いを漱石に投げかける。

美しい恋が破綻して、生死の間を彷徨っているふうだった。

 

この文章のなかで、漱石は述懐している。

  --「死は生よりも尊とい」

    こういう言葉が近ごろでは絶えず私の胸を往来するように

    なった。

    然し現在の私は今まのあたりに生きている。

    (このあと、じぶんがここにあるのは、先祖からのつながり

     の結果であると)

    だから私が他の人に与える助言はどうしても此の生の許す

    範囲内に於いてしなければ済まないように思う。

    何(ど)いう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は

    人類の一人として他の人類の一人として向かはなければならない

    と思う。

    既に生の中に活動する自分を認め、又其の生の中に呼吸する

    他人を認める以上は、互いの根本義が如何に苦しくても如何に

    醜くても此の生の上に置かれたものと解釈するのが当たり前で

    あるから。

 

    死を望んでいるかのような女性と向き合いながら、この章に

    最後でこう書いている。

     --斯くて常に生よりも死を尊いとして信じている私の希望と

       助言は、遂に此の不愉快に充ちた生というものを超越する

       ことができなかった。

       しかも、私にはそれが実行上に於ける自分を、凡庸な

       自然主義者として証拠立てたように見えてならなかった。

       私は今でも半信半疑の眼で凝と自分の心を眺めている。

 

 

漱石の文学上のことは分からないけど、「死と生」に向き合う態度に

心に残るものがあった。

中井さんの話しともつながって。

死について、いくら考えてみても分かるものではない。

生きているとはどういうことか、その実際と向き合うことかと思った。

いろいろでてくる想念や妄想はあるにしても。

生が終わるまで、半信半疑で向き合うほかないかな。

 

 


パトリックさんの感慨

2018-05-20 17:53:29 | アズワンネットワークのある暮らし

5/19、晴れている。

外に出てみると南方からの風が強く冷たい。

妻の運転で帰宅するとき、空に視線がいく。

空には雲がない。

ふと、はるか鈴鹿の山並みを見ると、鈴鹿の山の連なりの上に

雲が集まり、雲を独り占めしているように見えた。

南からの青嵐が鈴鹿の峰に吹き寄よせたのかしら。

 

夕方、息切れ目まいがきつく、横になっていた。

玄関からチャイムがなる。妻はいない。

ふらつきながら、玄関にいくと、懐かしい大男が立っていた。

「おお、パトリックさん」居間に案内した。

 

今日のお昼、サイエンズスクールの「自分を知るためのコース」

(1週間)を終えて、寄宿先へ戻った。帰国は明日朝9時。

いろいろあるなか、顔を出してくれた。

「リスベットさん、覚えてる?」と、先ず聞かれる。

「覚えているよ。体調をこわしていると聞いていたけど、元気かな?」

「彼女と電話で話したとき、宮地さんによろしく、言われていてね」

よく覚えている。頭の切れる、コトバよりもその中身を感じ取れる

人だった。

ヤマギシ時代のことが、すこし話題になった。

「リッターさん、どうしてるかな?ヤマギシ離れてから、いちども

あっていない」とぼく。

「リッターさん、ときどきスイスに帰ってきたとき、ぼくの家に

寄ってくれてるよ」

「そう、こんど出会ったら、宮地が話したいといっていたと伝えて

ほしいな」

 

 

パトリックさん、「自分を知るためのコース」は3回目だという。

1回目は衝撃があった。2回目は、良く覚えていない。

今回は、「人間の考えである」ことを知る、ということが、

心に残ったという。

実例でも、みんなのなかで、検討したみたい。

以前、友人から展示会の手伝いを頼まれて、やっていたけど

途中から、嫌になった。最近も、また頼まれて、嫌だという

気持ち湧いてきて、どんなことかと観察してみたという。

途中、参加者の一人が「やってもいいし、やらなくてもいい状態

というのがあるんじゃないかな」と一言、ポツリと言った。

「これは、ハッとした。面白かった。いままで、やるか、やらないか

と言う世界で考えていたけど、どうも焦点はそこにないらしい」

(これは、パトリックさんが表現した言葉そのものでないけど、

そんなに聞こえた)

このコトバがどんなことか、焦点が当たっていそうだった。

 

パトリックさん、「後半でアズワンコミュニテイの話題になり、

むかしのトラウマが出てきた」

「ううん?それって、アズワンネットワークの話じゃなかった?」

とぼく。

「ああ、そうだね。そっちの話しだね。どうも、そういう話題に

なると、出来る人、出来ない人と、区別されるような気持ちがでて

来てね」

パトリックさんは、そのときの気持ちをありのままに話してくれた。

そこに、固いものは感じなっかった。

自分の中からでてきたものを静かに観察しているようだった。

すこし、恥じらいながら・・・

「今回のコースに参加し、もっと他のコースにも参加したくなった。

そうだなあ、11月を目標に」

 

