かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

いきなりガンからはじまりますが・・・

2011-09-29 07:20:48 | わが健康生きがいづくり三重の会記録
台風15号が過ぎ去って、お彼岸の翌日、24日(土)は、秋晴れだった。
 第四の土曜日、今日は"興味深々アクションデー”の日。
 伊藤八重子さん(四日市)を囲んで、食生活の話しを聞いた。

 八重子さんのお歳は、うっかり、正確には知らない。80に手が届くぐらい。
 いつも晴れ晴れとしたお顔で、かくしゃくとされている。 
 お話は、気持ちがこもっていて、つい引き込まれしまう。

 
 「いきなりガンからはじめます。ごめんなさい。このガンで大切な友だちを
何人も亡くしているのです。ガンになってしまった人には、言えないんです。
ガンになるまえに、ならない生活を考えたいのです」

 あらかじめレジメが配られていた。八重子さんの夫君が、ワープロで打ちだしてくれた。
 
「日本人の死亡原因と死亡者数(平成2年)
 ○ガンで亡くなった人   35万人。(1976年 13万人)
   心筋梗塞       18万人
   脳卒中        12万人
   肺炎・気管支炎    11万人
   事故死         4万人
   老衰          3.8万人
   自殺          3万人  (13年 連続。75%が男性)
 ○医師の数        29万人  (1976年 13万人)

 ○日本の医療費      税収  40兆           医療費35兆
              国債  50兆  計90兆 

 八重子さんは、1970年代、ニクソンのアメリカにも、言及。
 医療費の増大が、国家予算っを圧迫していた。
 ニクソンは「ガン撲滅」を打ち出した。
 世界中の食生活をしらべた。
 日本の昭和30年代の食生活が、ガンにならない理想の食生活だと知る。
 野菜をとりいれる施策をとりいれたところ、アメリカのガン死亡率が下がる曲線に
なっていて、逆に日本が増えている。

 統計で示されていることの解釈は、いろいろあるだろうけど、おおづかみな傾向は
知ることができる。参加者がグッと身をのりだす感じがした。


 「万病一元 血液の汚れから」
 八重子さんが、なんども語られるコトバだ。
 受け売りですが、と謙遜されるが、ご自身や夫君はじめ、周囲の友人といっしょに
長い時間と話し合いや観察、検討をしてきた、八重子さんとして”根拠”を感じながらの、
確信が、無理なくぼくには伝わってきた。

 血液は60兆個の細胞に栄養・酸素・水を送りとどける。また、細胞の老廃物を取り去る。
 この血液を正常健康に保つこと、ここが食生活を考える上でも、日々の暮らしを見直す
上にも、欠かせないポイントということだ。

 「生活習慣病は、生活習慣で直す」
 お話の最後の方で、さらりと言われたことが、スッとこころに入ってきた。

 「高血圧と診断されて、お医者さんは薬をくれるのですが、それでは健康になりません」
 まず、「どんなのが正常健康な身体か」を考えること。
 
 そこから、暮らしの見直しがはじまる。
 八重子さんは、次の3点を強調された。
  1、食べ過ぎ
  2、身体を冷やしていないか
  3、運動不足
 「食べ過ぎ」と「運動」は、代謝の関連で、多く消費したら、その分食べられる。

 わが身をふりかえると、こういうことは余り、真面目に考えていないなと実感する。
 病気のことは、お医者さん任せみたいに、どこか安易・・

 もう1枚、レジメ。
 テーマは「人のカラダはミネラルが必要!」
 身体は、どんどん酸性化しているという。それと、ミネラルの関係は、詳しく
聞きそびれたけど、現代人の食生活のウイークポイントだと、八重子さんには
見えるようです。
 
