かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

9・11の記憶

2016-03-30 07:50:01 | わがうちなるつれづれの記

晩ごはんを食べながら、テレビニュースを見ていた。

3月22日、ベルギーのブリュッセルで、空港や地下鉄の駅で自爆テロが

あったという。

30人あまりが死亡し、負傷者は200人を越える。

パリの街での連続自爆テロから、続いているのかなあと漠然とおもう。

どこかで、2001年9月11日、ニューヨークの同時多発テロからつづいている

という感じもある。

争いとか、戦いには、当事者というものがあって、当事者同士で理由を

言い合って、相手とたたかうというものだとおもっていた。

たまたま飛行機に乗っていた人が犠牲になり、たまたまビルにいた人がその

ために死んだ。

このようなだれが起こしたかわからない自爆テロについて、ときに「オレたちが

やった」と大儀名分を聞くけど、そのためにそのときそこにいた人が犠牲に

なったり、傷ついたりするイワレはない。あまりにも理不尽。

分からない。

どんなことが人間のなかで、起きているのだろう?

 

こんな妄想も。

当事者同士の争いを越えて、どこかにこういうことが起きて、人と人が憎悪を

かきててる状況をよろこんでいる人たちがいるんじゃないか?

 

いま、この世界に何が起きているんだろう?

 

最近、ネットで朝日テレビ「報道ステーション」の特集自民党憲法改正案の

なかの「緊急事態条項」についての動画を見た。

キャスターの古館氏がドイツのワイマールに行っていた。

当時、もっとも先進的な憲法といわれたワイマール憲法のもとで、なぜ

ナチスドイツの独裁が生まれてきたのか、それを現地で取材するもの

だった。

ワイマール憲法には「国家緊急権」という条項があり、それがヒトラーに

よって、合法的に独裁への道を開かれた記憶の検証だった。

 

番組のなかで、ワイマールのゲーテハウスの前に立つ古舘さんを見て、

2001年9月11日に、同じ場所にたったときのことを思い出した。


ゲーテハウスからはじめて、友人のお父さんに案内してもらって、

ワイマール市内を観て回った。

なぜワイマールを訪ねたかと言うと、ナチスの強制収容所の跡に、

”立って”みたいという、強い気持ちにスイスで農場をやっている仲間が

応えてくれたのだった。友人の父を紹介してもらった。

ワイマールの郊外に「ブーヘヴァルト強制収容所記念館」があるという。

友人のお父さんは、ワイマールが生地であり、愛着があり、熱心に

街の中を案内してくれた。午後3時過ぎても、なかなか「記念館」に

行こうと言ってくれない。

たまりかねて、「記念館に行ってみたい」とつぶやいてみた。

「それでは」ということになった。

 

「ブーヘンヴァルツ」は、ワイマール市街地を見おろす。丘の上にある。

鬱蒼とした森の中を車で奥に向かった。

「ブーヘンヴァルツ」とは”ブナの森”という意味だと聞いた。

 

正直、ぼくはなんでそんな収容所跡の見学に執着するのか、なんども、

繰り返し、自問してきたが、「こうだ」といえるものがない

言うことができるかもしれないけど、言った途端に白々しい感じになる

ような気がして。

 

その訪問の感想は、妻への手紙というカタチで残っている。

2001年9月13日に書いている。

  

 


 

 ーー(略) やっと人が住む2階建ての大きな建物が立ち並んでいる所に

   つきました。そこは元ナチス親衛隊のメンバーや収容所の職員の

   宿舎だったとこらしい。

   そこで、びっくりしたのは、観光バスが4,5台、乗用車も広い駐車場

   にずらっと並んでいる。見学者の多いこと。

   そして、中学生か高校生なのか、若者たちの多いこと。

   学校の授業の一環できているのか?

