かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

カントリー

2017-08-27 18:30:58 | わがうちなるつれづれの記

思いがけず神戸の本多雅子さんからCDが届きました。

「お気にいるかどうか ブルーグラスCDプレゼントとありました。

裏を見たら、「COUNTRY SONGS    稲葉和裕 宮前ゆき」とあり

曲名が並んでいました。

さっそくパソコンで聞いてみました。

高音のヴァイオリンの独特の音律で、英語の歌詞で歌っていました。

はじめ戸惑いました。

しばらくして、どこかでそんな調子のメロデイーを聴いたことあるぞ、と

思いました。

曲名のところをみると、「Old Black Joe」「Tenessee Waltz」かいて

「My Kentacky Waltz」とか、書いてありました。

アメリカ民謡、フォースターの曲じゃないか。

小学生の音楽の授業で、あまりまじめでなかったけど、「峠のわが家」

「埴生の宿」「アニーローリ」「おおスザンナ」などのメロデイが

今でも口をついて出てきます。

情緒は演歌で染められているとは思ってきましたが、フォースターの

アメリカ民謡がずいぶん記憶の底に焼きついていると思いました。

 

20年前、詩人長田弘さんの「アメリカの心の歌」(岩波新書)を読んだ

ことがあります。

アメリカの歌手や地名や曲名がいっぱい書いてあるのがピンと来なくて

上っ面を飛ばし読みをしていました。

本棚から探して、再読してみました。長田弘さんが、何を伝えようとして

いたか、すこし感じられました。

 

ーーアメリカというのは、ただ大文字の国家の名とは違う。「私のアメリカ」

  「私の生き方」というときのアメリカは、小文字の国の名であり、

  「私のアメリカ」というのは、それぞれの「私の生き方」としての

   アメリカということだ。

 

かつて、学校とかでは、アメリカは合衆国だと習ってきました。

長田さんがアメリカで出会ったのは、一人ひとりの歌を通しての心の世界

だったようです。

1960年代から80年代のカントリソングから関連しあって、ジャズとか

ブルースとかブルーグラスなどかアパラチア山脈とミッシシッピー河の

間の地域で人びとの心を掴み、それがアメリカ中の人から人に歌い

継がれていったらしいです。

 

たくさんの歌手の人生が綴られていました。

俄かに読んで、ネットの動画でその人たちが歌う歌をを聴ききました。

英語だし、意味も分かりません。

この歳になって、それらに耳を傾けている自分は何がしたいのか、と

そんな自問もありました。

 

こんな一節に関心を持って、読み進めました。

ーーカントリー(coutry)というのは、懐の深い言葉だ。カントリーは

  土地であり、地方であり、地域であり、領土であり、国土であり、

  故国であり、その人びとをいう言葉である。

  そして、カントリーは田園であり、田舎であり、さらに家郷であり、

  在所であり、故郷だ。

 

ーーカントリーは、聴けばそれがカントリーとわかる。際立って特徴的な

  メロデイをもち、リズムをもち、うたい方も独特なら、奏法も独特だ。

  なくてはならないのは、ギター、それにしばしばフィドル(ヴァイオリン

  とはいわない)

  だが、何といっても肝心なのは、あくまでも一人一人の歌い手だ。

  歌い手自身の個性だ。声だ。

 

大学せいのころ、1968年ごろだったか、銀座の小さな映画館で

「俺たちに明日はない」と「イージーライダー」を見たことがあります。

ベトナム戦争で、アメリカは疲弊し。若者はその気持ちを表そうとして

いるようでした。

映画の舞台になった時代は違いますが、それぞれ最後シーンは射ち殺される

ところで終わります。

ショックでした。そのとき、アメリカのイメージが揺さぶられました。

アメリカというより、そこには人がいました。

 

北朝鮮とか中国とかアメリカというとき、何を指しているか、あらためて

考えてみたいです。

”分断の時代”とも言うみたいですが、果たして”分断”はどこにあるのかなあ。

 

神戸の本多雅子さんが、贈ってくれたCDから、いろいろ連想しました。

楽しませてもらいました。気に入りました。

雅子が贈ってくれた気持ちは、どこかで直接聴きたいです。

          *      *       *

 

最後、聴いていて、気に入った歌。

 

ピター・ラファージ    ネイテイヴ・アメリカンの混血

https://www.youtube.com/watch?v=CLLOf1KapQI

 