 勉強のため、そのレジメから、写してみます。
 ○五大栄養素 
  1、たんぱく質
  2、脂質
  3、炭水化物
  4、ミネラル
  5、ビタミン
 
 ○ミネラルと食品
  1、カルシウム   小魚・乳製品・大豆・海藻・野菜・チーズ・いわし
  2、鉄       ひじき・あさり佃煮・ブタレバー・焼のり
  3、カリウム    干しブドウ・プルーン・バナナ・ジャガイモ・緑野菜
  4、マグネシウム  大豆・ピ-ナッツ・ニンジン・ホウレンソウ・海藻
  5、亜鉛      レバー・小麦胚芽・卵黄・牛乳・豆類
  6、セレン     カニ・かつお・うなぎ・あじ・さわら・たらこ・いわし
  7、マンガン    海藻・ナッツ類・緑黄色野菜

 これから、八重子さんには、話しだけでなく、実際、お料理しているところ見させて
もらったり、季節ごとの料理、身体のためになる食材など、まだ若造のぼくたちが、
習いたいこと、いっぱいあるように感じました。
 例えば、梅醤番茶
     タマネギの皮のお茶
     タマネギドレッシング
     みそのタレ(梅1キロ・お味噌1キロ・砂糖1キロ)  湯豆腐などに。

 そうそう、物のことだけでなく、最低1日に一回は、ワハハと笑うことなど。
 こういうことを夫婦で話し合いながら、暮らしていく、面白そう。

 ガンで、いまもたくさんの人が、お医者さんにたよりながら、亡くなって行く。
 八重子さんの熱意のもとにどんなことがあるのだろう、余韻を味わっている。
   

どっと笑って、しいんとして・・・宮沢賢治「カイロ団長」を読む

2011-09-25 21:35:01 | アズワンコミュニテイ暮らし
 牛丸先生の講座、今回は朝10時からだった。
 いろいろしていたら、30分ばかり遅くなった。

 この日も、「カイロ団長」の全文が、印刷されていた。
 みんなで、声を出して読みすすんでいる。

 部屋に入ったときは、とのさまがえるが、けらいにした、あまがえるたちに「一日に
九百貫の石を運んで来い」と命令しているところだった。

 読みに加わった。あまがえるたちが、あまりの無理難題の命令に、やけくそになって、
とのさまがえるに開きなおったところに、王様の命令がかたつむりのメガホーンの声で
伝えられた。
 「ひとに物を云いつけるときの方法」というものだった。

 その命令に従うとすれば、物を云いつけたとのさまがえるが、九千貫の石を二日の間に運ばねば
ならないことになってしまった。
 とのさまがえるは、えらくあっさり、王様の命令に従おうとした。
 あまがえるたちは、立場がかわって、石を動かせないで困っている、とのさまがえるを
はやしたて、とのさまがえるの足が曲がってしまったときは、どっとわらいました。

 「がどいうわけかそれから急にしいんとなってしまいました。
 それはそれはしいんとしてしまいました。
 みなさん、その時のさびしさといったら私はとても口で言えません。
 みなさんおわかりですか。
 ドッと一緒に人をあざけり笑ってそれから俄かにしいんとなった時のこのさびしさです」

 ここで、やっと、牛丸先生が口を挟まれた。
 問題が出てきました。
 「一緒にあざけり笑って、そしてしいんとなって、さびしい気持ちになった」そういう
経験が、みなさんにおありかどうか。それは、どういう気持ちか・・・?


 

 ここまで、読み進んで、コーヒーブレイクになったかな。

 コーヒーブレイクのあと、最終段落で、王様の新しい命令が出た。
「すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かわいそうなものである。
 決して憎んではならない」

 とのさまがえるとあまがえるは、めでたく和解して、平和な世界が再び訪れた。


 これで、めでたしまでたしで終わるのかと思った。
 参加している伊与田さんが、「どうも気になるんです。王様って、どんなものかと・・」

 先生、はたと膝をたたいて、「それなんです。王様が要るのか?そこなんです」
 いたずら坊主が、うまく獲物をつかまえたときのように、にんまり・・
 「坂井くーん!」
 坂井くんが、前もって用意したあったプリントを持ってきた。

 「じつは、ここだけの話しだけど、大文学者宮沢賢治に失礼だけど、
この問題をあまがえるととのさまがえるの間で決着できないか、王様は邪魔なんだなあ。」

 プリントは、<戯作「カイロ団長」>という標題。
 九百貫の石運びを命令したとのさまがえるが、いびきをかいて寝ているところから、
牛丸先生の戯作が、はじまる。

 「病院で寝ながら、登場人物、ここならあまがえるととのさまがえるの特質を考えたんだ。
あまがえるには手足に吸盤がついている。とのさまがえるにはない。ここに着目したんだね」