   観光地のような賑やかさとは、まったく異質ですが、静かなるというか、

   沈痛たる賑やかさがありました。

   収容所は、その宿舎の奥にありました。

        

   

   監視塔を上につけた鉄扉の門を中に入る。

          

   丘の斜面をなだらかに下っていくような式で、とにかく広い敷地が

   目の前に開けています。

        

   今は囚人たちを入れていた家屋群はすべてとりはらわれています。

   ただ、そこには収容所の建物があったんだよ、と建物跡に石が

   敷き詰めてありました。

            

   それが、かえって真実味をおびて、せまってくるものがあります。

   そこに立っていると、冷たい強い風が吹いていていて、身体だけでなく、

   身体の中まで浸透していく感じで、ふるえあがりました。

   人が人を拘束し、人が人を始末する、巨大な場、システム。

   かつて、20万人の人が入れ替わり、立ち代り収容されて、5万人以上の

   人がさまざまな方法で殺され、処分された。

         

        この収容所は、ポーランドにあるアウシュビッツのようにユダヤ人大量

   殺戮のための収容所ではない。

   ナチスに反対する、もしくはその怖れのあるすべての人、人種・国籍・を

   問わず送り込まれた。戦争中は。各国の捕虜も。

 

   敷地内の一隅に、火葬場の建物がそのまま残っていた。

        

        

        

       

   その南に2階建ての建物があり、そこに当時の人たちの写真や遺品は

   展示されていた。

        

        一つひとつの物を実際に見てみると、ほんとにこれをやったのか、という

   こと。

   「やったんだ」「やれたんだ」ということ。

   自分がその場に立っていることが、胸につまされるようで、すぐ何かの

   解釈を下したり、言葉にだしたりしたら、自分の言葉でなくなってしまう

   のではないかとおもった。

   他の人たちを見ていても、しゃべっている人はいない。じっと、それに

   見入っている。

   饒舌だった案内してくれた友人の父も、ぴたっとと言葉が少なくなり、

   沈黙の人になった。

   それにしても、こうゆう場所を残し、一人ひとりの遺品などそのまま

   こういう形で残しつづけようというエネルギーは、いったいどんなもの

   だろう?

   ドイツの人としたら、同じ自分の家族と言うべき人たちが犯した間違い、

   黒い汚点を他者に、・・・ぼくなら日本人にそっくりそのまま見せるという

   こと。これは、すごいことではないかと思った。

   ぼくやぼくらに、ここまでのことができるだろうか?

   それと、このようにして人間の持つある面を知ることを通して、人間

   あるいいは人類は、再びこのような間違いごとのない、明るい昼の

   世界に一歩一歩向かっていることになるのだろうかと・・・・

   言葉にすれば、こんなことも、ちらっと思いながら、でも収容所の見学は

   あまりにも重いものであった。

 

   そんなときにアメリカでのテロ事件のニュースに出会ったのでした。

   (略)            2001年9月13日7:45am

                                                    ドイツの農場にて   宮地

 

ブーヘンヴァルツ強制収容所跡地を訪ねたのは、ドイツ時間9月12日夕方だった。

アウトバーンに載って、エアフルトにある農場に帰る途中、5:30ごろサービスエリア

でトイレ休憩をした。

テレビの前に人々が集まり、画面を見ている。

高層ビルから煙が上がっている。

何がおきているのか?言葉がドイツ語でよく分からない。

仲間の一人が、「どうもニューヨークで飛行機がビルにぶつかったみたいだ。

テロとも言っている」と口伝えの話を聞かせてくれた。

農場に戻り、食事もそこそこにテレビを見た。

こんどは旅客機が突然画面に現れ、高層ビルに激突し、炎をあげていた。

高層ビルが一気に崩壊する場面もあった。

ナチスの強制収容所で、人間、そして人類が、狂ったとしかいえない間違い

ごとについて、憂いの気持ちがあったところに、これは衝撃だった。

 

言葉が分からないまま、数日、ヨーロッパで過ごした。

街は沈鬱な空気に包まれていた。

教会には人々が集まり、一人ではなく、ともに祈りを唱えていた。

 

