かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

春三句

2015-03-31 10:14:46 | わがうちなるつれづれの記

開花前の桜並木に、吟行とかいちゃって、陽射しあたたかな

日のお昼に、行ってきた。

なんにも用意せず、身体をそこにもっていた。

集まった面々、それぞれ何ごとかを感じとろうとし、

見ていないようで、見たりしている。

 

そのあと、句会の会場でぼくが作った句、三つ。

誰に聞いてほしいということもないんだけど、だけど、どこかで

「聞いて、聞いて」という気持ちもありそうな、句をつくった気持ち、

背景、薀蓄。

 

  春霞医師のたまいし白内障

     

    2月はじめから体調よからず。鼻水、咳、むくみ、だるさ、

    息切れ、そのうち目が霞む、机でパソコンしているときは

    なんともないが、外に出ると人や車がまるでぼやけている。

    そのうち、節々が痛くなり、微熱が続いた。夜も熟睡せず。

    ついに近所の内科医に行く。花粉症と風邪の合併ですかね、

    というので、抗生剤と風邪薬をもらい、4日間飲んだ。

    目の霞だけが、残った。目医者に行った。いろいろ検査して、

    医師が宣告。「これは、間違いなく白内障です!」

    お医者さんは、「手術は今すぐでなくともよいが、そのうち

    必要になります」

    春の身の上話。

 

 うらうらに開花待つ身や上着脱ぐ

  

   吟行の集合時間に遅れていた。歩いていたら、身体が

   温もってきて、ジャンパーを脱いだ。春陽が心地よかった。

   桜はまだ蕾。蕾が霞みがかかったようにピンク色。

   桜の枝やその先の青空。老桜の幹、根っこ。

   そこについた無数の蕾。蕾の一つひとつ。

   これから、ある積算温度になれば、自ずから開花していく。

   自然界からの”愛”を受けて・・・・自身もうらうらの陽気に

   つい上着を脱いだ。

   ”うらうら”は、のどかで、輝かしいという意味もあるらしい。

   あの日、まぶしいくらいの陽射しだった。

 

 三月や父の過ぎし日問う息子

 

  息子とぼくは三月生まれ。

  三月はじめの日曜日、「オヤジから聞きたい」と大阪から

  やってきた。雨が降っていた。海の見えるカフェに行った。

  雨は激しく、海もうねっていた。

  「どんな気持ちでやってきたか?」彼は、具体的に聞いてきた。

  正直、嬉しい気持ちだった。

  ”過ぎる”というのは、”過ち”ともいう。苦い思い出話ではある。

  その時の気持ちと今の気持ち。息子はよく聞いてくれた。

  受け取ってもらえたかどうかは、わからないけど。

  わが身をふりかえって。

  「なんで、こんな家族に生まれたのか」「あんなオヤジになりた

  くない」

  20代で、そういう意識のおかしさは気がついたが、自分の

  立ち居振る舞いや考えが出てくる元に、そういうものがついて

  まわっていると自覚したのは60過ぎて、内観という方法で

  オヤジに対する自分を観察してからだった。

  オヤジに関心がいっていなかった自分にぞっとした。

  オヤジがぼくに注いでくれていた情を、実でかんじられるように

  なったのは、それからだったような気がする。

  息子は、今40歳前だ。すでに、ぼくを越えている。

 

 

    


吟行、春動く

2015-03-30 08:10:35 | アズワンコミュニテイ暮らし

久しぶり、吟行句会。

3月28日。

鈴鹿市内にある旭化成グランドに集う。

桜の巨樹が散策路の両側に数百メートル並んでいる。

開花予想は4月4・5日。

天に伸び上がっていく枝には、無数の桜の蕾が色ついて

すこし遠くでみると、ピンクの霞のよう。

 

句会の面々は、のどかな陽射しのなか、めいめい何やら

この風光を感じ取ろうとしている。

女の人はよくじゃべっている。

しゃべっていたら、句ができない、と叫んでいる。

男はしゃべりながら、密かに作句しているはずである。

 

