かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

旅立ちのとき

2019-08-06 19:27:27 | アズワンネットワークのある暮らし

 

 妻の小浪です。

2019年8月2日午前0時48分

宮地昌幸さんは、眠りながら大きく息を3回ほど吸って、

息を引き取りました。

とても穏やかな顔をしていました。やっと痛みや苦しさから

解放されたのかなと思いました。

今年のお正月は外泊することが出来、自宅で過ごす事が

出来ました。

ここ3年は病院でお正月を迎えていました。

1月に退院しましたが、身体のかゆみ、入れ歯の調整、目が

痛くてスマホが見れない等々、ここのブログを書く気持にも

なかなかなれないようでした。

代筆したりしていましたが、思うように書けないと思っていた

ようです。

4月に転倒して歩くことが出来なくなりました。そこから、

腰の痛み、首と肩の痛み食欲不振、便秘etcとてもつらそう

でした。

もう先が長くないというのも覚悟はしていたと思います。

家族(本人・息子・娘・私)でどんなことを大事にして

いるか、どんな風に最期を迎えたいか、お墓はどうしたいか

どうするかなど度々話し合いました。

亡くなる1w前までは、血圧がとても低く大丈夫かなと思うの

ですが、意識は、はっきりしていて、来訪者があるとしっかり

対応していました。人に会うのを楽しみにしていました。

2月から訪問看護師さんに来て貰うことになりました。

最期は自宅で迎えたいということで、ケアマネさん看護師

さんにいろいろ相談に乗ってもらいました。近所にいる

友人たちには、マッサージに来て貰ったり、私のケアをして

貰ったりで、私も安心して世話をする事が出来ました。

昼夜逆転という感じで、夜は眠れない日が続きました。

自分の身体を受け入れるのに必死だったように見えます。

側にいて見守ることしか出来ないなと思いました。

本人はどんな気持ちでいたのかなぁ~?

食欲もなくなり、あんなに食べることに関心があった人が、

何を食べても美味しく感じないと言っていました。

身体が必要としなくなっているのかなと。

それでも、焼き鳥が食べたいと聞いた友人が持って来てくれた

焼き鳥を美味しそうに食べていました。

固形物が食べられなくなってからは、友人の中井さんが初めて

作ったという熟したマスクメロンを美味しいと言って食べて

いました。

1w前に息子太郎の家族が見舞いに来てくれました。

孫の裕大君に「ジイジ」と片言で呼ばれて目を細めていました。

エネルギーを貰ったのか翌日は、リハビリや食事にも意欲的

でしたが・・・・・。

亡くなった時の様子、宮地さんへの思い、お別れの様子を

友人のfasebookの投稿を添付するので見て下さい。


 

【心のアニキが“笑って”逝く】
~涙の似合わない宮地アニキの門出~ 坂井和貴

いつも若い人に懸けていた。
いつも若い人が成長するのを、その人ならではの場を得るのを、自分のことのように、いや自分のこと以上に喜んでいた。
日本の青年だけでは飽き足らず、東南アジアに、南米大陸に、ヨーロッパに、オセアニアに、次代を担う人材を探し求めては、自分のエネルギーを、人生を惜しみなく注ぎ込んでいた。
ウチの息子がアズワンセミナーを受講すると知った時、親である僕なんか比べ物にならないほど歓喜していた。
「ほんと正和らしいな~」と赤ん坊の時から見守り続けてきた彼の饒舌な語りに、目を細めて笑っていた。
僕自身も、20代の頃、30代の頃、宮地アニキから注がれた力で、ひと皮もふた皮も脱皮できた。そして僕の人生の大転機となった40代最後も、アニキは周囲の喧騒、仲間からのバッシングに一つも怯むことなく、
「和貴、妥協したり諦めたりすんなよ。本当の方向に進んでいくのを、俺は応援する。いつだって、若い人が次の時代を拓くんだからな」
と僕の進む道を照らし続けた。
アニキは自分の保身なんかどうでもよかった、『次の社会』が見たくて見たくてどうしようもなかった。
そして、還暦過ぎて病身のアニキ自身も大英断、この道にヒョイと乗ってきて、今日まで一緒に闊歩してきた。
ずっと面白かったけど、この10年間って死ぬ程愉快だったなあ。愉快すぎて死んじゃったか!アニキ
広いなあ、この大道₍みち)。
明るいなあ、この未来₍さき)。

アニキを引き継いで、これからの若い人に注ぎ込む「至情の喜び」に、今度は僕が生きるわ。いや、もう生きている。
ウソや偽りの一切ないアニキの心そのままに。

アニキの亡骸は、煙りやお骨になっている頃かなあ。
でも、アニキの“鮮度”は衰えを知らない。
ずっと、生き₍粋₎のいいまんま!

 


友の旅立ち①◆中井正信 

 45年来の友であり「理想の暮らしを語る会」を一緒に立ち上げた友が今日2日午前0時48分逝った。

拡張型心筋症であったが自宅で最期を迎えることが出来た。亡くなる3時間前に奥さんから電話があり妻と駆けつけた。

彼は目を合わすなり手を僕にさしだした。

僕は彼の手を握った。

何かを話そうとするが言葉にならない。でも僕には伝わるものがあった。

その夜午前2時に彼はお願いしていた葬儀社(葬儀はしない)の車で我が家に運ばれて来た。

すぐに看護師のケアマネさんに連絡して来てもらい体を綺麗にして貰った。

その間、葬儀社の若い青年は火葬場に連絡をとって、火葬日時はすぐさま決まった。

真夜中、亡くなってから数時間の内に見事な程に事が進んだ。本当にありがたい。


彼とは前から話してたこともあり、葬儀はしないでお別れ、お見送りに来てもらえるようにしたいと言ってたので間取りが広い我が家でゆっくり見守っていけるようにした。

寅さんが好きでよく寸劇をした。

彼が使っていた寅さん帽子と服を着せた。骨壺を焼いたと持参した友もいる、明日棺桶に入れる花は家にたくさん咲いているから持っていくね。

亡くなる6時間前に赤福の朔日餅を持って行ったという人もいる。

いろんな人が日常着で来て色んな話しをして帰っていく。

人は後をたたない。

産声をあげるとき息をひきとる時その日常の暮らしを味わいながら、、、(続く)


友の旅立ち②◆中井正信

日常着でのお別れ、お見送りに来た人は100人を越えた。それぞれの庭やはたけに咲いている花が頼みもしないのに集まってきた。

彼の人徳だ。彼に世話になった若い人も多かった。いや僕が一番彼には世話になった。

彼は寅さんのように人情溢れ多くの人から慕われていた。

そんな彼が心臓の手術を繰り返しながら在宅での暮らしを僕ははたで見ていた。

振り返ってみればやはり、一番重要なことは「飛行機を操縦するのは本人や家族であり専門職は飛行機の整備や今飛んでいいのか?どこまで飛ぶには何が必要か?」と。

以前に堀田聰子さんが話していたことを今しみじみと実感している。

そこが未熟なままに専門職に依存している限りこんなにも多くの社会資源が身近にありながら十分に生かされないままに時は過ぎていく。

今こそ高度に進化し続けている医療への依存体質から脱却し住民自ら主体性を取り戻す時が来たように思う。

彼の死に至る迄のそれぞれの想いや出来事を検証しながら明るい今を生きていきたい。

ほんの一足先に彼は旅に出た。


                        完