日本に戻り、今度は日本語でどんなことが起きているのか、知ることが

できた。といっても、いろんな人たちの捉えたことを読んだというぐらい

かもしれない。

アメリカのブッシュ大統領は、「イスラムの過激派を裁きにかける」と

息巻いた。アメリカの人たちは、「報復」を熱狂的に支持した。

イラク戦争が始まった。

日本の小泉首相は、アメリカの動きを支持して、自衛隊の派遣まで

した。

その頃から、憲法9条の改正の声が、自民党の人たちからだされる

ようになった。

2011年3・11以後、政権を取った人たちからは、こんどは憲法の

解釈を変更して、自衛隊がアメリカが起こす戦争に加担できるように

しつつある。もう、それができるようになった。

こんどは、憲法を改正して、緊急事態条項を設け、災害や武力の

攻撃をうけたときは、国会の議決を経ないで、時の政権が法律に

かわる条例をつくることが出来るというものと聞いている。

戦争を想定しているとしか思えない。

いったい、どこまで行くんだい?


9・11の記憶。

ナチスの強制収容所跡の見学の印象とビルに激突した飛行機の

映像が残照として残っている。

その後の、アメリカの”報復”の熱狂。

人間は、人類は、どこまで愚かになっていくのだろう、と思った。

そして、今の日本。

実権を握った人たちが、ひたすら戦争を前提とした政策をすすめて

いる。

行き着くところまで、行くしかないかな、と過ぎる時もある。

沖縄のこと、そんなとき想う。

沖縄は日本にある米軍基地の80%を抱えながら、辺野古への

新基地をつくってほしくないと、訴えている。

昨年、実際に辺野古基地に反対する人たちに会って来た。

争いをしたいわけではない。

もうこれ以上、基地は要らないし、先では基地のない沖縄を描いて

いる。


戦争の状態が続いている沖縄で、戦争がない、当たり前の平和、

しあわせが近隣の隣人との付き合いも含めて描こうとしている、

根底にあるものに触れた感じがあった。

幸か不幸か。


今、実権を握っている人たちも、中国が攻めてくるから、北朝鮮が

攻めてくるから、人というのは戦いを好むものだと思っている人も、

ほんとうのほんとうは、人を殺したり、じぶんが傷つけられることを

欲していないんではないか?

もし、欲していないなら、どうしたら争ったり、人を殺めたりしないで、

当たり前の暮らしが実現するか、そこに、人類の知性を結集する

ときでないだろうか?

今、戦争に向かおうとしている人たちは、こんなことに耳を貸さない

かもしれないし、自らの心の内にも関心がないかもしれない。

先づ、気がついた人から。

争いがないのが当たり前で、誰もが人と共にその人らしく、満ちたりて

暮らせるのが本当ではないか。

そこは、明るい陽光が輝いていて、暗くて先行きが見えない

不自由もない、昼の世界。

いまの実際を観察しながら、昼の世界が現われてくる道筋を

もっと明らかにできたらなあ。


もしかしたら、9.11の記憶ということから、人間って、もうどうしよう

もないかな、と言おうとしていたかもしれない。

ついつい、そういう気分に陥ってしまう。

待って、待って。

欲していることがあるなら、やっぱり、自分の意志で選択して、

その実現に智恵をだしていくほうを、そうだな余生、やっていきたい。

 

 

 

   

   

    

 

 

 


逝く人、これからの人

2016-03-18 18:46:30 | わがうちなるつれづれの記

k氏が逝った。3月14日昼。80歳を越えたところ?