 戯作の内容は、ここでは省くかなあ。
 王様が登場しなくとも、この両者は和解してしまう。


 「いたずらしてるんです。病院には、いろいろな人がいるし、やってきます。
この間から”キリンの足音のする女”という登場人物がでてくる物語を想っている。
その、女の人の正体、身長は高い、ハイヒールを履いている。どんな人・・・
実際、その女の人は、だんなが入院していて、見舞いに来ていた、背も高かった。
すぐ物語ができるわけではないけど、登場人物の特質を描きながら、それらが
どう動いていくか、じぶんのなかで機が熟すの待っている」

 「じぶんでじぶんの欠点を自覚している。文学をやろうとしたら、あんまり
人がいいと、書けない。ふだん、人がやっていること、「おかしいじゃん」と見る目。
なんでも「いいじゃん」となったら、見えない。自他に「よかない」と見えたら、日常の
世界から、文学の世界に飛び込んでいる」

 ほんとは、「銀河鉄道の夜」とか、「ビジタリアン大祭」とか、長編をやりたいんだけど
いまはちょっと無理なんで、残念ですがと前置きして、次回予告。
 次回は、10月30日「なめとこやまの熊」







 



地域通貨RINKAの今、視察に・・

2011-09-25 07:03:41 | アズワンコミュニテイ暮らし
 台風一過、秋晴の空から冷気を感じる。
 9月22日昼前、平田町駅で、地域通貨RINKAの今を視察に来られる
研究者の方を待つ。
 電車が終点のホームに着く。改札口から出てきた人たちのなかから、一人の女性が、ぼくを
見つけたみたいだった。連絡役の小野雅司くんが、「60歳過ぎの男性」が迎えに行くと
メールしてあった。
 「いらっしゃい」
 車で、鈴鹿カルチャーステーションへ。

 来訪の女性は、林直保子さん。「関西大学社会的信頼システム創生センター 」副センター長と
名刺にはあった。実際の林さんは、お若く、知的探究心を内に秘めた、さわやかな人という印象
だった。

 受け入れてくれたのは、小野さん、坂井さん、RINKA事務局の中野敏美さん。
 ひとしきり、聞きなれない「社会的信頼システム」というのは、どういうものかが話題になった。
林さんから、今年の春刊行された「みち”かな信頼学」という小冊子で説明していただいた。


 「学」とついているくらいだから、そう簡単に、「ああ、そういうものか」と自分なりに解釈して
済まさされようなものではないだろう。
 でも、概ねは、「人と人の絆」「人と人のつながり」がどうなっているか、社会構成や運営の
基礎・基盤になるへんを、研究の焦点に当てているようだ。

 地域通貨の研究も、経済的側面というよりは、人と人の信頼をどう構築しているのか、いないのか、
その実際的効果は?など、しらべていらっしゃるようだった。

 研究だけにとどまらない。小冊子には、林さんたち研究チームの実践活動として、大阪一番の
繁華街、天神橋筋商店街のまんなかに、”リサーチアトリエ”なる場所を開設して、市民との
交流や共同の活動を企画したりしている。

 RINKAの提案者の小野さんから、現状の様子が話された。
 敏美さんからは、「事務局はほとんどすることがないんです」と、いまの感想。

 林さんは、ピンとくるものがないらしく、何度も質問をされた。
 小野さんは、「そうですね、ここでは、すでに人と人との信頼関係ができているところに、
お金、つまり円の縛りを少なくするために、地域通貨をやってみている、そんなところから
はじまっているからね」とRINKAの背景を説明した。
 林さんによると、10年前、全国各地で地域通貨に試みが一気に広がったことがあった。
 それが、いまはほとんどなくなって、残っているところも、行政の支援がなければ、
消えてしまいそうということ。
 「うまくいかないことが多い。なぜ、そうなるのか。コミュニテイーの実情を検討し、整理し、
その原因について、研究が必要でしょうね」と林さん。(そんな風に聞きました)

 
 お昼は、中井宅で、佳子さんの手料理に舌鼓を打つ。
 デザートには、羊羹。(小浪作。本筋には、関係ないかな?)