クリス・クリストファソン  歌のテーマは”自由”

https://www.youtube.com/watch?v=G-J7mLyD3yc

 

マール・ハガート  前科者が歌手に

https://www.youtube.com/watch?v=5PEwBdCeINg

 

シェル・シルヴァスタイン  フォーク・ソング歌手。

              絵本「大きな木」の作者としても有名

              絵本の動画、良かったので、添付。 

https://www.youtube.com/watch?v=f140kVJm_5w


ぼくのはたけ

2017-08-24 09:52:23 | わがうちなるつれづれの記

退院後、期限が迫った特定疾患(難病)の医療費受給のための申請に、

妻に運転してもらって、三重県保健センターに行ってきました。

毎年9月更新です。

熱暑で歩くのが息切れしてきつかったです。

この申請をしている人は三重県で2000人は居るそうです。

社会から手厚く援助してもらっているんです。

 

帰りに隣にある食品のスパーに寄りました。

涼しい所を歩いてみようと、店内に入りましたが、冷え切っていて、

いたたまれなくて、妻より先に車に帰ろうと歩いていると、葉生姜が

目にとまりました。今の時期の大好物です。

「食べたいなあ」と思いながら、妻のところに戻る気力がなく、車の

ところに行くと、なんとバッタリ40年来友人、佐々木佳子さんと出っく

わしました。

「もう歩いてもいいの」からはじまって、葉生姜のことを話したら、

「なーに、それならわたしの畑にあるわよ。あとで、届けてやる」という

ことでした。

その日の午後、葉生姜がわが家に届きました。

おまけにサツマイモまで。今の時期はこれから秋に向けて肥っていくのです

が、先人はまだ細いサツマイモを掘って、お盆のお供えにしていました。

葉生姜もサツマイモも、とびきり美味しかったです。有難いです。

 

実は、今年5月はじめスナップエンドウがいっぱい出来たといって、

前触れもなくもってきてくれたことがありました。

甘くて美味しかったです。

そのあと、絹さやも届きました。

6月はじめ、食事のお誘いを受けて、鈴鹿の国府町にある佐々木宅を

妻と一緒に訪ねました。

畑が1反弱あって、いろいろな野菜が育っていました。

佳子さんにその一つひとつを案内してもらいました。

そのとき、ふと「これはぼくの畑なんだ」と湧いてきました。

実際は佳子さんんがつくっているんだけど、それを「佳子さんの畑」と

分けてしまったら、佳子さんの喜びを受け取っていないような、何か

申し訳ないような気持ちがしてきたからでしょうか。

分かりません。それが、自然な感じだったかもしれません。

 

 

2回目の入院中もいろいろな人から、差し入れがありました。

妻はほぼ毎日、顔を見せに通ってくれました。

それができるのは、親しさでつながる仲間がいるんだなあ、と

思いました。

 

退院後、自宅で療養暮らしです。

妻も、ほとんどつっき切りで食事や家事をしてくれています。

食事は減塩食で、いろいろ工夫してくれてます。

収入は国保の年金と特定疾患の医療費助成だけです。

それにしては、毎日旬の野菜は届くし、暮らしの心配はないし、

人とのお付き合いも遠慮や気兼ねがありません。

訪ねてきた市川さんと話しているとき、このとき、ふと、「自分が

こんなに何の心配もなく暮せているのも、コミュニテイの人たちが

いるからだよね」口をついてでました。

見えないものが見えたという、新ためての感慨がありました。


そのあとで、「自分はそれに満足してるんかな」という自問が

起きました。

どうも、それはそれとしても、それだけじゃないものがあると

でてきました。

人がここにこうして居る、ぼくがここにこうして居る、という

のは、社会のさまざまな活動に寄って支えられ、植物や動物など

生きものによって、また太陽や空気、水の恵みで成り立って

いるんじゃないでしょうか?

人の成り立ちは、人がどう思うか思わないかにかかわり無く、

そういう関連のなかで、どこまでも「こうだ」といえない関連の

なかで、生かされているいるのじゃないでしょうか?