翌日、朝焼香に行く。

部屋に布団におさまって、安置されていた。

顔を覆うっている白い布をとると、生前の面影を残しながら、静かに

眠るがごとく枯れている。

いろいろに現われていたK氏が一瞬思い出されるが、目の前に映る

その人は安らかに死へと旅立った。

長男が生まれて間もない女の子を抱いて、現われた。

「最後は、苦しまないで、息を引き取った」

身近に、孫、女の子が5人。

おじいちゃんが大好きという孫もいたらしく、人生の最終章は

どんなだったか、想像する。

 

そのあと、佐貝夫妻の部屋を訪ねた。

部屋のなかは温かく、90歳を越える佐貝さんや、のぶさんは

満面の笑みで迎えてくれた。

「やあ、よく来たね」

「kさんにお別れに・・・」

「そうかね、Kはよく怒っていたね」

佐貝さんは、ぼくがかぶっていた帽子と掛けていたサングラスを

自分につけて、「あはは、どうかね」

のぶさんも「あれ、まあ」

「まって、まって、写真とるよ」

 

老夫妻といると、何だか気がおけなくて、居心地がいいなあ。

佐貝さん「わたしらも、まだまだ腹が立つときがあるんだよね」

のぶさん、ニコニコ聞いている。

「のぶさん、出入りのとき、戸をちゃんと閉めない、必ず少し

開いている。これが、ムカッて来るんだね。のぶさんは、のぶさんと

してただそうなっているといことだと思うけど、”チャンと閉めない”と

ムカっとするんだよね」

のぶさん「そうそう、ここをやっていくのが楽しいんだわ」

 

なるほど。

「すごい」と思った。

このことをやり続けている。

二人の頭脳は、90歳をこえても、さらに探究しようとすれば、もっと

働きはじめるのかもしれない、と思った。

 

逝く人、これからの人。

考えてみたら、人間、この二つだよね。

 

 


自分らしく老いる

2016-03-14 20:27:27 | アズワンコミュニテイ暮らし

老後どんなふうに暮らしたらいいか、分からないという人がいて、

そうだよね、いっしょに考えようと、何人かで、語り合う機会ができた。

その後、言いだしっぺは、ウマの合う女性と出会い、この会には

来なくなった。


老いるとか、病身になるとか、必ず死ぬとかいっても、それぞれは

どんなふうに捉えているだろう?

そういう状態について、その人なりに、何かはおもっている。

それを、あらためて言葉にして、その捉え方について、検討する、

だんだんそんな語り合いになってきた。

老いとはどういうことか?

死ということをどう捉えているか?

それぞれの捉え方が今の生き方そのものにかかわる。

その時をどう生きるかにかかわってくるよね。

だれいうともなく「理想の暮らしを語る会」という名称になってきた。


あれから3年。

1ヶ月に1回か2回、増えたり減ったりしながら、つづいてきた。

人生の終末期という捉え方、実際は人生の完成ではないだろうか。

老いるとは、身体が衰えることとおもっているけど、実際はどうだろう?

老いるとボケるは、イコールかどうか?

認知症といっても、それはどんなことか?その状態で、心や意志は?

地域社会の介護、医療など、もっと人と人が繋がっている状態が

安心して老いられるというベースになるのではないか?

これからも、語り合い、そのことそのものが自分らしく老いられる社会の

気風になっていけるように・・・




3月18日~23日鈴鹿市市民活動パネル展に向けて

今、トランジションタウン鈴鹿の有志で以下のような

展示を準備しています。


理想の暮らしを語る会

=自分らしく老い、最後まで自分らしく生きれる地域社会を目指して=

 

老年期をどのように老い、どのように死ぬか。

私たちは、そのような未知の時をこれから迎えようとしているのだと

思います。

「ピンピンコロリ」という言葉も、自分も苦しまず、周囲に迷惑をかけず、

死にたいという願望でしょう。

といっても、実際どうなるかは、誰にもわからないでしょう。

気がついてみると人生80年の時代になっています。

 