 まちのはたけ公園では、小林耕一くんが案内してくれた。
 しきりに、「ベジコミ」というコトバがでてくる。
 「ベジコミ?」
 「ベジタブル、つまり野菜で、コムニテイー、つまり社会をつくるという意味なんすよ」



 耕一くんは、こういうコトバを思いつく、センスがある。
 RINKAの命名は、じつは彼がちょっと口走ったところから、「そりゃあ、いい」と
採用されたらしい。”りん”は。鈴鹿の”鈴”ともとれるし、”か”は”貨”とも読める。
ああ、これも脱線。

 「ベジコミ」、この地域に住む地域通貨の会員が、それぞれ、その畑でじぶんにやれるところで、
野菜をつくって、RINKAが通用するお店にとどける。そのお店は、夏前に、めでたくオープン。
 そのお店では、じぶんでつくっていないほかの野菜をもらっていく。


 おふくろさん弁当に行く。
 店長西島さんが、店先で、林さんの質問を受けてくれた。
 「リンカ会員は、お弁当を全額リンカで買える」
 「リンカ、貯まって行きませんか?」
 「貯まります」
 「使うところなくて、どうします?」
 「・・いまのところ、いけてるので・・」


 ”お肉とやおやさん”と書いてある、ショッキングピンクの看板の店に入る。
 竹本さんが、いろいろ詳しく話ししてくれた。

 「Rと値札についているのが、リンカで買えるものです。いまは、少ない。
リンカのものは、遠慮なく、思い切り欲しいだけ、もっていきますね。
買うというより、持っていくというかんじかな。
 円のものは、そのものを見ると言うより、先ず、値段を見ているよう。
 じぶんでも、ショッピングセンターで買い物するときは、先ず値段に目がいく」
 林さんは、「そうでうか。そこのところ、地域通貨の効果として、まったく見ていなかった。
面白いですね」

 林さんは、見学の間、「わからない」「不思議だなあ」を何回もつぶやいておられた。
 林さんの、その時のお気持ちは代弁できるわけでもないが、見学のときに、人と人が
あまりにも当たり前に、親しげにしている様子に、どちらかというと不思議をこえて、不可解な
ものを感じられたのではなかったかな。


 見学が終わって、喫茶コーナーで、小野さん、敏美さんを交えて、懇談。
 小野さんは、ここのコミュニテイーが10年前、人と社会の研究をしていた有志から、
はじまってきたこと。その有志は、当時ヤマギシの実顕地から離れてきた人たちだったこと、
あるていどのつながりができていたことなど、話した。
 「ああ、それなら、なにかわかるような気がします」

 ヤマギシで人間関係が出来ている人なら、仲良いコミュニテイーにすぐなるだろうか?
 「ここにくるまでには、いろいろ失敗もありました。そのたびに、「じゃあ、どうしよう」と
方法にいきのではなく、なぜうまくいかなかったか、その原因をしっかり、しらべてきた。
やる気があったら、やれるという思いこみについて、観察できて、2005年ぐらいから、
変わってきたんじゃないだろうか」と小野さん。
 「そうですね。いろいろ失敗もあったんですね。原因の究明。それなしには、
次にすすめないですよね。」と林さん。
 すこし、楽なお気持ちになられた感じがした。

 帰り際には、RINKAの会員の方に、「使ってみてどうでうか?」とアンケートをとらせて
もらってもいいですかと尋ねられた。
 「一人ひとりに聞いてみないとわかりませんが、多くのひとは協力してくれると思います」
と小野さん。調査に行った先で、アンケートがもらえないところもあるみたい。

 夕方4時過ぎ、平田町駅にお送りした。
 林さんは、明日東京で学会がある。
 人と人との信頼のテーマ、いっしょに考えていけたらいいなあと湧いてくるものがあった。
















 