中井宅にて句会。

この日、師匠の敏子さん、娘さんの体調よくなく、家事の

手伝いに馳せ参じて、お休み。

作句のお時間。それぞれ、案外、早く仕上がっている。

余川さん、季語辞典ありますよ、と用意周到。

 

おふくろさん弁当をいただく。

見栄え、味、「おいしい」とあっちからも、こっちからも。

 

さて、句会。

師匠無きはさびしきも、康子さんの進行ではじまった。

句会っていいなあ。

吟行のそれぞれが感じとったものが、重なり合い、

開花前の桜並木の天、地、生きとしいけるものの

息吹きが描きだされてくる。もちろん、作者の息使いを

通して。

満開の豊満も、もちろん感動だけど、蕾時期の春の

佇まいにも、宇宙の動きや、人の想像力のすばらしさ

をあじわった。よかったなあ。

 

句会、どんなふうに表わせるだろう。

まず、花に焦点がいかない分、花が咲くにいたる

気持ちや理を詠ったもの。

 

 待つ春を桜は見事応えけり             中井正信

 桜花心あらたにまた出逢う              中井佳子

 桜咲く雨風日差し一体の               大平照子

 校庭の桜なつかし今はなく              栗屋 章

 乱れ裾恋下駄駆けって舞う桜            辻屋哲男

 虫もまた悦びており花の下(もと)          辻屋康子

 桜蕾(ようつぼみ)青年の如大志あり        余川彬夫

 七十年風雪に耐え桜咲く               伊藤八重子

 青空に地図描くごと枝のびる               〃

 うらうらに開花待つ身や上衣脱ぐ          宮地昌幸

 咲く前の膨らむ姿花の華               鈴木英二

 

こんなにも。多彩の周りにあるもの、周りから感じるもので、

それぞれの世界が現われてくる。

花満開はなくとも、それぞれ心のなかは満開。

 

句会での講評のいろいろ。

 つくしんぼう三才の孫反抗期          伊藤敏正

    *ほんと、つくしんぼうって、やんちゃな幼子のイメージだよね。

 枕元小さな寝息春よ来い            大平達夫

    *この”春よ来い”と小さな寝息が、春ののどけさ、やわらかさ、

     表現しているね。

 菜の花に見とれし君に向くカメラ        

    *敏正さん、天でいただいた。

      「この”見とれて”というところ、うっとり君に目が向いている、

       なんともいいなあ、とおもって」

      「どなた?」と康子さん。中井さん「はい、ぼく」

      「実は、これ、はたけ公園で近所のおじいさんが・・・・・」

      一同「この”君”というのは、おじいさん!?」

      中井さん「ええ、そう・・・」

 園庭を駆けゆく児等に春動く            余川彬夫

     *これは3点句。

      「駆けゆく」と「春動く」の流れがいいなあ、という講評。

      余川さん、この句の背景について。

      「実は、この句、別の句会で特選になった句なんです。

      最近、季語に関心があり、季語にはずいぶん調べていて、

      この”春動く”がやっと、ぴったりしてきた、そこを言いたかった」

      と。

      この辺の、もうすこし、つっこんだ、研究のプロセスは

      ぜひ、余川さん自身から、このブログで開陳してほしいなあ。

      ぼくらも、刺激になり、学びにもなるんですから・・・

 

     余川さんならずとも、句が出来上がる背景をそれぞれ開陳して

     もらった。

     何回いうようだけど、それらが響き合うと、すばらしい自然と

     人の営みの世界の一端がそこのあらわれる。

     てなわけで、句会は面白いということです。

     師匠、これからも、よろしく。

    

 


釣り少年

2015-03-28 08:31:00 | 家族あれやこれや

釣り少年のなかに何が起きているのだろう?

白子の海らしい。

冷たい風が吹きすさんでいる。

 3月21日

3月22日

 

自分の少年時代を思い出す。

小学校の4,5年ぐらいかな。

仲間と群れて遊んでいるという記憶より、折り紙で福助人形を

つくり、はじめは紙の箱をひっくり返した土俵の上で相撲を

とらせ、実況中継していた。たぶん、ひとりで。

そのうち、折り紙で福助の侍をたくさんつくり、屋敷をつくり、

一人ひとりの台詞を自分でしゃべり、そこにお侍の

暮らしの物語をつくりだして、遊んでいた。

 

こんな様子を親がどう見ていたか?