誰もが、死の瞬間まで、身体はままならなくなったとしても、「幸福な人生

を全うしたい」と願って暮らしているんじゃないでしょうか。

老いや死を、考えることは、今をどう生きるかを考えることだと思っています。

私たちの会では、老いや死について、日々の暮らしのなかで、もっと

朗らかに、楽しく語り合えるようになったらいいなあという趣旨でスタート

しました。

 

 

 

○毎月、こんな寄り合いをしています。

 

  ☆スペシャルゲストによるトーク

   ・日時  随時第2土曜日 午後1時30分~3時30分

         開催日は「広報すずか」の「こちら情報局」でお知らせします。

・会場  鈴鹿カルチャーステーション

   ・会費  500円

   ・どなたでも参加できます。

  

  ☆ザックバラン、「理想の暮らしを語る会」

   ・日時  毎月第3日曜日14時~16時

   ・会場  鈴鹿カルチャーステーション 談話ルーム

   ・会費  無料(飲み物は各自持参してください)

   ・どなたでも参加できます。


 

○これまで寄り合いをやってきて

 

このようなことは、自分一人でかかえて、自分なりに内向して考えていて、

人に聞いてもらうなんて、想像もできない場合もあるでしょう。

私たちの寄り合いでは、ちょびっとづつでも、自分で解決しようとしている

老いや死のテーマを自分の生い立ちや人生をもういちど思い起こしたり、

いまの自分の心身の実際を、みんなのなかで、興味本位に観察して

いこうとしています。

はじめは、そんなこと人前でいうことではないとか、恥ずかしいとか、

こんなこといったらどう思われるかなど、遠慮や気兼ねもありましたが、

すこしづつ、何でも言えて、人の話を聞くのが楽しいという会の雰囲気

になってきました。

それが、今を、その人らしく幸福に生きる、暮らすことに繋がるとおもいます。

 

 

最近、医療の現場でも、人の終末期では、「命を救う」というだけでなく、

「その人が最期までかがやいて」と願う医療が話題にのぼっています。

老年期に向かっている私たちも、老いや死について、たくさんの先人の

体験や介護や医療の臨床体験を聞く機会をつくってきました。

それらの専門の人たちとも、身体のことだけでなく、気持ちもお互いに

理解し合っていきたいです。

この今をどう生きるか、暮らすかを語り合い、豊かな老いと死を迎えられる

社会の気風や仕組みもつくっていきたいです。

 

理想の暮らしを語る会 鈴鹿カルチャーステーション内 
TEL&FAX059-389-6603 事務局:中井正信

 

 

 

<公開企画>
=「自分らしく老う」 3人のパネラーのお話=

 

理想の暮らしを語る会
            自分らしく老いられる地域社会を目指して

 

とき>5月14日PM1:30~3;30
ところ>鈴鹿カルチャーステーション059-389-6603
内容 3人がそれぞれの老いを語る
参加費 500円


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理想の暮らしを語る会

            自分らしく老いられる地域社会を目指して

理想の暮らしを語る会 鈴鹿カルチャーステーション内

059-389-6603

とき>5月14日PM1:30~3;30

ところ鈴鹿カルチャーステーション

内容 自分らしく老う 3人のパネラーのお話

参加費 300円

 

 

 

 

 

 


スイスの隣人

2016-03-14 18:26:51 | わがうちなるつれづれの記

ふだん、スイスのことをいつもおもっているわけではない。

かといって、まったく考えていないわけではない。

スイスには、長く付き合ったり、暮らしたこともある人たちがいる。

 

おととい、パトリックさんが鈴鹿にやってきた。

平田町駅まで迎えに行った。

停留所のそばに立っている。大男だ。

彼が30代の青年のころからの付き合いで、もう25年ぐらいに

なるかな。

人柄はおっとりしていて、日本語も彼らしい語り口でゆったり話す。

いっしょにいて、とても心地がいい。

 

