開花前の桜並木に、吟行とかいちゃって、陽射しあたたかな
日のお昼に、行ってきた。
なんにも用意せず、身体をそこにもっていた。
集まった面々、それぞれ何ごとかを感じとろうとし、
見ていないようで、見たりしている。
そのあと、句会の会場でぼくが作った句、三つ。
誰に聞いてほしいということもないんだけど、だけど、どこかで
「聞いて、聞いて」という気持ちもありそうな、句をつくった気持ち、
背景、薀蓄。
春霞医師のたまいし白内障
2月はじめから体調よからず。鼻水、咳、むくみ、だるさ、
息切れ、そのうち目が霞む、机でパソコンしているときは
なんともないが、外に出ると人や車がまるでぼやけている。
そのうち、節々が痛くなり、微熱が続いた。夜も熟睡せず。
ついに近所の内科医に行く。花粉症と風邪の合併ですかね、
というので、抗生剤と風邪薬をもらい、4日間飲んだ。
目の霞だけが、残った。目医者に行った。いろいろ検査して、
医師が宣告。「これは、間違いなく白内障です!」
お医者さんは、「手術は今すぐでなくともよいが、そのうち
必要になります」
春の身の上話。
うらうらに開花待つ身や上着脱ぐ
吟行の集合時間に遅れていた。歩いていたら、身体が
温もってきて、ジャンパーを脱いだ。春陽が心地よかった。
桜はまだ蕾。蕾が霞みがかかったようにピンク色。
桜の枝やその先の青空。老桜の幹、根っこ。
そこについた無数の蕾。蕾の一つひとつ。
これから、ある積算温度になれば、自ずから開花していく。
自然界からの”愛”を受けて・・・・自身もうらうらの陽気に
つい上着を脱いだ。
”うらうら”は、のどかで、輝かしいという意味もあるらしい。
あの日、まぶしいくらいの陽射しだった。
三月や父の過ぎし日問う息子
息子とぼくは三月生まれ。
三月はじめの日曜日、「オヤジから聞きたい」と大阪から
やってきた。雨が降っていた。海の見えるカフェに行った。
雨は激しく、海もうねっていた。
「どんな気持ちでやってきたか?」彼は、具体的に聞いてきた。
正直、嬉しい気持ちだった。
”過ぎる”というのは、”過ち”ともいう。苦い思い出話ではある。
その時の気持ちと今の気持ち。息子はよく聞いてくれた。
受け取ってもらえたかどうかは、わからないけど。
わが身をふりかえって。
「なんで、こんな家族に生まれたのか」「あんなオヤジになりた
くない」
20代で、そういう意識のおかしさは気がついたが、自分の
立ち居振る舞いや考えが出てくる元に、そういうものがついて
まわっていると自覚したのは60過ぎて、内観という方法で
オヤジに対する自分を観察してからだった。
オヤジに関心がいっていなかった自分にぞっとした。
オヤジがぼくに注いでくれていた情を、実でかんじられるように
なったのは、それからだったような気がする。
息子は、今40歳前だ。すでに、ぼくを越えている。