自分の世界にこもって、はばたいていた?

 

さて、さて、釣り少年の、内なる世界は?

 

 

 

 


辞世のアマリリス

2015-03-27 10:47:09 | わがうちなるつれづれの記

 40年来の隣人が亡くなった。

 知らせを聞いたとき、寂しさにつつまれた。

 身近に感じている人だった。
 死は身近になっている。
 でも、死は体験できない。どこまでいっても、
 他人事。
 
 彼にはじめて会ったときは、失明しかかっていた。
 手を施しても、叶わないまま、失明状態になった。
 マッサージの手技をものにして、淡々と暮らして
 いた。
 多くを語る人ではなかった。弱音を聞いたことがない。
 彼の心のうちには、当時、関心がいっていなかった。
 
 身近に暮らす時期もあった。
 彼は植物には、学者さんのように博学だった。
 花を育てていた。
 いっしょに近くの植物園に花の苗など買いに
 行った。陳列してある花の名前を言うと、
 いろいろ質問して、じっくり考えて、買うもの
 を決めていた。
 上手に育てていた。
 その花の姿は、目では見えないのに、彼は丹精に
 手入れをした。素人目にも、きれいに仕上がって
 いた。

 昨年5月、角膜手術が成功して、目が見えるように
 なったと聞いた。
 彼を訪ねたときは、テレビを見ていた。
 当たり前の光景に、なにか嬉しい気持ちだった。
 「ぼくは、どう見える」とか、はしゃいだ。
 帰りがけに、彼が手がけたアマリリスの鉢を
 もらった。まだ、蕾だった。
 部屋に置いていたら、ある日、花が開いた。
 三つも四つも開いた。

 あれから、1年も経っていない。
 あまりにも早い死ではないか!
 ”息を引き取る”という言葉がある。
 いま、彼との間でその実感はない。
 ぼくのなかには、杖をたよりに、まちの
 なかを、一歩一歩歩く彼の姿がある。
 今、ぼくも一歩ごとに、息をととのえながら
 歩く状態のときがある。
 一歩一歩が、あってこそ、そこにいたる。

 どこへ。
 息を引き取るは、そのいのちを受け継ぐこと。
 彼のなにを、受け継ぐのか。
 目には見えないけど、人として大事な世界へ?

 ことし、アマリリスは咲くだろうか?
 あの世では、その辺、語り合いたいなあ・・
 
 

 

私は二度とあの光景を見たくないです

2015-03-13 07:53:42 | わがうちなるつれづれの記
昨年9月、生まれてはじめて沖縄に渡った。
たまたま親しくお付き合いできる、沖縄の人に出会った。
その人を訪ねたのだった。
 
そのキッカケもあって、地元の方に辺野古を案内してもらった。
大浦湾を見渡せるテント村、キャンプシュワブ米軍基地前の
座り込みテント村も訪ねた。
沖縄の人たちにとって、辺野古は普天間基地の移設ではなく、
沖縄にもう一つ新しい基地をつくることだった。
 
座り込みテントでしばらく時を過ごした。
いろいろな人とお話した。記録映画を撮っている人にも
会った。


三重からやってきたと知って、話かけてくるオッサンがいた。
人懐っこい人だった。あとで聞くと、そこの”村長”さんとも
いえる、山城博治さんだった。
桜色の表紙の小冊子をくれた人がいた。
おばあちゃんだった。
「私の戦争体験ーー地獄のような沖縄戦を生き抜いて」
島袋文子とあった。
「ありがとう」とうけとった。