実のあるものが、社会を変える(2)

2011-09-24 18:51:26 | アズワンコミュニテイ暮らし
 小泉循環農場訪問から戻って、あっという間に4日経った。
 今は、小泉さんが山林や畑で野菜に触れるときの身体や指先の動きとか、
奥さんの美代さんが小泉さんに声をかけるときの表情とか、それに応える
小泉さんがじっと美代さんを見ている様子とか、そんなイメージだけが残っている。

 19日の夜は、作業場にしている建物のなかの居間で、晩ごはんをいただいた。
 美代さんが料理してくれた。
 小泉さんは、お酒。ぼくらは、ビール。
 おつまみは、夕方畑に行った時、引いてきた落花生。「まだ、早いかかなあ」と持って帰った。
美代さんがゆがいてくれた。結構、いける。小粒だけど、豆が殻のなかではちきれんばかりだった。
ショウガも、畑で引いた。味噌をつけて、かぶりついたが、こちらは相当からかった。



 ナスとインゲンを揚げて、大根下ろし掛けた皿。
 オクラと高野豆腐の煮物。
 ミニトマトやレタスのサラダ。
 小松菜のお浸し。
 それに、めざし。とびっきりクリーミーな絹ごし豆腐。いままで、たべたことがない味。

 小泉さんは、酒を飲みながら、水も飲む。これなら、悪酔いしないそうだ。
 「なら、ぼくも・・」と、すこしご相伴にあずかった。飲めなくなった自分が、今夜はすこし
気分がいい。


(ああ、そうそう。上の写真の後ろに写っている冷蔵庫。それって、食べるもの入っていない。
 自家採取の種が、百種、冷蔵・冷凍の形で保存されている。これも、循環農場発足以来、柱の
一つとしてきたこと)
 

 昨年11月、小泉さんに、「ヤマギシの実顕地から離れる」と手紙を書いた。
 今年元旦、ちょうど一人で近くの神社に初詣を終わったとき、彼から電話があった。
 「ほんとに、出たの?」
 「そう、考えるところがあって・・」

 そのとき、小泉さんが14年前に書いた、手造りの小冊子「みみず物語」を読み返していた。
 引っ越しの荷物整理のとき、見つけた。
 1996年末、そのころ、彼は三里塚の山林で落ち葉はきを始めた。牛フン堆肥にたよらない、
在来の作物で育てた鶏や山林の落ち葉堆肥だけで、野菜栽培への大きな転換だった。
「無農薬・有畜産循環農場構想図」が描いてあった。

 (このうち、養鶏は、まだ顕れていない)

 その時から、一度訪ねてみたいと心に秘めていた。
 
 酒をちびちびやりながら、羽田で寝そべった仲間のことや、彼の35年の三里塚の暮らしが
どんなだったか、台風の到来を予感しながら、語り合った。
  「東北で震災に遇って、仮設住宅暮らしをしている人に、野菜を送っている。考えてみると、
俺たち、小泉よねさんの家が強制撤去されて以来、その近くにプレハブ建てて、そこで
寝泊まりしている。おもしろいもんだなあ」と述懐。
 彼は、普段、作業場で夕食をとり、夜はその”仮設住宅”へ寝に帰る。
 12時前、ぼくら夫婦と高崎は川の字になって、その居間で寝た。

 
 翌朝7時ごろ、若者3人が作業場にやってきた。小泉さんが、きょうの段取りを伝える。
 先ず、ニンジンの収穫からはじまる。軽四トラックにコンテナを積んで、でかけた。


 ぼくらは、お茶を飲んだあと、小泉さんの運転する軽乗用車で畑に向かう。
 畑は、畝をたてない。種や苗の成長に合わせてて、草の生え具合に応じて、土寄せをし、
溝切りをする。
 堆肥や腐葉土の肥料も、作物によって、あらかじめ畑全体に入れておくか、種の下に
置いておくか、播いてからその上にかけてやるか、様子を見て、変えているという。
 なにか、見ているところが、違うと感じる。