そんなこと、本を読んだり、ネットで調べたら当たり前のようだけど、

自分がこういうことでお世話になり、心をかけてもらって嬉しいという

気持ちが起きたとき、それで「よかった」で終わらせているんじゃ

ないかという問いがでてきました。


ふだん、「自分だけよければいい」というような考え方で暮して

いるとはおもっていませんでしたが、その拠って立つもとの

心の状態がそこに立っていたかどうかと自問すると、曖昧だなと

思いました。

台風が自分の地域は避けて通ると知ると、ほっとするような。

考えとしては「自分だけがよければいい」とは思っていなくとも、

ほっとするこころの状態には意識していなくとも、それとは違う

ところにいたんだなあと気がつかされました。

頭で分かっていたつもりでも、実際はどんな世界に自分が生きて

いたのか振り返っています。


自分の満足の基準をどこに置いているか問うてみたら、自分や

自分の周囲の人たちだけでなく、日本地域の人たちにも、世界

各地の人たちとともに、安心して満足に暮したい願いがあることに

気づきます。

いま、とってつけた願いというより、自分のみを願って暮した時期も

あったにしても、ほんとうの本当はみんなとともに、そいういう

暮らしがしたかったんじゃないかに、つきあたります。


「世界中のみんなで幸せになろう」


世界中のみんなが幸せになる世界から、現状をみていきたいと

思います。

自分や周囲のみの満足で「よかった」と完結させてしまっては、

知的にその世界を実現さすことがが遅れるのではないでしょうか。

いま、いちばんやりたいことかもしれません。


養生暮らしはしばらくか、あるいはずっとつづくかも。

それならそれで、その状態に適った暮らしを探っていく、話が

出来る人たちと見出しながらすすみたいです。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盛夏の退院

2017-08-15 17:22:54 | わがうちなるつれづれの記

おそるおそるわが家に帰ってきました。

8月10日妻が病院に迎えに来てくれました。

それから6日経ちました。

今は以前のときの退院のように散歩するとか、当面の目標はありません。

今の暑さの中を歩くのは、息切れがすぐに起こりむずかしいのです。

部屋にクーラーをかけて、一日3回ストレッチやスクワット(脚の筋肉を

鍛える運動)をして過ごしています。

暮らしに身体が馴れていく辺を見て行っています。

何人かの人が訪ねてくれましたが、会うと「元気そうだね」と言われます。

血色はよく、病人には見えない、と。

そうなんです。心臓や腎臓の機能が弱っているだけで、あとは普通なんです。

ただ、気持ちの上で、いつまた不整脈(心室頻拍)が起こるか、正直、

どうしても今はそれが怖いです。

 

7月6日夜、植え込んである除細動器の電気ショックが3回立て続けに

作動して、かかりつけの三重大病院に緊急入院しました。

その後も、不整脈が止まらず 日に数回除細動器の電気ショックが起こり

ました。

生きた心地がしませんでした。

医師の方々も手を尽くしてくれましたが、止まらず、窮余の策として、

除細動器の設定を変えて、不整脈は起きてもショックがかからないように

しました。

医師の人たちもこのままと言うわけに行かず、冬にアブレーション手術

をした名古屋大学病院に依頼して、3度目の手術をしました。

手術は「これなら大丈夫」というところにはなりませんでした。

元に肥大性拡張型心筋症という様態があって、それが進んでいるため

不整脈を断ち切るのはむずかしいということでした。

そんなんで、いまのところ不整脈は起きていません。

除細動器の設定ももとに戻しました。

なぜ起こるか、どうして止まるのかはお医者さんでも、分からないのです。

いえることは、「心不全状態にならないように」とか「薬の調整」とか

打つ手はかぎられているらしいです。

暮らしのなかでは、「減塩食」、水分の調整、適度な有酸素運動、これから

その辺に合わせた暮らしをつくっていくことになりそうです。

 

読書したり、テレビ観たり、FBやネットを見ることに不便はありません。

あまり根をつめないようにするつもりです。

 

サイエンズスクールや研究所のブログは、楽しみにしています。

どこかで、生きる支えになっているのかな。

テレビなんか観ていると、どうしてもいろいろな思いが出てきて

忙しくなりますが、そんなときは、いつも「どこから観て行くのか」

問いかけながら過ごしています。

 

退院した日、豪さんの理美容室で散髪してもらおうと妻に連れて

行ってもらったら、娘の桃子が整髪と毛染めをしているところに

出っくわしました。

髪を短く切った娘をみて、思わず4,5歳ころの娘を思いだしました。