昨日の昼ごはんは、わが家に招待した。

うどんとてんぷら、おいしいと気に入ってくれた。

食後、ぼくは昼寝してしまった。

そのあと、アズワンのあっち、こっちを見てまわった。

おふくろさん弁当屋さん。日曜の午後は、何人かの人がいるだけだった

けど、みゆきさんが少し案内してくれた。

まちのはたけ公園。入り口の看板、漢字まじりの日本語、ゆっくりだけど

全部読んでしまった。

すずかの里山、英二さんが谷津田の奥の水源近くに、東屋風の

小屋を作っていた。

鈴鹿カルチャーステーションにもどって、オフィスやENJOYの見学というか、

いろいろな人に逢いながら、その雰囲気に触れているようだった。

「ここは、おもしろいね。とっても、新鮮な感覚が蘇ってくるみたいね。

おもしろい。1ヶ月ぐらい、休みをとって、ここでコースに参加したり、

暮らしてみたいね」

 

世界中に代理店をもつスイスの会社に勤めている。

日本語や英語が出来る。人の話をゆったりと受け止められる、独特の個性も

あるのか、世界中の代理店を回って、製品をつかっての声を聞いたり、

品質の向上のための情報を集めている。

いろいろ迷ったり、悩んだりしていた時期を思い出すと、よくぞこんな仕事に出会う

ことが出来たなあとおもう。

それでも、彼は「こんなもんじゃないとおもう」と、これはやむにやまれぬ感じ。

娘二人。一人は建築設計の勉強をしている。

一人は高校生。

「どんななるんだろう」すこし間を置きながらも、娘たちへ彼なりの愛情を感じた。

 

ヨーロッパにも隔てない人と人の社会を。

隣人パトリックさんと描いていきたいなあ。

 

 

 


39のBIRTHDAY

2016-03-14 17:26:01 | 家族あれやこれや

長男は3月15日が誕生日です。

父のぼくが3月2日生まれで、その知人・友人に3月生まれが多かった

せいか、3月生まれの会とかいって、長男一人のための誕生日の会は

やってこなかったのです。

これには、ぼく自身が一人のための、このような会を避ける気持ちも

影響していいるかも。

長男は大阪で暮らしています。滅多に三重くんだりまで、やってきません。

仕事が忙しい、「えらい」というのです。

今回も、「誕生日なんだから、ゆっくりしに来ないか」と声をかけた。

ちょうど、3月12、13日は、土日なので、泊りがけでもいけるじゃん。

何回かラインで話ました。

どうも、この土日は鈴鹿サーキットファン感謝祭があり、それに行きたい

というのもあるらしい。

「行くわ」という返事がありました。

 

どこからともなく、バースデイケーキをつくろうという話が持ち上がった

みたいで、次男や長女とその孫で、”謀議”がある、気配でした。

F1のレースカーをかたどったケーキをつくるという話が聞こえてきた。

それをどんな風に誰がやるのかは分かりません。

長女が「牛乳パックない?」とやってきました。あとは、何をしているやら。

 

前日の夜、ラインで、つくっている最中の映像が長女から送られて

きました。

「どうだ!」というわけです。

当日の朝は、Fワンケーキにタイヤがついて、デコレーションも

できました。

あとは、長男に気がつかれないように晩餐のあとに、「あっ」といわせる

ストーリーです。

晩餐は手巻き寿司、茶碗蒸し。満喫しました。

 

さあ、いよいよクライマックスです。

長男はソファで昔の写真をみています。

長女の家に隠しておいたケーキが運ばれてきます。

電気が消されます。

3と9のカタチをしたローソクに火が灯ります。

長男が呼ばれて、座ると、みんなでおめでとうの歌を歌いました。


電気が点きました。

長男の第一声。「カブトムシみたい」

このケーキ製作にかかわった連中は口々に、その間の工夫や苦労など、

思いの丈を言いつのりました。

「わあ、ぼく一人ののための誕生日って、はじめてだ!ありがとう!」

「ありがとう」を何回か言いました。

39年目の、思わず湧いてきた言葉なんかなと感じました。