スイスでのこれからについても、情勢ができれば協力したいとも

話していた。

自分の今回のコースに参加した感慨を親しい人とも、会ってはなしたい

といっていた。

 

五月の嵐は、空を広々としてくれた。

   雲抱き鈴鹿の峰や青嵐

 

楽しみだなあ。生きていたい。

 

 

 

 


争いの原因を探る

2018-05-18 16:46:03 | アズワンネットワークのある暮らし

「争いのない、幸せな社会」の実現は、そんなこと絵に描いた餅だと

あきらめている人が多いのではないか。

「もともと、人間は争う性質をもって、生まれてきた」と考える

人もいるかもしれない。

ほんとうにそうだろうか?

なぜ、人と人の間で、国と国の間で、争いが起こるのだろうか?

これまで、争いの原因について、ある程度までは研究してきたが、

「争いはよくないからやめよう」とは言うけど、その原因について

徹底究明してきたかどうか。

最近、いろいろな研究機会でその端緒のようなものが明らかに

なってきているように思う。

 

 

争いの原因

「人が人を動かそうとする」

 「やらせる、やらせない」「強制と束縛」

人は、誰でも、じぶんの意志に反して行動することを好まない。

動物の性質と同じ。

争いになるのは、争いたくないが、相手が押し込んできたら、

自分の立場がなくなるので、やむなく自分を主張し、護ろうと

する。

国と国の争い、民族と民族、宗教の争い、目に映る世界は、

じぶんの身を護るために、ほとんど動いているように見える。

そこから争いが起こる。

身近では、夫婦、周囲の人の間柄、それも、言動に現れてこない

ことでも、内面世界では「人は何をするか分からない、危険な

存在という、人を危険視する」認識、人間にたいする捉えかたが、

なんの疑問も起こらず、当たり前化している。

そうなると、人が人に対して身構える。

争いの端緒になる。


ここのところ、そういう人と人の間がらについて、焦点をあてて

自他を見てきたけど、日常のささいな心の動きにもはびこっていると

思った。

社会のなかに、自分のなかに。



「人が人を危険視するのは異常だ」


これは、本来の人と人の間、一人で生きているわけでなく、

お互いの切っても切れないつながりにあることを知ったら、

わけなく、争いの原因が解決するとおもった。


ただし、目の前の現れは、

    「やらせる、やらせない」

    「大事なことだからやらなければならない」

    「しつけは必要ようだ」・・・など、相手を縛り、自分も

内面で自分の意志を抑えるような、ふつうでない認識が人びとの間で

根付いていて、それに気づくのは容易でない。

静かに自分の中がそいう観点からどうなっているのかと見ていくと、

「食べなくちゃ」『寝なくっちゃ」『約束は守らなくっっちゃ」

「薬はのまなくっちゃ」・・・

「人間が自分の身を守る行動をとる」ことが、「やらなくては

ならない」という自分の意志以外のもので動こうとする現われ

てくる。

それだけでなく、人にもそれを強いる。

これが、どんなことなのか、一人考えていてもなかなか見えてこない

だろう。


ここを解いていくのがサイエンズであり、サイエンズメソッドであり、

一人ではなく、有志の人とともに観察し合うことが欠かせないだろう

なあと思った。


以前にどんなことだろうかと宿題だった、「他を侵すことの浅ましさ

愚かさを気づこと」それが解けそうに思った。

いまの現状はあまりにも「他を侵す」なんて、これっぽちも

思っていないのに、内面的に観察していくと、「あれ、こんなこと

していたのかと、驚かされる。

動物はもちろん、人間も幼少期は「やらなければならい」という

認識・観念はないことは、おそらく誰で分かるだろう。

 

 

争いなんてしたくない。

これも、誰しもの本心ではないか。

争うことはしたくなくても、相手が侵してくるので、立場が

なくなるので、争いになっていく。

戦争のようなことでなくとも、人と人の間柄でも、内面の

状態は、静かに観察してみると、争いの種が根付いているようだ。

でも、これは、後からいろいろな環境のもとで、できたもので、

誰がおかしいとか、言うものではないよう思う。

後で、ついたものなら、正常な状態に戻せるはず。

 

一人で気づくというより、気づきあうということかな。

そのために、自分の中にある、社会のなかにある争いの

種に気づきあっていくのはすぐに争いがなくならないかも

しれないが、その間に正常な状態の観察もできて、争う

ことの愚かさが身に滲みてくるように思う。

 

 

本来の人間というのはどんなもか。

この究明に争いを無くす明かりがあるのではないか。

(まだまだ、これからだとおもっているんだけど)