 お米は、谷津田で作っている。
 「みみず物語」に、彼はこんなこと書いている。
 「谷津田ほど、ぼくたちの身近にあって、自然環境に恵まれているところはないと思う。
水も豊かで、緑も豊か。そして、さまざまな生き物たちとの出会い。谷津田は仕事の場で
あると同時に、心を洗われる場所でもある」
 
 谷津田を案内してくれた。

 「数年前から、田植えをしたあと、稲刈りまでほとんどほってある。それまでは、引いても
引いても生えてくる、稗とりで参っていたのに・・」
 「・・・」
 「鴨が、すこし遅く植えるぼくの田んぼにだけ、やってくるようになったんだ」
 「へえー」
 「あそこ、稲がまばらになっているだろう?そこに、一群の鴨たちが降り立つんだ」
 「草をたべる?」
 「田んぼには、虫とか餌になるもの一杯いる。それを、突っつきながら、草がはえないように
してくれる。だから、あの程度の稲の傷みは、草引きのえらさを思ったら、なんのこともない」

 「へえー」
 「天の采配というしかないね」
 ホント、そうとしか言えないような・・


 田んぼの水は、湧水だ。
 「この田んぼの稲に、この水で十分なんだ」


 このあと、落ち葉はきをしてきたエノキ林を見に行く。広大な面積を感じさせる。
 ここは、もともとは、この村の入会地だったものだが、空港公団があるとき村から買い上げた。
 この林そのものは、周囲の住民が共同で出入りしていたところだ。
 手が入っていないところ、小泉さんがシノタケを刈るところから、林のなかを整備してきた。
 竹や小枝は山にして、5年、10年かけて腐食土にする。やがて肥料になる。
 そこには、捨てるものがなのもない、エノキ林には豊かな資源の宝庫に見えた。
 その整備したエノキ林の一部が第二滑走路を造るとき、つぶされた。
 小泉さんの気持ちを思えば、痛々しい破壊と言える。


 彼の”仮設住宅”に案内してもらう。
 ちょうど、旅客機が着陸のため進入してくる地点の脇にある。






 何機も、ぼくらの頭上、すぐ上を轟音と不気味なハラを見せて下りていく。
 もし、その飛行機の座席にいたら、想像もつかないことだろう。

  すわりこむと
  ごみがよくみえる

  すわりこむことは
  ごみの低さに
  ちかづくことだ

 1968年当時、ベトナム戦争反対の座り込みのときの体験から、彼が書いた詩だ。

 1997年3月、「みみず物語」では、こう記している。
 「いまぼくは、ぼくにとっては大きな転換期にいる。二十年関わってきたワンパックを離れ、
自分なりの農場を開こうとしている。この時、今までにも増して、非暴力ということを
強く意識している」

 その帰り、車を運転しながら、とくに何かに応えるでなく、ふと「実のあるものが、
社会を変えていく。頭で、いろいろ考えたことなんて、それだけのもんだから・・」と
一人言のようにつぶやいた。
 「なにを感じて、なにを言わんとしているのか」
 そのときは、彼の一人言として、じぶんなりに受け止めて、「どういうことか」と
聞き返さなかった。
 でも、じぶんなりに、彼の隣で丸一日だったけど、一緒に歩いてみて、そのコトバに
重みを感じた。
 また、いつか、語り合おうぜ。

 奥さんの美代さんが、「台風15号のなかに帰っていくことになる」としきりに案じてくれた。
 ぼくらは、20日のお昼前、小泉夫妻に見送られて、帰路に着いた。

 蒲郡で東名を下りて、国道1号から23号に出て、鈴鹿に着いた。午後8時を過ぎていた。

 お土産の「小泉循環農場」の名前入りのダンボールから、野菜たちを取り出し、野菜たちの
記念撮影をした。



 小泉さんの野菜の愛用者の気持ちを、ちょっぴり体験。

 以後、小浪の料理には、その野菜がふんだんにはいる。
 今夜は、タマネギのみじん切りと「仙台の麩の丼」どんぶりには、タマネギ。
 「旨いじゃん」というと、「それ、小泉さんのとこのよ」
 「ははあ・・」


 
 

 

 











実のあるものが、社会を変える・・(1)