 
帰りの飛行機のなかで読んだ。
沖縄戦では、目が見えない母と10歳の弟と3人の、
命からがらの避難行だった。
 
壕のなかにて。
ーー「デテコイ」と言っても誰一人出て行かない。
   出ないものだから、今度は手りゅう弾を投げられ、
   何名かなくなりました。最後には、火炎放射器で
   火責めにされました。あれは、とっても苦しかった。
   あまりの苦しさに息もできないので、私は両手を
   あげて出て行きました。
   そこには15名ほどのアメリカーが鉄砲を向けて
   立っていました。
   手をあげたが言葉がわからない。
   ここに人がいるから出るといったら、アメリカーは
   ウンと言ったのです。
    でも、アメリカーに腰を向けて壕の中に入ったら、
   やられるのではないかと思って、お尻からぼうぼう
   燃えている壕の中に入って、手が届く人を一人一人
   出したのです。
   私の服の半分は焼けて、半分裸、焼けた布地が身体
   にひっついていました。
    母と弟は最後でした。母と弟を出したときには、弟は
   無傷で大丈夫でした。母が弟をかばったからでした。
   その代わり、母の髪が燃えて、皮膚も焼けただれ、皮
   がむけるほど焼かれていました。
 
その時、訪れた佐喜眞美術館の丸木位里・俊さんの
「沖縄の図」を思い出した。
館長の佐喜眞道夫から「本土と沖縄の戦争観の違いは、
沖縄は地上戦で、生活の場が戦場になって、日米軍隊の
あいだに挟まれて、民衆が死に追い込まれていった、
そこなんです」と聞いた。佐喜眞さんは、その一人ひとりの
心中に思いを馳せているようだった。

 
島袋おばあの手記はその後の命からがらのなりゆきを
淡々と語っている。あれから、70年。
その記憶が今も
アメリカーの基地がふるさとにできるという事態を
前にして、生々しくよみがえってきている。
ーー私は二度とあの光景を見たくないです!
 
日本にもどって、沖縄のニュースに関心がいくようになった。
山城さんが「対立はいけない」叫んでいたり、島袋おばあが
座り込みのなかで揉まれている場面も見た。
 
沖縄県知事選では、辺野古に新基地をつくってほしくないという
民意で翁長知事が選ばれ、衆院選挙では沖縄4地区で
「辺野古に新基地をつくってほしくない」と言う人が選ばれた。
沖縄の人たちの気持ちは、もうはっきりしている。
日本政府は、その翁長知事と会おうともしない。
新基地の建設は、「つくってほしくない」という沖縄の人たちの
気持ちに耳をかさないで、力ですすめらられている。
 
心が痛む。
沖縄は、本土決戦を叫ぶ本土の人たちの盾になって、命を
投げ出し、生活のすべてを焦土にして、敗戦を迎えた。
敗戦後は、本土のためにアメリカに沖縄の施政権を委託して、
本土は繁栄した。
1971年に施政権は日本に返還されたとはいえ、米軍基地は
そのままで、日米地位協定によって、沖縄の人たちの今も
実際、米軍基地をかかえて、アメリカの支配下にある。
今。
沖縄の人たちの気持ちを受け取らない、本土政府の強行工事
が目の前にある。
 
 
ずっと、この事態について、人として何が考えられるか、
おもってきた。
心の構えとして。
沖縄のアメリカ軍基地の全てを本土に引っ越す。
沖縄から、一切、アメリカ軍基地を無くす。
基地がなくとも、全ての人が安心して暮らせるように、やれる
すべてのことをする。
沖縄を焦土にして、本土を守り、米軍基地をそのままにして、
幾多の苦悩をさせてしまった本土のぼくらとしたら、当然の
ことにおもう。
沖縄は琉球王国として、独立して諸国の人と平和的に
地域をつくってきた経験がある。
沖縄には、そういう地域の運営をしてもらい、これからの
人類の一つのモデルをつくってほしい。
 
アメリカの基地を抱えたぼくらは、これから,
ぼくら自身についても、諸国の人たちとも、どうやって
暮らしていくか、ゆっくり考えていきたい。
「相手が攻めてくるから、報復する」でいきたいのか、「人は
そんなに愚かだろうか、対立も争いもない、そんな人の社会は
できないだろうか?」ゆっくり考えたい。
 
ーー私は二度とあの光景を見たくないです!
おばあの今の声が響いている。