2011-09-21 19:07:02 | アズワンコミュニテイ暮らし
 千葉の成田空港滑走路の隣に住み、富里市で野菜づくりをしている友人を訪ねた。
 彼とは、14年ぶりの再会である。
 彼とは、20代のはじめ、佐藤首相が訪米しようと、羽田空港に到着するころに、「行くな」を
意思表示するため、仲間10人とともに、空港のなかの道路に寝そべった。「ベトナム戦争に協力するな」の
気持ちだった。
 彼は、その後、「成田に暮らす農民が納得していないのに空港をつくるな」の気持ちを行動に表し始めた。
あるきっかけから、そこに住む「小泉よね」ばあさんの養子になった。以後、よねさんが亡くなったあとも、35年、野菜作りをやり続けている

 小泉英政さん。小泉循環農場と呼んで、奥さんの美代さんと若い人3人で、5町歩の畑で百種類ほどの
野菜をつくり、愛用者の方、200人ほどに、その時できている野菜を詰め合わせて、宅配している。
 
9月19日の夕方、小泉農場に着いた。台風15号が四国のあたりにいて、急に進路を東北方面に変えて、
速度もましつつあった。小泉夫妻は、高崎広、ぼくら夫婦を、農場の作業場の玄関で迎えてくれた。

 「まだ、暗くなってないので・・」と早速、案内してくれた。
 作業場のまえに、落ち葉堆肥場があった。昨年末から、今年3月まで、コンテナにして5000、里山の
落ち葉を集めた。周囲は、これも里山から切り出してきた竹で、人の腰ぐらいの高さの柵で囲っている。
 落ち葉は、持ってきて、踏みかためていくだけ。
 




 「このなかに、今年の3月11日以降に集めたものがあるので、それは使えない。これからは、
落ち葉堆肥はできなくなった」と小泉さん。
 原発事故が、大地に根差そうとする農の営みを根こそぎ、一瞬のうちに打ちのめした。
原発事故が、人災だという意味がこういうところにあるのかと思い知らされた。

 小泉さんの畑と雑木林の間に、いくつかの小山があった。
 一つは、畑で引いた草や隣の雑木林の竹や小枝などを山積みにしてある。


 つぎの山は、ビニールで覆いをしてある。
 これは、山にしてあった小山が、何年かしてあるていど、腐食したころを見計らって、米ぬかを
加えて、発酵させている。 覆いをめくって、その出来具合を見せてくれた。さらさらした腐食土になっている。あたたかい。
 これが肥料になるという。


 ますます、シンプルな野菜栽培だ。
 だけど、自然と作物の間で、実際に即して、そうとう頭を働かしているようだ。
 
 「仕事の三分の二は、落ち葉集めと野菜の草引きだね。野菜栽培は、少しと言う感じ」という。
 翌朝、落ち葉集めをしている、エノキ林を案内してもらった。広大な林だった。
 林のところどころに、竹や小枝が山になっている。これを、5年、10年かけて、腐食土にする。
 「林にあるものが、やがて畑をつくっていく。ゆたかだなあ」と高崎さん。
 「篠竹にしても、邪魔者ではなく、活かされていく」




 その宝物の宝庫の山里の林が、30年は使えなくなっている。


 防虫はどうしているか。
 薬は使わない。
 彼は、防虫のため、ネットを使っていた。「ネットは効果はあるね」と小泉さん。
 ”サンサンネット”という商品名で、畑に合わせて、加工してもらえる。10年はもつという。
 ちなみに、彼はマルチもビニールハウスも使わない。使ったあとのことを考えると、
使う気にならないというのだ。

 それでも、抑えられないヨトウムシやシンクイムシは、こまめに畑に出て、手でとるしかないと
いう。
 白菜の畑で、苗が萎れている。その下を指で掘ってやると、ヨトウが出てくる。





 野菜のことは、ずぶの素人のぼくらだった。
 小泉さんには、申し訳ないけど、出てくる質問のレベルの低さにあきれていたと感じた。
 でも、彼は、作物の一つひとつを丁寧に、そして我が子に接するようにに案内してくれた。
                                         (つづく)